第九章 人の国 五
五
大規模な世界大戦が終結し、一年と少し。出雲は制度の大幅な改正を発表し、今は世界中から改正法案が送られて来ている段階だ。草案が全て出揃うまでは時間がかかるとの事だったので、ニコライ・ロマンツェフは出雲に来ていた。
以前来た時から、百年は経っているだろうか。あの頃は改修が追い付かず、朽ちかけの建物も多かった街は、今や完全に復興されている。友人が言った通り、完全に整備された出雲の街並みは、ニコライの記憶の中にはないものだった。
出雲の空港では、友人が待っていた。再会を喜ぶでもなく、ニコライは彼と笑い合った。お互い晴れやかな表情で、ただ、下らない冗談を言って笑うだけだった。明日は自分の友達も一緒だと言い残して、彼はその日、すぐに帰ってしまった。
迎賓館で休んだ翌日に連れて来られたのは、大社だった。見事な桜があるのだと聞いていたが、まさか竹林に囲まれた大社の中庭に、桜が植わっているとは思いもしなかったので、ニコライは少々驚いた。
「ああ生き残っちまったよ、悪かったな」
キースは愉快そうに言いながら、道中コンビニで買ってきた摘みを口に放り込んだ。彼の友人だというダリー・キングは喉を鳴らして笑い、ニコライが持参したウォッカをラッパ飲みする。
桜はまだ蕾が堅く閉じた状態だったが、一本だけ植わった大木を見た瞬間、三人とも急激にテンションが上がってしまった。一通り出雲の桜を褒め称えた後、ビニールシートを広げて、今に至る。桜が咲いていようがいまいが、どうでもいいのだ。ニコライは飲めればそれでいい。
ビニールシートの上、三人の足下には、既に空になったボトルが二三本転がっていた。座椅子に座らせてもらったニコライの周囲にも、ウォッカのボトルばかりが何本か置いてある。開けていない瓶と摘みは、ビニールシートの端に並べられていた。
ダリーはかなり飲めるようだが、キースは一滴も酒を口にしない。下戸だというのは本当だったようだ。それでも陽気だから、飲む必要もないのかも知れない。飲める時に飲めというのが信条のニコライには、下戸のキースが理解出来ないのだが。
「死に損ないましたな、艦長」
愉快そうな、浮ついた声音だった。キースはにやりと笑みを浮かべ、大柄なダリーを視線だけで見上げる。
「惚れた女が振り向いてくれたんだから、くたばらずに済んで良かったよ」
キースがあの芙由と付き合っていると聞いた時は、ニコライも驚いた。キースはともかく、芙由が彼のような男に靡くとは、どうしても思えなかったのだ。そのまま伝えたら、俺も信じられないと、キースは言った。それで笑い飛ばしてしまったので、詳しくは聞きそびれた。
芙由は聖女という地位を捨て、軍人になると、全世界に向けて発表した。国中に激震が走ったが、当の本人はすっきりした顔をしていたと、千春から聞いている。
国が、大きく動いた。今まで大きく法律を変えようとしなかった政府が、やっと改正しようと動き出したのだ。神主と聖女は人になると宣言し、神は統治者という地位から退いた。この国に統治者は必要ないと、神がそう言ったのだと、千春の口から全世界に向けて発表された。それでも相変わらず、人は神を崇めているのだが。
世界大戦が起きたから出雲も尻を叩かれたのだと、人は笑うが、そうではないとニコライは考えている。神はとうとう、歴史を人に託したのだ。人に託し、立ち直った世界が今度は進んで行けるように、自らは退いた。そう思っている。
「で、どうなの?」
にやけた笑みを浮かべてニコライが問い掛けると、キースは目を逸らした。その反応から、一歩も進んでいないのだろうと推測する。そうでなければ、真っ先に自慢話の一つでもするだろう。
ニコライはダリーと顔を見合わせて、同時に笑った。叩けばいい音がする、生身の手がないのが残念だ。代わりにダリーが手を叩いていた。風はまだ冷たいが、楽しいからか酒のせいか、体が熱い。
「意外だね、下戸な上に奥手なんだ」
ピスタチオの殻を割りながら、キースは軽く肩を竦めた。飲まない割に、塩気の強い摘みは好むようだ。
「嫁入り前の娘に手を出したら絞め殺す、だってよ」
「羨ましいから、何もないままでいなよ。僕なんかずっと、このアンドロイドが恋人さ」
言いながら透明な樹脂製の義手を上げて掌を開閉させると、キースは高らかに笑った。ダリーは中の鉄骨が透けて見えるその義手を、不思議そうにまじまじと見つめる。
「何故人工皮膚を貼らないのですかな?」
「こっちの方がカッコイイからさ。いいでしょ、サイボーグみたいで」
ダリーは肩を震わせて噴き出した。何もかも、そんなどうでもいい理由なのだ。ニコライが人前に出たくなかった理由も、今となってはどうでもいいものだと思っている。
彼らは障害のあるニコライと普通に接し、受け入れてくれた。キースはともかくダリーは気味悪がるかと思っていたが、不思議そうな顔をしたのは義手に対してだけだった。自分でも鏡を見る度に変だと思うのに、キースもダリーも、普通に接してくれる。たったそれだけの事が、ニコライには嬉しく思えた。
「交換して頂きたいですな」
「あはは、ダメだよ。色が合わない」
「そっちだって合ってねぇだろ」
三人一斉に笑って、同時にボトルに口を付けた。キースが持っているのは、甘ったるそうな清涼飲料水のペットボトルだが。
「こんな所で、無断で酒盛りをするんじゃない」
キースの顔からそれまで崩れる事のなかった笑みが消えると同時、彼は弾かれたように声がした方を見た。ニコライも口元からボトルを離し、目を丸くする。ダリーだけは動揺せず、すっくと立ち上がった。
声がした方には、一升瓶を二本とワインのボトルを抱えた、千春がいた。彼女の少し後ろには、グラスと大きなビニール袋を持った芙由がいる。あの袋の中身は、つまみなのだろう。
千春は相変わらず、平安時代の女官を思わせる格好をしていたが、芙由は私服のようだった。瀟洒なブラウスには、苦しそうな胸を隠すようにフリルがあしらわれている。細身のジーンズが良く似合う、すらりとした足だった。
「あんたらこそ、何ですかそれ」
「私達はいいのだ。どうしてお前がここを知っている?」
差別だと思ったが、ニコライは口を挟まなかった。千春に怒られるのは嫌だ。
黙って近付いてきた芙由は、ダリーに敬礼されると、頷いて返した。それから荷物を勝手にビニールシートの上へ乗せ、ダリーの隣に腰を落ち着けてから、ニコライへ視線を移す。一度会っただけだが、そこだけは記憶していた彼女の澄んだ目は、全く変わっていなかった。
「遠方からご苦労だったな」
「すぐ着いたよ。千春が手配してくれたからね」
その千春には会わないままここまで来たのだが、それに対するお咎めはなかった。持っていたボトルを置きながら芙由の隣へ腰を下ろした千春は、ニコライの視線を受けて笑って見せる。
「元気そうで何よりだよ、コーリャ。あんまり飲むんじゃないよ」
「千春だって飲むつもりなんだろ? 今日は無礼講さ」
言いながらキースを見ると、彼はダリーの足に隠れるように縮こまっていた。千春に小言を言われるのが嫌なのだろう。
そんなキースには目もくれず、芙由は一升瓶を開けた。ラベルを見て、なかなか良さそうな酒だとニコライは思う。一緒に持って来たワインのラベルも、かなり年季が入っている。
「邪魔して済まんな。キング少佐だったか?」
「覚えて頂けて光栄です、中将」
芙由がグラスに酒を注いで差し出すと、ダリーはやっと腰を下ろしてそれを受け取った。キースが横目で彼を睨んでいる。どうせ自分は飲めないだろうにと、ニコライは思う。
「出雲酒は口に合うか分からんが、どうだ」
「頂きます」
グラスの中身を一息に空けたダリーを見て、芙由は満足そうに頷いた。ダリーも芙由も真面目だから、こちらの方が気が合いそうだと、ニコライは思う。千春がグラスに一升瓶の中身を注ぎ、芙由に渡した。
「お前も飲みなさい、花がなくて物足りないが」
「花なら、今さっき咲いたからいいじゃない。綺麗なのが二輪もさ」
千春は笑ったが、芙由は無反応だった。グラスの中身を一口飲み、ほう、と息を吐く。マイペースだ。
ニコライがグラスを取ると、千春は酒を注いでくれた。開口一番叱った割には、機嫌がいいようだ。世辞に流されるような人でもないから、少々意外だった。
「出雲の酒は美味いですな」
感心したように言いながら、ダリーは手酌で酒を注ぐ。厳つい黒人と一升瓶というのは、なかなか妙な取り合わせだ。やけに様になっているのも、また妙だ。
「僕は飲んで酔えればいいや」
「同感だな。美味いに超した事はないがね」
「少しは慎まないと、また太りますよ」
芙由の言葉に千春が嫌な顔をしたので、ニコライは声を上げて笑った。一人蚊帳の外のキースが、鼻で笑う。千春も芙由も、彼には一瞥もくれない。
「美味いものが悪いのだ。……コーリャ、どうだね。行き先はどこなんだ」
唐突に振られ、ニコライは目を丸くして、傾けていたグラスを元に戻した。それから首を捻り、ううんと唸る。
旅に出るとは言ったが、特に行き先を決めていた訳ではなかった。とりあえずどこかへ行ってみようとぼんやり考えていた程度で、特別見てみたいような場所はない。無計画だが、なんとかなるとニコライ本人は考えている。
「決めてないんだ。とりあえずランズエンドでも見に行って、一年ぐらい、ふらふらしてみようかなってぐらいでさ」
「それなら西班に行くといい。聖家族教会が、何十年か前に出来上がったから」
「今も年中改修工事してますがね」
キースが口を挟むと、千春は彼を睨んだ。彼は余計な事しか言わない。ニコライは慌てて声を上げた。
「ぼ、僕、南米で賢者の仕事しようと思うんだ」
千春までもが目を丸くしてニコライを見たが、芙由だけは黙々と飲み続けていた。表情は変わらないが、流石に頬が僅かながら赤くなっている。
ずっと悩んでいて、ようやく決めた事だった。世界中飛び回って遊んで暮した後、本来なら自分が導く筈だった南米で、賢者として摂政の任に就くべきか否か。是と答えを出したのは、つい昨日の事なのだが。
皆、恐れながら生きている。ニコライは自分の意味を探さなかった代わりに、人前に出て奇異の目に晒される事に怯えていた。けれど賢者達が自分の意味を捨てて新しい道を歩もうとしているのに、自分だけ逃げ続けているのは、情けないと思ったのだ。
まだ、賢者達にはするべき事がある。陳は大陸を一つにしようと躍起になっていると聞くし、アーシアは知事と共に、崩れかけた伊太を建て直すべく尽力している。だからニコライも千春ばかりに頼らず、生まれ育った南米の為に、何かしたいと思う。
ニコライは、この国が好きだった。人と違う彼を受け入れてくれた友人がいる、この国が。だからこの国の為に、出来る事をしたいと思えるようになった。
「……今更?」
呟いたキースはまた千春に睨まれて、肩を竦めた。千春と芙由の関係は、ニコライも電話で聞いていたから知っているし、キースも知っている筈だ。前のように接する事は、到底出来ないだろう。
「そうしなさい。南米も落ち着くだろう、説明が面倒だが」
「うん、めんどくさいけど頑張るよ」
冗談めかして言うと、千春は声を漏らして笑い、コップの中身を飲み干した。続けてワインのボトルを開けた彼女に、芙由が手を伸ばす。
千春から受け取ったボトルから自分のグラスに中身を注ぎ、芙由はおもむろに、キースの目の前にそれを突きつけた。それまで完全に無視されていたキースは、驚いたように目を丸くし、芙由とグラスを交互に見る。
「なんですか」
「お前も飲め」
深い色の赤ワインもボトルのラベルにも、かなり年季が入っているように見える。ニコライは密かに狙っていたが、先を越されてしまった。
千春は笑ったが、ニコライはダリーと顔を見合わせる。キースは困ったように顔をしかめ、首を竦めた。
「俺こんな濃そうなの、飲めませんよ」
「つべこべ言うな、飲め」
横暴だ。横暴だが、あのワインは美味そうだ。
芙由が手にしたグラスから、ニコライの鼻にまでも芳醇な香りが届く。かなりの年数寝かされていたようで、色が濃い上、香りも今までに嗅いだ事がない程強い。あれはきっと美味いだろうと考えながら、ニコライは思わず、生唾を飲み込んだ。
「俺が二日酔いで死んでもいいってんですか」
キースは手を伸ばす素振りもなく、眉間に皺を寄せていた。ニコライはちらりと芙由を見て、小さく悲鳴を上げる。目が完全に怒っていた。
芙由は見下すような視線をキースに向け、片目を細めた。美人が怒ると怖いものだと、ニコライは思う。そもそもキースは何故、未だに彼女に対して敬語を使っているのだろう。
「私の酒が飲めんのか」
キースの顔がひきつった。ダリーは我関せずとばかり、一升瓶を抱え込んだまま飲み続けている。出雲の酒が気に入ったようだ。
ニコライは芙由が発する刺々しい空気から身を守るように、首を縮める。芙由とは、あんな人だっただろうか。
「酔っ払った親父のようだな」
揶揄する千春の声は、楽しそうだった。ニコライはキースに同情しつつも、持っていたボトルの中身を飲む。
暫くグラスと睨み合っていたキースは、意を決したように手を伸ばした。芙由の手からグラスを受け取り、更に見つめ合う。芙由は視線を落として、少し俯いた。
「酔わないと、ダメなんです」
小さな声で呟かれた言葉の意味は、ニコライには分からなかった。しかし芙由の顔が、先程より赤くなっているのは分かる。千春の笑みが引きつるのも視界の端に映ったが、気にしない事にする。
黙り込んだままグラスを見詰めていたキースが、徐にその縁へ口を付けた。グラスを傾け、一息に中身を飲み干す。上を向いたその目が見開かれるのを見て、きつかったのだろうと、ニコライは哀れむ。芙由が僅かに目を細め、微笑んだ。
「……っ濃!」
言った瞬間咳き込んだキースは、芙由の表情など見えていなかったのだろう。しかしニコライは彼女の顔を見て、あのワインに手をつけなくて良かったと安堵する。
「なんですかコレ、何年モノですか」
「私が産まれた日に仕込まれたものだ」
素っ気なく言ってのけた芙由に、キースが苦い表情を見せる。それが飲めるものなのかどうか、ニコライは知らない。
暫く渋い顔をしていたキースは、ふと何かに気付いたように眉を上げ、二三度瞬きした。ニコライは、この場にいてはいけないような気になる。さっきまで笑っていた千春が、キースを睨んでいるのもまた、恐ろしい。
「……え」
「悪かったな、弱いのに」
芙由はキースの手からグラスを取り上げ、小声で謝った。ダリーがキースを見て、微かに笑う。キースはまだ呆然としている。
「最初の一口は、お前に飲んで欲しかった」
芙由が消え入りそうな声で呟くと、千春が悲しげな溜息を吐いて、更に嘆かわしげに首を振った。目を丸くして黙り込んでいたキースが身を乗り出し、芙由に顔を近付ける。
「……芙由さ」
しかしキースの顔は、芙由の掌に止められた。ばちんと小気味良い音がして、キースがびくりと肩を震わせる。ニコライは痛そうに顔をしかめた。
「人前で迫るな」
芙由の顔からは、いつしか赤みが引いていた。代わりにキースの顔が赤くなっている。痛そうだ。
掌が離れると、キースは今にも泣き出しそうに眉尻を下げて、鼻をさすった。やっぱり痛いのだろう。
「……何度目ですかコレ」
「二度ある事は三度ある」
そんなに叩かれても懲りないのかと、ニコライは呆れた。悲しそうなキースから視線を逸らすと、グラスにワインを注ぐ千春が視界に入った。
千春は目を伏せて、懐古するような表情を浮かべていた。それがニコライの目には、悲しげにも見える。彼女を支えていたのは娘であり、家族だった。離れるとなれば、寂しくも思うだろう。
「時代は変わるものだね」
呟いて、千春はワインを口に含んだ。ゆっくりと飲み下し、小さく息を吐く。
「お疲れ様です、笹森補佐官」
ダリーの声に視線を上げ、千春は目を細めて笑って見せた。憂いを帯びた微笑に、ニコライは胸が熱くなるような感覚を抱く。
北米にいた彼は、知っていた。千春が国を正しく導いていた事も、国を愛していた事も。そして国が彼女の手から離れるべきなのだという事にも、気付いていたのだろう。
人が変わり、世界も変わる。ニコライも、いつまでもだらだらと生きてはいたくはないと、変化を見てそう思った。変わり行く世界がこれから先どうなるのか、この目で見届けたいと、強く願った。だからこれからは、逃げていたものと向き合い、その為に生きて行きたい。
「お父様にも、飲ませて差し上げようか」
言いながら立ち上がった千春に、芙由は頷いて見せた。残りの三人は、各々怪訝に首を捻る。
「あれ、亡くなったんでしょ?」
「そうだよ」
軽く返した千春は桜の大木に片手を着き、ごつごつとしたその幹を、いとおしげな手つきでそっと撫でた。ニコライは俄かに青ざめる。ダリーの目が、大きく見開かれた。
「……笹森補佐官、まさか」
「やめて下さいよそういう冗談、あんたいつもそ」
「冗談ではないよ」
千春はにやりと赤い唇に笑みを浮かべ、幹の根元に飲みかけのワインを零した。木を囲むようにしてグラスを空け、懐かしそうに桜の大木を見上げる。
まさか、そんな。ニコライは意味もなく口を開閉させ、自問する。そんな罰当たりな事をしていたのだろうか。この木の根元に、まさか。
「父はこの木の下に、今も眠っているんだ」
芙由が楽しそうに言った瞬間、男三人の野太い悲鳴が、中庭に木霊した。