第八章 一つの終焉 二
二
日を数えるのも、嫌になっていた。大社を囲むように作られた巨大な要塞内部の詰所で、芙由は来る日も来る日も暇を持て余している。本来休憩を取る為の部屋なのだが、大抵いつも静かなので、彼女はずっとここで報告書を読んでいた。退屈で仕方がない。
近衛師団の軍人達の様子は、普段と大差がない。司令部が移されただけで、仕事内容は戦前とそう変わらないのだ。前回もそうだったが、近衛師団の管轄区には、未だ戦場となった地域がない。大社が無事であるに越した事はないが、ここにいると危機感がなくなって行くような気がして、芙由は嫌だった。
「戸守中将」
芙由が報告書を捲っていた手を止めて顔を上げると、声をかけた兵が、額の高さまで手を挙げて敬礼した。
「本日未明、第三師団が全部隊帰還致しました」
第三師団は本州から少し離れた島の防衛に出されていたが、進攻していた敵部隊が撤退した為、元の担当地域に戻される事となった。そろそろ時期だというのは、千春の弁だっただろうか。芙由はまだ早いのではないかと思っていたから、千春の考えは分からない。
「とうとう三個師団で固める気になったか……しかし早かったな」
「流石ですね。中将は、ここから指揮を取られるのですか?」
芙由は黙って首を横に振った。第三師団も、そろそろ指揮官の変え時だ。軍部に残る気ではいるが、もうあの師団には戻れないだろう。
芙由を陸軍本部の参謀部に、という話も出ている。本人としては別の師団に行きたかったが、元帥たっての希望だった。これ以上危ない目には遭わせられないという事だろう。
聖女の地位は捨てると、芙由はそう心に決めていた。この内戦が終結したら、ただの軍人として、新しい道を歩む。今更政治に関与する気もない。もう芙由は、聖女でなくてもいいのだ。そういう時代に、なってしまった。
「第三師団には戻らん。この大戦が終わるまでは、近衛師団の参謀部に厄介になる」
「むしろ、こちらがお世話になっている方ですが……」
近衛師団は他州民が多く配属されている師団だが、司令本部に限っては、出雲島民だけで固められている。他州民の考えが混じると、出雲のやり方には合わなくなるのだ。ただ、それに不満を持つ者もいたから、誰かしら止める者が必要だった。
近衛師団のそんな内情は芙由も話に聞いていたが、参謀部の会議に参加してみて、初めて重い状況にあるのだと知った。だから芙由が参謀部で一番に行ったのは、師団隷下部隊への顔見せだった。そういう時だけは、聖女で良かったと思う。
それと司令部に不満を持つ兵達への説得だけで、ゆうに三ヶ月はかかっただろうか。説得というより説教だったが、とりあえずは分かってもらえた。戦時下で内部に不満が出ていては、守るものも守れない。
「話し中かな?」
高いような低いような微妙な音程の声が入り口の方から聞こえると、芙由はすっくと立ち上がって振り返る。報告に来た兵は驚いたようにその場で振り返った後、即座に足を踏み鳴らして揃え、姿勢を正して敬礼した。士官学校の卒業者は、逐一動作が大仰だ。
「うるさい、足を鳴らすな」
横目で睨むと、彼は青い顔をした。芙由は上級部隊指揮官の資格が必要な佐官までは叩き上げで昇級したので、士官学校へは行っていない。だから彼らの無意味なこの動作が、理解出来なかった。
「し、失礼しました」
「あまりエリートを虐めるんじゃない」
咎める言葉だったが、千春の声は楽しそうだった。白の単衣に濃紫色の表着を羽織った彼女の手には、箱らしきものが包まれた風呂敷が提げられている。
「少し出られるかね?」
言いながら、千春は背を向ける。芙由が断るとは思っていないのだろうが、相変わらず自分勝手だ。
はいと返して椅子から離れ、芙由は部屋を出て千春について行く。芙由は暇だからいいとして、千春は忙しいのではないかと思ったが、嫌な顔をされそうなので聞かなかった。千春は書類を書いている時よりも、議員相手に弁論している時の方が楽しそうだ。
要塞を出ると、外はジャケットを着ていては暑く感じる程暖かかった。もうそんな時期だっただろうかと考えながら、芙由は濃緑色の背広を脱ぐ。まだ冬のような気でいたが、よくよく考えてみれば、もう三月も後半に差し掛かっている。
代わり映えしない大社のホールは、閑散としていた。島民が殆ど避難しているから、職員の姿しか見受けられない。その職員達も処理に奔走しているようで、誰もが足早にホールを通り過ぎて行く。のんびりしていた大社も、忙しくなってしまったものだ。
受付嬢がお帰りなさいと言うのに頷いて、千春は真っ直ぐエレベーターへ向かった。四つ並んだ扉の一番右端、職員用エレベーターを選び、千春は上矢印の書かれたボタンを押す。彼女の執務室は一階だから、エレベーターを使う必要はない。どこかへ行くのだろう。
敢えて何も聞かず、芙由は千春に続いてエレベーターに乗り込む。行き先よりも、風呂敷包みの中身の方が気になっていた。
着いた先は、最上階だった。千春は振り向きもせずエレベーターから出て、廊下を進む。行き先はもう、芙由には見当がついていた。
千春は廊下の突き当たりにある非常階段に続く扉を開け、更に上へ向かう。階段の上には取っ手のない鉄扉があり、脇の壁にはカードキーを差し込む機械がある。千春はその蓋を開けて、中の窪みに人差し指を入れた。
取っ手のない扉が、微かな機械音と共にスライドする。開いた扉から差し込む外の光に、芙由は目を細めた。扉の向こうには、雲一つない青空が広がっている。
大社の屋上へ出られるのは、限られた職員だけだ。大抵誰もいないから、千春は暇を見つけては屋上へ出ている。職務放棄だと芙由は思っていたが、秘書が言うには、ここで仕事をしている事もあるようなので、気分転換なのだろう。
「風が強いな」
はためく袖を押さえながら、千春は屋上へ出て呟く。風は強いが、日差しは暖かかった。階段室の壁の裏へ回ると少しは風も遮られたので、芙由はそこに腰を下ろす。
「もう、春ですから」
千春は芙由の隣へ腰を下ろし、風呂敷包みをほどいた。中から漆塗りの重箱とお茶のペットボトルが二つ現れ、芙由は首を捻る。怪訝な表情を浮かべる彼女を見て、千春は笑った。
「気が滅入るから、作った。食べなさい」
千春は蓋を開けて風呂敷の上へ一段一段重箱を並べながら、そう言った。三段の重箱には、どう見てもお節としか思えない料理が詰まっている。
千春はいつもそうなのだ。真夏にチゲ鍋を作ってみたり、秋も深まった頃に冷やしラーメンが食べたいと駄々をこねてみたり、季節感が全くない。そのくせ、年越し蕎麦を食べないと年末という気がしないと、我が儘を言ったりもする。ただ単に、人を困らせるのが好きなだけかも知れないが。
「この忙しい時に、何をなさっているんです」
芙由は言いながらも箸を割って、八頭の煮物を摘んだ。どこか懐かしいその味付けに、ふと口元に笑みを浮かべる。
「忙しい時だから、だよ」
千春の理屈は芙由にはよく分からなかったが、次に摘んだ数の子が美味かったので、何も言い返さなかった。美味ければいいのだ。
風はまだ少し冷たかったが、気温は暖かい。小さい頃はよく家族で弁当を持って公園に行ったと、芙由は懐かしく思う。
あの頃は、平和だった。今の世界の混乱など知る由もなく、愛情深い両親と優しい姉に囲まれて、芙由は満たされていた。両親は忙しかったが、暇を見つけては、姉妹を外に連れ出してくれた。
芙由が歳をとる事を忘れたのは、二十代の頃だった。とうに成長期を過ぎていたから、正確には何歳の時だったのか、芙由自身分からない。時は過ぎて行くのに見た目は変わらない事が、少し、怖かった。しかし不思議な事に、百を越えた頃には、逆に老いる事が恐ろしくなった。
いつしか、不変に慣れてしまっていた。見慣れた自分が変わる事を、今は恐ろしいと思う。そして今までずっと変わらなかった世界が、変わって行こうとしている事も。
今更になって、あの頃に戻れたらと、そう思う。戻ってどうしたい訳でもないが、懐かしい記憶が愛しくて、切なくもあるのだ。
「カークランドの消息が掴めない」
家族が揃っていた頃の思い出に耽っていた芙由は、昆布巻きを口に放り込みながら千春へ視線を向けた。何故いつもこう唐突なのだろうと思うが、千春はいつもそうだ。元から、この話をする為に連れ出したのかも知れないが。
「死んではいないでしょう」
事も無げに返す芙由に、千春は呆れた顔をした。
「心配していたのはお前だろう」
「安否の心配はしていません。死にたがっているなら、勝手に死ねばいいと思っています」
強がった訳ではなく、実際そう考えていた。生きていようが死んでいようが、芙由が知った事ではない。出来れば死んでいて欲しくはないと思うが、死んでいるとは思えなかった。彼が今死にたがっているかといえば、そうではないだろうとも思う。意に反する状況にあって、何の策も講じずに死にたがるような男ではない。
キースというのは、そういう人間だ。負けず嫌いと言えば、そうだろう。思い通りに行かなくとも駄々をこねるような性分でもないが、意に反する事があれば、例えそれが信条に反するとしても抵抗する。だから、生きていない筈がない。
「死んで欲しくはないのだろう」
芙由は黙って頷き、ペットボトルの蓋を開けた。三段の重箱にきっちり詰め込まれていたおせちは、もう粗方食べ尽くされている。芙由も千春も、よく食う上に食べるのが早い。
「ええ。死にたいのなら、私が殺します」
ああ、と溜息混じりにぼやくついでに、千春は栗きんとんを口に入れた。彼女の作る栗きんとんは恐ろしく甘いので、芙由は手をつけないようにしている。
「お前はそういう愛か」
それを愛と呼ぶのだろうかと、芙由は疑問を抱く。好きだからというよりは、腹が立つから殺してやりたいと思うだけだ。腹が立つのは、好きだから、なのかも知れないが。我ながら歪んだ性格だと思うが、今更矯正も出来ない。
芙由が彼に何かした事が、あっただろうか。罵って振って、一方的に跳ねつけただけだ。それでいいのだと思っていたし、それで諦めてもいた。
けれど、後悔はしている。自分がもう少し己の感情に素直だったら、また違っていただろうかと、そう思う。自分の感情のままに動けていたなら、もしかしたら、今内戦は起きていなかったかも知れない。それが出来ないから、今こうなっているのだが。
「カークランドが総知事にまんまと利用されたのなら、奴は罪には問われないでしょう」
「案外強かな事を言うな」
芙由はペットボトルに口をつけながら、視線だけで千春を見て笑った。千春はその表情を見て、赤い唇に笑みを浮かべる。
「あなたに似たんです」
にやけている場合でもないが、暫くそのまま、二人で声を漏らして笑った。お節を食べながら喉を鳴らして笑う女二人は、傍から見れば気味悪かっただろう。
愛しい人がいる。それが芙由を変えた。国の為には生きられなくなったが、彼のいる国を、守りたいと思った。意地でも義務でも自分の為でもなく、本当に、誰かの為に守りたいと思えた。それだけは、思慕の情を抱いてから改善された事だ。
重箱の蓋の上に箸を置いて立ち上がり、芙由は屋上を囲むフェンスに歩み寄る。身長より高い位置まで張り巡らされた金網越しにも、空は青かった。
春の空は、どこかぼやけたような色をしている。曇りガラス越しに見たような青空で、雀が三羽、踊るように飛び回る。まだ少し、空気が乾いていた。
強い風に吹かれ、背中で束ねた長い髪が舞い上がる。真っ直ぐな黒髪は、春の柔らかな日差しを反射して、濡れたように艶やかな光を放っていた。芙由は視線を落とし、眼下に広がる軍事基地と大社の周囲を囲む竹林を見た後、どちらからも目を逸らして金網に額をつける。
「ここは、静かですね」
細い指がフェンスを掴んで、鉄線を握る。近付いた金網からは、つんと鼻を突く鉄錆の臭いがした。
「ここからは、何も見えぬ。戦場も、人の姿も」
「ですが、見なければいけません」
見たくはないものから目を逸らしていたら、いずれは何も見えなくなる。何も見たくなくとも、見なければならないものはある。
この国がどんな時期にあるのかも、神が何故、この地に軍事基地を集めたのかも。自分の本当の意味も、本当は何を意味としたいのかも。総じて答えは出ているが、芙由は見ないようにしていた。
「参戦してきた支部の情報は、行っているか?」
視線を落としたまま、芙由は短く肯定の言葉を口にする。
阿弗利加の一部が武装蜂起した事も、亜細亜がそれを止めようと立ち上がったのも、聞いている。どちらの内情も芙由はよく知らないが、軍部を見る限りでは、どちらが有利とも言い難いだろう。
出雲側についている亜細亜総知事を説得したのは、陳だったのだろう。亜細亜大陸内では戦争自体を神への反抗と捉えていたから、どの支部の大将も、総知事さえも、軍を動かす事に難色を示していた。千春は陳を嫌っていたが、その手腕は買っていた。だから芙由も、陳が説得したのだと考えている。
「聞いています。世界大戦と、呼ぶべきでしょうか」
「内戦だよ。この国が一つである限りはね」
国として統一されたから、制約が多い。それがなくなった今、内戦は激化する一方だ。護り易くはなったが、壊すものも大きくなってしまった。
「雨へ進攻した三支部は、苦戦しているようですね」
「あそこは海軍が強いからね。流石にカークランドがいただけの事はあるか」
「賢者とはいえ、大佐風情に軍全体の力量に関する影響力はありません。空母が五隻もあるからでしょう。かねがね無駄だと思っていましたが」
金の無駄遣いだと再三注意していたが、結局押し切られた結果が五隻の航空母艦だ。ロスト以前よりは遥かに縮小したとはいえ、未だに雨の軍事力は本部である出雲を上回っている。
強ければいいという思考は、芙由には理解出来ない。防衛する以上の力を有する必要など、ありはしないのだ。
雨を屈服させるのは、並大抵の努力では済まないだろう。今の所は出雲も他支部からの応援も、なんとか踏みとどまってくれているが、それでは終わらない。勝たなければ、終わらないのだ。
まともにやり合えば、長い戦いになるだろう。まともにやる気はないし、このままの拮抗状態が続くとも、思ってはいない。
「来るでしょうか」
金網に額をつけたまま、芙由は俯く。小声の問い掛けだったが、千春は力強く肯定した。
「来るさ。あれがお前を忘れていなければね」
今はただ、胸を空にさせる離別の言葉だけが、芙由を苛む。あれ以外、何と言えただろう。他には何も思い付かず、虚になった胸には何も浮かばない。ただ、指先がひどく冷えているのだけは分かる。
独り善がりで、どうしようもなく馬鹿だった。自分に嘘を吐き続け、失う時になってようやく、大事なものだと気が付いた。あの戦場で国を忘れたのは、心細かったからではない。何を捨ててもいいと、そう思ってしまったからだ。
芙由の背を暫く見詰めた後、千春はおもむろに空になった重箱を片付け始めた。彼女は常に何かしていないと、落ち着かない性質なのだ。
「だが、出雲は負けてはならぬ」
強い口調だった。芙由は背中を向けたまま、ゆっくりと頷く。
「こうなるまで気付けなかった落とし前は、私達の手でつけなければなりません」
他の誰かに改革を任せてはならない。道を示すのは、最後のその瞬間まで神でなくてはならない。今までの歴史の全てを、否定させない為に。
キースは必ず、ここへ来る。ここへ乗り込んできて、神を否定するだろう。最終的に彼の要求どおりになるとしても、彼の言い分を呑んではならない。この国の制度を変える時は、出雲の判断で変えた事にしなくてはならない。
それが、この国の統治者が何よりも望む事なのだ。
「止めようにも私には、奴を止められぬだろうな」
「私が止めます。力ずくでも」
金網の外へ視線を移すと、大社の中庭が見えた。植木屋以外誰も知らないが、竹林に囲まれた一角、建物からの死角に当たる位置に、中庭がある。
そこには大きな桜の木が、一本だけ植わっている。芙由の位置からでは張り出した枝が僅かに見えるばかりだが、薄紅色に色付いているところを見ると、そろそろ開花するのだろう。咲いたとしても、今年はゆっくり花見など出来ないだろうが。
「私、戸守の名を捨てます」
肩越しに振り返ってそう言うと、千春は目を細めて微笑んだ。許してくれるのだろう。
「もう、必要なくなるだろうよ。お前にも神主にも、私にも」
「必要がなくなれば、いずれこの国から、神は忘れられるでしょう」
芙由は体ごと千春を振り返って、笑顔を見せた。千春は黙ったまま、頷く。
そういう時代になった。神は旧時代の神として、最初から存在しなかった者となるだろう。けれど、それでも構わない。
「それでも私は、覚えていますから」
「忘れてはならぬよ。この国を一から建て直した、偉大な人なのだから」
神は今も、この国にいる。けれど、その存在は人々の中から忘れ去られて行くだろう。神話として語られるだけに、止まってしまう事だろう。
それで構わない。そうなる事を望んだのは、神自身なのだ。
「あなたも、忘れないでしょう」
久しぶりに、晴れやかな気分だった。芙由は浮かべた笑みを絶やさないまま、一拍置いて再び口を開く。
「お母様」
何十年か振りに、芙由は千春をそう呼んだ。この国の全てを知る賢者は、ただ、優しく微笑んでいた。