第八章 一つの終焉 七
七
神が統べる大国の首都、出雲。この小さな島には国の政治を司る最高機関、大社が設置されており、周辺地域には軍事基地が多数置かれている。平素は訓練に励む兵士達の声で賑やかなこの界隈も、今はしんと静まり返っていた。連日降り続いていた雨もやっと引き、朝から顔を出した太陽の光が、濡れた地面を乾かしている。
広大な敷地内に鎮座する大社は、今や堅固な堡塁に四方を囲まれ、外側からは完全に見えなくなっている。大社の象徴とも言える竹林をぐるりと囲んだコンクリートの壁には装甲板が張り巡らされ、鋳鋼製の円形トーチカが等間隔に並んでいた。見る者に威圧感さえ抱かせる巨大な鋼鉄の正門は堅く閉ざされ、蟻一匹入り込む隙間さえない。
千春は要塞地下に置かれた近衛師団司令部で、カメラ越しに外の様子を見ていた。雨支部の戦車を映し出すモニターを、彼女は切れ長の目を細くして睨む。普段なら垂れている筈の目尻も、今日ばかりはつり上がっていた。
要塞の入り口は、雨支部の進攻部隊に塞がれていた。外では雨の軍人達が騒いでいるようで、スピーカーから絶えず怒号と罵声が聞こえる。
進攻部隊の先鋒が要塞に到着したのは、昨日未明の事だ。大社近辺で戦闘になっても問題だと、出雲側からは仕掛けずにいたし、向こうも流石に攻撃しては来なかった。
ところが双方出方を窺っている内に、気がついたら正門が塞がれていたのだ。とはいえ彼らが近くまで来た時点で、攻撃はされないだろうと、千春は思っていた。しかし怯えた議員達がなんとかしろと言うので、彼女はこうして要塞地下の司令部にいる。
急いては事を仕損じる。千春はそうして構えていたが、そろそろ焦らなければいけない所まで来た。
しかし肝心の交渉相手が、戦車の中に引きこもったまま出てこないのだ。千春は軍部の仕事には口出し出来ないし、彼女が指揮官と交渉する訳にも行かない。押し問答の末、現在はあちらの指揮官と近衛師団長が、不毛な言い合いを続けている。
「毛唐共が喧々囂々と……カークランドを出せと言っただろうが馬鹿共め」
「笹森補佐官、議会から攻撃要請が」
躊躇いがちに声をかけてきた通信兵を横目で睨み、千春は更に柳眉をつり上げた。青年は全身を硬直させ、その場で姿勢を正す。
「無視しなさい。神主殿は、この大社で死人を出すなと仰せだ」
通信兵は困り果てた様子で眉を下げたが、神主の決定は絶対だ。神主の許可なしには、銃座一つ動かせない。一触即発の局面にあって手が出せないとなると、彼らも不安になるだろうが、耐えて貰わなければ大社が沈む。
キースの目的は大方見当がついているから、出て来ない理由が分からない。ニコライが出て来たと思ったら今度はこちらかと、千春は内心呆れる。
「交渉はどうだね」
室内を振り返って誰にともなく問い掛けると、中央の長机で話し合いをしていた幹部達を含め、全員の視線が千春を向いた。部屋の隅に置かれたパソコンと向き合っていた通信兵が、プリンターから吐き出される紙を取りながら、モニターを覗く。交渉のやり取りは全て、あのパソコンに表示されるようになっている。
「神と神主を出せの一点張りです。それでなければ出雲賢者をと」
「聖女はいいのか。なら私が行こう」
千春が言うと、長机で議論していた幹部が数人、弾かれたように立ち上がった。
「笹森補佐官、奴らの思い通りにしてやる必要はありません」
「ここはなんとか、我々が」
千春は詰め寄ってきた彼らを見上げて、鼻で笑いながら席を立った。高い位置で結われた黒髪が、立った拍子に体の前へ落ちる。スピーカーから流れる喧噪が煩わしい。
応じる応じない以前に、敵部隊の注意を、大社へ向けさせておかなければならないのだ。もうすぐ、事前に呼んでおいた出雲の部隊が到着する。
「文官にしか出来ぬ事もある。とにかく今は、北米賢者を引っ張り出さねば始まらぬだろう。神の駄犬だの黄色猿だの、言われっ放しでは私とて腹も立つよ」
幹部達は一様に、複雑な表情を浮かべていた。スピーカー越しに聞こえる低俗なスラングには、彼らも閉口していたのだろう。
暫くの間の後、参謀長が長机の端に立ててあった拡声器を取り、千春に歩み寄る。両手で恭しく差し出された拡声器を受け取りながら、千春は頷く。彼とは少し面識があったから、千春の性格を少しは理解しているのだろう。
「正門横に、観測所があります。監視には、私から言っておきましょう。挑発するのなら、程ほどに」
「攻撃されない程度にするよ。どうせ奴らに、大社を攻撃するような度胸はないがね」
司令部を出ながら、千春は足音が響く廊下を見下ろす。この足下が揺らぐような事は、一度たりともなかった。常に堅固であり続け、壊れる事は絶対にない。悪口雑言を吐かれる事には慣れているし、戦車も怖くない。何も恐ろしいとは思わない。
ただ、変化が怖かった。これが終われば、全てが変わる。守ってきた全てが変わって、新しい道を歩むようになる。
千春はまだ、その道をどう進めばいいのか、判じかねていた。人がそれを望むようになったなら、変えてやるべきなのだと、神は言った。納得はしたし覚悟もしていたが、いざその時になってみれば、やはり臆している。
国を支える千春も、支えられて立っている。彼女を支えていたのは、掛け替えのない国の根幹だった。何物にも代え難い、いとおしいもの。
それも今は、変わろうとしている。根が変わるのなら、幹も枝葉も、変わって行くのだ。国を作り上げるのは政治家ではなく、そこに住む人々だ。そんな当たり前の事に気付くのが怖くて、見ない振りをしていた。自分の無力を思い知らされる事が、怖かった。
「お疲れ様です、笹森補佐官」
観測所へ向かう階段を上ると、屈んでいた兵が立ち上がって敬礼した。千春は彼に軽くご苦労様と返し、階段を上りきる。要塞内の観測所はそれというよりも、灯台のようだった。
偵察兵が外に面した鉄扉を開くと、目の前に青空が広がった。全身を冷えた風が撫で、被服をはためかせる。これでは観測所ではなく櫓だ。
胸の高さまである柵を掴み、千春は身を乗り出して下を覗く。堡塁の外側、眼下には、六台の重戦車が並んでいた。その後ろに二個小隊規模の歩兵部隊がずらりと控えており、千春は思わず赤い唇を歪めて笑う。
「人がゴミのようだな」
「は?」
なんでもない、と呟いて、千春は髪を背中へ跳ね除ける。冷えた風に吹かれてはためく袖を押さえながら、拡声器を口元に当てた。雨の軍人達は、相変わらず喧しく騒いでいる。
「聞け愚民共」
千春の第一声に、傍らにいた兵が小さく悲鳴を上げた。喧噪が一瞬止み、地上にいた兵士達が一斉に上を向く。千春は奇妙な高揚感に、また笑った。高い所に上ると、楽しくなってしまうのだ。
「ち、挑発しないで下さい補佐官!」
慌てた声に、千春は笑みを絶やさぬまま、視線を監視の兵へ移す。狼狽しきった表情が、面白かった。
「いいじゃないか。お前も、言われっ放しは腹が立つだろう」
「だからって……」
こわごわ地上を見下ろした兵は、情けなく呻いてその場に屈んだ。視線から隠れようとしているようだ。そんな彼を見て、千春は乃木を思い出す。
突如現れた賢者を見上げる兵士達は、指を差して口々に何事か喚いていた。はっきりとは聞こえないが、声質から怒っているのだと知れる。散々馬鹿にされて怒っているのは、こちらも同じだ。
「静まれと言うのが聞こえぬのか? それとも、私が誰なのか分からぬか」
拡声器越しに、高いような低いような微妙な音程の声が響き渡る。俄かに静まった地上では、兵士達が各々隣の兵と、小声で何事か言い合っていた。小学校の朝礼のようだと、千春は思う。あちらの方がまだ静かだろう。
「神も神主も、貴様等如きが目にして良いものではない。さっさとカークランドを出せ」
「何が神だ!」
怒鳴り声が、冷えた空気に拡散して千春の耳に届く。拡声器を口元から離し、彼女はすっと目を細めた。
「神がどうした、神がいるなら出てこさせろ!」
腹の底からのがなり声に、千春は更に顔をしかめた。言葉自体に対して浮かべた表情ではない。
人は忘れたのだろうか。この世界の失われた記憶を伝えてくれた人を、もう歴史上のものとしてしまったのだろうか。国の体制を変える決意はしていたが、千春には、それが寂しくもあった。
戦車部隊の後方、歩兵部隊の先頭にいた戦車の中から、拡声器を持った黒人兵士が顔を出した。遠すぎて階級章は確認出来ないが、この状況で出てきたという事は、隊長格だろう。後ろの歩兵達とは、戦闘服の迷彩の色合いが微妙に違う。
「ご足労頂き、ありがとうございます。出雲賢者殿」
流暢な出雲語だった。他よりは話が通じそうだが、頭が硬そうな話し方だ。
「お前は呼んでいない。私はカークランドを出せと言った」
「失礼ながら、艦長があなたとはお話ししたくないと」
千春の顔が引きつった。キースはこの期に及んで私情を持ち出すのかとも思ったが、そもそもこの内戦の発端も、私情のようなものだ。指摘するのも今更だろう。
その口振りから、彼はキースの部下なのだろうと千春は思う。それが何故陸と一緒になって戦車に搭乗していたのか、理解に苦しむ。雨の軍部はどうなっているのかと呆れもしたが、言わなかった。
「神と直接対話したいと言うのかな?」
「その通りです。神がこちらにいらっしゃらないのなら、待たせて頂きますが」
「ここにいたとしても、お前達がお会い出来るような方ではない。永遠にそこで待っていろ」
足下に屈んだ出雲兵が何か言っていたが、地上で湧いた罵声の嵐にかき消され、千春には聞こえなかった。歩兵達は逐一怒っているが、拡声器を持った士官は、動揺する素振りすら見せない。ああでなければキースの補佐は勤まらないだろうと、千春は場違いにもそう考える。
「失礼ながら、神がそこまで尊い方とは、私には思えません」
ほう、という感嘆とも驚嘆ともつかない千春の声を、拡声器は拾わなかった。
「何故だね」
「神が建て直したこの世界は、以前と何ら変わりない。差別があり、争いがある。それを止める術がない。神の定めた制度に不備があるからではないかと、私は思っております」
士官は厳かに、しかし力強く言った。兵士達の声が、それに同調するかのように大きくなって行く。千春が応えないと見るや、士官は再び口を開いた。
「神が私達に、何かして下さいましたか? この世に神の庇護はなく、神は名前だけの存在となり下がりました。神が統治する意味など、今のこの世にはない」
「お前は学校を卒業したら、恩師への尊敬心は忘れるのかな?」
士官は黙り込んだ。罵声がさざ波のようなざわめきに変わり、千春は口角を上げる。彼らの行動理由は、結局反抗でしかなかったのだろう。
だからキースを出せと、千春は言ったのだ。交渉しようにも、まるで話にならない。
「神はこの世界から宗教をなくし、代わりに道徳を説いた。宗教戦争は知っているね?」
柔らかく問い掛けても、士官は答えない。千春は聴衆から視線を逸らし、大通りの方へ移した。近付いて来る出雲の装甲車が、遠くに見える。
もう少しだ。もう少しで、役者が揃う。
「慣習も文化も昔のまま、神は世界の安寧と調和を願って、一つの国とした。世界の人々に記憶を伝えるだけでも、大変な労力を要した筈だ。神が宿命から逃げずに導いて下さったお陰で、今の私達がある」
今の世界に、神は必要ない。それは理解している。それでも、伝えなければいけない。神がそうしたように、千春もまた、この世界の歴史を正しく伝えなければならない。
神が忘れられない為に。人々の心に、少しでも長く根付いていてくれるように。他ならぬ自分自身が、忘れないように。
「神は永遠に出雲に在り、世界を見守っておられる。神は何ものにも干渉しない代わりに、何ものも害しはしない。人が神に頼らず生きて行けるように、神は隠遁したのだ」
「傲慢ですよ、笹森補佐官」
癖のある低い声は、辺り一帯によく通った。千春は視線を黒人士官から外し、手元の柵へ落とす。
観測所の死角に当たる位置にいた戦車から、黒のダブルを着た細身の青年が飛び降りた。彼は千春から見える位置まで出て来ると、片手で白の制帽を被り直す。もう片手には、拡声器を持っていた。
見上げて来る顔は、相変わらず若気ていた。しかしその鋭い双眸は、千春を睨んでいるようでもある。
「聞いたでしょう、あんたも分かる筈だ。その場凌ぎの説教なんざ、クソの役にも立たねぇってな」
キースは皮肉めいた笑みを口元に浮かべ、拡声器越しにそう言った。漸く出て来たはいいが、あの男を言いくるめられるかと言うと、千春にも自信はない。
出雲の装甲車は、もう大分近くまで迫って来ていた。いや、二三人が降りてきているのを見る限り、停止しているのだろう。
「説教をするのが私の仕事さ。お前は何をしに来た」
「そういう制度を変えて頂きに」
「それで戦車を引っ張ってきて、武力行使かね? まるで子供だな」
キースは顔色を変えなかったが、歩兵達は口々に悪態を吐いた。黙り込んでいた黒人士官が、口元に拡声器を当てる。彼が雨語で黙れと怒鳴ると、場が一瞬にして静まった。
「子供ですよ。あんたから見りゃ、皆子供でしょう」
「そんな図体の大きい子供を、何十人も持った覚えはないよ。いいかねこの穀潰し」
続く言葉を促すように、キースは首を傾けた。その表情までは、千春からは見えない。
「後ろから、お前が救った人が来る。攻撃はせずに道を開けなさい」
キースは弾かれたように振り返って苦い表情を浮かべ、手近な戦車に上った。歩兵達も同様に振り返り、怪訝な声を漏らす。
装甲車から降りた出雲の歩兵達が、隊列を組んで近付いて来ていた。全員武装解除しており、鉄帽さえ被っていない。万が一の事があった時、彼らに戦わせない為だ。ああしておけば、キースは攻撃させないだろう。
「……キアーラの隊か」
キースの呟きは、千春には届かなかった。拡声器を口元に当て、彼女は近付いて来る小隊に声を掛ける。
「さっさと来なさい!」
慌てて駆けてくる出雲兵を見た雨の歩兵達は、キースへ向かって口々に何事か言っていたが、彼は首を横に振るばかりだった。舌打ちの音を、拡声器が拾う。
「何のマネです?」
道を開けるよう促しながら言ったキースの剣呑な声に、千春は聞こえるように笑った。
「特に意味はない」
キースは再び苦い顔をして、黙り込んだ。暫しの間の後、雨兵が開けた道を通ってすぐ側まで来たキアラを見て、彼は曖昧に笑う。キアラは複雑な表情を浮かべ、小さく会釈した。
キアラの横には、真っ直ぐに千春を見上げる乃木がいた。千春は彼に笑いかけるが、乃木は硬い表情を崩さない。千春の表情など見えないだろうし、あんな所にいては、緊張もするだろう。
戦車の上に腰を下ろして煙草に火を点けたキースを見て、千春は彼が何も言わない内に、口を開いた。
「で、お前の望みはなんだったかな?」
キースは億劫そうに顔を上げ、眉間に皺を寄せた。知り合いが来た事で、彼も少しは動揺したのだろう。彼は案外、情に厚い男なのだ。
キースの性格上、知り合いがいる部隊を攻撃は出来ない。別段、千春はその為に彼らを呼び寄せた訳ではないが。
「政変ですよ。言いませんでしたか?」
「そんな建前上の理由は聞いておらぬよ。お前は何を思って、それを望む」
また、間があった。鋭いキースの目に、普段のような淀んだ光はない。
彼も、変わったのだ。濠にいる大洋の賢者も、変わったから政変を望んだのだろう。阿弗利加の賢者は今になって、出雲に反抗した州を宥めるのに躍起になっている。弱気だったアーシアが変わったのは、もう大分昔の事だ。陳も、ニコライも変わった。いつまでも変わらないのは、千春だけだ。
「この国にはもう、神が必要ないと思ったからですよ」
千春は目を伏せ、僅かに俯いた。彼までもが、そう感じていたのだ。揺るぎようのない事実を突き付けられ、彼女は憂える。
雨兵達が、また騒ぎ始めた。出雲兵と睨み合う者もいれば、野次を飛ばす者もいる。騒がしい部下達は無視して、キースは続けた。
「この国にはもう、神も賢者もいらないんですよ。笹森補佐官」
必要がない。同じ立場の者にそう言われ、千春は唇を噛んだ。
神は確かに、有用性を失った。けれど、まだやるべき事がある。賢者にはまだ、やらなければならない事がある。千春が恐れているのは、それを奪われる事だ。
生きる意味が欲しい。彼女が初めてそう思ったのは、賢者の制度が浸透しきって、国が落ち着いた頃だ。それまでは、そんな事を考える余裕さえなかった。
「人は自ら動く時代になりました。知識の助けを借りず、自分の意思で動く時代に」
千春に相談事を持ち掛ける人がいなくなったのは、何十年前だっただろう。出雲はどこよりも早く、変化を察知していた。どこよりも早く、自立したが故に。
何も言い返せる事はない。賢者が必要ないというのは、誰よりも、千春が一番よく分かっている。同じ立場の者に言われてしまっては、返す言葉も見付からない。
黙り込む千春を見て、キースは笑った。犬が威嚇するような、低い声。
「俺は軍人として、ここまで来ました。賢者なんてのは、もう……」
「何が軍人としてだ、この馬鹿が」
高くも低くもなく、耳に心地良い静かな声だった。しかしよく通るその声に、場が一瞬にして静まり返る。千春は苦々しく表情を歪め、深く深く、俯いた。
堅固な鉄扉に取り付けられた出入り用の扉が、ゆっくりと開いて行く。誰一人として一言も発せず、要塞内から外へ出た人物へ視線を注いでいた。
結局、任せるしかないのだ。この内戦に終止符を打てるのは、彼女しかいない。キースが出て来た以上、彼が動く理由が、彼自身望まなかった筈の政変である以上、千春には何も出来ない。
千春は震える溜息を吐き、下り階段に足をかけた。