表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神の国  作者:
62/73

第八章 一つの終焉 六

 六


 乃木は憤っていた。賢者が部隊を率いて進攻してきた事にも、退けと言う軍部にも。守らなければ、出雲が沈む。それなのに、後退しろとはどういう事なのか。上の考えが理解出来ないのはいつもの事だが、今回ばかりは腹が立って仕方がなかった。

 雨の音に混じり、ジェットエンジンの高い音が聞こえてくる。出雲の空に雨支部の戦闘機が飛び交うようになったのは、昨日今日の事ではない。雨の進攻部隊はもう、大社に肉迫していると聞く。それなのに、上は退けと言う。

 負けるのだろうか。本部は、降伏するつもりなのだろうか。本部側が押していた事は、戦場にいた兵士が一番よく知っている。それなのに、出雲は出雲を捨てるのだろうか。

「畜生……なんでだよ」

 頭を抱えた北村が、絞り出すような声で呟いた。前線から退き、拠点を捨てた第八連隊は、雨支部の進攻ルートから逸れた地域での待機を命じられていた。

 誰もが憤り、誰もが泣いた。何故待機なのかと激昂し、無闇に地団太を踏んでは、呆然とした。疲れもあったし、全員傷だらけだった。それでも、戦い続けようとしていた。

 出雲を守る為に、国の為に、従軍した。それなのに守るなと言われてしまっては、何の為に従軍したのか分からなくなってしまう。憤りよりは、動揺の方が大きかっただろう。時間経過と共に、それが怒りに変わってしまったのだ。

 一時的に駐留した街の一角、無人になったビルの中で、今は雨を凌いでいた。アスファルトを叩く雨の音が、銃声にさえ聞こえる。

「大社は、出雲をどうするつもりなんだよ……」

 疲れ切った誰かの声が、嘆く。何も出来ない悔しさを堪えるように、乃木は下唇を噛んだ。冬の冷えた空気に晒されていても、怒りの為か体が火照って仕方がない。

 遠くで微かに銃声が聞こえる度に、背筋を虫が這うような焦燥感が襲う。尻の座りが悪く、銃を抱き締めていないと落ち着かない。

 守らなければならないのでは、ないのだろうか。この地で何かするつもりなのか、それともただ単に、諦めたのか。そんな筈はない。出雲が諦める筈がない。

 そうは思っても、これが現実だ。本部は降伏こそしていないものの、守りの要だった第三師団を後退させた。空軍も殆どが待機状態となり、今この近辺で実働している出雲の部隊は、大社要塞の近衛師団と、各師団の補給部隊だけだ。

「もう、俺達だけでも大社に……」

「駄目だよ」

 悲痛な涙声で言いながら立ち上がりかけた青年を、キアラが制した。彼女も顔を歪めてはいるが、その声は鋭い。

「雨の進攻部隊を先導する戦車部隊の中に、北米賢者がいるんだ。死なせたら、罰せられるのは私達だよ」

 いるのだろうと思っていたから、乃木は驚きはしなかった。けれど立ち上がりかけていた青年兵は唖然と口を開き、中腰の姿勢で硬直する。

 進攻部隊のど真ん中に賢者がいるとは、まさか思わないだろう。しかし彼は軍人である以上に、そういう男だ。賢者がいれば出雲は攻撃出来ないと踏んだのかも知れないが、彼がそもそも、黙って指揮を取るだけに留まっていられるような人間ではない。総司令官の地位からは退いたと聞いているし、尚更だ。

 しかし乃木には、疑問も残る。彼は何故、今更になって出てきたのだろうか。水面下で何かあったのではないかと勘ぐりもしたが、乃木が考えて分かるような事でもない。

「じゃあ、止められないって言うんですか」

 別の兵の問い掛けに、キアラは無言で頷いた。思い詰めたような彼女の表情を見ているのも辛くなり、乃木は俯く。

「それならそうと、早く言ってくれれば……」

 北村は最後までは、言わなかった。聞かされていた所で、どうにもならないと気付いたのだろう。同じように怒っていただろうし、絶望していたに違いない。

 どんなに努力しても報われない事が、この世にはある。才能も名誉もない乃木には、努力するしかなかった。そうして軍人になり、国の為に尽力する事で、自分を満足させていた。

 それを、根こそぎ否定されている。保っていた自己が根本から崩れて行くような、嫌な心地だった。

「私達には、何も出来ないんだ」

 かすれた声だったが、はっきりとした言葉だった。キアラは膝を抱えて下を向いたまま、辛そうに眉根を寄せている。

 この人の為に戦うと、決めたのに。弱気な自分を変えてくれたこの人の為に、この人が生きる国を守りたいと、そう思ったのに。乃木は結局悲しげなキアラから、目を逸らす事しか出来ずにいる。

「でも大社には、出雲賢者様と神主様がいる。芙由様もいる。きっと……」

 きっと。その後は、続かなかった。キアラは疲れた顔を歪め、更に深く俯く。

 あの人達は、何をしているのだろう。乃木には、彼らが出雲を見捨てるとは到底思えない。キアラの言う通り、止める筈だ。何が何でも、守り抜く筈だ。

 最後の砦で、迎え撃とうとしているのだろうか。背水の陣のつもりなら、それはあまりにも危険すぎるのではないだろうか。出雲に反抗した雨支部が、彼らが出た所で止まるものだろうか。

 仮に大社がそう決めたのだとしても、芙由がそれを許すだろうか。普段は軍部にいるとはいえ、聖女である彼女にも、議会での発言権はある筈だ。あの芙由が、軍を退かせる筈がないではないか。

 これは誰の意思なのだろう。議会が決定したとしても、千春が黙っている筈がない。彼女なら、議会の決定を覆すだけの手腕も弁舌も、権力も持っている筈だ。

 それとも議会ではなく、神主が決定したのだろうか。それなら千春にも、口の出しようはない。しかし神主も、こんな手段は取らないだろう。だから。

――だから。

「……神は」

 胸の内に込み上げた感情を吐き出すように、乃木は苦しげに呟く。北村が弾かれたように顔を上げ、目を見張ってまじまじと乃木を見詰めた。

「神はどうして、こんな事を許すんだ」

 言ってはならない事を、口にしている。乃木にも自覚はあったし、分かりきっていたが、止まらなかった。

「出雲が神と国を守るから、神は出雲を守ってくれるんじゃなかったのか」

 誰一人として、何も言わなかった。誰もが下を向いたまま黙り込む中、ただ一人北村だけが、乃木を見詰めたまま悲痛に顔を歪めている。

 乃木は、乃木だけはこの中で、神に疑問を抱いてはならなかった。それを北村は知っているし、乃木自身理解している。けれど、一度疑い始めてしまったら、止められなかった。考えたくもなかった事が、腹の底から込み上げて、口を突いて出る。

「僕らは……僕らは、何の為に」

「乃木」

 北村の声に、乃木はゆっくりと顔を上げた。少しやつれた北村は、乃木と目が合うと、黙って首を横に振る。

 分かっている。北村に言われなくとも、充分理解している。だから乃木は従軍したのだし、芙由に憧れた。彼女と同じように、軍人として護国に努めたいと、そう思ったのだ。

「神よりも、北米賢者だろ」

 誰かが呟いた声に反応し、キアラが視線だけを向けた。膝に乗せた拳を握り締める青年は、悔しげに歯噛みしている。

「何なんだよあのメリケン野郎、この為に従軍してたのか? 賢者だからって、こんな事……」

「私ね」

 言い終わらない内に、キアラが口を挟んだ。しっかりとした声に、乃木は彼女へ視線を移す。

「北米賢者様と話した事があるんだ」

 小隊の全員が一斉に、弾かれたように顔を上げた。乃木も北米賢者と話した事はあるが、同様に驚いた。キアラが彼と面識があるとは、知らなかったのだ。

 集まった視線に動揺するでもなく、キアラは緩慢な動作で瞬きをする。それから小さく息を吐き、伏せていた顔を少し上げた。

「よく分からない人だったけど、悪い人ではなかった。むしろ、いい人だと思ったよ」

 何人かが怪訝な顔をしたが、乃木は同意するように頷いた。底知れない恐ろしさはあったし、キアラの言うように、何を考えているのか分からない人物だったが、悪い人間ではない。今している事の善悪は別として、悪人だとは到底思えなかった。

 しかし彼が進攻して来ている事もまた、事実なのだろう。それなら出雲が突然引いた理由も、理解出来る。

「小隊長がそう仰るなら……そうなのでしょうが」

 佐渡が言い淀んで、俯く。キアラへの信頼はあるが、信じられはしないだろう。この状況を作ったのが北米賢者だというのに、それでもいい人だと言われても、信じられる筈がない。

 乃木は何も分からない事がこれほどまでに口惜しいと思ったのは、初めてだった。分からなければ聞けばいいと思っていたし、実際そうしていた。出雲の意図も北米賢者の意図も、全く読めない。それが五感の全てを塞がれてしまったかのように、恐ろしくて堪らない。

「……ううう」

 暫く無言の間が続いた後、北村が唐突に唸り始めた。乃木は驚いて北村を見て、頭を抱えて珍妙な表情を浮かべた彼に、首を捻る。顔をしかめたせいか、鼻の頭と額に皺が寄って、潰れた黒糖饅頭のようになっていた。

 暫く唸っていた北村は、今度は突然立ち上がった。全員が驚いて顔を上げ、彼を見る。

 北村は視線などものともせずに装具を外してその場に起き、迷彩服の上を脱ぎ捨てる。更に靴下ごと、半長靴まで脱ぐ。これには彼の突飛な行動に慣れた乃木でさえ、驚いた。

「もう知らねー! 頭冷やしてくる!」

 絶叫した北村は、ガラス戸を開け放って、雨の降りしきる屋外へと駆けて行ってしまった。乃木は呆然と彼の背中を見送った後、キアラと顔を見合わせる。

 唖然としていた小隊の面々が、北村に触発されたかのように次々立ち上がる。乃木が戸惑っている間に何人かが服を脱ぎ捨て、何故かキアラに敬礼した。

「お見苦しい所をお見せして申し訳ありません、小隊長!」

「自分も失礼します!」

 戸惑うキアラに背を向け、彼らは北村に続いた。キアラは目を丸くしたまま、ゆっくりと首を傾ける。あれよという間に、ホール内に留まる者は半数以下に減った。

 乃木はまだ、呆然としていた。流石に残っていた佐渡は、呆れた表情で外で雨に打たれる馬鹿を眺めている。何がしたいのだか、さっぱり分からない。

 ふとキアラを見ると、彼女は数回瞬きした後、乃木と視線を合わせる。暫く見つめ合った後、同時に気が抜けたように笑った。

「何やってんだろうね」

 眉根を寄せ、眉尻を下げて笑うキアラに、乃木は笑い声を漏らす。それだけで、少し落ち着いた。

「ああいう奴ですから、北村は」

 キアラが笑うだけで、乃木の胸につかえていたものが取れて行く。暗い戦場も沈んだ心も照らし出してくれる、太陽のような彼女の笑顔を見るだけで、何もかもが上手く行くような気にさえなる。

 落ち込んでいる場合ではない。また動く時が来るかも知れないし、まだ何が終わった訳でもない。何があっても、命がある限り希望もある。まだ何も、終わってはいない。

「……小隊長」

 キアラは濡れ鼠になってアスファルトの上を転げ回る部下達を、微笑ましく見守っていた。呼び掛けられると乃木に顔を向け、少し笑う。乃木はつられて笑顔を見せ、心持ち居住まいを正した。

「あの……この内戦が終わったら……」

「やめろ乃木、死ぬぞ!」

 佐渡の大声に驚いて、乃木は全身を震わせた。え、と呟いて彼を見ると、必死の形相で身を乗り出している。乃木には意味が分からなかった。

「……え、なん」

「小隊長、連隊長から通信が」

 乃木が問い返しかけた時、小隊長補佐が声を上げた。キアラは彼が持ち上げた野外電話機を見て怪訝に首を捻り、立ち上がって歩み寄る。乃木は少し肩を落とした。

 受話器を耳に当てたキアラを見て、佐渡が立ち上がった。真っ直ぐ外へ続くガラス戸へ歩み寄ってそれを開け、怒鳴り声を上げる。怒鳴りでもしないと、あの雨音に負けて聞こえないのだ。

「……大社へ?」

 キアラの緊張した声に、乃木の心臓が大きな音を立てた。鼓動の音が頭の中に響き、全身が熱くなって行く。

 何かあったのだろうか。とうとう、大社の防衛に加勢しなければいけないような状況に、陥ってしまったのだろうか。不安ばかりが胸をよぎり、胃がきりきりと痛む。

 外にいた濡れ鼠達が全員戻って来た頃、キアラは話を終えて受話器を置いた。キアラは受話器を置いた姿勢のまま、硬直している。怪訝に首を捻りながら頭を拭く部下達の事など、見えていないかのようだった。呆然とする彼女を見て、乃木は抱いていた小銃をきつく握り締める。

「……戦車部隊が、私達を迎えに来る」

 キアラの言葉に、全員動きを止めた。乃木は大きく目を見開き、呼吸すら止めて凍り付く。

 その時が、来た。恐らく、大社防衛に使われる訳ではない。戦車部隊もこの小隊も、別のものを護る為に、大社へ行かされるのだ。キアラは恐らく聞かされてはいないのだろうが、乃木は知っている。

 戦えなくなってしまう。その恐怖が、乃木の全身を竦ませる。ついこの間まで、戦う事に恐怖していたというのに。

「戦車? なんで戦車が」

「分からない。とにかく、大社に向かえって……」

 ゆっくりと顔を上げると、北村が頭に被ったタオルをどけて、乃木を見下ろした。緊張した面持ちの彼と目が合うと、乃木は眉根を寄せて首を左右に振る。

 いつかはこうなると、分かっていた。寧ろ、今まで何も言われずにいた事が妙だったのだ。今になった事には、何かしら理由があるのだろう。

 大社が何をしようとしているのか、乃木には分からない。目的もその意図も見えてはこないし、理解出来ない。何が起きているのかも、彼は知らない。

 けれどきっと、これで終わる。この内戦も、嘆くだけの日々も。そして、軍人としての乃木も。

「大社に行くんですか? 戦車部隊と?」

 誰かの問いかけに、キアラは困惑したような面持ちで頷いた。それ以上は、誰も何も聞かない。聞いた所でキアラには答えられないと、気付いたのだろう。

 全員が呆然とする中、乃木は一人、俯いて拳を握り締めていた。出雲は終わらない。しかし。

 俯いたまま、乃木は視線だけをキアラに向ける。彼女は未だ、受話器に手を置いて考え込んでいた。

 あの人を、守れない。それでは、あの人を守れなくなる。愛しい人の為に戦うという希望が、潰えてしまう。それだけが、乃木の光だったのに。

 乃木はきつく目を瞑り、肩を落とした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ