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神の国  作者:
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第九章 人の国 二

 二


 千春に先導されて着いた先は、彼女の執務室だった。分厚い本が詰め込まれた書架も、大きなリビングセットも、黒檀のデスクも、何ら変わりない。傾き始めた太陽の光が窓から差し込み、室内を橙色に染め上げている。

 革張りのソファーには、スーツを着た優しげな面差しの青年が座っていた。彼は部屋に入って来た乃木を見ると、穏やかに微笑む。

「久しぶり。焼けたな」

 気の抜けたような彼の笑顔は、乃木のそれとよく似ていた。体格は乃木の方がいいが、顔立ちは彼の方が大人びている。

 乃木には、言いたい事が山ほどあった。けれどこの場で、彼に何と言えただろう。ただ一人、この巨大な要塞に閉じこもり、世界を見詰めていた彼に。

 何も言えはしない。乃木には彼を労う事も、疑問をぶつける事も出来ないのだ。

「相変わらず、なまっちろいね」

 言いたかった事の一つも言えず、乃木は結局、そう悪態を吐いて笑った。怒るでもなく、新卒の大学生のような青年も笑う。どこか、嬉しそうな表情だった。

「うるさいなあ」

 懐かしい声が、軽い調子で言い返す。乃木は小さく声を上げて笑い、横で所在なげに立ち尽くすキアラを見上げた。

 不思議そうな顔をしたキアラは、乃木とソファーに座った青年を交互に見て、デスクに着いた千春へ視線を移した。目が合うと、千春はソファーを指し示す。

「座りなさい。後の二人も、もう来るだろう」

 千春は何も説明しなかった。これから説明する気なのだろうが、これではキアラが困るばかりだ。そもそも、引っ張って来たのは乃木なのだが。

 キアラの目が、意見を求めるように乃木を見た。乃木は不安げな彼女に苦笑いを浮かべて見せ、軽く肩を押して促す。キアラは困惑した面持ちで、失礼しますと言いながら、誰もいない方のソファーへ腰を下ろす。

 乃木がキアラの隣へ腰を落ち着けたのと同時に、ドアがゆっくりと二度、ノックされた。怪我の手当てをしていた二人が来たのだろう。この叩き方は芙由だ。

「開いているよ、入りなさい」

 開いたドアから、まず芙由が顔を出した。その頭の上に、キースの顔が見える。いつの間に着替えたのかスーツ姿の芙由は、キアラを見て怪訝に眉根を寄せた。

「どうしてキアラがいる」

「あっ……あの、すいません」

 乃木は反射的に背筋を伸ばして、芙由の声に応えた。謝った彼とキアラを交互に見てから、芙由は鼻を鳴らしてソファーへ近付く。納得したような響きだった。

 何も聞かれなかったから、千春には気付かれているのだろうと思っていたが、芙由にまでばれるとは思わなかった。乃木は気まずさと気恥ずかしさで肩を竦め、深く俯く。出来る限り、自分の感情は隠しておきたかった。

 芙由に続いて入ってきたキースは、真新しいワイシャツを着ていた。医務室で着替えを借りたのだろう。

「その方が、神主殿ですか?」

 誰にともなく問い掛けたキースは、乃木の横に腰を下ろして、芙由と向かい合った。芙由は嫌そうな顔をしたが、声を掛けられた神主は、にこやかに頷く。

「初めまして。カークランド大佐」

 神主は下がり気味の眉尻を更に下げ、キースに笑いかけた。柔らかな彼の笑顔に会釈を返して、キースは横の乃木を見る。乃木は居づらかった。

「どうも……乃木は何してんだ、姉さんも」

「聞くな、今から話す。口を挟んだら絞め殺すぞ」

 姉さんというのが誰の事なのか乃木には分からなかったが、千春が切り出してしまったので、聞けなかった。彼は芙由をそうは呼ばないし、千春に対してそこまでフランクには接しないから、キアラの事なのだろうと納得する。

 ここで、終わるのだろうか。乃木の疑問も、神の世界も。国の頂点に近い位置にいる三人が一同に介する所を、乃木は今まで見た事がなかった。乃木がその場にいた事が、なかっただけかも知れないが。

 軍人ではいられなくなってしまうのだろうか。そんな不安が、乃木の顔を俯かせる。今の乃木は、軍にいる事に自己を保つ為の意味を求めてはいない。けれど、軍にいる理由は出来た。理由があるから、離れたくはない。

 乃木は俯いたままゆっくりと息を吐き出し、デスクに着いた千春を見上げた。乃木の目と目が合うと、千春はようやく口を開く。

「もうお前達も気付いているだろうが、神は既に死んでいる」

「えっ」

 声を上げたキアラは、慌てて両手で口を塞いだ。乃木は反応出来ずに唖然とする。抱いていた不安も、全て吹っ飛んだ。

「……え?」

「口を挟むなと言っただろうに」

 間が空いた後問い返すと、千春に咎められたので、乃木は肩を落とした。そんな事は知らないし、気付いてもいなかった。芙由と神主はともかく、キースが反応を示さないのが不思議だ。

 彼は、気付いていたのだろうか。だから神が要らないと、そう言ったのだろうか。

「……最初から話すよ」

 溜息混じりの千春の声に、乃木は小さくなった。キアラも気まずそうに俯いている。乃木はキアラを引っ張って来てしまった事を、深く後悔した。

「神はロスト当時、十四の子供だった。当時の状況を私は知らぬが、世界人口が半分以上減った上に、人類が記憶をなくしたというから、大変な事だったろう。彼が世界を建て直したのも事実だよ」

「建て直す為に作ったのが、軍だったんですよね?」

「そうだ。細々した事はこの際省くが、軍隊を作ったのには、もう一つ理由があった」

 千春はそこで、キースを見た。煙草に火を点けようとしていた彼は、その視線を受けて首を捻る。目と目が合うと、千春はにやりと笑った。

「神はね、かつて雨にあった国に勝ちたかったのだ。この島にあった国が、負けた国にね」

「ば……」

 キースの口から、濃い煙と共に裏返った声が漏れた。乃木は更に唖然としたが、千春が続けてしまったので、やっぱり何も言えなかった。

「馬鹿馬鹿しい理由だろう。だが長じて行く内、神はその無意味に気付いた。記憶の中の歴史を、事実として受け入れられるようになってからの事だ。そして後悔したのだよ、軍を作り直してしまった事を」

 背後からの西日に照らされて、逆光になった千春の顔は、乃木には見えなかった。しかし両手の甲に顎を乗せた彼女が、憂えているように見える。

 長年の疑問は、ここに来て解かれた。乃木は何も言えずに、ただ痛い程に胸を叩く己の心臓の音を聞く。子供の頃は自分も確かに軍に憧れたと、乃木はぼんやりと考える。神とは、そんなどこにでもいるような、当たり前の人物だったのだろうか。

 確かに神は、この国に居た。居る、としか認識していなかったが、乃木の中でやっと、その姿がぼんやりと形を成して行く。

「死の淵に立たされた時、神は私に、軍を置いた事を謝った。いつかは戦争が起きてしまうだろうと、そう言って謝ったのだ。そして懇願されたよ」

 千春を真っ直ぐに見詰めていた芙由の目が、そっと伏せられた。横からの西日に照らされた顔に、長い睫毛が淡い影を落とす。

「この世から、戦争をなくしてくれとね」

 誰もが望んだ事だった。誰かが仕掛け、誰かが命を賭して、止めようとした事だった。

 神は悔いていたのだ。自ら不安要素を作り直してしまった事を。軍を護国の象徴として、戦争の種は殆ど潰したが、彼は気付いていたのだ。同じ国の中であろうとも、人がいずれは、争い始めてしまう事に。

 乃木の疑問に、確かに答えはあった。千春が答えなかったのは、神自身が悔いていたからなのだろう。

「神はどうして、死んだんです?」

 キースが腕を伸ばして、センターテーブル上の灰皿を引き寄せながら、そう聞いた。

「老衰だよ。子供が産まれたから、老い始めたのだ」

「やっぱ、ぽっくり逝くワケじゃなかったか」

 納得したように独り言ち、キースは灰皿の上で煙草を弾いた。白い灰が散らばり、よく磨かれたセンターテーブルのガラス上に落ちる。

「不死の者の子供は総じて不死だが、記憶は長子にしか受け継がれない。見ての通り、成長が止まる時期はバラバラだ」

「見ての通りって言われても」

 千春はキースの発言を無視した。

「長子が産まれた時点から、老化が始まる。南米賢者の死因も、老衰だよ」

「なんで嘘吐いてたんです? 神主と差別化する為ですか?」

 キースがめげずに更に問うと、千春は彼を睨んだ。乃木はいつ振られるかとはらはらしながら、俯いて耳だけを傾ける。

「不死の者が増えたら、いずれ世界は変わる。私達には、永遠に生き続けても果たせないような使命があるからいいが、不死が普遍化したら、人は世界に飽きるだろう。老いる事が、余計に恐ろしくなるだろう。神はそれを、恐れていた」

「人口を増やさないといけませんでしたからね」

 芙由が口を挟むと、千春は頷いた。

「神はね、人である事を忘れかけていた。必死で国を建て直したが、それに尽力するあまり、自分を省みる事を忘れていたんだ。肉親が死に、兄弟が死に、近しい血縁者が誰もいなくなった頃、やっと孤独を思い出した」

 孤独は恐ろしいだろうと、乃木は思う。乃木自身、怖くて堪らなかった。

 しかし千春も芙由も、それに耐えた。耐えきったからこそ、今も生きている。否、同じように死なない者が周りにいたからこそ、耐えられたのかも知れない。

「神が私を見初めて下さったのは、その頃だよ。私は当時から、大社に勤めていてね」

「馴れ初めは初めて聞きました」

 芙由が呟くと、千春は笑った。

「言わなかったからね」

 乃木の胸に、不安にも似た予感が浮かぶ。何故千春は立場が上である筈の芙由に対して敬語を使わないのだろうと、確かに疑問は抱いていた。誰も聞こうとしなかったし、乃木自身、聞くのも失礼に当たるような気がして、敢えて問うような事はしなかったが。

 千春は薄い一重瞼を伏せて、視線を落とした。

「私は神の妻だった。初代神主は神の子だよ。現神主、そこの那津仁なつひとは三代目。康秋やすあきは那津の弟だ」

 キアラが弾かれたように、乃木を見た。まじまじと見詰めてくる彼女に何も言えず、乃木は苦笑いする。部下だと思っていた人物が神主の弟となれば、驚きもするだろう。

 乃木本人に、自覚はない。三つ年上の兄が実家で暮らしていたのは乃木が高校に入る前までで、彼が家を出る時になって、親が神主だという事を知った。だから兄を神主として見た事は一度もないし、今でも、兄は兄だと思っている。

 そもそも乃木は、千春が曾祖母に当たる事も知らなかった。芙由は初代神主の娘だと思っているから、彼女と血が繋がっている事は知っていたが。

 一方逆隣のキースは胡散臭そうに乃木を一瞥した後、身を乗り出して片眉をひそめる。驚いているのか訝っているのか、よく分からない反応だった。

「乃木の名前初めて聞いたっつーか、代替わりしてたんですか」

「血が薄れたら、寿命も来るようになるかも知れぬだろう」

 ううんと唸って、キースが耳の裏を掻いた。何かが引っかかっているようだが、乃木も同様に、疑問を抱いていた。

「芙由様は結局、初代のお嬢さんなんですか?」

 少なくとも、乃木はそう思っていた。しかし千春は、左右に首を振る。どこか楽しそうな彼女に、乃木は薄気味悪ささえ覚えた。

「違うよ、初代神主の妹だ。双子のね」

 キースが言葉を失った。キアラは先程から唖然としたままだし、乃木も驚く。

「神の子なのだよ、芙由は」

 千春が補足しても、キースは黙り込んだままだった。乃木は彼に同情心が芽生える。

 つまり、芙由は千春の娘なのだ。芙由と乃木以外、誰も聞こえなかったであろうキースの言葉を反芻する限り、これから先彼の前に立ちはだかる障害は、千春という事になる。それは恐ろしい。乃木なら諦める。

「……ジーザス」

 意味の分からないスラングを呟いて、キースはソファーの背もたれに頭を乗せた。天井を仰ぐ彼を横目で見た芙由が、小馬鹿にしたように鼻で笑う。

「神主の娘と偽っていたのは、神が死んでいると気付かれない為と、顔が見える者を据えておく為だよ。下々に不審がられないようにね。芙由は連絡係のようなものだ」

 キースは額を掴むようにして頭を抱え、天井を仰いだまま乾いた笑い声を漏らした。

「入念なこって」

「その為だけではありませんでしたが」

 落ち着いた声で芙由が言うと、キースは背もたれに頭を乗せたまま、彼女を見た。芙由は冷めた目を彼に向けたが、目が合うとすぐに逸らす。ちぇ、と拗ねたようにキースが呟いた。

 黙り込んだままの兄は、感情の読めない無表情を保っていた。乃木は母親に似たが、彼は先代神主である父に似た。だからどことなく、眼差しが芙由に似ている。

 この世界を建て直した神の血が、この身に流れている。そもそも祖母が神の子だと知らなかったから、当然自覚はなかった。事実を聞いて、こうして血族と一同に介してみて、やっと実感が湧いた。確かに、皆面差しが似ているのだ。けれど、それが誇らしいとも思わない。

 自分は自分でしかない。神の縁者とは知らず、乃木はそれらと何ら関係のない所で生きてきた。実感が湧かないのもそうだが、今更自分がそんな存在だと知っても、変わりようもない。今までに築き上げて来た自分が、乃木の全てなのだ。

 乃木は横目で、キアラを盗み見る。俯いた彼女は、考え込むような表情を浮かべていた。突然こんな話を聞かされて、動揺しない筈もないだろう。今はこの中で彼女だけが、異質なのだ。彼女にだけは永遠の命もなく、神の血族でもない。

 自分の事を知って欲しかったから、乃木はキアラを連れて来たが、彼女にとっては、全てが青天の霹靂だったろう。謝るか否か迷っている内に、粗方話し終えてしまったのか、千春が細く息を吐いた。ハイバックのチェアーに背を預けた彼女は、すっきりした顔をしている。

「神はね、全てを忘れた人々に、人である事を思い出して欲しかった。生きる喜びを、命ある事の尊さを、思い出して欲しかったのだよ」

 今もこうして、生きていること。それがどんなに有り難い事か、ついこの間まで戦場にいた乃木には分かる。進む事を止めた世界に、神が何を一番に思い出して欲しかったのか、今なら分かる。

 虚空を見つめる千春の目は、何も見てはいなかった。遠くを見るような目が、僅かに揺らぐ。

「世界を変えよう。人ならざる者であった私達の為に、一人で行けるようになった人々の為に。人が賢者を必要としなくなった今が、神の手を離れる時期なのだ」

 どこか感慨深げに言い切ると、千春は緩慢な動作で席を立った。見上げる芙由の目と目が合うと、千春は赤い唇で弧を描く。

「芙由、今の内に話しておきなさい。またすぐに、忙しくなる」

 芙由は応えなかった。代わりに那津仁が立ち上がり、ソファーから離れる。兄に目配せされてやっと、千春が何を言ったのか理解し、乃木も立ち上がった。

 千春がドアを開けて廊下へ出ると、那津仁がそれに続いた。乃木は俯いたままのキアラを見下ろして、声を掛けようと口を開く。

「……あ」

 しかし促す前にキアラが席を立ったので、結局何も言えなかった。頼りなげな視線が一瞬乃木を見て、すぐに逸れる。

 乃木は彼女に何と言ったらいいのか判じかね、声を掛けずにその場を離れる。廊下へ出ると、千春と兄が並んで待っていた。

「悪かったね、黙っていて」

 謝る千春に、乃木は左右に首を振って見せた。知るべきは本来神主である兄だけだった筈だから、寧ろ教えて貰えた事を感謝しなくてはいけない。

「いいんです。同席させて下さって、ありがとうございます」

「あの」

 背後から掛けられた声に振り返ると、キアラが俯いたまま立っていた。抜けるように白い顔が、心なしか青ざめている。何かを堪えるような、苦しそうな表情だった。

 乃木は彼女の表情を見て顔をしかめ、眉尻を下げた。動揺しているのだろうか。そうだとしたら、まず謝らなくてはいけない。

「……小隊長?」

 おずおずと声を掛けると、キアラは眉根を寄せて唇を引き結び、その場に片膝を着いた。驚いて後ずさる乃木の足下で、キアラは握った拳を床に当て、頭を下げる。

「弟御とは知らず……申し訳ありませんでした」

 キアラの言葉の意味が、乃木には理解出来なかった。黙り込んだ乃木に頭を下げたまま、キアラは続ける。

「失礼な事を、何度も申し上げてしまいました。私……」

「僕は!」

 遮るように強く言うと、キアラは言葉を止めて、僅かに顔を上げた。猫のような目が揺れるのを見て、乃木は左右に大きく首を振る。体の横に下ろした手で、きつく拳を握った。

 戸惑うキアラにどんな言葉をかければいいのか、乃木には分からない。それでも、言わなければならない事は分かっている。

「僕は、僕です。乃木康秋です」

「しかし……」

「僕はただの軍人です。兄と違って、国を背負ってるわけでもなんでもない。あなたの、ただの部下です」

 言って、乃木はその場に両膝を着いて座り込んだ。キアラと目線の高さを合わせ、笑って見せる。

 乃木と目を合わせたキアラは、不安そうに眉尻を下げていた。この人の為に戦いたいと、乃木は思ったのだ。国の為ではなく、大事な人の為に戦いたいと、そう思えた。だからこそ、戦場で逃げずにいられた。

「キアラさん。僕には、国を守るなんて大それた事言えないんです。知っての通り、情けないですから」

 そばかすの浮いた白い頬が、微かに赤らんだ。彼女のこういうところを、乃木は可愛いと思う。

 乃木がキアラを名前で呼んだのは、初めてだった。不思議と気恥ずかしくはなかったし、臆する事もない。ただ、温かな感情が胸を満たす。

「だから僕は、あなたを守りたい。国とか仕事とか抜きにして、あなたを守りたい」

 キアラの目が、ゆっくりと見開かれて行く。反対に目を細めて、乃木は大きく息を吸い込んだ。

「あなたが、好きです」

 結局言えなかった言葉を、乃木はようやく口にした。目の前で真っ赤に染まって行くキアラの顔を見ながら、満足感に浸る。伝えられただけで、充分だった。

 しばらく目を丸くしたまま呆けたように口を開けていたキアラは、唐突に眉根を寄せ、唇を引き結んだ。それから立てていた片膝を下ろし、床に正座する。握った拳はそのまま、膝の上に置かれていた。乃木はつられて正座する。

 キアラは更に俯いて黙り込んだ後、ふと口元を緩めた。徐々に上がって行く口角と、泣き出しそうに細められた目を見た乃木の胸に、小さな灯が点る。

 やがて顔を上げたキアラは、笑っていた。乃木が光を見て、恋をした、いつもの笑顔だった。薄い唇が開いて白い歯が見えると、乃木は思わず身を乗り出す。

「私も、君が好……」

 言い終わる前に、乃木の腕はキアラの頭を抱えていた。目を丸くして瞬きばかりを繰り返すキアラの頭に鼻先を埋め、乃木は喜びに胸を震わせる。

 そして彼はその後、背後で一部始終を見ていた千春と兄に、散々馬鹿にされる事となる。

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