第七章 変わり行く世界 八
最後に彼女が泣くのを見たのは、いつだっただろうか。肉親が死んだ時も、手足となって働いていた側近が死んだ時も、彼女は涙を見せなかった。千春には、決して感情を表に出さない彼女が、精一杯強がっているだけのようにも見えていた。けれど、そうではなかったのだろう。
芙由は耐えていた訳ではない。泣けなかったのだ。感情を発露する方法を、忘れていただけだった。そんな事にも気付けないで、何が賢者だろう。
彼女をあんな風にしてしまったのは、自分だ。自責の念ではないにしろ、申し訳ないと思う気持ちはある。誰より側にいてやらなければいけなかったのに、それが出来なかった。
逃げていた訳ではない。国の方が重要だと、天秤にかけるような愚考をしていた訳でもない。ただ、使命を前に、見失っていた。天秤に掛けるより、遙かに罪深い事だ。
いつかはそんな時が来る。鋼のような信念に支えられて立つ芙由にも、折れる時が来る。そう考えていた。千春自身、負わされた役目の重さに折れた事がある。芙由にその時が来るのが、怖かった。
そして芙由は、折れた。叶わない恋の重さに耐えきれず、とうとう折れてしまった。本人が選んだ道ではあったが、自らの感情を疎かにした結果だ。薄々気付いていたのに何故何も言ってやれなかったのか、今はそれだけを悔やんでいる。
何も言わなかったのは、認めるのが怖かったからだ。認めて許したら、この世界の理を変えなければならなくなる。それにはまだ早いと、そう思っていた。
まだ早い。ずっとそう信じ続けてきた。けれどもう、世界はすっかり自立している。神なしで進もうとしている。
千春にはそれが、寂しくてならない。
八
長い会議を終えて自室へ戻ってみると、ソファーで神主が死にそうな顔をしていた。背もたれに頭を乗せて、忘我の表情で天井を仰いでいる。千春は呆れながらも背もたれに身を預ける彼に近付き、その顔を覗き込んだ。
ぼんやりしていた神主は、千春の顔を見て慌てて姿勢を正す。千春は仕事をしろと言おうと思ったのだが、彼の疲れた顔を見て、何も言えなくなった。
先程まで会議していた議員達も、見る限り相当疲弊していた。肉体的な疲れは休まない彼らにとっていつもの事だが、今は精神的なものの方が大きいだろう。せめて休みを取って欲しいとは思うが、人一倍休まない千春が言えた事ではない。
「何をなさっているんです」
出来るだけ柔らかい声で言ったが、神主は叱られた子供のように肩を落とした。
「済みません」
「だから何をなさっているんです」
重ねて問いかけると、神主は困ったように眉尻を下げ、俯いた。千春は怒っているつもりなどなかったのだが、彼はそうは思わなかったのだろう。
神主は、些か気が弱い。あの負けん気の塊のような芙由と血が繋がっているとは到底思えないが、確かに血縁者なのだ。
相手が口を噤んで黙り込んでしまったので、千春は横目でデスクを見た。そして、目を丸くする。
「……ん、書類は?」
会議へ行く前は、未処理の書類が山積みになっていた筈だ。しかし今デスクの上には、数時間前の半分ほどしか書類が置かれていない。
怪訝に眉を顰めて神主を見ると、彼は左右に首を振った。自分ではないと言いたいのだろう。それなら、誰が持って行ったのだろうか。
「秘書の方が、分けて持って行かれました。任せられるものは、他に任せて来ると」
「勝手な事を……」
千春はそう呟いたが、内心は嬉しかった。単純に仕事が減った事もそうだが、秘書の心遣いが、何よりも嬉しい。
疲れてはいられない。やらなければならない事は、山ほどあるのだ。そんな状況を作った雨を恨めど、心中呪ってみたところで何が変わる訳でもない。
「それで、あなたはここで何を?」
神主は眉間に皺を寄せて、渋い顔をした。別段怒っている訳でもないから、千春は困ったように眉を下げる。聞かなければいいだけなのだが、口を噤まれると、余計に聞きたくなる。そういう性格なのだ。
千春がテーブルを避けて神主の正面のソファーへ腰を下ろすと、彼は居住まいを正した。
「……誰かの顔を見ていないと、落ち着かなくて」
彼の返答に、千春は痛ましげに目を伏せた。薄い一重瞼が被さり、睫が下を向く。
不安は分かる。けれど千春は、彼を諫めなければならない立場なのだ。不安がらずに毅然としていろと、そう言わなければならないのに、それが出来なかった。
本部軍は、殆どが出雲列島内の離島へ出て行った。神主の部屋から見える景色も、寂しいものとなってしまった事だろう。要塞が出来てから街の様子は見辛くなったが、忙しなく働く軍人達の姿は、見えていた筈だ。
寂しいだろう。不安もあるだろう。それでも彼は今まで、泣き言を口にしなかった。千春は愚痴ばかり言っていたというのに。
「寂しいでしょう。ここは」
神主は驚いたように顔を上げ、大きく左右に首を振った。
「そういう意味ではないんです。私は、そんな……」
そんな事を言っていられる立場ではない。それは本人が一番よく理解しているだろうし、千春も本来なら、そう言って叱らなければいけない。
彼は孤独だ。人々の尊敬の念を一身に集める反面、彼からは何も見えない。神が統治しているから、神主がその意思を汲んで動かしてくれるから、この島は平和なのだと人々は言う。けれど人々の肉声は、彼の耳には届かない。
千春も、テレビの中の大衆に向かって、演説しているような気分になる事がある。反応は見えないし、声が直接届く事もない。マスコミが伝える現状が事実なのかどうかさえ、今は疑わしい。
「寂しいのは分かる。私も、そうです」
賢者達は皆、孤独を抱えている。陳が州の人々から必要とされたがっていたのも、アーシアが州の人々と結びついていたいと願うのも、寂しいからなのだ。
どんなに近しい間柄にあった者も、どんなに有能な部下も、等しく自分より先に死んで行く。その度に、置いて行かれてしまったような気になる。
「時代は変わりました。私達の意味は、もう殆どなくなっている」
悲しげに俯いた神主の顔を直視出来ず、千春は視線を逸らして窓の外を見る。青い竹林は、変わらずそこで揺れていた。
「墨支部と阿弗利加の数支部、参戦してきましたよ」
千春の視界の端に、握り締められた拳が映った。出雲側に付いて戦うと宣言した支部も多く、既に世界大戦の様相を呈している。そんな状況にあるにも関わらず、ここで身守る事しか出来ない現実が、神主にとってどれ程歯痒い事か、千春にも分かる。
「出雲島民の避難区域内には、既に智利が行っています。阿弗利加は、欧州内の支部に任せる事になるでしょう」
「手は……足りるのですか」
千春は窓の外に視線を注いだまま、唇を引き結んだ。
足りるとは言えない。欧州は総知事が変わったばかりで、まだ落ち着かないのだ。亜細亜は陳の事があったせいか期を伺っているような状況だし、露支部も先の内戦で痛手を被ったから、無理はさせられない。
空気が落ち込んだその時、覚束ないノックの音が聞こえた。怪訝に眉を顰めて返答すると、ゆっくりと扉が開く。
「失礼します」
開いた扉と壁の隙間へ体を押し込み、梅垣が顔を覗かせた。彼の両手は、山のように積まれた書類で埋まっている。秘書は彼にも書類を押し付けたのだろうかと考えて、千春は溜息を吐いた。
梅垣は忙しいのだ。千春の多忙には遠く及ばないが、彼も普段の倍以上の処理をしなければならない。それに書類を任せた秘書には呆れるが、引き受けられるのが、彼ぐらいのものだったのだろう。主戦場となっている海と空の元帥は、梅垣より遥かに多忙を極めている。
「梅垣元帥、そんなに一度に持って来なくとも宜しいでしょう」
「往復している時間がないので……機密書類のようですし」
言いながら千春のデスクに書類の山を置き、梅垣はやっと肩の力を抜いた。それからソファーに腰掛けた二人へ向き直り、姿勢を正して敬礼する。疲れているだろうに律儀な男だと、千春は呆れる。
「お座り下さい、元帥」
「は……しかし」
「休んで行かれるが宜しい。お疲れでしょう、聞きたい事もある」
千春はそう言いながら立ち上がって書架へ近付き、枠を持って横へ引いた。中から冷蔵庫が現れると、梅垣が驚いた顔をする。彼はこの隠し冷蔵庫を見た事がなかったのだ。
ほうじ茶とコップを取って元通り書架を閉め、千春は再びソファーに腰を下ろす。不思議そうに書架を見る梅垣に、神主が苦笑した。
「変でしょう。隠し冷蔵庫があるんですよ」
「あんなものがあったのですな」
感心したように言って、梅垣は千春の横へ腰を下ろした。感心するような事ではないと千春は思うが、何も言わずにほうじ茶を注ぐ。コップを目の前に置くと、梅垣は両手を膝に乗せて大袈裟に頭を下げた。
「すみません、補佐官にこんな……」
「引き留めたのは私だ、このぐらいはしますよ」
恐縮する梅垣に笑みを浮かべて見せ、千春はコップに口をつける。氷がないので物足りないが、暖房の入っているこの時期に氷を入れるのも妙だ。
盗み見た梅垣の顔は、一目で分かる程疲れきっていた。元々笑い皺の残る顔なのだが、今は余計な皺が増えている。目の下が膨らみ、青く鬱血していた。その隈が、痛々しく見える。
「中将は、どうしていますか?」
神主が問い掛けると、梅垣は中身を半分ほどまで減らしたコップを置いて、彼に向き直った。
「一時的に要塞内の司令部にいて頂いていますが、普段通りです。近衛師団の者が張り切っているぐらいで」
「余計な力が入らなければいいがな」
千春が言うと、梅垣は苦笑した。
「指揮が上がるに超した事はありません。しかし、少しお休み頂いた方がいいのでは?」
「疲れているか? あなたが言っても聞かぬだろう、私から言っておきましょう」
千春も休まないが、芙由はそれに輪をかけて休まない。彼女は半年の内に二三日半休を取ればいい方で、休日でも出勤している。忙しいのは分かるが、それで体を壊してしまっては意味がない。不死の者は大概丈夫に出来ているが、それにかまけて働き過ぎても良くないだろう。
こんな時に休んでいられないだろうとは、千春も思う。しかしこんな時だからこそ、体調を整えておかなければならない。
「戦況はどうです?」
苦い顔をして、梅垣は視線を落とした。良くはない事は、千春も分かっている。
「英、露が加に進攻中です。本部は、出雲列島内の離島、治海空内に侵入して来た雨の部隊を食い止めるだけで、手一杯かと」
「欧州総知事はなんと?」
「瑞、西班の準備が整ったとの事です。独と連携し、雨州内の軍事基地を目標として進攻予定と」
とにかく今は、基地を潰す事が優先される。目的は早期の降伏でしかないから、悪戯に州を壊す事も出来ない。そもそも、それは法に反する。
攻撃は最大の防御とは言うが、それもなかなかに難しい話ではある。軍部を弱体化させつつも、敵側に立った州の崩壊は、避けなければならない。
「厳しいのは、濠でしょう。印だけで防ぎきれるとは思いません」
神主が暗い声で呟くと、梅垣は重々しく頷いた。
「単純に、距離の問題があります。亜細亜は華の事があったせいか、参戦する事自体を恐れているようで」
亜細亜大陸内では、華が負けた事は、神の怒りによるものも大きいと言われている。当事者側からすれば馬鹿馬鹿しい話だが、側で見ていた者にとっては、そうも思うのだろう。
神が禁じた戦争を仕掛けたから、華は負けた。華州内が混乱しているのも、神に背いた罰なのだと、あちらの人々は言う。華の混乱は陳を失ったせいだが、賢者を重要視しない亜細亜の人々には、到底理解出来ないだろう。
「総知事だけでやっていたせいか、軍部に心許ない部分もあるな」
「阿弗利加までもが参戦してきた中、亜細亜にだんまりを決め込まれると辛いものがあります」
「ああ……幸いクレオパトラはこちらに付いているが、マクレイアーが阿弗利加にまで根回ししているとは考えていなかった」
阿弗利加大陸内には、元々賢者への不満があった。放任主義を貫く彼女の姿勢は、少なからず神への不満にも繋がっていたのだ。直結させて考えられても困るが、延いては制度の不備によるものだろう。
世界は過渡期というよりは、最早確変期にある。それを見抜けなかった自分を責めても、過ぎた時間は戻らない。世界が急いたというよりは、人々は気付いていたのだろう。
この国はもう、神の手から離れるべきなのだと。
「勝っても負けても、制度を変える必要がある」
千春が呟くと、神主はうなだれた。梅垣は厳しい表情を浮かべたまま、口を噤む。
「どの州が沈んでも、この国は成り立たぬ。濠と阿弗利加を止める手だてがなければ……」
止められるだけでいい。進攻を食い止める事さえ出来れば、それだけで構わない。けれど、それすらもままならない状況だ。
だから元を締めようと思っても、キースが今どこにいるのか、依然として知れない。千春の読み通りなら彼は今、欧州賢者のような状況にある。ストライキ中の海軍に連絡をつけようにも、憶測の段階ではそれも憚られる。
制度を変える事は出来る。しかしながら、今の状況では法の改正も認められないだろう。今既存の法を改正すれば、敵側の要求を呑む事になる。それによって、他の州から不満が出る事は避けたい。
神主が膝の上で拳を握り締め、顔を上げた。表情を引き締めると芙由に似ていると、千春は思う。
「後ろ向きな姿勢でいても、仕方がありません。今はなんとしても、雨を止めなければ」
横目で見た梅垣は、思い詰めたような表情を浮かべていた。彼も心を痛めているだろう。
負けている訳ではない。今は膠着状態にあって、どちらに分があるとも言えない。しかし先の事を考えると、厳しい戦いになるだろう事は、充分に予想がつく。
「工場を潰す事が出来ればな……銃弾の生産が止められればいいが」
「他はともかく、雨は物理的に潰すしかありませんね。経済制裁を加えても、効果がないでしょう」
神主の言葉には、梅垣が頷いた。
「雨は確かに、内需だけで充分やって行ける州です。このまま長引けば、或いは追い付かなくなる可能性もありますが」
「こちらも同じ事だ。阿弗利加にも、経済制裁を加える検討を……ん?」
廊下から、慌ただしい足音が聞こえてくる。走っているようではある割に、音が近付く速度が遅い。足が遅いのだろう。
千春が梅垣と顔を見合わせて首を捻った時、ようやく扉が開かれた。ノックもせずに顔を出した秘書は、勢い良く開けた扉のドアノブを掴んだまま、肩で息をしている。余程急いで走って来たのだろう、分厚い眼鏡がずれていた。彼はいつでも慌てている。
「何だね騒々しい」
暫くそのままの体勢で上がった息を整えていた秘書は、千春の声を聞いて弾かれたように顔を上げた。そして大きく二三度呼吸した後、震える唇を開く。
「笹森補佐官、神主殿、元帥……あ、亜細亜総知事から連絡が」
場の空気が、俄かに緊張した気配を見せる。凍り付いた空気をものともせず、痩せぎすの秘書は破顔した。
「亜細亜大陸内の主要各支部、出撃準備が整ったと。全軍、出雲を支援するとの事です!」
千春は全身から力が抜けて行くような錯覚を抱いた。懸念していた事が、こんなにも簡単に解消されたのだ。気も抜ける。
口元に笑みが浮かぶのを禁じ得なかった。千春は赤い唇で弧を描き、笑う。
「……陳か」
なんとかしてくれるだろうとは思っていた。責任感の強い彼だから、この状況で黙ってはいないだろうと。
梅垣はコップの中身を飲み干して立ち上がり、神主と千春に向かって敬礼した。その表情には、先程まで浮かんでいた不安など微塵も窺えない。それどころか、嬉しそうにさえ見えた。彼にとっては不安が解消された事よりも、亜細亜が動いてくれた事が嬉しいのだろう。
「長々と失礼致しました。私は本部に戻ります」
「お疲れ様です」
梅垣を見上げた神主の表情も、柔らかかった。まだ何も解決していないのに安心してしまわれても困るが、千春も笑みを浮かべて梅垣を見上げる。
「ご苦労様。総知事に連絡するなら、私が礼を言っていたと陳に伝えて貰ってくれ」
「承りました」
上半身が地面に対してきっちり四十五度になるように腰を折ってから、梅垣は部屋を出て行った。来た時よりも、動きが機敏になっている。
千春は梅垣の背中が扉の向こうに消えてから立ち上がり、デスクに着いた。とにかく今千春がすべきは、残った書類を片付ける事だ。また暫くしたら、臨時会議も開かれるだろう。それまでに、今出来る事は出来る内にやっておかなければならない。
「終わらぬぞ。この国の、どの州も」
独り言のように呟くと、神主が笑った。