第八章 一つの終焉 三
三
寝付きの悪い夜、キースがずっと考えていたのは、彼女の事だった。あの名が嘘なら、本当の名は何なのだろうと、そればかり考えていた。
戸守という名が偽名である事を、キースは前々から知っていた。ヘンリーと共謀し始めた時点で、出雲に戸守という世帯が一つもない事には、調べがついていたのだ。偽名でなければ、神主の名前をある程度特定されてしまう事になる。出雲はそんな愚は犯さない。
戸守芙由が存在しないのなら、彼女は何なのだろうか。国以外に生きる理由が存在してはならないとは、どういう意味なのだろう。あの言葉は、それまでとは少々、ニュアンスが違うようにも感じられた。
何より本人が、国を守っていた訳ではないと明言した。そして国の為に戦う事が、自分の為だったのだと。聖女という地位に甘んじていたくないから従軍したとは聞いていたし、自分の意味を守る為だとも、キースは本人の口から聞いた。ならば、国の為ではないというあの発言は、矛盾しているのではないだろうか。
考えて分かるような事ではない。しかし確かに、彼女には聖女である以上の何かがある。彼女を国に縛り付ける、もっと大きな理由が、きっと他にある。本当に神主の娘なのかどうかさえ疑わしいが、ニコライの事があったから、確かに不死の誰かの子ではあるのだろう。
それなら何故、彼女にはロスト以前の記憶がないのだろうか。ないと偽っているだけなら、キースは気付く筈だ。確かに彼女は賢者達とは微妙に考え方が違うし、あそこまで達観してはいない。記憶がないのは事実なのだろう。
自分の預かり知らぬ所で何かが動いているような気がして、キースは寒気を覚える。千春にしてもそうだ。何故彼女は、ニコライが生きている事を知っているのだろうか。そもそも南米賢者が死んだのは、いつだったのだろうか。賢者について偽っていたのは、千春だったのだろうか。
諸悪の根源が千春だったのだとしても、理由が分からない。彼女は意味のない事はしないし、悪人ではない。
否、そんな事はどうでもいいのだ。
キースは硬いベッドの上で寝返りを打ち、壁に額をつけた。冷たい壁に体温が移り、頭が冷えて行く。
芙由は確かに、悲しいだけだと言った。それは例え想いを遂げていたとしても先がないという意味で、言っていたのだと思っていた。幸福を求める事は、出来ないのだと。
この国から、宝を奪ってはならない。国宝は国宝でなければならず、正しく人を導かなければならない。その定めが彼女を引かせたのだとしたら、キースは国に負けた事になる。正しくは、法律に。
それは彼にとって、単純に振られるよりも悔しい事だ。自分の力ではどうにもならない事に、道を絶たれたのだから。どうにもならない訳でもないが、キース一人が動いてみたところで、難しい事ではあるだろう。
この国の制度を変える。そう言えば簡単なように思えるが、実際はそうではない。結局ヘンリーと同じ結論に達してしまったが、それを成すのはキースであってはならない。
雨が負けてもいけないが、最終的に制度を変えるのは、出雲でなくてはならない。この世界に生きる人が、神を無力な存在と思ってはならない。この世界が神の国である内は、絶対に。
「……ん?」
階段の方から、微かだが話し声が聞こえた。この時間は、見張りの憲兵が一人しかいない筈だ。独り言がここまで聞こえている訳でもないだろう。
やがて複数人の足音が聞こえた後、誰かの怒鳴り声が響き渡った。何と言ったのかキースには聞き取れなかったが、穏やかならぬ声である事だけは分かる。
何もしない内に、勝手に事が始まろうとしている。寝覚めは悪いが、今は待つしかないのだろう。尻の座りも悪いが、どうせ今のキースには何も出来ない。
キースは億劫そうに起き上がり、枕元に置いてあった煙草のパッケージから一本抜く。火を点けて深く吸い込むと、少しは落ち着いた。
鉄扉の向こうが騒がしい。黄ばんだ壁を眺めていると、無意味に焦燥感が募る。果たして上手くやっているのだろうかと、キースは寝不足で痛む首を回しながら考える。あのダリーが下手を踏む筈もないが、相手は総知事だ。事が露見していなければいいのだが。
「大佐、来ました!」
「何がだよ」
階段を駆け下りる足音と共に聞こえた声に間髪容れずに返すと、扉の向こうの誰かが呻いた。声から察するに、憲兵だろう。
「何がって……聞いてないんですか」
「聞いてたら上手く行ってねぇよ。助け来たんだろ」
ややあって肯定の言葉が返ってきたので、キースは笑った。時間はかかったが、遅い事はない。ダリーの事だから、軍部に根回ししていて遅れたといった所だろう。
流石に彼は、頼りになる。頼りになるのはいいが、彼はまた怒るのだろう。また艦を空けた事を責め、烈火の如く怒るに違いない。怒られるのは、少し嫌だった。
「お疲れ様です!」
「ご苦労」
若い憲兵の声に答えたのは、胃を震わすような低い声だった。やがて鉄扉が開かれたので、キースはそちらを見る。怒られなければいいと考えながら。
扉の向こうには、座ったまま見上げると首が痛くなるほどの、大男がいた。目立たないようにか暗いトーンの迷彩服を来た彼は、黒人特有の分厚い唇に、微かに笑みを浮かべている。厳つい顔付きな分、つぶらな目は可愛らしくも見えた。
ダリー・キングは上官と目が合うと機敏な動作で敬礼し、暫く黙り込んでいた。キースが煙草を持った片手を軽く上げて返すと、彼はゆっくりと、腕を下ろす。
「遅くなって申し訳ありません、艦長」
キースは大様に頷いて、にやけた笑みを浮かべた。怒られずに済んだと、内心安堵する。つられたのか、ダリーが笑う。
「いんや、早かったよ。手間掛けさせたな」
キースが立ち上がる気配を見せなかったので、ダリーは被っていた鉄帽を脱いで小脇に抱えた。
「いつもの事です。少し痩せましたか?」
「元々だ。状況を報告しろ」
はっ、と力強く答えて、ダリーはその場で足を揃え直した。キースは短くなった煙草の火を消し、新しいものを取る。
「現在第七艦隊は約半数が出雲本土へ進攻中。膠着状態が続いております」
周りを海に囲まれている為か、海軍本部の戦力は、他州の比ではない。物理的な数値は世界一を誇る雨には敵わないものの、あちらは兵の質がいい。几帳面な州民性の為か艦の一隻一隻がよく整備されているし、単純に命中率が高いから、数で圧倒しても到底敵いはしないだろう。
「我が軍は、本土治海には未だ」
「入れねぇだろうな」
ダリーが言い終わる前にそう言って、キースは銜えた煙草に火を点けた。一口目を味わうように深々と吸い込んだ後、煙を吐き出しながら問う。
「残り半分は?」
「各々基地内で、あなたの帰りを待っております」
あの司令官なら、そうするだろう。半分残しておけば、どうとでも動ける。ストライキ中は大変だっただろうと思うが、今は労っている暇もない。
待っていてくれた。その事実が、キースには嬉しかった。一人いなくなった所で大して支障はないし、キースは元々あまり艦にはいない。それでも、待っていてくれた。
満足げに笑みを浮かべると、ダリーはそれに応えるように頷いた。丸い目が、柔和に細められている。
「こっちはどうだ」
「三大将にあなたの不在を知らせたら、二つ返事でご協力下さいました。海の大将は、最初から訝っておられたご様子で」
「総司令官になるなんて、聞いてねぇって言ったからな」
元々、大将達は総知事を快く思ってはいなかった。幹部達がその手に落ちていた事も知っていたようだが、何しろ相手は大陸の知事だ。いかに支部の長といえど、手を打つ事は出来なかっただろう。
そうなるまでヘンリーを放置してしまった責任は、自分にある。だからキースは、この内戦を収めるのは自分でなくてはならないと思っていたし、自分にしか出来ないと自負している。
「大将は混乱に乗じて、総知事と癒着していた幹部達を粛清致しました。今頃は、陸が大陸庁を制圧にかかっている事でしょう」
上々だ。思い通りに行くと楽しいものだが、雨はどうなるのかという不安も、キースの中にはある。
この大陸には、出雲賢者がついている。今は敵対しているが、何があっても彼女がいるという安心感はあった。その甘えが、雨支部を反抗させた部分もあるだろう。
出雲が沈む事は、あってはならない。支部を挙げて進攻しても、潰してはならない。神などいようがいまいが関係ないが、出雲が終われば、この国は終わる。
「のんびりしてていいなら、ちょっと話聞いてけ」
ダリーは一瞬訝しげに眉間に皺を寄せたが、すぐに聞く姿勢を取った。彼のそういう所を、キースは気に入っている。
「出雲に、好きな女がいるんだ」
唐突な第一声だったが、ダリーは驚かなかった。代わりに、口を挟む。
「振られたのですかな」
「なんで分かるんだよ」
鼻の頭に皺を寄せて苦い顔をすると、ダリーは笑った。それでキースは再確認する。自分がこの先どんな理由で動いても、彼はついて来てくれるのだろうと。
ダリーはいつだってそうだった。賢者だからという理由ではなく、キースが艦長だから、黙って従っているのだと言うのだ。差別視される黒人である自分を冷遇も優遇もしないキースだから、ついて行くのだ、と。
「負けたんだよ、制度に。この国が、俺の恋敵だ」
「悔しいでしょう」
「ああ、そんなモンの為にフラレたかなかったよ」
この国を変えない限り、彼女は揺るがない。その為だけではなく、もう変え時にあるのだ。必要なのは、きっかけだけだった。
その為に、自分はどうすればいいのか。国に縛られた彼女と露の友人の為に出来る事は、ないのだろうか。その自問に、もう答えは出ている。
「この国にはもう、神は必要ない」
人は変わって行く。国という土台があってこそ人は暮らして行けるものだが、人なくして国は成り立たない。人が変わるなら、国も変わらなければならない。
姿を見せない統治者は、必要ない。飾り物の神は必要ないし、それを支える聖女も、もう要らない。そんなものがなくとも、人々は自らの意思で州を動かせるまでに立ち直った。まだまだ不安要素の残る部分もあるが、それを変える為に、国を変えるのだ。
「神主がいなくなれば、神は正常に機能しなくなる。こんな状況になってもだんまり決め込んでる神が、今更出て来るとも思えねぇ」
「しかし神主は、名前さえ分かりませんよ」
「そうさ、だから出雲の姫だ」
雨の軍人は、しばしば聖女を姫と呼ぶ。出雲内の情報機関にしか顔を出さない彼女を見た者は、雨州内には殆どいないから、外見から付けられたものではない。大抵は箱入り娘という意味の、蔑称として用いられる。
キース自身、陸が今の元帥に変わるまでは、彼女を箱入り娘だと思っていた。それだけではないのだと知って、あまり蔑称では呼ばなくなったが。
「聖女の居場所は分かってる。神主も実際どこにいるんだかさっぱり分からねぇが、聖女は絶対に大社にいる」
第三師団の師団長が代替わりした事は、キースも聞いている。彼女が大人しく引きこもっている筈もないから、正しくは要塞にいるのだろう。目的地が大社である事には変わりないが。
「聖女を拉致しに?」
「いや、説得だ」
ダリーは意外そうに片目を見張った。強行突破すると思ったのだろう。
「大社に乗り込んで、出雲脅す」
「それは説得とは言いません、艦長」
同じ事だ。キースはさも愉快そうに声を上げて笑い、煙草を床に捨てる。コンクリート打ちっ放しの床には、既に吸い殻が幾つか転がっていた。
この辛気臭い懲罰房とも、今日でお別れだ。目的が明確になった今、キースに迷いはない。
「聖女説得して、引かせる。それから制度を変えさせる。この国にはもう、神も賢者も必要ねぇ。賢者の時代は、華と伊太が出雲に宣戦布告した時点で終わってたんだよ」
華の指導者は賢者だったが、伊太はそうではなかった。未だ賢者に影響力はあるが、その為に起きた内戦ではなかったのだ。そして今回雨が仕掛けた理由も、神というよりは、出雲への反抗心から来るものだった。
人々の中から、統治者の意味は忘れられている。神格化された統治者は信仰の対象とはなるが、国を統べる者としては機能しない。今では、神は事実として語られる御伽噺のような存在に成り下がったが、昔はそうではなかった。
数十年も前、神は統治者として認識されていた。この国を賢者に任せ、ただ見守る統治者として。人々は尊敬心は持っていたが、今のような信仰心はなかった。
それと認識されないという事は、必要がないのと同義であると、キースは考えている。必要なら多少考えを曲げてもそうと認識するだろうし、届かないのに祈ったりはしない。人々が神に祈るようになったのは、ごく最近の事だ。
「出雲へ、向かうのですか」
ダリーの問い掛けに頷きながら、キースはタバコを挟んだ唇の隙間から、煙を吐き出す。
「出雲に行って、聖女を取り上げる。行くよ」
「賢者として、国を変えに?」
いいや、と短く否定して、キースはふと鉄格子の嵌った窓を見上げる。空はそろそろ、白んできていた。結局一睡もしなかったが、体調は平素と変わりない。キースは一日二日寝なくても、平気なように出来ている。
仄かに明るくなってきた空に、キースは光を見る。どんなに夜が長くとも、明けは等しく訪れる。当たり前の空に、背中を押されたような気分だった。
「軍人として、ただの人として、国に文句言いに行くのさ。出雲は俺を、そうは見ねぇだろうがな」
「逆にやり易くなるでしょう」
ダリーの声は、どこか楽しそうだった。浮ついたキースの口調が、伝染したかのように。
キースは枕元から煙草とライターを拾い上げた後、緩慢な動作で腰を浮かせながら、床に煙草を吐き捨てた。くすぶる火を爪先で踏み消し、立ち上がる。ダリーは扉から出て脇へ避け、その場で敬礼した。
「艦長、ご指示を」
数ヶ月ぶりに房から出て、キースは大きく伸びをした。長袖のシャツでは、少し暑く感じる。
「大将達に会いに行く。引き続き進攻を続けさせるが、雨の目的は俺の大社への到達だ」
「最終的な目的が現在の制度の廃止なら、他支部からの不満も出ないでしょうな」
「不満が出たって、知ったこっちゃねぇがな」
階段の脇で、憲兵も敬礼していた。聞いていたのかと、キースは些か鼻白む。
地下室に漂う黴臭い空気を打ち消すように小さく息を吐き、キースは横目でダリーを見た。彼は掌を下に向けて額に当てたまま、微動だにしない。まんまと騙されて捕まった情けない自分を信じて、彼は真っ直ぐに見詰めてくれている。
「力ずくで大社に乗り込む。ついて来てくれるかい、兄弟」
ダリーは敬礼していた手を下ろして体の左右に揃え、きっきりと腰を折った。下げられた頭を見下ろし、キースは目を細くする。
「お供致します、艦長」
力強い声が、キースの胸から喪失感を消して行く。まだ何も失ってはいない。友がいて、命がある。そして、愛しい人がいる。それだけで、まだ生きる意味はある。
喉の奥で低く笑い、キースは上階へ続く階段に、片足をかけた。