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神の国  作者:
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第八章 一つの終焉 一

 一


 身を切るような風と夜の森を覆う冷たい空気が、容赦なく体温を奪って行く。本土と比べれば南寄りの島だから、それでも増しではあるが、ずっと伏せた姿勢でいる為か、手足の動きが鈍くなっている。迷彩戦闘服の厚い生地越しに腹に触れた地面は、ひどく冷たかった。乃木は腹が弱いから、この時期は腹巻きが欠かせない。

 数日前に負傷した腕が鈍く痛み、気になって仕方がない。この程度の怪我で弱気になっている場合ではないと、分かってはいるものの、気が散っていた。この地に残る敵拠点を潰しきったら、第三師団は大社周辺地域の警戒に戻る。潰しきれなければ、まだまだこの森が広がる孤島で、体力的にも精神的にも厳しい残党狩りとなる。どちらにせよ、憂鬱である事には変わりない。

 暗視ゴーグルをつけた視界の端を、小さな影が放物線を描きながら通り過ぎる。動物が冬眠に入る時期とはいえ、森の中は小虫や風に揺れる木々のざわめきで、騒がしかった。無線から聞こえる声は煩わしいが、木々の声は好ましく感じられる。呑気にそんな事を考えている場合ではないのだが。

 ふと見上げると、方々に枝を張った木の上に、偵察兵の姿が見えた。この辺りには狙撃兵もいた筈だと位置を確認しようとした所で、遠くから微かに銃声が聞こえる。乃木は反射的に小銃を構えかけたが、音の響き方から近くではないと思い直し、周囲を見回す。

 視界には、体温を持ったものの姿は何も映らない。それでもどこからか、立て続けに発砲音が聞こえてくる。乾いた空気に反響し、位置が掴めなかった。弥が上にも不安を煽られ、鼓動が速くなって行く。

「乃木悪い、ここからじゃ見えない。連絡待とう」

 無線から聞こえたのは、木の上にいる偵察兵の声だったのだろう。木々は殆ど裸になっているとはいえ、これだけ大木が密集していれば、見辛い筈だ。

「いいよ、すぐ無線が……」

 言いかけたところで、無線から慌てた北村の声が聞こえた。彼が潜伏している位置なら把握しているから、乃木は応援を要請する声に、短く了解と答える。見つけたのか見つかったのかは定かではないが、残党と戦闘になったのだろう。

 懐炉を大量に仕込んでいたにも関わらず全身が冷えて、硬直していた。夕飯を食べ損ねたせいだろう。動かない体に鞭打って立ち上がり、身を屈めた姿勢で、乃木は走る。何かあってはいけない。北村がいる辺りには、キアラもいるのだ。

 乃木はいつしか、彼女が好きになっていた。戦場で抱いてはならない感情だと分かっていたが、一度自覚すれば止められようもない。心の中に押し込めておくべき恋心が、弱気だった彼を変えたのも事実だ。今の乃木は、彼女の為に戦っている。

 それは軍人としては、間違った感情だろう。しかし乃木個人にとっては、国の為と言うより遥かに現実的だ。護国の思想を忘れた訳ではないが、そうして大言壮語するよりは、ずっと分かりやすい。

 銃声が近付く。暗視ゴーグルをつけた乃木の視界に、ぼんやりとした人影が映った。走りながらゴーグルをずらして、肉眼で敵である事を確認する。迷彩の柄と鉄帽の作りが本部のものと微妙に違うから、肉眼で確認すれば判るのだ。

 気付かれていない内に一旦木の陰へ隠れて、乃木は銃を構える。この距離なら、当てられる。

 木々の隙間に見える敵兵の背中へ狙いを定め、銃弾を撃ち込む。一発目が当たった瞬間弾かれたように乃木を見た兵の表情は、暗くて確認出来ない。けれど迷彩服に広がる黒い染みは、はっきりと見えた。その体がぐらついたのを確認してから木の陰から出て、未だ銃声の聞こえる方へ駆けて行く。

 無線から、雨州のスラングが絶え間なく聞こえる。口汚く罵っているのを聞く限り、優勢であるのはこちらなのだろう。

 木々の隙間を縫って獣道へ出ると、やっと味方の背中が見えた。乃木は流れ弾を避けるように迂回して身を低くしたまま進み、敵兵を目視出来る距離まで近付いた所で、手近な木の陰へ入る。木々の間に見える敵へ向かって撃ち込むと、異州語の怒鳴り声が聞こえた。

「乃木、右手!」

 誰かが叫ぶ声に反応して、乃木は咄嗟にしゃがみ込む。右手側から放たれた銃弾が肩を僅かに掠め、頭上を通り過ぎた。屈んだ姿勢のまま上半身を捻って銃弾が来た方向へ構えた時には、背後から飛んできた銃弾が、木の陰に隠れた敵兵の腕を捉える。相手が銃を取り落とした隙に、乃木も顔に狙いを定めて発砲する。

 迷彩服の首元に、どす黒い染みが広がって行く。木に頭を打ちつけるように倒れ込んだ敵の姿を確認した後、乃木は背後の味方へ目配せして頷く。

 隠れた木を銃弾が穿ち、表皮を剥がして行く。乃木は息吐く間もなく銃弾が飛んできた方を向いて、木の陰から銃身を出して発砲する。肉眼で確認出来る範囲に、まだ四五人はいるだろうか。

「銃を捨てて投降しろ! 本拠点は我々が制圧した!」

 キアラの怒鳴り声が聞こえたが、そちらを確認出来るような余裕は、乃木にはなかった。反動を押さえる為に脇へ挟み込んだ銃身から伝わる振動が、空っぽの胃を刺激する。移動しながらでも何か腹に入れておけば良かったと、後悔した。

 腕を足を、銃弾が掠めて行く。二の腕が痛むが、構ってはいられなかった。まだ投降しないのかと、乃木は焦燥感を抱く。

「小隊長避けて!」

 誰かの声が響いた瞬間、乃木は弾かれたように視線を敵から逸らした。前方の木の陰にいたキアラが、咄嗟にその場から飛び退く。上半身を先に倒した為か、その場に残った左足に銃弾が食い込んだ。着弾点から僅かに赤黒い飛沫が飛び、キアラは顔をしかめる。

 太股の裏へ着弾した銃弾は、貫通して木に当たった。狙撃兵の仕業だろう。まだ残っていたのかと驚くと同時に、頭に血が上る。

「狙撃手発見!」

 手にした銃を握り締め、乃木は一歩、足を踏み出した。しかし無線から聞こえた声に我に返り、周囲を見回す。

 狙撃兵が発見されたせいだろうか。残っていた敵兵は、全員銃を捨てて両手を上げていた。敵側からしてみれば狙撃手のいる戦場は動き辛いが、味方にとってはそれほど心強いものもない。一方で、敵はおろか、味方からさえ嫌われる事もあるが。

 終わったのだろうか。乃木は安堵感に胸をなで下ろしかけたところで、はっとしてキアラに駆け寄った。既に隊員が傷の具合を確認している。

 キアラは近付いてきた乃木を見上げて少し笑って見せてから、視線を敵兵の方へ向けた。

「私は大丈夫。一旦捕虜を連れて、拠点へ戻ろう」

 言いながら、キアラは木の幹を支えにして立ち上がる。乃木は言われるまま投降した兵の下へ小走りで駆け寄り、背中を叩いて促した。雨兵は、黙って乃木に従う。

 彼らは何を思って戦っているのだろうと、乃木は思う。捕虜はすぐに憲兵に引き渡すから聞いた事もないし、聞くのも怖いような気がしている。消沈した様子の彼らを見ていると、何も言えなくなってしまうのだ。

 雨支部が反抗したのは、不満を鬱積させた為だと聞いている。本当に、それだけなのだろうか。それだけで、戦争を仕掛けて来るものなのだろうか。雨州民とは元々気質も考え方も全く違うから、乃木に理解出来なくて当然なのかも知れないが。

 拠点には別行動を取っていた同僚達が既に戻っており、何故か大騒ぎしていた。帰還した班員の姿を見るなり、彼らは歓声を上げて駆け寄ってくる。

「何、どう……ぶっ」

 乃木は怪訝に思って問い掛けようとしたが、飛びつかれた衝撃で何も言えなくなった。思いきりぶつかって来られたせいで後ろへ倒れそうになったが、すんでのところで踏みとどまる。踏ん張った足の傷が痛かった。

 肩に包帯を巻いた同僚は、乃木に抱きついて背中を軽く叩いてから、ようやく体を離した。彼の喜色満面の笑みを見て、乃木は更に怪訝に首を捻る。

「お前ら、やったな!」

「何が?」

 問い返して周囲を見回すと、同じような手厚い歓迎を受ける班員達が見えた。北村が日焼けした黒い顔をしかめ、心の底から嫌そうな顔をしている。

 支えられて帰還したキアラには流石に誰も飛びつかなかったが、小隊長補佐が彼女に歩み寄り、大袈裟な手振りで敬礼した。普段から真面目な彼の顔にも、笑みが浮かんでいる。益々訝しい。

「お疲れ様です、小隊長!」

「ご苦労様。あっち、撤退したの?」

 キアラの問い掛けを聞いて、乃木はようやく気がついた。あれで最後だったのだ。つまり、この地は守りきった。

 よくよく見てみれば、天幕の間に簡易テントが張ってあり、駐在課の軍人達と島民達がいた。大鍋が置かれてあるから、夜食を作ってくれていたのだろう。今日は眠れないに違いない。

「雨支部の部隊が、この島から完全に撤退しました。警備は引き続き駐在課と、海軍が行うそうです」

「じゃあ、私達は……」

「本土帰れるんですか!」

 声を上げたのは、北村だった。補佐は笑みを浮かべたまま、彼に向かって頷く。乃木は目の前にいた同僚と顔を見合わせ、笑った。

「本土帰れるぞー!」

「帰るぞー!」

「師団長ー!」

「やりました師団長ー!」

 真っ先に師団長と叫んだのは、やっぱり北村だった。

 口々に声を上げる部下達を見て、キアラが呆れたように力なく笑った。或いは、気が抜けたのかも知れない。

 乃木は師団長コールに乗り遅れて、呆然としていた。何も終わった訳ではない。なのに何故、こうも呑気でいられるのだろうか。

 騒いでいる内に衛生兵が駆け寄ってきて、負傷者を集めていた。乃木も手足を撃たれていたが、腹が減っていたので迷う。痛いには痛いが、大した怪我でもない。

「乃木、ケガ消毒しないと」

 衛生兵に肩を叩かれ、乃木は情けなく眉尻を下げた。

「おなかすいた」

「怪我の手当てが先だよ」

 キアラに咎められ、乃木は渋々ついて行く。滅菌カバーで覆われた衛生班の広い天幕に入って、硬い仮設ベッドに腰を下ろすと、余計に腹が減ってきた。重傷者はすぐに野戦病院まで運ばれるから、ここには軽傷者しかいない。

 大きな怪我こそしないものの、乃木は日々生傷が絶えない。隠れるのは上手いのだが、鈍くさいのだ。衛生兵には女性が多いので、年中彼女達のお世話になっている自分が、余計に情けなく思えてくる。

「ベルガメリ小隊長、大丈夫?」

 手当てしてくれていた女性衛生兵にそう聞くと、彼女は首を捻って天幕の端へ視線を遣った。

「弾は貫通してたし、当たり所も悪くなかったみたいだし、歩けなくなるような事はないんじゃない? はい、いいよ」

「ありがとう」

 利発そうな顔立ちの若い女性兵は、笑って頷いた。その表情に、キアラの笑顔が重なる。全く似ていないというのに。

 動揺するようでは駄目だ。彼女の為に手足となって戦うと決めた事で、感情を自覚する事を認めたというのに、これでは駄目なのだ。我を忘れてしまったら、迷惑をかけるだけではないか。

 乃木は重い腰を上げ、天幕を出る。外では鍋を囲んでの、宴会が始まっていた。思わず脱力する。

 ひとまずここは守りきったとはいえ、まだ戦争が終わった訳ではない。また雨側に付いて参戦してきた支部もあるというから、寧ろ激化する一方だ。それを忘れているのだろうか。忘れた振りをして、騒いでいるのだろうか。

 忘れる事は出来ない。乃木は山盛りのカレーが入った皿を、配給に来た駐在課から受け取りながら、そう考える。

 こうしている間にも、世界のどこかで誰かが戦って、死んでいる。誰かが同じ国の中で戦い、誰かが同じ国の人の手によって殺されている。それを忘れる事など、出来はしない。

 乃木は、恐れている。この国が変わる事を。それによって、失われる事を。だから、負ける訳には行かない。戦場にいる自分達が死ぬ気で守らなければ、雨側の思い通りに、この国は変えられてしまう。それだけは、絶対に許せないのだ。

 何も出来ないから、乃木は従軍した。それによって自己を保っていた部分が、少なからずある。だから軍に意味を求めたし、しつこく千春を問い質した。何故、軍でなくてはならなかったのかと。その疑問に答えを出す事で、軍にいる意味を保とうとした。結局全て自分の為なのだと、心のどこかでは気付いていた。

 宴会に混じる気も起きず、乃木は誰もいない天幕に入った。裸電球を点けると、屋内は黄色く照らされる。片手に持っていた装具と小銃を自分の荷物に寄せて置き、その側に座り込んだ。

 手元の皿から、カレーのいい香りが漂ってくる。大きく切られた野菜と豚肉がごろごろと入ったカレーは、懐かしい母の味を思い起こさせた。ふっくらとした白米の甘い香りと混じり合い、忘れていた空腹を刺激する。

 乃木は悩んでいた全てを忘れ、カレーをかき混ぜた。白い部分がなくなるまで、一心不乱に混ぜた。そして一口分というには多い量をスプーンに掬い、口元へ運ぶ。

「乃木君?」

 乃木はお預けを食らった犬のような顔をして、スプーンを運ぶ手を止めた。天幕の入り口に、皿を持ったキアラが立っている。

「……あ、ごめん」

 悲しそうな乃木の表情を見て、キアラは謝った。乃木は黙って左右に首を振る。鼻先をくすぐるカレーの匂いが、乃木を呼んでいた。

 キアラは乃木が持った皿を見て、首を傾げた。その仕草を見て、カレーに気を取られていた乃木は慌てて皿を手元に引き戻す。カレーを混ぜると、嫌な顔をする人もいる。

「混ぜるんだ」

 片足を庇いながら乃木の隣に腰を下ろして、キアラは意外そうに呟いた。少し訛りの残る声が、拙くも感じられる。

「はい……」

「私も混ぜるの」

 驚いてキアラを見ると、彼女は少し笑ってカレーを混ぜ始めた。乃木はキアラの横顔を眺めながら、鼻が高いとぼんやり思う。乃木の鼻は潰れ気味だ。

 一つに結んで体の前に垂らされたキアラの髪は、少し傷んでいるように見えた。髪の明るい赤褐色と、暗緑色の迷彩服との対比が、目に痛い。

「いただきます」

 キアラがスプーンを口に運ぶのを見て、乃木はつられてカレーを口に入れた。そして懐かしくも感じられるその味に、涙が出そうになる。ここ暫く、温かい食事が出来なかったせいもあった。

 カレーとは、こんなに美味いものだったのだろうか。週に一度はカレーを食べている海軍を羨ましくも思うが、あちらも今は缶詰しか食べられないだろう。そう考えると、乃木は陸で良かったと思う。

 二人はそのまま暫く、無言のまま食べ続けた。キアラも空腹だったのだろう。

「伊太のパスタが一番だと思ってたけど、出雲のご飯も美味しいね」

 乃木は口いっぱいにカレーを頬張ったまま、力強く頷いた。そして皿に残った中身を一気にかき込み、ゆっくりと息を吐く。空腹が満たされた事で、気分も落ち着いた。そしてふと、キアラを見る。

「……小隊長、足は大丈夫なんですか?」

 キアラは口の中に残っていたものを飲み込んで、苦笑した。

「大丈夫、ありがとう」

 淡いグリーンの目を細めた彼女の皿には、まだ中身が三分の一ほど残っていた。彼女は食べるのが遅い。

 返答に安堵して、乃木は水筒から水を飲む。腹が一杯になって温まった体には、ひどく冷たく感じた。頭が冷えたところで、疑問を抱く。

 キアラは何故、ここにいるのだろうか。

「あの……小隊長」

 迷いはしたが疑問に思うと聞かずにいられないので、乃木は恐る恐る問いかけた。キアラは咀嚼しながら首を傾げる。

「なんで、ここに?」

「……君こそ」

 問い返されて気まずくなり、乃木は視線を逸らした。宴会に混ざりたくなかったと素直に言っても、いいものだろうか。協調性がないとも取られかねない。キアラがそのぐらいで怒るとは思わないが、心証を悪くしたくなかった。

 それも上官だからではなく、思慕の情から来るものだ。良く思われていたいとは、我ながら子供じみていると、乃木は思う。これが初恋でもないのに。

「呑気にしてていいのかなと……思うんです」

 乃木は迷った末に結局、本音を口にした。変にごまかすのも、妙だと思ったのだ。

「戻れるって言っても、別に内戦が終わった訳じゃないです。他の支部も、別の師団も、まだ戦ってます。それなのに、騒いでていいのかと……」

 ついこの間まで、戦争というものは他人ごとだった。歴史の教科書や、映画の中にしかないものだった。それが今は、天幕の外の喧騒の方が、他人ごとのように感じられる。

 本土にはまだ、侵入されていない。けれどそこは戦場だ。戦時下に警戒している限りは、乃木にとってはどこも戦場なのだ。

「乃木君は真面目だね」

 座っても少し目線の高いキアラを見上げると、彼女は穏やかな微笑を浮かべていた。細められた目が眩しくて、乃木はすぐに視線を逸らす。

 乃木はよく、そう言われる。けれど自分自身を真面目だと思った事は、ただの一度もない。臆病なだけなのだ。臆病だから、些細な事でも考え込んでしまう。

「怖がりなだけです。僕は……」

「皆怖いから、ああして騒いでるんじゃないかな」

 乃木は怪訝に眉根を寄せて、視線を逸らしたまま首を捻った。胡座をかいた膝に乗せた皿を、無意味に指先でつつく。キアラと二人になったのは初めてだから、落ち着かなかった。

「ただ戦ってる内は良かったけど、一段落ついたら、不安になっちゃったんじゃないかな……私もそうだけど」

「小隊長も、不安なんですか?」

 俯いたまま問い掛けると、視界の端に頷くキアラが映った。彼女も乃木に視線を合わせず、下を向いて膝を抱えている。

「ずっと、不安だよ」

 小さな声が、乃木の胸を詰まらせる。自分だけが気にしているのだと勘違いして、騒ぐ同僚達を軽蔑していた。今騒いでいる彼らは、現状を忘れているのだと、そう思っていた。しかし、そうではなかったのだ。

 不安を抱えているのは、誰もが一緒だ。自分の中の不安を打ち消す為に、阿呆のように騒いでいる。またこの島へ侵攻されるかも知れないのに、本土へ戻されるという事は、いよいよ侵入される可能性があるという事なのだとも取れる。

 乃木にはそれが、怖かった。ここが一段落しても、まだ戦争は続く。仲間の死を何度も見て、乃木自身、何度も命の危険に晒された。こんな事がまだ続くのかと思うと、誰でも弱気になるだろう。怖くて堪らないのは、乃木だけではないのだ。

 誰もが恐れているから、今だけは、忘れる為に騒いでいる。それでもやっぱり、乃木は参加する気にならない。結局一緒になって騒げないまま、暗い顔をしてしまいそうな気がするからだ。終わりの見えない暗い時代に生きている事が、何よりも、恐ろしかった。

「何の為に戦っているのか、分からなくなっちゃった」

 独白のような呟きを聞いて、乃木は思わずつついていた皿の端を握った。プラスチック製の皿の上に乗せたスプーンが揺れ、小さな音を立てる。

「最初は欧州賢者様の為に、伊太を護りたいと思ったの。でも出雲に来て芙由様と話して、この国の人を守るんだって思い直した。でもそれって、なんだかぼんやりしてて難しいんだ」

 国の人を守るというのが、曖昧な理由だと言いたいのだろう。乃木もそう考えていたから、気持ちは分かる。

「欧州賢者様の為なら、良かったんだ。個人だから。芙由様の下でなら、守れるんだとも思ってた。でも今は、分からないんだ」

 この国の、不特定多数の人を守る。芙由は確かにやってのけたが、それが一歩兵にも出来る事なのかどうかは、乃木にも未だに分からない。芙由がいなくなった事で、余計に不安が大きくなってしまった部分もある。

 キアラの気持ちは分かる。けれど乃木は、悔しかった。自分がキアラの為に戦っているからではない。同じ気持ちでいて欲しいと願うほど、乃木は傲慢ではない。

 彼女は小隊の為に戦ってくれているのだと、乃木は思っていた。それが、延いてはこの国の人を守る事に繋がるのだから、そうであって欲しいと願っていた。しかし、そうではなかったのだろうか。

「……小隊長は」

 情けない自分の声を聞いて、乃木は思い直した。そうではない。キアラは、不安なだけなのだ。信じた人がいなくなり、怪我もして、これからどうなるかも分からないでいる。そんな現状に不安を抱く彼女を、責めてはいけない。

 視界の端に映るキアラは、唇を引き結んでいた。視線を合わせる事もしないが、乃木の言葉を待っているのだろう。乃木は皿を膝の横に置き、姿勢を正す。

「小隊長は、僕らの為に戦って下さい」

 どんなにこの国を愛していても、こんなに大きなものを守れるとは思えない。ならば国の基幹となる国民を守ろうと思って戦っても、守る事が出来ているのか分からない。それなら一番近くにいる人を、守ればいい。

 それは諦めかも知れない。無理につけた理由なのかも知れない。それでも国の為に、大事なものの為に、戦う理由にはなる。国の為だけでは、大きすぎて実感が湧かないのだ。

「……君たちのために」

 視線を落としたまま言葉を反芻したキアラに、乃木は頷いて見せる。

「僕らは小隊長の下で、仲間と一緒に戦います。国の為に戦う為に、仲間と生き残る為に。大事なものの為なら、頑張れますから」

 本音は、乃木には言えなかった。曖昧な言葉になったが、キアラは暫く黙り込んだ後、口元に笑みを浮かべる。

「仲間……だね。そうだよね」

 共に戦う仲間の為に、一人一人が戦う。傷つけさせない為に、生き残る為に。生きて、必ずこの内戦を終わらせる。生き残れば、避難している両親が泣く事もない。

 キアラはようやく乃木を見て、眉尻を下げて笑った。

「しばらく走れないかも知れないけど、私、君たちの為に戦うよ」

 乃木が顔を上げると、キアラは目を細めて笑みを深くした。そばかすの浮いた白い頬が、仄かに赤らんでいる。

 この人の為に戦う。この人の為になら、戦える。どんなに暗い戦場でも、この笑顔が、照らしてくれる。見返りなどなくても、それだけで、乃木は戦える。

 乃木が笑みを返すと、キアラは少し眉根を寄せて、表情を曇らせた。困ったような、申し訳なさそうな笑顔に、乃木は思わず表情を消す。

「ごめんね。私、頼りなくて」

 乃木は何度も左右に首を振って、強く否定した。不安なのは、誰もが一緒なのだ。

「そんなに一人で頑張らないで下さい。僕らも頑張りますから」

「でも、あんまり迷惑もかけられないから」

「小隊長だって、不安なんでしょう」

 目を伏せて更に表情を曇らせ、キアラは小さく頷いた。その頼りない仕草に胸が詰まり、乃木は眉間に皺を寄せる。きつく拳を握り、心持ち身を乗り出した。

「僕、頑張りますから! あなたの為に!」

「……私?」

 声に力が入りすぎていた。キアラに問い返されて、乃木は頭の中で数回自分の言葉を反芻し、一気に顔を赤くする。

 そういう意味ではなかったが、本音が混じってしまった。キアラの為に、と考えてはいるが、そういう意味で言った訳ではなかった。しかしあの言い方では、勘違いされても仕方ないだろう。

 大事なものの為。乃木にとってはそれが一番明快で、単純な理由だった。結局乃木は単純だから、そういう理由でしか動く事が出来ない。

「……はい」

 嘘を吐きたくなかったので、肯定した。キアラの耳が赤く染まって行く。乃木の顔は、それ以上赤くはならなかった。

 キアラは膝を抱えていた手を離して自分の両肩を掴み、視線を地面へ泳がせた。乃木は無言の間に、泣きそうになっていた。

「……うん、あの……」

 膝が胸につく程足を引き寄せて、キアラは益々深く俯いた。乃木は消えてなくなりたかった。

「嬉しい」

 キアラが何と言ったのか、乃木は一瞬理解出来なかった。しかし彼女の赤い頬が緩んでいるのを見て、熱いものが胸へ込み上げる。

 呆然とする乃木におずおずと視線を合わせ、キアラは笑った。いつもより少しためらいがちな、それでも太陽のように温かい、乃木が好きになったあの顔で。そこでやっと、キアラの言葉の意味を理解した。

 そして乃木は込み上げるものを抑えきれず、泣いた。これでは立場が逆だと考えながら、泣き笑いの表情で、泣いた。絶対に死にたくないと、そう強く思った。

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