第八章 一つの終焉 八
八
乃木には、状況が掴めなかった。大社へ着いてみたら既に雨の部隊がいて、観測所には何故か賢者がいた。近付いてみたら、戦車の上には全ての元凶までいた。更に元師団長まで出て来て、乃木は混乱するばかりだ。
日に焼けた少年のような顔をしかめ、乃木は観測所を見上げる。笹森千春はどこか辛そうに柳眉を歪めて、下界を見下ろしていた。頭の高い位置で結われた黒髪が、風に靡いて曲線を描きながら揺れる。白の単衣に緋色の袴、羽織った紫の表着までもが風を孕み、ふわりと舞っては萎んだ。
切れ長の目尻は、悲しげに下がっていた。紅を引いた薄い唇は引き結ばれ、口元のほくろが、普段の位置よりずれて見える。苦しげな彼女の表情を見ていられずに視線を逸らすと、戦車の上で硬直する青年が目に入った。
キース・カークランドは煙草を銜えたまま目を見開き、身を乗り出していた。深い二重の目も髪も黒いが、目と眉が近いのと彫りの深い顔立ちで、白人と分かる。海軍指定の黒のダブルも白の制帽も、珍しく着崩されていない。それよりも、乃木には彼が常服でいる事が不思議に思えた。
「……あんた、なんで」
癖のある低い声が、静寂に響く。彼の視線の先、正門の前には、軍刀を手にした戸守芙由がいた。
抜けるように白い顔の無表情は、普段と何ら変わりない。長い睫毛も小振りな桜色の唇も、変わっていない。吸い込まれそうな程澄んだ漆黒の目も、変わらぬ強い光を宿していた。しかし彼女は、前線を離れた筈なのに、陸軍指定の戦闘服を着込んでいる。
目の上で一直線に切り揃えられた前髪と、背中で一つに結ばれた長い黒髪が、風に靡く。砂色の戦闘服の上からでも、豊かな胸は際立って見えた。
「なんでそんな……なんですか、その格好」
「貴様こそなんだ、首に昆布締めなんぞ巻いて。全く似合わんな」
ああ、いつもの芙由だ。美貌に似つかわしくない悪態を聞いて、乃木は肩を落とした。
キースは驚いたように二三度忙しなく瞬きした後、煙草を車体に押し付けて、火を消した。それを投げ捨てながら、端正な顔を歪めて苦笑いする。安堵したようにも見えるその表情を、乃木は怪訝に思う。
「軍人ですから」
「だから何が軍人だ。賢者である事を利用してここまで来た輩が、一体何を言っている」
キースの鋭い双眸が細められ、睨むような目つきになった。それでも芙由は、顔色一つ変えない。
「お前が軍人として来たつもりなら、そう思っていてやろう。だが、そんな事はどうでもいい」
一呼吸置いて、芙由は睨む視線に対抗するように目を細めた。
「お前達が内戦を仕掛けた最初の理由は、何だった? 出雲への反抗だっただろう」
ついさっきまで騒いでいた雨の軍人達は、すっかり大人しくなっていた。芙由の言う通り、雨支部が内戦を仕掛けた理由は、出雲の命令を聞いていたくなかったからだ。何も言えはしないだろう。
キースは暫く芙由を睨んでいたが、やがて胸ポケットを探り、煙草を取り出した。そこから一本抜き取って、火を点ける。
「それはただの理由です、目的が政変なんですよ。だから俺は、軍人として来たって言った」
「詭弁だな」
「武力に理屈は通用しねぇんだ、分かってんでしょう」
タバコの濃い煙が、キースの口と火種から立ち上る。少し離れた位置にいる乃木の鼻にも、強い脂の臭いが届いた。
「だったら何だ」
落ち着いた芙由の声に、キースの顔が憎々しげに歪められた。戦車から飛び降りた彼は、真っ直ぐに芙由の下へ歩み寄る。芙由は逃げもせず、視線を逸らそうともしない。
長身のキースを見上げる芙由の目は、あくまで冷ややかだった。キースは眉間に皺を寄せ、睨むような目で、首の位置にある芙由の顔を見下ろす。
「聖女はすっこんでろって言ってんだよ」
さざ波のように、雨兵達がざわめいた。聖女と言われれば、誰でも分かる。しかし今の芙由が着ているのは、陸軍指定の戦闘服だ。
軍事機密を口外したキースにも、芙由は表情を変えなかった。聞いている筈の千春も何も言わないし、咎めもしない。芙由の人形のような無表情が、乃木には恐ろしくさえ思える。
ふと横の小隊長を見ると、彼女はそばかすの浮いた白い顔をしかめて、俯いていた。長い前髪ごと一つに括られた明るい赤褐色の髪は、少し風が吹く度に揺れる。形の良い唇が引き結ばれ、白く変色していた。
キアラ・ベルガメリは乃木の視線に気付くと、彼を見て微かに笑った。しかし猫のような淡いグリーンの目は、不安げに揺れている。長身の彼女を見上げたまま、乃木は顔をしかめた。
「私は自衛陸軍出雲本部中将。軍人だ。お前と同じくな」
芙由はしっかりと、そう言いきった。兵士達のどよめく声が、一層大きくなる。
「聖女じゃなかったんですか?」
「その地位は捨てる。戸守の名もな。お前達が負けを認めればの話だが」
誰かが驚いた声を上げたが、芙由が一睨みすると、すぐに静まった。
「政変だと? 笑わせるな。話し合いもせずに手を出し、あまつさえ後付けの理由を持ち出して、内戦を正当化した。お前達は国に甘える幼児に過ぎん」
キースは何も言い返さなかった。言い返さない代わりに、悪態を吐いた兵士を睨む。
キースは負けを認めも、言い返しもしない。これもまた、膠着状態と言うのだろう。黙ってキースの言葉を待っていた芙由は、彼が何も言わないと見るや、小さく溜息を吐いた。
「武力は武力でしか止まらん。槍は使えるか、カークランド」
芙由は刀を持っていた左手を上げ、右手で柄を握った。両手に力が篭もり、左右へ分かれる。
「終わりにしよう」
鞘から抜かれた刃は、冬の冴えた日光を受けて、鋭く輝いていた。銀色の刃に視線を落として、キースが笑う。
「カタナでいいですよ」
「……使えるのか」
キースは煙草を吐き捨てて踏み消しながら、人差し指で自分の頭をつついた。芙由が鼻を鳴らし、正門を振り返って腕を伸ばす。正門についた出入り用の扉から顔を出した衛兵が、芙由の手に軍刀を渡した。
いつの間にか、千春が正門の外に出て来ていた。城塞に背を預け、僅かに顔をしかめている。彼女はまだ、見守るだけのつもりなのだろうか。それが賢者の仕事とは言え、この状況で見守るだけというのも、彼女の性格的に有り得ないような気が、乃木にはした。
受け取った刀をキースに投げ寄越し、芙由はキアラに目配せした。意図を察したのか、彼女は部下達を振り返る。
「場所を空けて」
キアラの声に、雨の兵を含めた全員が散った。あれ、とキアラが呟く。雨兵にまで言ったつもりはなかったのだろう。そもそも、向こうまで道を空けるとは乃木も思わなかった。
雨の戦車部隊の後方、二車線ある広い道路の両脇に、雨と出雲それぞれの部隊が並んだ。わざわざ整列する必要はないのだが、お互い条件反射だろう。場所が空いたところで、戦車の間を抜けて、芙由とキースが正門前から出て来る。
六台の戦車から、それぞれ搭乗者が降りてきていた。歩兵と同じように道路脇へ並ぶ者もいれば、戦車に腰を下ろす者もいる。全員一様に怪訝な表情を浮かべているが、ただ一人、迷彩服の柄が違う黒人兵士だけは、思い詰めたように顔を伏せていた。あれは海軍の陸上戦闘服だった筈だと、乃木は首を捻る。
「覚えてますか、芙由様」
戦車が並ぶ正門側を背にして、キースが問い掛ける。懐古するような響きだった。
片手に鞘、片手に刀を持った芙由は、何も答えない。返答を期待してはいなかったのだろう、キースは彼女の言葉を待つ事なく、再び発声した。
「二年前の今日、俺はあんたにフラレた」
乃木は思わず、え、と呟いて、隣の北村と顔を見合わせた。泥団子のような彼の顔も、驚愕を示している。逆隣にいたキアラを見ると、彼女もぽかんと口を開けていた。
しかしそれでも、芙由は表情を変えない。無表情を保ったまま、にやけたキースと向き合っている。
「日にちまで覚えているのか。気持ちの悪い男だな」
脱力するキアラが、乃木の視界の端に映った。乃木は今から何をしようとしているのか、一瞬忘れる。
「……なんでこう緊張感ないんだろう」
「最後の戦いなど、そういうものさ」
真後ろから聞こえた声に驚いて振り返ると、そこには千春がいた。キアラが弾かれたように敬礼したのを皮切りに、呆然としていた同僚達が一斉に姿勢を正して片手を額に当てる。千春はそれを制するように、掌を下に向けて軽く振った。
「気張っても勝敗は変わらぬ。気楽に見ているといい」
「気楽には見られません……」
しかし呟いた乃木の肩からは、力が抜けた。芙由も千春も、全く緊張感がない。
けれど、そんなものなのかも知れないとも思う。緊張して余計な力が入るよりは、気楽にしている方がいいのかも知れない。乃木は今までも、緊張して胃が痛くなる事がままあった。それよりはましだろう。
「相変わらずお前は臆病だね」
「すいません……」
事実だから千春の揶揄に言い返す気もなく、乃木は肩を落として謝った。千春はどこか楽しそうに笑う。
「だが、いい顔になった。揉まれたな」
乃木はしばらく自分の顔を見ていなかったので、自分の変化など知る由もない。驚いて目を丸くし、二三度瞬きした。満足そうな千春の笑顔が、彼には不思議に思える。
戦場で揉まれ、戦場で恋をして、戦場で決意した。護りたいものがあって、守りたい人がいる。この国を守りたいと、本音から言えるようになった。千春の言う変化は、乃木のそういった心境の変化から感じ取ったものなのだろう。
「はい。ありがとうございます」
千春はゆっくりと頷いてから表情を引き締め、道路で対峙する二人へ顔を向けた。真正面から向き合う彼らは、一定の距離を保ったまま、動こうとはしない。
「忘れやしませんよ」
ジャケットを脱ぎながら、キースはそう言って笑った。どこか寂しそうな笑顔に、乃木は違和感を覚える。
片手でネクタイを外したキースは、ジャケットと一緒にそれを丸めて、戦車の上にいた黒人兵士に投げ寄越した。難なく片手でそれを受け取り、兵士は小さく頷く。
彼はキースの部下なのだろうかと、乃木は思う。何故海軍の兵士がいるのかと思っていたが、そう考えれば納得出来る。
「あんたの事は、忘れません」
「私が死ぬような言い種だな」
嘲笑した芙由の手元で、白銀の刃が煌めく。この勝負を決めるのが生死なのだと、乃木はそこでようやく理解した。
彼らの間に何があったのか、乃木は知らない。芙由は表情が変わらないので、傍目から推し量る事も難しい。しかしキースの表情を見る限りでは、他人が踏み入ってはならない何かがあったのだろうと、乃木には思える。感情を放棄したような芙由の無表情が、今は悲しくも思える。
「生きるか死ぬか、それしかないでしょう」
「どちらかだとしても、死ぬのはお前だ」
キースは肩を竦めて下を向き、笑い声を漏らした。吐き捨てるような声が、静寂に包まれた場にやけに大きく響く。乃木には彼のその声が、呆れたようにも、悲しげにも聞こえた。
「あんたのそのひ弱な腕で、勝てると思ってんですか?」
単純に見て、技術なら芙由が上だろう。しかしキースには記憶があるし、力もある。傍目にも、彼の方に分がある事は明白だ。彼の言は尤もだが、それでも乃木には、芙由が負けるとはどうしても思えなかった。
芙由が負けるところが、乃木には想像出来ない。大昔の事は知らないが、今まで芙由が率いてきた部隊は、演習でも負けた事がないという。
それでも、不安は拭えなかった。負ける気がしないのに、胸の内に湧いた不安が瞬く間に膨れ上がり、乃木の軟弱な胃を圧迫する。出雲が負ける事があってはならないという、その切迫感が、乃木を緊張させていた。自分が戦う訳でもないというのに。
「力だけで勝敗が決するとでも、思っているのか?」
「力の勝負じゃ、力が全てですよ。ヤリは銃に敵わねぇ」
芙由の目が、一瞬細められた。しかし眉間に寄った皺はすぐに消え、元の無表情に戻る。その一連の表情の変化が、乃木の目には取り繕ったように見えた。
「力だけで私に勝てると思うな。記憶頼りの賢者が」
「実際こんなモン使った事ありませんから、条件は一緒ですよ。勝てるとは思ってねぇ」
言いながら、キースは鞘を外して道路脇へ投げ捨てた。芙由は左手で鞘を握ったまま体の前で刀を立て、片手で構える。
「まだ、死にたいのか?」
それまでの会話とは、全く繋がらない問い掛けだった。挑発とも取れたが、それとはニュアンスが違うようにも感じられる。感情の籠もらない声が、乃木には憂えているように聞こえたのだ。
キースは勢い良く息を吸い込み、呼吸を止めた。見開かれた目から、彼には芙由の言葉の意味が分かっているのだろうと、乃木は思う。
暫しの間の後、キースは鼻を鳴らした。
「……さぁね」
「そうか」
両者の間に漂っていた空気が、俄かに緊張した気配を見せる。芙由の目が細められ、キースを睨んだ。
「死なせてやる。私が、この手で」
乃木の全身に、鳥肌が立った。怒りも悲しみも押し込めたような芙由の声に、それとは全く違う類の感情を、聞いてしまったせいだ。胸の内に凝っていた感情が喉元までせり上がり、乃木は大きく息を吸い込む。
覚えのある感情だった。胸を焦がした炎が吐息を焼き、熱く変える。芙由は確かに、何かを堪えていた。乃木は確かに、その感情を知っている。そして、思う。
どうして、こんな事をしなければならないのだろう。
「止められないんですか!」
悲鳴じみた声で乃木が叫んだのと、甲高い音が響いたのは、ほぼ同時だった。乃木は一瞬その音の出所が分からなかったが、体の前へ横一文字に刀を構えてその場から飛び退いたキースを見て、刃同士がぶつかった音なのだと気付く。
上半身を僅かに倒して姿勢を低くしたまま刀を振り抜いた芙由が、すぐさま刃の向きを変える。一旦離れたキースに向かって一歩踏み込みながら、下段から斬り上げた。頭を傾けて切っ先を避けたキースの腕が上がり、芙由の肩口目掛けて刀を振り下ろす。芙由は右腕を引いて左手を右肩まで上げ、鉄の鞘で刃を受け止めた。刃が鞘にぶつかった瞬間軋むような高い音と共に、芙由の腕が揺れる。
勢い付いたキースの腕に押される前に左腕に力を込め、芙由は鞘を振って刀を振り払う。同時に右手の獲物を、キースの頭目掛けて打ち下ろす。
柄尻に左の掌を添え、キースは腰を落として、迫り来る刃を頭上で受け止めた。芙由は勢い付いた刃が跳ね返されるに任せて手元に獲物を引き戻しながら、舌打ちを漏らしてその場から飛び退く。
瞬間、キースが大きく一歩踏み込んだ。足を出すと同時に突き出された刀の切っ先が、芙由の眼前へと迫る。細められていた目が大きく見開かれ、彼女の表情が驚愕に変わった。
乃木は思わず息を呑む。誰かの悲鳴が、微かに聞こえた。