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神の国  作者:
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第九章 人の国 三

 三


 室内には、微妙な空気が漂っていた。芙由は黙り込んだまま口を開かないし、キースは顔をしかめたまま俯いている。お互いに沈黙した時、話を切り出すのは大体いつもキースの方だったが、今日ばかりは、何を言ったらいいのかもよく分からなかった。

 何を言っても、言い訳にしかならないような気がしていた。タバコの先から立ち上る煙を目で追いながら、キースはソファーに浅く座り直す。紫煙の向こうに見える芙由は、視線を落としたまま微動だにしない。息をしているのかどうかも分からない。

 許されない事と分かっていながら、抗いきれない熱に身を焼いた。恋は片思いの時期が一番楽しいとは言うが、それ以前の段階だった。一度きっぱりと振られたが、芙由のあれは本心ではなかったのだと、分かっている。決して思い上がりではない。

 だから諦めなかった。だからこうして、ここにいる。真実を知った今も尚、キースの想いは変わらない。雨は負けたが、結果的にはきっと、彼の思い通りになるのだろう。

 しかし、彼は踏み出せなかった。話せと言われると、何も話せなくなるのだ。いっそさっさと告白してしまおうかとも思うが、それも空気にそぐわないような気がしている。

 いくら歳を重ねても、こういう時どうしたらいいのか分からなくなってしまうのでは、意味がないではないか。そうでなくとも、有意義に歳を重ねたとは、とてもではないが言い難い。この人生には、殆ど意味などなかった。

 けれど、このまま無為なままでいたくはなかった。生きる意味という訳でもないが、その為に、キースは重い腰を上げたのだ。

「私が普通に生きようとしなかったのは、母の為だ」

 突然切り出されて、キースはびくりと肩を震わせた。芙由は彼のその反応を、見てはいなかったのだろう。膝の上で拳を握り、溜息を漏らす。

「……母が挫けないようにな。父が死んだ時点でかなり参っていたから、誰かは残らんと、あの人は国を支える以前に、自分が立てなくなってしまうだろうと」

 孤独を恐れるがあまり、千春も芙由も、国に縋っていた。家族の為と言う彼女は、そう意味付けることを、自分の為だと言っていた。

「だから国の為じゃないって、言ってたんですか」

 小さく頷いて、芙由は徐に立ち上がった。真っ直ぐ書架に向かったので、冷蔵庫に用があるのだろう。この部屋に生菓子が詰まった冷蔵庫がある事を、キースは知っている。

 芙由は菓子ではなく水の入ったペットボトルを取り出して、ソファーに戻った。蓋を開ける細い指は、相変わらず荒れている。白い喉が上下するのを、キースはぼんやりと眺める。

「母と姉とその血族の為に、私は聖女でいた。全て、家族の為だ」

「ならこれから、どうするんです?」

 煙草を灰皿に押し付けながらそう聞くと、芙由は眉を顰めた後、視線を流した。意味を判じかねているのか、返答自体を迷っているのか、定かではない。

「制度を変えると言っただろう。神が死んだとはまだ言えないが、私は地位を下りて軍人になる。ゆくゆくは、神主も実質的な最高指導者から下ろす事になるだろう」

「いいんですか?」

 全て、神が定めた事だ。誰よりも世界を愛した一人の人間が、苦悩の末に決めた定めだ。それを変えてもいいのだろうかと、キースは今更ながらに思う。

 制度を変えたくなかったから、芙由は自ら出て来たのではなかったのだろうか。ああもあっさり変えると言われたら、キースも拍子抜けする。

「神が望んだ事だ」

 キースは目を丸くして、ライターを持って煙草に火を点けかけた姿勢のまま、動きを止めた。芙由はペットボトルの縁に口を付けて、中身を一口飲む。彼女も、落ち着かないのだろう。

「人が政変を望むようになったら、もう神は必要ないという事だ。神の手から離れた人に世界を託す事を、父は望んでいた。本当なら、神の意味がロスト以前と殆ど変わらなくなった頃に、変えておくべきだったんだが」

 人に、世界を託す。それが神の望みだったなら、千春が政変を望まなかった理由も分かる。彼女も、自分の手から国が離れる事を、寂しく思っていたのだろう。

 この制度を具体的にどう変えるのか、キースには知る由もない。しかし賢者の地位は、飾り物となるのだろう。補佐官ではなく、賢者として大陸を支える事になるだろう。

 それを、千春が望む筈はない。補佐官でなくなれば、政治に口出しは出来なくなるだろうし、折角立ち直った陳の地位も、剥奪されかねない。必要とされる限りはいいが、いずれは無用と判断されるだろう。

 国を愛した人が、国から必要とされなくなる。それがどんなに恐ろしい事か、キースにも分かる。けれどもう、この世界に人ならざる者の導きは必要ないのだろう。

 人が自らの意思で、進む時代になる。恐れこそあれど、それは決して間違いではない。

「親は偉大ですね」

「お前は親など知らんだろう」

 言ってから、芙由は息を呑んで気まずそうに顔を逸らした。つい言ってしまったのだろう。キースは苦笑いを浮かべ、いいですよ、と呟く。

「どうって事ありません。最初からいねぇんだから」

「ん……すまん」

 しおらしい芙由は、初めて見たような気がする。キース自身気にした事もなかったから、申し訳なさそうにされると複雑な気分になる。しかし珍しいものが見られたから、まあいいかとも思う。

 神の一族の中で彼女だけは、家族の為に生きていたのだろう。彼女が背負っていたものが家族の絆だったのだとしたら、冷めていたのも振りだったのではないかという気さえ、キースにはする。淡泊だとは思っているが。

 国の核たる家族を守る事は、国を守る事と同義ではなかったのだろうか。けれど今更、それを言う気もない。折角彼女が違う道を選んだのだから、これ以上悩ませるような事は言いたくなかった。

「……乃木はなんで、乃木なんです?」

「那津仁も乃木だ。姉の旦那が、乃木という名だった」

 変な聞き方だとキースは自分でも思ったが、芙由は問い返す事もなくそう返した。

「覚えていないだろうが、先代神主夫妻の仲を取り持ったのは、お前なんだ」

 キースは思わず顔をしかめた。物覚えはいい方なのだが、覚えがないどころか、関わったような記憶もない。そもそも、キースは先代神主との面識がない。

 黙り込んだキースを、芙由は鼻で笑った。普段より柔らかいその響きに、彼の胸の内に何かが込み上げる。

「昔、女性兵士を唆して、ここに通い詰めさせた事があっただろう」

 確かに、そんな事をして千春に怒られたような記憶はある。合同演習した際に珍しく女性士官がいたので、少し絡んだだけだった。キースは名前も忘れていたし、何を言ったかまでは覚えていない。

「唆したつもりはなかったんですが」

「お前にそのつもりがなくとも、あれが那津仁と康秋の母親だ。お前が通い詰めさせたお陰で、先代神主と出会えたんだ」

 つまり千春のところへ通い詰めていて、偶然神主と鉢合わせしたといった所だろう。

「彼女は今の康と、同じ疑問を持っていたそうだ。何故軍があるのかとな」

 キースはその事実よりも、芙由が乃木をあだ名で呼んだ事に驚いた。家族なら当然なのだろうが、キースの心境としては複雑だ。自分は未だに、ファーストネームで呼ばれた事さえないというのに。

 出雲島民は、無闇に他人をファーストネームで呼ぶ事がない。キースも分かってはいるが、少し寂しかった。

「……なんで軍があるのかなんて、そんな事どうだっていいじゃないですか」

 名前で呼んでくれと今この場で言うのも妙だと思ったので、キースは結局そう吐き捨てた。

 軍があるから、守る事が出来る。軍があるから、内戦が起きる。そんな事は、キースにとってはどうでもいい事だった。

 彼が軍にいたのは、自分の為だ。自分の信念の為だったからこそ、軍がある理由など何だって良かった。彼も最初は、国の為に従軍していた。子供が傷付かない世界にする為に、治安維持に努めようと考えていたのだ。

 全ては、あの頃愛していた人の為だった。けれど、それと決別した今もやっぱり、軍人でいようと思っている。軍を選ぶ事に特に理由はないが、今更賢者としては生きたくないのだ。

 それは自分に出来ない事だからという理由でもあるし、単純に、賢者であるのが嫌になった。キースが賢者だったから、芙由は一度、彼を振ったのだ。忘れる事は出来ないが、嫌な思い出とは、出来る限り決別したい。

「あれが従軍したのは、私と同じ理由だった。国を背負う家族と同じように、自分も国の為に何かしたかったんだ」

 それはプライドだったのだろうと、キースは思う。だから乃木はキースと違って、軍自体に意味を求めたのではないだろうか。あの気弱な青年が軍人というと似合わないような気がしていたが、そう考えれば納得出来る。

 負けず嫌いな血筋なのだろう。芙由もそうだし、乃木もそうだった。そして多分、千春も。

「国の為になんて、バカバカしいと思ってたが……結局、そんなもんか」

「自分が納得しなければ、悩み続けるだけだ。そんなものだろう」

 気が付けば、室内を照らすのは西日ではなくなっていた。蛍光灯の白い光に、タバコの煙が吸い込まれて行く。

 視線を落としたままの芙由の前髪は、少し不揃いだった。さっき切ってしまったせいだろう。髪を耳に掛ける彼女の仕草が、目新しく感じられる。伏せた長い睫毛が、やけに濃く見えた。

「キアラは、良かったんだろうか」

 独り言のような声量だったが、キースは首を捻る事で反応して見せた。

「乃木でって事ですか? 聞いちまった事?」

「両方だ」

 短い返答に、キースは苦笑した。いていいのだろうかとはキースも思っていたが、明かしてまずい事ではなかったのだろう。

「もう、大丈夫なんだろうか」

 芙由の呟きに、キースは目を伏せて軽く肩を竦めた。彼女の言う意味は分かるが、そこまで心配する必要もないのではないかと思う。芙由は案外心配性だ。

 それよりも、自分達の事を心配するべきではないのだろうか。違う道を歩むと決めたようだが、相変わらず自分の事は蔑ろにしている。そういう性格なのだろう。

 ここで決着をつけないと、永遠に何も終わらないような気がしていた。キースも忙しくなるし、芙由は自分からは何も言い出さないだろう。ここで決着をつけて、ここから始める。それがどんなに強く願っていた事か、きっと彼女は知らない。

 何もなかった人生に、彼女が光をくれた。新しい道を歩もうと、そう思わせてくれた。もう一度、人として生きてみようと。

「人は変わります。いつかは神が統治してたって事も、忘れるでしょう。俺達みたいのは、今に必要なくなる」

 芙由は何も言わずに、頷いた。彼女は全て理解した上で決断を下したのだろうと、キースは安堵する。

「でも俺には、あんたが必要です」

 芙由は少し顎を引いたまま、視線だけを上げてキースを見た。濡れたような漆黒の目は、今日の空のように、澄みきっている。キースは目を細くして、その目に笑いかける。

「芙由様。俺と、人として生きてくれませんか」

 芙由は眉一つ動かさなかった。真顔の彼女が次に発する言葉を予想して、キースは耳を塞ぎたい衝動に駆られる。

 彼女はいつだってそうだった。何を言っても、同じ反応しか返してくれない。たとえ一世一代の告白をしようとも、返答は変わらないのではないかとさえ思う。ついさっき放った言葉が、一世一代の告白だったというのに。

「くさい」

 やっぱり、同じ反応だった。キースは額に手を当てて肩を落とし、溜息を吐く。突っ込む気力も起きなかった。

 そう言われても、こういう言い方しか出来ないのだ。率直に言って同じ反応をされたらと思うと、とてもそういう気にはならない。キースも大概にして臆病だ。

「あんたもう、いい加減……」

「そんな遠回しに言われても分からん。言わなかったか?」

 虚を突かれて目を丸くし、キースは額から手を離して顔を上げた。少々期待していたが、相変わらず芙由は真顔だった。

「私が好きなら好きと素直に言え。お前はいつもそうぐだぐだと前置きばかり長」

「好きです」

 続きを言いかけた口の形はそのままに、芙由が固まった。しかしすぐに、誤魔化すように鼻で笑う。

「味噌田楽がか?」

「違いますっつーかなんで知ってんですか」

 呆れた表情で返してから、キースは一息吐いて、表情を引き締める。真っ直ぐに見据えると、芙由は口を開きかけたまま黙り込む。

「好きです、芙由様。伊太に行った時からずっと」

 凍り付いたように動かなくなった芙由に、思わず笑い声を漏らし、キースは煙草の火を消した。口にした言葉が確かに作用しているのだと分かると、安堵感を覚える。

「愛してます」

 何も言わせまいとするように畳み掛けたキースを、呆然と見詰めていた芙由の白い頬に、僅かに朱が上る。少しの間の後、開いたままだった唇を引き結び、彼女は顔ごと目を逸らした。キースにとっては、初めて見る反応だ。

 俯いた芙由の頬を、流れた長い髪が隠す。代わりに、赤く染まった両の耳が露わになった。率直に言われると弱いのかと、キースはやっと気付く。

「……笹森芙由だ、本名は」

 絞り出すように告げた後、芙由は漸くキースに視線を合わせて、微かに笑みを浮かべた。柔らかな微笑が、彼の胸を熱くする。

「キース、私は人になる」

 賢者も聖女も、人ではなかった。この世界に必要なくなった今だから、芙由の選択もキースの選択も、許される。

「ただの人に、ただの女になる」

 どれほど待ち望んでいた言葉だっただろう。一度は諦め、それでも忘れられなくて、キースはここまで来た。何もかもどうでも良くなった末に、唯一望んだのが、彼女だった。

 苦い思い出も、何度も吐かれた悪態も、忘れた訳ではない。けれどだからこそ、嬉しかった。悲しいだけではなくなった選択肢を、芙由は選んでくれた。やっと開けた道には、確かに先がある。この先にはきっと、何かがある。

「お前が、隣にいてくれるのなら」

 漸く、道が交わった。一度は離れる道を選んだ彼女が、この選択をしてくれた。それが何よりも、キースには嬉しく思える。

「あんたも、はっきり言わねぇな」

 芙由の笑顔が曇り、眉間に皺が寄った。拗ねたようにも見えるその表情に、キースは笑う。

 芙由の顔の赤みが引かない。口を噤んで顔をしかめた彼女は、再び視線を外し、膝の上に置いた手で緩く拳を握った。意のままになるのが嫌なのだろう。

 そういう所を、好きになった。信念を曲げず、真っ直ぐに歩む彼女が、危ういと思った。だから自分を省みずに、進むべき道だけを進んで来た彼女を、守りたいと願った。

 キースはゆっくりと席を立ち、対面のソファーに歩み寄る。逸らされた芙由の視界を塞ぐように横へ立つと、彼女はふと笑みを浮かべ、両手を伸ばす。

「お前が好きだ」

 それだけで、満たされた。望むものはもう、ここにある。

 眉根を寄せて照れくさそうに笑みを浮かべ、キースはソファーの背もたれに手を着く。伸ばされた腕の間へ入るように背中を丸めると、芙由がふと眉を上げた。嫌な予感が、キースの胸をよぎる。

 気がついた時には、芙由の掌が目の前にあった。避けようと動くより先にばちんと小気味良い音がして、顔に衝撃を受ける。鼻が曲がったような気がした。

「……あ、すまん。つい」

 キースは痛み以外の理由で、泣きそうだった。

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