第八章 一つの終焉 四
四
「で、主力空母二隻出してこの有り様か」
クリップで束ねた報告書を叩き、キースは煙草を銜えた唇の隙間から吐き捨てた。開いたワイシャツの胸元からは、彼が動く度に銀色のドッグタグが覗く。眉間と鼻の頭に寄った皺が、彼の不機嫌を如実に表している。
懲罰房から助け出された後、諸々の処理に追われていたから、出航には二ヶ月ほどかかった。キースが戻ってきた事に喜んだ第七艦隊司令官が連日祝賀会を開き、飲みたくもない酒をたらふく飲まされて、死にかけていたせいもある。
軍部に制圧された大陸庁は、一時的に加知事を総知事として迎え、加に移動した。雨知事も総知事と共に糾弾され、地位から引き摺り下ろされた。空になった雨州庁は現在、知事選を行っている。戦時下で悠長にそんな事をしている場合でもないのだが、州内に被害が出ていない内に行っておきたかった。
「情けなくて涙が出るな。出雲に完敗か」
書類の束をデスクの上へ放り投げ、キースは椅子の背もたれに頭を乗せる。タバコから立ち上る煙でぼやけた天井が、目に映った。その左上に、真顔のダリーが見える。狭い艦長室は、大柄なダリーがいるだけで余計に狭く感じられた。
鳴り響いた艦内電話の呼び出し音に、キースは眉間に皺を寄せる。顔は上に向けたまま、視線だけをデスクに落として腕を伸ばし、受話器を取った。
「おう」
『マーレイ通信士です。進路上、百キロ前方に出雲の艦隊を発見しました』
「ほっとけ。通信してきたら、賢者がどけって言ってるって伝えりゃいい」
相手が応える前に、キースは放り投げるように受話器を置いた。視線を上げると適当に切った前髪が視界に入ったので、長さの不揃いな毛先を摘む。
「同じ型の空母同士でぶつかって負けたとあらば、世界最強の名折れですな」
電話が終わるのを待っていたダリーは、椅子の上で弛緩したキースにそう言った。皮肉めいた口振りだ。
海上での雌雄は、既に決していると言っても過言ではないだろう。航空母艦が負けたから負け、という単純な問題でもない。しかし世界最強と謳われ、絶対の自信を持っていた雨海軍は、意気消沈したに違いない。
驕ってはならないし、潔く退くのも良くない。海軍の主力である第七艦隊が半分使えなかったのも理由だろうが、弱気でいては勝てるものにも勝てなくなる。これからは、今までとは少々事情も変わるが。
「まぁ、どう足掻いたって本部には勝てやしねぇさ。あっちは燃料の備蓄が桁違いだ」
出雲は用意がいい。というよりは、亜細亜が丸々あちらに付いているせいだろう。長期戦を強いられ、こちらが燃料不足で引き返した時も、出雲は手近な港で補給していたのだと聞いている。先に補給基地を潰した方が早いのではないかともキースは思ったが、逐一潰していたら何百年かかるか分からない。
結局、雨の敗北以外の結果はないのだろう。手近な加と墨はこちらに付いていると言っても、絶対数が違いすぎる。亜細亜が丸ごと出雲についたその瞬間、雨の敗北は確定したようなものだ。しかしそれも、キースの不在時に限った事で、今なら勝機もある。
「勝てようが勝てなかろうが、あっちはこの艦は攻撃しねぇよ。俺が乗ってるって知ってるからな」
どちらが仕掛けた戦争であろうと、賢者を殺害すれば、罪に問われるのは加害者側の州だ。特例法が適用されたとはいえ、それは変わらない。
神の法の下に戦う出雲は、賢者を死なせるような事はしない。だからこの艦にだけは、絶対に攻撃してこない。そう分かっているから艦隊を全て防衛に当て、単独で出雲へ向かっている。
俺が行くと、キースは大将達にそう言った。陸と空は驚いていたが、海は納得していた。彼は分かっていたのだろう。
正攻法は通用しないから、この策を取った。協力支部などいなくとも出雲は強いし、まともにやりあったら、双方に甚大な被害が出る。既に出ているが。
開戦から丸一年。雨側のどの支部も、未だ出雲本土へは上陸出来ていない。華、伊太に易々と侵入を許したのは、出雲の不手際ではなく制約のせいだったのだと、再確認させられた。
「しかし……」
後ろへ反らしていた身を起こして灰皿に手を伸ばした時、ダリーが呟いた。困惑したような声だ。
「勝利の歌作戦というネーミングは、なんとかならないものでしょうか」
作戦名は、海軍総大将がつけた。この艦の名前をつけたのも、当時シェイクスピアに心酔していたあの大将で、ネーミングセンスが悪い事はキースも重々承知している。彼のセンスのなさと言ったら、以降艦のニックネームは、一般公募する事に決定した程だ。
「オフィーリアに掛けたんだろ。相変わらずセンス最悪だが」
投げやりに返すと、ダリーは顔をしかめた。彼は無骨な外見とは裏腹に、妙に細かいことを気にする。キースが大雑把なだけかも知れないが。
「オフィーリア自体最悪ですが」
「溺死するからな。逆にゲン担いだのかも知れねぇが」
二人同時に、力なく笑った。幸先悪い。
名前などどうでもいいものだと、キースは思っていた。自分の名前が変なのもこの艦の名前が縁起悪いのも分かっていたが、気にした事はない。それでも彼女の名前は気になるのだから、おかしなものだ。
「どうだっていいさ。上手く行けばな」
大将達は、キースに全て任せると言った。ここまで来たら引き下がれないし、キースの目的は、他州のそれと合致している。流石に総司令官からは降りさせて貰ったが、実質同じようなものだろう。
大将達から兵を借り、護ってもらう形で進攻する。防衛線を突破する為の海と、露払いの空。大社に辿り着く為には、陸にも協力を仰がなければならない。思っていたより大事になってしまったが、そちらの方が楽しくていいと、キースは思っている。
もう、死ぬ気はない。何がなんでも生き残り、大社に辿り着く。そして、出雲に国を変えさせる。
そうしたら。そこまですれば、彼女は国抜きで自分を見てくれるだろうか。賢者も聖女もなく、一個人として見て、結論を出してくれるだろうか。
人としての彼女の弱さを、愛しく思った。理由がなければ生きられないその弱さが、過去に囚われていた心を動かした。自分もそうなのだろうと、そう思ったのだ。
あの人を護りたい。巨大な国からも、足を捕らえる制約からも、背負った宿命からも。彼女を自由にする事が、この国を変える事なのだと、そう考えている。結局振られて人としての幸せは望めなくとも、それでいいと思っていた。だから今、こうして出雲へ向かっている。
「ヘンリーは、もう駄目だろうな」
呟きながら煙草に火を点けて、キースはダリーを肩越しに振り返った。彼は厳つい無表情を保ったまま、首を縦に振る。
「大将達が、揃って糾弾致しましたからな。世論も同じくです。雨知事も、もう終わりでしょう」
「何十年も計画してきたモンだが、終わるのは早かったな」
人の野望とは、そういうものだ。どんなに綿密に計画しても、下らない事で破綻する。ヘンリーの敗因は、キースを利用しようとしてしまった事だろう。
キースに罪悪感がないといえば、そうでもない。但しそれはヘンリーに対するものではなく、部下達に対する感情だ。まんまとはめられて捕まった挙げ句、助けて貰ってしまった。悪いのは自分だと思ってはいるが、謝るのも妙な案配ではある。
個人的な野望の為に人を動かす事の出来る者が歴史を作り、野心家と呼ばれる。今のキースがそうであるとも到底言えないし、きっかけを作ったのは、ヘンリーだった。そういう意味では、彼は野心家だったのだろう。傑物とは程遠かったが、国を変えるだけの力量は持っていた。やり方を間違えただけだ。
「合衆国再興とは言うが、この国は同じようなモンだな」
ダリーは思案するように顎を撫で、低く唸った。ロスト以前を知らない彼は、返答に困るだろう。
「その体制を変えるのでしょう」
それでもまともに返答する辺り、ダリーはヘンリーより頭の回転が速い。
「そりゃそうだが、独立させようなんて思っちゃねぇさ。そんな事はどうでもいい」
火種から立ち上る煙が呼気に吹かれて揺らぎ、キースの目に染みる。違うと言っても、理解は出来ないだろう。かといって懇切丁寧に説明する気はないし、ダリーもそれを望まない。
そういう間柄だ。気楽でいいから苦労もない。それでも、大事なことはお互いに理解している。
「国を変える事が、今の国の為になる。やっと、賢者らしい事出来そうだ」
キースは腕を伸ばして、灰皿に煙草を押し付ける。ガラス製の灰皿にはもう、吸い殻が山のように詰め込まれていた。
「軍人として攻め込むと仰ったではありませんか」
「それはそれ、これはこれだ」
何も出来ずに拗ねていたキースを、ダリーは知っている。だから咎めるような口調でもなかったし、笑っていた。そんな彼に対して、尚のこと罪悪感が募る。
これから先どうなるのか、キースにも分からない。もし失敗して糾弾されたら罪は全て被るつもりだが、ダリーはそれを許さないだろうと思う。許す許さない以前に、実際今回の計画を立てたのはキースだし、ヘンリーを野放しにしたのも彼だ。糾弾されるべきは自分だけであろうと、彼は思っている。
「悪いな、付き合わせちまって」
椅子に浅く腰かけて、背凭れに頭を預けただらしのない姿勢で、キースは独り言のように呟く。鼻で笑う音が聞こえた。
「艦長、私はあなたを賢者と思った事は、一度もございませんでした」
そうだろうと思っていたから、キースは口を挟まなかった。ダリーは彼が首を捻るのを見て、再び口を開く。
「差別視される私を片腕として登用して下さり、この艦に乗せて下さった恩人として、見ています」
また、尻の座りの悪くなる話になってきてしまった。キースは貶されるのには慣れているが、褒められ慣れない。それもどうなのかと、自分でも思うのだが。
「昇級しても、嫌がられてたんだっけな」
灰皿の上で山になった吸い殻を傍らのバケツに捨て、キースは煙草に火を点ける。
留年する事なく士官学校を出たダリーだが、昇級はともかく、地位に見合った役職に就くには、相当に苦労したのだという。雨は全体的に見てもそうだが、閉鎖的な海軍内部では、特に肌の色による差別意識が強い。どんなに勤勉で指揮能力が高くとも、黒人というだけで昇格の道が絶たれる。
尉官まで地上勤務だったダリーを拾ったのは、キースだ。前任の副艦長が、定年で退役した頃だった。大将から、黒人尉官が船舶勤務にして欲しいと直訴しに来ているのだと、相談を受けたのだ。
どの艦も、ただの船員ならともかく、黒人士官を受け入れる事に難色を示していた。そんな現状に閉口して、キースは自分の艦に迎えた。迎えた時も一悶着あったが、船員達はキースが無理矢理黙らせた。
ダリーは真面目を絵に描いたような男で、性根から不真面目なキースは、補佐につけた事を後悔もした。しかし不在時も文句一つ言わず、留守番をしてくれる副艦長は初めてだったので、有り難くは思っていた。
「艦長には、感謝しております。今でも、変わりません」
彼は副艦長として働き始めて三年ほど経った頃にも、キースに同じ事を言った。いつもいなくて悪いなと、何の気なしに謝った時の事だ。
その時、自分のした事が確かに誰かの為になっていたのだと、初めて気がついた。同時に、嬉しかったのだ。思えば死ぬ事ばかり考えていたキースが変わり始めたのは、ダリーと懇意になってからだろう。
「閉ざされていた私の道を開いて下さったあなたの行く道ならば、どんな悪路であろうとついて行きます」
偏見があるのは、肌の色が違うからだ。人は自分と違うものを見ると、排他したがる。そうする事で、自分が優位に立っているのだと誤認するのだ。
差別の歴史は知っている。過去、雨にあった国がどんな事をしてきたのか、キースの記憶の中にはある。だからこそ、ダリーが置かれていたような状況を、黙って見過ごしたくはない。
キースは緩慢な動作で身を起こし、銜え煙草のまま上体を捻って、椅子の背もたれに肘を置いた。肘から先を背もたれに乗せて、その上から顔を出す。
「惚れた女の為に、国変えるって言っても?」
キースの深い二重の目が、笑っている。片側だけ口角を上げる彼に厚い唇を歪めて笑い返し、ダリーは大様に頷いた。
「無論、あなたがそういうバカげた理由でしか本気にならない事も、存じております」
「いい女の為なら、なんだって出来んのさ」
肩を竦めて嘯くと、ダリーは嘆かわしげに首を振った。しかしその顔は、相変わらず笑っている。
どんな目的の為にでも、ついてきてくれる部下がいる。それが何よりも、有り難かった。友というのは無二の存在だと、キースは深く実感する。
そしてふと、顔を上げた。
「……あ、そうだ」
言いながら捻っていた上体を戻し、胸ポケットから携帯電話を取り出す。無論普通の携帯はここでは役に立たないので、衛星携帯だ。
「艦長、携帯は……」
「位置は知らせといた方がいい。余計な手間が省ける」
渋い表情を浮かべていたダリーは納得したように頷き、それ以上何も言わなかった。キースは大量のメモリの中から嫌いな女の番号を選び出し、発信する。長く続く発信音が、早くもキースを苛立たせた。
『何の用だね、この死に損ないが』
出たと思った瞬間の第一声に、キースは脱力した。流石に千春は動じないかと、落胆もする。
「悪たれ口はご健在のようで」
『貴様のせいで健在ではない。何が総司令官だ、どうせ総知事に捕まっていたのだろう』
図星だった。キースは何故分かるのかと聞きたくなったが、癪なのでやめた。説明しなくて済むから楽でいいが、この察しの良さは不気味だ。
目は潰した筈だ。それがもう理解している所を見ると、単純な情報量だけの問題でもないのだろう。
「よくご存知で」
『まあね。お前が今こちらへ向かって来ている事も、知っているよ』
キースも流石に、面食らった。出雲の情報収集能力が優れている事は知っているが、それにしてもこの短時間で探知されるとは思っていなかった。
「……よくご存知で」
暫しの間の後呆然と呟くと、千春は鼻で笑った。
『おや、アタリか。お前も単純な男だね』
悪態を吐きそうになるのをなんとか堪え、キースは拳を握った。そうでもしないと、込み上げる怒りを抑えられない。彼は短気だ。
銜えていたタバコの煙を深く吸い込み、勢い良く吐き出す。腹立たしくてならなかった。
「ええご察しの通りですよ、今から行くから待ってやがれよクソババァ」
『言動には気をつけるがいいよ糞爺ィ。お前が上陸してしまえば、出雲は攻撃出来るのだからね』
剣呑な言葉に思わずダリーを見たが、彼は怪訝な顔をするばかりだった。電話の向こうの声は彼に聞こえないので、当たり前だ。
『お前の事だから、どうせ装甲車か戦闘機で強行突破するつもりなのだろう。そんなものに乗っていて、誰がお前と分かるね』
何も言えなかった。艦に乗っている内は流石に手を出せないだろうが、上陸して装甲車に乗ってしまえば、搭乗者は誰なのか分からなくなる。上陸予定の港から大社までは結構な距離があるから、徒歩で強行軍という訳にも行かないだろう。
キースは唇を歪め、気の抜けた声で笑った。しかしその目は、電話の向こうの相手を睨むかのように細められている。
「屁理屈ですよ、補佐官」
『屁理屈でも事実だ。それでも来るかね』
挑戦的な台詞に、キースの頬が引きつった。頭に血が上り、胸の内に溜まっていた憤りが喉から噴出する。
「ああ行くよ行ってやろうじゃねぇか、その代わりその辺一帯焦土に変えてやるからな!」
『そうかね、楽しみにしているよ。ああそれと』
千春の声は、妙に落ち着いていた。キースは叩き切ってやろうかとも思ったが、負けを認めるようで癪だったので、そのまま聞き続ける。
『聖女が首を長くして、お前を待っている。あまり女を待たせるなよ』
頭に上っていた血が一気に引いて行き、顔が青ざめた。キースは千春の言葉を反芻し、その意味を理解して、改めて驚愕に目を見開く。
何故、知っている。
「ちょ、ちょっと待てあんたなん……」
『私が直々に縊り殺してやるから、さっさと来い。貴軍の健闘を祈る』
キースが唖然としたところで、電話は一方的に切られた。