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神の国  作者:
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第八章 一つの終焉 五

 双子の娘が産まれた、その翌日の朝。痛み止めが効いて朦朧とした意識下で、彼女は自分の中に異質な記憶がある事に気がついた。体験した筈がないのに身に覚えがあるような、奇妙な記憶。そして意識が覚醒した時、気がついたのだ。未曽有の大惨事を引き起こしたこの世界はまだ、人を見捨ててはいなかったのだと。

 この世界の歴史は悲惨で暗いものだったが、悪いばかりではなかった。陰惨な戦争の裏に人々の葛藤があり、人を愛する人々の繋がりが見えた。残酷な面も慈愛深い面も併せ持った人という生き物が、愛しいと思った。そしてそんな人の為に、我が子が平和に生きて行ける世界の為に、賢者という人ならざる者として、生きる決意を固めたのだ。

 記憶を授かると同時に老化を止めた彼女は、老いて行く夫の代わりに、国を導くと決めた。惑う世界が正しい方向へ歩めるように、導いてやろうと。

 娘達は、母が記憶を授かった事によって負わされた宿命など知る由もなく、健やかに育った。上の子は快活で喜怒哀楽の変化が激しい娘だったが、下の子は物静かで、粛々と現実を受け止めるような娘だった。双子だというのに性格は全く違うと、夫とよく笑ったものだ。

 夫は優しい人だった。人を愛し、人を助ける事が出来る人だった。この人で良かったと、何度もそう思った。

 そんな夫が死んだのは、南米大陸にいた賢者と呼ばれる男が死んだのと同時期だった。まだ定めた制度が浸透しきっておらず、多忙を極めていた頃だ。

 予想はしていた事だが、大いに泣いた。これから先一人でやって行けるのか、いつだって支えてくれていた夫なしで、生きて行けるのか。不安ばかりが胸の内に湧いては、涙となって零れて行った。

 体の一部を失ってしまったかのような、絶望的な喪失感だった。落ち込む母と一緒に上の娘は泣いたが、下の娘は、一滴も涙を零さなかった。冷たい子だと、あの時は思ったものだ。

 上の子は、父の代わりになると言った。生まれた頃には既に隠遁していた父が、死んだと知られないように。神主という代弁者として、生き証人になると。彼女には千春と同じように膨大な記憶があったから、無理な事でもなかった。

 けれどそれを、誰が信じるだろう。当時の世界は未だ神の世で、神がいるから保っていた。神から直々に使命を与えられたと通達しても、顔を出さずにいる神主を、誰が信用するだろう。

 悩む彼女に手を差し伸べたのが、下の娘だった。彼女は神主の妹でなく娘として、永遠に生きる者として、神主の証人となると言った。けれどそれは、人として生きる道を捨てるという事だった。

 彼女は止めた。第二子であった下の娘にロスト以前の記憶はなく、国を背負うにはあまりに辛いと、そう言って止めた。しかし娘は引き下がらなかった。偉大な者の子として、この国を安寧へ導くのだと、断固として引かなかった。神主が神主である為に、母が宿命に負けないように、共に生き続けるのだと。

 結局、折れた。折れざるを得なかった。あの澄みきった美しい目は、拒否する事を許してはくれなかった。或いは、いつかは来る家族との離別を恐れたが故に、そう感じたのかも知れない。何にせよ、下の娘は強すぎる責任感が故に、母と共に人ならざる者として生きる道を選んだ。

 上の娘は神主となり、下の娘はその娘として、いつしか聖女と呼ばれるようになって行った。七つの大陸にロスト以前の記憶を授かった賢者が出揃い、彼女はその長となった。

 それが、賢者の時代の始まりだった。


 五


 戦況は、芳しくない。膨大な枚数の報告書を捲りながら、千春は厳しい表情を浮かべていた。

 これ以上の犠牲を払う事は許されない。だが抵抗もせずに国の政治の中心たる地域への侵入を許したとなれば、他州から批判が出るだろう。支部はあれほど必死に護っていたのに、本部は何をしているのかと。

 電話があってから三日ほどで出雲へ到着したオフィーリア号は、港を封鎖していた部隊のど真ん中へ、挨拶代わりだとばかりに対地ミサイルを撃ち込んだ。二三発撃ち込んで来るだろうとは千春も思っていたが、相変わらずあの艦長はとんでもない男だ。予想より到着が早かった為に、逃げ遅れた部隊は壊滅的打撃を受け、無抵抗で港を明け渡す形となった。

 雨支部はその地域一帯を足掛かりとし、次々に出雲本土への上陸を果たした。それを黙って見過ごす出雲でもないし、近隣地域は今や三個師団で固めている。真っ直ぐ大社へ向かってくるつもりだったようだが、本部の激しい抵抗を受け、流石の雨も迂回ルートを選んだ。現在は雨の侵攻部隊に隣県まで迫られた状態で、両者一歩も引かずにいる。

 上陸されてから、ゆうに五ヶ月は経っただろうか。今の所キースが死んだというような報告もないが、出雲も必死になってきた今、そろそろ危ういだろう。彼が今どこにいるのかも分からないし、まさか雨に帰ってしまっているとも考えられない。

 賢者を死なせたとあらば、知らなかったと言い訳しても、出雲は糾弾されるだろう。先の事を考えると、それは避けておきたかった。頑なに防衛を続けて誤って死なせてしまうよりは、敢えて大社まで乗り込ませて、キース本人を説得した方が早い。

 あの男が、来ない筈はない。部下に制圧を任せて、自分は黙ってなどいられないような馬鹿なのだ。それでなくとも、大社には彼が来る理由がある。

「時期でしょうか、笹森補佐官」

 来客用のリビングセットでひたすら書類に捺印していた神主が、そう聞いた。彼は近頃めっきり回される仕事が少なくなったと言って、千春の仕事を手伝っている。元々神主に回さなければいけないような書類は、半日あれば終わるような量しかなかったし、今は軍部にそのまま回す書類ばかりなので、彼は平素より暇なのだろう。

 かといって補佐官の仕事を手伝う必要もないのだが、何かしていないと落ち着かないだろうと、千春も咎めはしない。何より、彼女自身籠もりきりで、気が滅入っている。話し相手がいるに越した事はない。

「ええ……痺れを切らしたカークランドが突っ込んでこない内に、道を開けた方が賢明でしょう」

「突っ込んではいらっしゃらないでしょう」

 千春は曖昧な苦笑いを浮かべた神主に、首を横に振って見せた。

「奴はそういうバカだ」

 あの男は馬鹿だ。馬鹿だが、千春が一番不得手とする、頭のいい馬鹿だ。何故芙由はあんな馬鹿にと思いもしたが、彼らにどこかしら似た部分がある事には、気付いていた。

 軍人として、国を守る。キースは実際どうなのか不明瞭な部分もあるが、少なからずそう思っているのであろう事には気付いていた。頑なに軍人でいる事には、何らか理由があるのだろうと。

 無鉄砲さも、自分の意味をなくした事も、自らを蔑ろにする傾向も、似通っていた。自分の意味がなくなる事に怯えるあまり、かたや使命に縋り、かたや自棄になった。似ていたから、惹きつけられたのだろう。

「あの方は、何をしようとしていたのでしょう」

 神主の問い掛けに、千春は書類に落としていた視線を上げた。神主はどこか不安げに、判をついては恐る恐る書類を捲っている。

「死のうとしていたのではないかと、芙由は言っておりました。私も、そう思います」

「死ぬ為に、内戦を?」

 キースの気持ちは分からない。芙由は何がしか知っているようだったが、聞くのも憚られたので、千春は結局知らないでいる。

「分からぬ。あれは昔陸軍にいたようなので、その時に何かあったのではないかと考えてはいますが」

「……分かりませんね」

 溜息混じりに呟いて、神主は手を止めた。朱肉の横に置かれていた麦茶の入ったコップを取り、一口飲む。

「ロスト以前の記憶があるのに、あの嫌な戦争を仕掛けて来るような理由が、あったのでしょうか」

 まだ若いせいか、神主の考え方は千春のそれとはかけ離れている。ロスト以前の記憶はあるが、人生経験はないに等しいのだ。違って当然だが、それも世界の変化の縮図と言えるのかも知れない。

 かつて世界を蝕み続けた戦禍が、この世界にも降りかかっている。現実として受け止める事こそすれ、理由は理解出来ないだろう。

「人には人それぞれの、人生があります。内戦を望んでしまうだけの何かが、あったのでしょう」

 或いは長く生きている内に、何かが壊れてしまったのか。

 千春には昔、何も感じない時期があった。それは丁度人の平均寿命を超えた辺り、普通の人間なら死んでいるだろう年齢に差し掛かった頃のことだ。歳を食うのが、恐ろしくて堪らなかった。何も考えたくなくて、何を感じるのも嫌で、ひたすら仕事に明け暮れていた。しまいには体を壊して、芙由にこっぴどく叱られたのだが。

 その時期を越えた頃、千春は糸が切れたように呑気になった。楽観視するでもなく、無闇に悲観するような事もしなくなった。達観していると言われ、古狐と陰で呼ばれるようになったのも、同じ頃だ。

 前人未到の領域に踏み込んでから、千春は現実を淡々と受け止められるようになった。そこから逃げる訳ではなく、どんな事でも受け入れるように。代わりに、自分が歩んできた道程に思いを馳せる機会が増えた。

 そういうものなのだ。ある程度まで歳が行くと、がらりと変わってしまう。他がどうかは知らないが、少なくとも、千春はそうだった。そして、芙由も。

「人は案外、丈夫に出来ているものだよ。嫌で嫌でどうしようもなくなると、全て受け入れてしまえるようになる」

「それで、いいのでしょうか」

 神主の言葉が、千春の胸へ鉛のように重く沈み込んだ。それでいいとは、思っていない。寧ろ避けるべきなのだ。

「だから神は、この制度を作ったのですよ」

 世界を導く賢者が死んではならないし、不死の者が増えてもいけない。生きる理由が明言されている内は、自分の意味を問うたりはしない。しかし不死が普遍化したら、特別視はされなくなる。そして自分の意味を、探すようになる。

 生に意味を求めるべきではない。そこに意味はないから、欲しいなら自分の手で作るべきなのだ。しかしある程度まで行くと、それにも疑問を抱いてしまうようになる。

 ないものを求め、それ故に苦悩する。それは何よりも、恐ろしい事だ。

「私は、一人だけ安穏としているのですね」

 何を思ったのか、神主は唐突にそう言った。ソファーにもたれる彼の目は、部屋の隅を向いている。何も見てはいないのだろう。

「そんな事は……」

「あなたも大叔母様も、戦っておられる。皆、戦っている」

 それが、神主の引け目だったのだろう。千春は毎日のように見てきた彼の側面が、漸く見えたような気がした。

 何かしたいと思っても、何をする事も許されない。聖女が飾り物だと芙由が言うように、神主もまた、そう感じていたのだろう。しかし彼は従軍する道を選んだ芙由とは違い、神主という地位以外に、意味を求める事が出来ない。これから先彼がどう生きて行きたいのか千春には分からないが、今までは、辛かったのだろう。

 それももう、じきに終わる。彼の地位も、いずれは必要がなくなる。必要がなくなって初めて、神主は自由になれるのだ。

 千春が口を開きかけたところで、携帯が鳴った。怪訝に眉根を寄せてディスプレイを見ると、懐かしくも感じるような名前が表示されている。

 千春は切れ長の目を大きく見開き、咄嗟に携帯を掴んで電話に出た。鼓動が速く、奇妙に背中が熱い。なんと言ったらいいのか分からず、口を開くのが、怖かった。

『……千春?』

 最後に電話した時と何ら変わりない、のんきな声だった。訝しげな問い掛けだったが、千春は変化のないニコライの声に、安堵の息を吐く。

「コーリャ……生きていたか」

 溜息混じりの言葉に、ニコライはまた、怪訝な声を漏らした。

『あれ、怒らないんだ』

「カークランドに怒っているから、お前に怒る余裕はないよ」

 千春はスピーカーから聞こえる快活な笑い声に、肩に籠もっていた力を抜く。変わらない、ニコライの笑い声だった。それから顔を上げ、驚愕の表情を浮かべる神主に、笑いかけて見せる。

「怒って欲しいのなら、言い訳は聞くがね」

『よしとくよ、怒られるのは御免さ……なんか大変そうだから掛けちゃったけど、キース生きてるの?』

「非常に残念だが、生きているよ」

 良かった、と気の抜けた声が、微かに聞こえた。その反応で、ニコライはキースとの間に何かあったのだろうと、千春は思う。

 聞くつもりはない。自らの意思で連絡を断っていたなら、それはニコライがした初めての反抗だ。それもまた国の変化なのだろうかと、千春は感慨深くも思う。

『僕ね、友達になったんだ』

「あの犬と?」

 調子のいい肯定の返答に、千春は生返事をしてデスクに頬杖をついた。友達とは、また妙な事になったものだ。

 たった一人露で暮らす彼に、申し訳ないとは思っていた。頼りきりだった面もあったし、孤独にしてしまったのではないかという懸念も、千春の中にはある。しかし一人でいる事を望んだのは、ニコライだった。

 無理もない。無闇に人前に出て、奇異の目に晒されたくはなかっただろう。ただ、そんな世の中を変える事が出来なかったのは自分の不手際だと、千春は考えている。

『いつか一緒に出雲で花見しようって、約束したんだ。おかしいよね、出雲でなんて。こんな事してるのに』

 出雲で花を。そう聞いた時、キースは確かに死ぬつもりだったのだろうと、千春は思う。ニコライが外へ出るかも分からないし、キース自身、それで内戦を仕掛けたのだから、花を見る気があったのかなかったのか、微妙な所だ。

 いつかという言葉ほど、曖昧なものはない。そう言っておけば果たさなくても罪悪感はないし、いつになっても言い訳は出来る。それでもニコライはきっと、約束を信じているのだろう。

「この内戦が終わったら、大手を振って遊びに来なさい。私も歓迎するよ」

『振る手はないけどね。キース死なせないでね』

「死なせはせぬよ、こちらが悪者になってしまう」

 友を得たニコライの声は、明るかった。どこか楽しそうな彼に、変わったのだと、そう思う。

 頑なに外出を拒んでいた彼は、友を得て変わった。キースとの間にどんな会話が為されたのか知る由もないが、彼はニコライを、いい方へ導いてくれたのだろう。その事一つ見ても、制度の変え時なのだろうと千春は思う。

『僕ね、世界にはまだまだ見た事ないものがあるって、教えてもらったんだ』

 そうか、と、千春は相槌を打つ。子供の話を聞く親のような、優しい声だった。

『だから千春には悪いけど、落ち着いたら、ちょっと旅に出ようと思うんだ。見たいんだ、この世界のこと』

「それがいいね。お前もやっと、外に出る気になったか」

 冗談めかして言うと、ニコライは愉快そうに笑った。

『うん、もう引きこもりとは言わせないよ』

「巣立ちかい。行くのはいいが、顔を見せに来てからにしなさい」

『分かってるよ。見たい所だけ見たら、すぐに戻って来るから』

 それぞれの道が、決まった。終わらない人生を、ニコライはやっと有意義に過ごそうとしている。

 人が変わるから、世界も変わる。分かっていたのに、受け入れていたのに、踏み出すのが怖かった。千春も、意味をなくす事が怖かったのだ。それがどんなに愚かな事か、分かっていたというのに。

「すぐに終わらせるから、出雲に来なさい。友達と一緒にね」

『無事でいる事を願ってるよ。彼も、出雲も』

 意味はない。意味はないが、する事はある。世界を導くのは、もう神でも賢者でもない。この世界で生と死を繰り返し、短い人生を必死で生きる、人なのだ。

 一つが終わり、一つが始まる。不安にも似た期待感に、千春は笑った。

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