第九章 人の国 四
四
自分にこんな幸せが訪れる事など、予想もしていなかった。軍人として一人、この国で生きて行くのだと思っていた。汚れてしまった自分を、誰が愛してくれるだろう。卑屈な考えに囚われ、自分の幸せを見失っていたキアラに、彼は光をくれた。
伊太へ向かう飛行機の中、キアラは眠ろうにも落ち着かず、狭い席でぼんやりと考え事をしていた。一緒に伊太へ行こうと言った時、乃木は嬉しそうな顔をした。その時キアラは確かに、一緒に生きる未来を望んでいたのは自分だけではなかったのだと、そう思えたのだ。
彼が神主の弟だと知った時、キアラは少なからず動揺した。国がひた隠してきた事を、一介の軍人でしかない自分が知っていいものなのだろうかと、悩みもした。
けれど乃木の真摯な言葉に、輝く目に、全ての不安が吹き飛んだ。自分の過去も傷も全て知った上で、乃木は好きだと言ってくれた。あの時キアラは初めて、この人となら生きて行けると、一緒に生きて行きたいと、そう思った。
過去のキアラにとっては、アーシアだけが希望だった。けれど今は支えてくれる仲間がいて、戦友がいて、恋人がいる。形の見えない何かではなく、そんな大事なもの達の為に、戦っていたいと思う。大切なものは、すぐ近くにあったのだという事に気付かせてくれた乃木に、感謝もしていた。
隣で熟睡する乃木の頭がずれ、キアラの肩にもたれた。ぽかんと口を開けた、だらしない寝顔を晒す彼がおかしくて、キアラは思わず笑う。子供のような寝顔が、彼女の胸を温かくしてくれた。少年のように、純粋な人なのだ。
乃木はキアラを守りたいのだと、そう言ってくれた。彼の目が、賢者と共に伊太を経った日の空に似ていると思ったのは、ひたむきな彼の姿勢に、希望を見たからだ。あの日の空にも確かに、希望があった。
自分が純粋な彼に見合う人間だとは到底思えないが、彼が望んでくれるならと、甘える気持ちはある。それでも、申し訳なくは思っている。乃木は気にしない人だと分かってはいるが、踏み込む事をためらう。彼が気遣ってくれている事にも、気付いていた。
キアラは微かに溜息をついて目を伏せ、膝の上に乗せた手で拳を握った。自分の気持ちに変わりはない。それでも引け目はあるし、罪悪感もある。自分が悪い訳でもなかったが、取り戻せないものが、口惜しくてならなかった。
アーシアの言う通り、最初から出雲の軍学校に入っていれば、こんな風に悩んだりしなかっただろうか。もっと早く乃木と会っていたら、あんな事にはならなかったのではないだろうか。それも今となっては、どうにもならない夢想に過ぎない。
真面目な乃木が、好きだった。気弱であるが故に後ろ向きな姿勢でいても、精一杯向き合おうと努力する彼が、眩しかった。それが余計に、キアラを悩ませる。
本当に、自分でいいのだろうか。こんな純朴な青年に、自分は釣り合わないのではないだろうか。キアラは眉根を寄せて、更に深く俯く。
「キアラさん」
膝の上で握った拳に温かいものが触れると同時に、少しかすれた声がかけられた。驚いて息を呑み、キアラはまず膝の上を確認する。拳の上に、掌が重ねられていた。
改めて隣の乃木を見ると、彼は不安そうに眉尻を下げていた。しかしキアラが首を傾げると、微かに笑う。目が半分閉じているから、寝ぼけているのだろう。しかし名前を呼ぶ声は、掠れてはいたものの、はっきりしていた。
眠たそうな笑顔に、キアラの手にこもっていた力が抜ける。乃木の手が彼女の拳を開かせ、横から掴むようにして、そっと握った。
「僕、キアラさんの笑った顔が、好きなんです」
キアラは更に、目を丸くした。握られた手から、彼の体温が伝わってくる。
身長はキアラより低いが、乃木の掌は、彼女のそれより大きかった。しかし寝ていたせいか元々なのか、その温度は子供のように高い。それも、思い出したくもない記憶の中にある、嫌な熱さとは違う。皮膚の内側から滲み出てくるような、優しい体温だった。
「だからキアラさんには、笑っててほしい」
言葉よりも、浮かべられた笑顔よりも、彼の目の奥で瞬く光が、眩しかった。こんなにも真っ直ぐに好きだと伝えられたのは、初めてだった。そしてキアラの胸に、温かな感情が込み上げる。
嬉しくて涙が出そうになったのは、何年ぶりだろうか。それでも、キアラは泣かない。泣けばきっと、乃木が悲しい顔をするから。
込み上げる涙を抑え込み、キアラは笑った。しっかり笑えているかどうか不安だったが、乃木は浮かべた笑みを深くして、手に力を込める。
何も不安がる事はない。乃木の手はこんなにも温かくて、こうして手を繋いでいるだけで、こんなにも安堵するのだから。
やがて乃木が目を閉じると、徐々に手の力が緩んで行く。キアラは彼の手を離すまいと握り直して、肩に乗せられた頭に、頬を寄せた。安らかな寝息を聞いていると、自分の不安も何もかも、下らない事のように思えた。
「ねぇテオドラ、今日ね、キアレッタが来るのよ」
浮かれた調子でそう言った賢者を横目に、テオドラ・オルトラーニは書類を片付けていた。知事の承認がないと通らない書類が、突っぱねても突っぱねても回って来るのだ。無能な部下ばかり残してしまった自分の愚かさを、テオドラは心中呪う。
肩の高さで切り揃えられたブロンドには、きついウェーブがかかっており、少しでも頭が動くと空気を孕んで揺れる。開かれたワイシャツから覗く肌は、些か張りを失いかけてはいるが、豊満な乳房の深い谷間は健在だ。
艶のある美貌だったが、その表情は少し、疲れているように見えた。切れ長の目の下にはうっすらと隈が出て、白い肌も荒れている。寝不足なのだ。
全て自分が招いた事とはいえ、テオドラは流石に疲弊しきって、小さく息を吐いた。無論、手伝いをしてくれている賢者に、聞こえないように。
「それで朝から、浮かれていらしたんですのね」
とうとう書類を破り捨てて、テオドラは上機嫌な賢者に微笑みかける。アーシア・パガニーニは、小さな顔いっぱいに笑みを浮かべ、大きく頷いた。
ビスクドールのような、華やかな顔立ちだった。形の丸い大きな目は透けるような青色をしており、光に当たると、ガラス玉のように見える。彼女が瞬きする度に、上を向いた長い睫毛が、重たそうに揺れた。ふわふわと柔らかそうなプラチナブロンドは、今は肩の位置で結ばれている。仕事の邪魔にならないように纏めているのだが、彼女は今日は仕事をしていなかった。
その容貌は幼い少女そのものだが、彼女はテオドラの数倍の時を生きている。今は伊太復興の為に尽力するアーシアだが、本来ならば独に移された大陸庁で、総知事の補佐をしなければならない所だ。それをここに留めてしまっている事を、テオドラは申し訳なくも思う。
「久しぶりだわ、三十年ぶりかしら」
「そんなには経っていませんわね」
とぼけたアーシアの発言に逐一突っ込むのにも、最近慣れた。出雲は今大変な事になっているようだが、アーシアは呑気だ。テオドラも、他州のことなど気にかけてはいられない。
雨を筆頭とする連合軍との内戦が集結したのは、半年ほど前の事だ。伊太は関与しなかったので、テオドラは子細を知らないが、一時大規模な世界大戦となっていた。案外早く終わった事には、北米賢者が関わっていると聞く。
何にせよ、終わった事だ。テオドラは自分がすべき事を、真っ先に行わなければならない。時間は掛かっているが、アーシアの助けもあり、州は確実に立ち直ってきている。
これが終わったら。否、終わるまでもなく選挙で負けたら、テオドラは終身刑となる。それを思うと虚しくもなるが、今は神から預かったこの州の為、誠心誠意努めなければならない。それが、本来なら死刑に処されてもおかしくはない罪を犯したテオドラに、出雲が下した判決だったのだから。
「楽しみだわ、早く来ないかしら。ここに来てって、言ってあるのよ」
テオドラは書類に落としていた視線を上げて、首を傾けた。
「どうしてこちらに? 謁見室に通された方が、宜しいんじゃありませんの?」
「だってテオドラ、ここから離れられないでしょう?」
離れられなくしているのはアーシアだ。テオドラは文句の一つも言いたくなったが、ぐっと堪える。
就業時間まで、テオドラが部屋から出る事は、手洗いと会議室に行く以外許されない。来客があった時は流石に応接室に行くが、それ以外はデスクから離れるなと言われている。溜まりに溜まった仕事を、全てここで片付けろと言うのだ。スパルタだ。
「私が同席する必要が?」
「あら、あるわ。テオドラには、キアレッタにドゲザして謝ってもらわなくちゃならないんだから」
何も言い返せなかった。テオドラは微笑むアーシアが、恐ろしくて堪らない。助けて貰ってはいるが、彼女は事あるごとに突っかかって来るのだ。姑に一日中監視されている気分だった。
テオドラはアーシアに気付かれないように、また一つ細い溜息を吐き、書類に視線を落とした。助かっている。助かってはいるが、苦痛だった。
「失礼します」
ノックの音と共に、耳慣れた声が掛けられた。テオドラは天の助けとばかりに、勢い良く上げた顔を扉へ向ける。
そこには予想通り、ラウロ・オルトラーニがいた。歳を食いはしたが、理知的な鳶色の目は、出会った頃と変わらない。目と同じ色の髪は少々薄くなっているが、疲れていた顔は、大分張りを取り戻している。リハビリを続けてはいるものの、車椅子に乗った彼の足は、未だにうまく動かない。
「ああラウロ……お疲れ様」
テオドラが大袈裟な手振りで両手を伸ばすと、ラウロは彼女の側まで進み、デスクの横へ車椅子を着けた。テオドラは立てないラウロの代わりに立ち上がって、身を屈めて彼の頬の両側にキスをする。それから満面の笑みを浮かべ、労うように肩を撫でた。
「お疲れ様」
目を細めて笑うラウロが、今は宝物のように思える。テオドラにそう気付かせてくれたのはアーシアであり、彼自身だった。だから彼の生まれたこの州の為に、自分にしか出来ない事をしていたい。自分がした事の落とし前は、必ず自分でつけるつもりだ。
テオドラが再び腰を下ろすと、ラウロはアーシアの座るソファーの横へ移動した。車椅子の動きを目で追っていたアーシアは、彼に柔らかく微笑みかける。
「お疲れ様、ラウロ」
「お疲れ様です、パガニーニ補佐官。今し方、ベルガメリさんから十分後に到着すると連絡がありました」
アーシアは目を輝かせて、ラウロの方へ身を乗り出した。嬉しそうな彼女の様子を見て顔をしかめた後、テオドラは止まっていた手に気付いてペンを動かす。
好かれていないのは分かっているが、こうもあからさまに真逆の反応を示されると、複雑な心境にもなる。常に側にいる人間に嫌われては、いい気もしない。以前は誰に嫌われても構わないと思っていたが、今はそうではなくなってしまった。自分のそういった変化も、アーシアのお陰だ。だからこそ、余計に気になるのだろう。
「やっと帰って来られたのね」
どこかほっとしたようなアーシアの声に、テオドラは彼女が目を掛けていた元近衛兵を思い浮かべる。凛とした女だったが、どこか陰があったように記憶している。その理由も、アーシアの口から聞いた。
正直な所、テオドラは軍の内情までは把握していなかった。転がすだけ転がして、放置していた。軍内部での問題は軍部で処理する決まりがあったし、テオドラが視察する事もなかったのだ。
深く、後悔した。テオドラは娼婦だったが、それは自ら望んだ事で、逃げようと思えば逃げられた。逃げたくても逃げられなかったのとは、訳が違う。
軍内部のそんな事情を知っていたら、テオドラはもっと早くに気付いていただろう。国が平和なのは神が見守っているからではなく、守る人がいるからなのだという事に。土下座しろというアーシアの言う事は流石に聞けないが、謝らなくてはならない、とは考えている。
「もう、そろそろ来られるでしょう。すぐに通してくれと……」
ラウロが言いかけた時、ノックの音が聞こえた。もう来たのかと考えながら書きかけの書類を伏せ、テオドラは顔を上げる。
どうぞ、と返事をした時には、もうアーシアが扉を開けていた。その向こうに、驚いたように目を丸くしたキアラが立ち尽くしている。返答が来る前に扉が開いたから、驚いたのだろう。
タイトな黒のスーツを着た彼女は、アーシアを見下ろして頬を緩めた。頭を下げると、赤褐色の髪が体の前へ流れる。
「お久しぶりです、アーシア様」
「やっと来てくれたのねキアレッタ!」
喉から歓喜が溢れ出たような声でアーシアが言うと、キアラは一つ頷いてから、室内を向いた。テオドラと目が合うと、彼女は表情を硬くする。
「ベルガメリと申します、オルトラーニ知事。副知事、その節はお世話になりました」
「元気そうで何よりだよ」
深々と頭を下げてから再び顔を上げたキアラは、ラウロを見て、また微笑んだ。赤毛特有の肌の青白さはあるが、その笑顔は春の日差しのように温かい。狭い額と淡いグリーンの目が、どこか猫を思わせる。
テオドラは椅子から立ち上がってソファーに近付き、アーシアに促されて入室したキアラに、片手を差し伸べた。キアラは少し驚いたように目を見張った後、おずおずと片手を伸ばす。その手をそっと握り、テオドラは眉尻を下げる。
「パガニーニ補佐官から、話は聞いているわ。……ごめんなさい」
眉を上げたキアラの手の甲へもう片手を添え、テオドラは深々と頭を下げた。動揺したのか、キアラの手が微かに震える。
謝る事しか、テオドラには出来ない。何も元には戻らないし、謝られたところで、苦い記憶は消えないだろう。それでもテオドラは、長く腰を折ったままでいた。
静寂が落ちた時、不意に、肩を叩かれた。顔を上げて視線を落とすと、笑顔のアーシアがいる。
「さ、座りましょう」
それ以外、アーシアは何も言わなかった。それだけ言って、元いた位置に戻って腰を下ろす。
戸惑いながらも、テオドラはアーシアからキアラへ視線を移した。目が合うと、キアラは仄かに頬を赤らめて困ったように笑い、頷く。テオドラは、たったそれだけで、胸のつかえが取れたような気がした。
「ねぇキアレッタ、この街を見た?」
テオドラがラウロの横、ソファーの左端に腰を落ち着けると、アーシアが待ちかねたように切り出した。身を乗り出す彼女の対面に座ったキアラは、ゆっくりと大きく頷く。濃い色のストッキングに包まれた長い足は、センターテーブルとソファーの間で、少々窮屈そうにしていた。
「だいぶ、変わりましたね。昔に戻ったのかと思いました」
「テオドラが頑張ったお陰よ。キアレッタにも聞かせてあげたかったわ、帰ってきて最初の演説!」
輝く笑顔のアーシアに、テオドラは驚いた。今まで彼女の口からテオドラを褒めるような言葉を、聞いた事がなかったからだ。その演説の後、アーシアはすぐに、仕事をしろとテオドラを急かしたのだった。
「みんな、泣いていたのよ。その後しばらく大変だったんだから」
「こちらとしては、嬉しい悲鳴ですよ。激励の手紙ばかり来ましたから」
とにかくテオドラは、謝罪しなければと考えていた。しかし全て暴露して糾弾されたら元も子もないとアーシアが言うので、内戦を仕掛けた事をまず謝り、経歴を偽っていた事を謝罪した。民衆が泣いたのは、同情心からだったのだろう。
そこでテオドラは初めて、自らの過去が同情されるに値するものだったのだと知った。今まで自分が哀れだと思った事など、ただの一度もなかったのだ。それで許されたつもりもなかったし、同情票を集めるつもりもない。
こんな自分に同情心を持ってくれる人々を、何故今まで蔑ろにしてきたのかと、そう悔いた。伊太の人々は深い懐でテオドラを受け入れたのに、自分は何をしていたのだろうかと。
そこでやっとテオドラは、信じてくれる人の為に生きる道を見出した。自分が信じたものの為ではなく、自分を信じてくれる人の為に、残りの任期を勤め上げようと、そう思った。
「今度は伊太の為に、働くわ。本当なら、それが私の仕事だったんだから」
テオドラが言うと、アーシアは満足そうに頷いた。彼女は確かに、この国の人の為に存在しているのだ。だから罪を犯したテオドラをも、救ってくれた。
「……そういえば、お連れの方は」
ラウロが問いかけると、キアラは大きく瞬きをして、扉を見た。まだ誰か来るのだろうかと考えながらアーシアを見ると、彼女は複雑な表情を浮かべている。
「陸の大将に出雲からの書簡を届けているので、もうすぐ来る筈なのですが」
「出雲から?」
テオドラが怪訝な声を漏らすと、キアラは扉から彼女に視線を移した。
「元帥から、個人的に頼まれ……」
キアラが言い終わる前に、ノックの音が聞こえた。テオドラは首を捻りながら、どうぞと返す。
出雲語で、失礼します、と声が聞こえた。一拍遅れて入ってきたのは、テオドラの目には、軍部の制服を着た少年のように見えた。黄色人種は若く見えるし、軍人のようだから、確実に二十歳は超えているのだろうが。
さっぱりした短髪がよく似合う、優しげな面差しの青年だった。黒目がちな彼の目は、少年のようにきらきらと輝いている。しかし体格は軍人のそれなので、アンバランスに思えた。どことなく表情が硬いのは、緊張しているせいだろうか。
「乃木康秋と申します!」
上擦った声で言いながら敬礼した彼を怪訝に思って首を傾げ、テオドラは再び隣のアーシアを見た。彼女は驚いたように、目を丸くしている。
「康くん、そんなに緊張しないで……」
キアラの浮かべた困ったような苦笑いと呼び名から、テオドラは彼が何なのか理解した。恐らく、キアラが世話になったアーシアに、挨拶に来たのだろう。
はい、と呟いて眉尻を下げた乃木を見ていたアーシアが、唐突に立ち上がった。彼女は目を見張ったまま、まじまじと乃木を見詰めている。テオドラは無意味にはらはらしていた。
アーシアは、キアラを溺愛している。まるで我が子の自慢話をするかのように、キアラの話をするのだ。そんな彼女がキアラの恋人を前にして、黙っていられるとは思えない。
「……あなた」
「は、はい!」
アーシアに声を掛けられると、乃木は大袈裟に肩を震わせて反応し、背筋を伸ばした。元々姿勢がいい為か、背中が反ってしまっている。
「お兄さん、いらっしゃる?」
乃木とキアラが、同時に目を丸くした。意味が分からず、テオドラはラウロと顔を見合わせる。
「はい、あの……会ったんですか?」
アーシアは暫く呆然と立ち尽くした後、顔をしかめてソファーに戻った。ふてくされたように唇を尖らせる彼女の代わりに、テオドラは掌で乃木をソファーへ促す。
「どうぞ、お座りになって」
「あ……すみません」
心底申し訳なさそうな声だった。気の弱そうな青年だが、出雲島民は大体こんなものだと、テオドラは思い直す。一度だけ会った聖女がイレギュラーだったのだ。
黙り込んだアーシアを不安げに見詰めていたキアラが、視線を隣の乃木に向けた。乃木は彼女の視線を受けて、悲しげに肩を落とす。挨拶に来た相手にあんな顔をされては、悲しくもなるだろう。
「乃木君は伊太へは、ベルガメリさんのご両親へ挨拶に?」
ラウロは事情を聞いているようだった。気まずい空気の中で助け舟を出せる辺りは、流石に長年テオドラの尻拭いをしていただけの事はある。
乃木は柔らかく問いかけたラウロを見て、ほっとしたような顔をして、はい、と答えた。
「一度、キアラさんが生まれた州を見てみたかったんです。ご両親にご挨拶なんて、まだそんなじゃないんですけど……」
顔を赤らめる彼と一緒に、キアラの頬にも朱が上った。初々しくていいと、テオドラは微笑ましく二人を見る。しかし横のアーシアは、ふてくされたように頬を膨らませていた。
「出雲と比べると、お恥ずかしい限りだが……伊太は、どうだい」
「きれいな街ですね。昔のものがそのまま残されているし、食べ物もおいしいし」
キアラが乃木の脇腹を小突いた。眉を顰めた彼女を見て、乃木は困ったように頭を掻く。食べ物云々の事を咎めたのだろう。
仲睦まじい二人の様子に、テオドラは不安を抱く。無論彼らの事ではなく、隣のアーシアに対しての不安だ。
「……キアレッタの事、ちゃんと知っているの?」
棘のある響きに恐る恐る横目でアーシアを見ると、彼女は明らかに乃木を睨んでいた。テオドラの顔から、一気に血の気が引く。
しかし乃木は気付いていないようで、不思議そうな顔をした。出雲とはニックネームの付け方がかなり違うから、誰の事か分からないのだろう。テオドラが教えようと口を開いたところで気付いたらしく、乃木はばつが悪そうに顔をしかめて俯く。
「……知ってます」
「あなたも、軍人だわ」
アーシアが何を言わんとしているか、テオドラには予想がついた。軍人に傷つけられたキアラが、軍人と付き合って行けるのか。それはテオドラもそう思うが、乃木を見る限り、そんな心配は無用なように思われた。
少し話せば、どんな人物かぐらいは分かる。実直そうな青年だと、少なくともテオドラはそう思った。アーシアが心配する気持ちは分かるが、そもそも彼女が口を出すべき事ではない。それでも黙っていられないのが、伊太の女なのだ。
「僕……」
沈んだ声だった。膝の上で拳を握り、乃木は益々表情を歪める。彼も、憂えているのだろう。キアラは何も言わずに、神妙な面持ちで乃木を見つめている。
「僕も、軍人です。でもキアラさんは、僕を選んでくれました」
アーシアの表情が引きつった。テオドラは凍り付く。
「僕、キアラさんを守りたいんです。嫌な事からも、嫌な思い出からも、全部から」
いい子だ。近年稀に見る実直な青年だ。アーシアの嫌味も真面目に取って、真面目に返してきた。テオドラは温かな気持ちになる反面、なおのこと不安になる。
そして隣のアーシアの表情を確認して、息を呑んだ。
「……でもあなたにキア」
テオドラは、咄嗟にアーシアの口を掌で塞いだ。目を見開いたアーシアが、テオドラの手を離そうともがく。
しかしテオドラは、手を離さなかった。呆然とする二人に引きつった笑みを浮かべて見せてから、ラウロに目配せする。ラウロは既に、扉の前へ移動していた。
「さ、ここで時間を食っても仕方ない。時間より、美味しいピッツァを食べに行くが宜しい」
「え、しかし……」
「そう、隣のお店のマルゲリータが美味しいのよ。食べて行くといいわ」
キアラが戸惑ったように何か言いかけたが、テオドラはそれを遮るように早口にまくし立てた。アーシアが言葉にならない声を上げるが、テオドラはやっぱり手を離さない。
ラウロが扉を開けたので、二人は渋々出て行った。扉が閉まってからやっと、テオドラはアーシアの口を塞いでいた手を離す。瞬間、アーシアが怒鳴った。
「なんで止めるのよテオドラのバカ! お前に娘はやらんって言おうと思ってたのに!」
「娘じゃないでしょう!」
ぴしゃりと言い返すと、アーシアは恨みがましい目を扉へ向けた。ラウロはその視線から逃れるように、ソファーへ戻ってくる。
「あんな……あんなうだつの上がらなさそうな男に……」
それは同意するが、テオドラは口を挟む気力もなかった。アーシアは頭を抱えて大袈裟に首を振り、天を仰ぐ。
「嫌よキアレッター! 私の兵だって言ったくせにうそつきー!」
「大声を出したって聞こえませんわ、補佐官……」
力なく突っ込むが、アーシアには聞こえていないようだった。精神年齢が成長していない筈はないのだが、アーシアはどうも癇癪持ちのようだ。彼女も所詮は、伊太の女だという事だろうか。
「キアレッタのばかー!」
喚くアーシアから視線を逸らして、ラウロは溜息を吐く。テオドラはこのお子様の取り扱いに、ほとほと困り果てていた。