第七章 変わり行く世界 七
七
冷戦状態であった。鉄格子の嵌った覗き窓のついた鉄扉の向こうから、硬い音が聞こえる。カンカンカン、と、微かだが耳に残る甲高い音が、断続的に響いている。独房内にいる者が、爪でベッドのスチール製の枠を叩いているのだ。普通に声を掛ければいいだろうに、彼はいつもそうして看守を呼ぶ。
看守といっても軍警察に所属する憲兵で、同僚を戒めるという役職柄、高校卒業時点の最初の篩いで、屈強な者が選抜される。それでも上の階へ続く階段に腰を下ろした看守は、大きな体を縮こまらせて頭を抱えていた。
この懲罰房に囚人が入ってから、何ヶ月経っただろう。持ち回りでやってくる看守役に、彼はもう嫌気が差していた。軍人など小突いて従わせればいいだけだし、ベッドのフレームを叩かれたところで、普通ならこうまで憔悴しない。一発怒鳴れば済む話だ。
けれど、看守にはそれが出来なかった。
「オイ聞いてんだろうがコラ」
濃緑色の常服を着た肩が、怯えたように震えた。看守の目が恐る恐る声のした方を見るが、再び金属音が聞こえると、勢い良く下を向く。図体の大きな軍人が頭を抱えて縮こまる様は滑稽だったが、誰も彼を揶揄出来ない。彼以外には独房内の囚人しかいないし、目下彼の苦悩の原因は、他ならぬ独房内の人物だからだ。いっそ、からかって貰える方がマシだったろう。
単純に、怖いのだ。逆らえないと判っているから、余計に恐ろしい。看守が囚人に怯える事などあってはならないが、彼にとって今懲罰房にいるのは、囚人ではない。上官であり、国の宝である賢者なのだ。
「大佐……すみません、仕事中なんです」
看守が蚊の鳴くような声で呟くと、鉄扉が勢い良く叩かれるような轟音が木霊した。囚人が蹴ったのだろう。しかし看守には咎める事も出来ず、ただ頭を抱えて更に俯くばかりだ。
どうしてこんなことに。悔やんでも仕方のない事ばかりが、看守の頭の中を巡る。懲罰房内の上官が、恐ろしくて堪らなかった。
はめられてこんな所へ監禁された彼を哀れには思えど、為す術はない。看守にも、生活がある。滅多に帰れない自宅では、女房子供が待っている。それを捨ててまで、牢獄の中の賢者を助けようと行動を起こすような勇気は、彼にはなかった。
彼が怯えているのは、罪悪感のせいもある。彼が悪い訳ではないが、何も出来ずに手を拱いているしかない現実が、看守の良心を苛む。来る度に罵られていては、複雑な心境にもなるが。
「仕事じゃねぇよクソ野郎。こんな所の憲兵なんざ、どうせ寝てるだけだろうが」
「も、持ち場を離れる訳には行きません大佐」
「大佐の命令が聞けねぇってのか」
横暴だ。監禁されている立場だというのに、彼の態度は殊勝になるどころか、横柄になっている。これが普通なのかも知れないが。
看守には元々、彼に対しては尊敬の念もあった。賢者だというのに軍人として前線に立っている事も理由の内だが、同じ軍人だという親近感もある。気性が荒いのは男所帯の海軍にいるからだと、そう解釈している。
そんな賢者が、謀略にかけられて監禁された。看守も驚きはしたが、青天の霹靂とまで行かなかったのは、近衛師団の上層部が州庁内部と癒着していると、知っていたからだ。以前から誰が抱き込まれたと詳しい話も聞いていたし、今回の件の首謀者は、雨知事ではないかとの噂も立っていた。しかし上の実状は、たかが憲兵風情には分からない。
「役に立たねぇな」
黙り込んだ看守に、キースは呆れた声で吐き捨てた。彼は退屈で仕方がないのだ。元々動いていないと落ち着かないから、こんな所でじっとしている事に慣れていない。苛立って煙草の本数も増えるのだが、それすら満足に与えられない。八つ当たりしたくもなるというものだ。それというよりは、看守の情けない声を聞いて楽しんでいるだけだが。
「いいからさっさとタバコ買ってこいタバコ、こっちはどうせ逃げられやしねぇんだからよ」
「そういう問題ではありません大佐」
殆ど涙声だった。キースは少し楽しくなる。
「そういう問題なんだよ、年寄りは労れっつーの」
「大佐はまだお元気では……」
「俺が今年で幾つだと思ってんだよ、百六十だぞ百六十。身長じゃねぇぞ」
いや七十だったか、と呟きながら、キースは残った煙草の、最後の一本に手を伸ばした。ガスライターの火を点けると、やっと落ち着く。
自分の誕生日は知らないし、年齢もよく覚えていない。毎年測定するし、自慢出来るから身長は覚えているが、自分について彼がしっかり記憶している事は、殆どないに等しかった。
今更ながら、自分を省みる機会が出来た。暇だからだらだらと考えてしまうだけだが、今までは、そんな時間さえなかったように思う。自分の事を考えるより先に、考えなければならない事が山ほどあったからだ。
その点は少し、ヘンリーに感謝している。自分はこのまま腐るだけだと思っていたが、そうでもないのだと気付けたからだ。
友達と、約束をした。友人と呼ぶには頼りない絆で、下らない約束だが、キースはそれを果たしたいと思う。そしてまだ、守りたい人がいる。それだけで、無為に続くだけだった自分の人生が、有意義なもののように思えた。
誰にどう説得されようと、自分が納得しなければ結論は出ない。逆に言えば、自分が納得してしまえば、そこで満足するのだ。結局自己満足に過ぎないが、それがキースの行動理念にさえなっていた。そして、今も。
悩み続ける日々に飽きたが故にこうなったが、こうなる前には、確かに結論が出ていた。ニコライと会って話した時点で、迷いも死にたいという感情も失せていた。ただ、あまりに遅すぎたのだ。
過ぎた事を悔やんでも仕方がない。分かっているし戻りたいとも思わないが、この戦争を終わらせる事が出来るのは自分だけだと、キースはそう考えていた。だからこんな所で、いつまでも悶々としてはいられない。
けれど、どうやって逃げろと言うのだろう。看守は少し情に訴えればころりと落ちそうだが、警備は厳重だし、ここを出てからの当てがない。少なくとも、乗っていた艦の者はキースの味方になってくれるだろうが、彼らも今は、雨から離れている筈だ。あの艦は第七艦隊の要だから、こんな時に留まっている筈もない。
失ってしまった。全て捨てたつもりでいたが、結局、なくしただけだ。
「あの……大佐」
遠慮がちな声が、扉の向こうから掛けられた。キースは硬いベッドの上で壁にもたれたまま、生返事をする。
「済みません、自分……」
「言うなよ、聞かれんぞ。職務放棄するなって言ってんだ」
キースが何を言わんとしているのか理解したのか、看守は黙り込んだ。この懲罰房内に、プライバシーの権利は存在しない。腹は立つが、どうにもならないのが現状だ。
「お前ら、皆謝るんだな」
ここを担当する憲兵達は皆、必ず一度はキースに謝っている。彼らが悪い訳でもないというのに。
「自分達は、誇りに思ってましたから」
「何を」
「あなたを、です」
看守の声は、懐古するようなものだった。キースは気恥ずかしくなって顔をしかめ、頭を掻く。そんな返答は予想していなかった。
自分が軍部に対して影響力があるのは分かっていたが、理由は単純に、軍にいるからだと思っていた。まさかそんな大それた感情を持たれていたとは、考えてもみなかった。尻の座りが悪い。
「他の賢者は、実際国防に勤しんだりしませんし。大陸守るとか言っときながら、実際動いてんのは自分らじゃないですか」
「そうでもねぇがな」
照れ臭かったので、気のない声で返した。キースは褒められ慣れていない。
実際、そうでもない。欧州賢者は危険を冒してまで州の危機を出雲に伝えたし、出雲賢者も他ならぬ国の為に、多忙な日々を送っている。体を使うか頭を使うかの違いだ。
しかし現場にいる人間にとっては、それも理解し辛いだろう。安全圏で、口だけ出しているように思われかねない。政府への不信感がそうさせるのだとしたら、キースには、千春が哀れにも思える。
「自分らには、政治の事は分かりませんから。身を盾にして国守れなんて本部の奴らは言いますけど、先に守らなきゃならないのは、生活ですし」
「同じ事さ。てめぇの身も守れねぇで国は守れねぇって……出雲の奴なら、言うよ」
それは、キースが言いたかった事だった。同じ国に生きる人を守ると言った人が、自分だけは蔑ろにして、あんなに悲しそうな顔をした。それが悔しくて、たまらなかったのだ。
まだ、この国に未練がある。こんな所で腐ってはいられない。でも、どうしろと言うのだろう。
「……第七艦隊がストライキしてるのは、出雲に反抗したくないからなんですかね」
キースは思わず目を見開き、ベッドから身を乗り出した。しかし当然ながら、鉄扉の向こうは見えない。
「なんだそりゃ。知らねぇぞ俺は」
看守は一瞬、答えずに黙り込んだ。知っていると思っていたのか、知らせてはまずい事だと思ったのか、定かではない。
キースは何も聞いていなかった。戦況も現在の軍部の内情も、彼の耳には入って来ていない。
けれど、自分の艦が職務放棄しているのだとしたら、それはキースの為だ。親友だったあの艦の副艦長は、キースの事も充分に理解している。キースの性格上、総司令官という地位には就かないと、気付いている筈だ。
腹の底から込み上げた笑いが、キースの喉を震わせる。ダリーが気付いているのなら、まだ解決策はある。彼は黙ってはいないだろう。
「そうか……そりゃまずいな」
言葉とは裏腹に、キースの声は楽しそうだった。ここから、出られるかも知れない。そんな期待にも似た予感が、彼に笑みを浮かばせる。
ニコライとの約束は、果たせるだろうか。出雲はそれまで、保ってくれるだろうか。芙由は今、どこで何をしているのだろうか。まさかまだ、前線に出てはいないだろうか。考えないようにしていた事が、次々とキースの脳裏をよぎる。
「まずい、ですね。オフィーリアも、副艦長がだんまりですし……大佐がここにいる事、ご存知なんですか?」
「ダリーの奴が知るワケねぇだろ。総大将だって、俺が総司令官にされた事しか知らねぇんだぞ。知ってんのはお前らと幹部だけじゃねぇか?」
ヘンリーの計画に携わった者しか、真実は知らないだろう。最終的に軍部を動かしたのはキースだという事になっているから、親交のあった総大将達は、疑問すら持たなかった筈だ。
何の疑問も持たずに、雨支部は出雲へ反旗を翻した。不満を鬱積させていたのは事実だったし、彼らはこれを好機と取った事だろう。キースに一番近かった艦隊の兵士達は、流石に訝ってはいるようだが。
本部への不満は、艦内でも出ていた。口々に文句を言う船員達に、出雲に殴り込む時は、自分も必ずこの艦にいると、そう言った。冗談と取られて笑われたが、そういえばあの時、ダリーだけは笑っていなかったのだ。
彼は気付いていたのだろう。キースの思惑にも、何が冗談で何が本気なのかも。だから彼は今、軍部に逆らっている。
いい部下を持った。ダリーは厳しいが、その分頭もいい。艦長の考えなど、手に取るように分かっていた。
「じゃあやっぱり、出雲が正しいって、分かってるんでしょうか」
看守の声は、どこか不安げだった。キースにとって論点はそこになかったが、今は話を合わせておくに限る。
「さぁな。お前はどう思う?」
「自分は……」
そこで、少し間が空いた。どう思っていたとしても、答えるのは気が引けるだろう。彼がどんな思想を持っていたとしても、特にまずい事はないのだが。
ヘンリーとは、そういう人間だ。誰がどう考えていようとも、力で潰せると勘違いしている。
「自分にはよく分かりませんが……今が正しいとは思いません。大将達は他の支部と一緒になって、出雲を潰そうと躍起になってますが、法律を変えてどうなるのかと」
「反抗したいだけだろ、俺らがそうだったようにさ。神に背いてみてぇんだ」
本部特例法は適用されているのだろうかと、ふと考える。看守に聞いても分からないだろうが、あの法が適用されているとしたら、雨に勝ち目はない。
出雲が大した軍事力もない伊太、華相手に苦戦していたのは、制約があったからだ。進攻出来ないから、彼らには防衛に徹するしか道がない。守る上でも、他治海、空に侵入してはならないという軍規は、出雲の足枷になっていただろう。
あれがなければ、出雲は負けない。逆に言えば、雨が危うい。血の気の多い独支部辺りが侵入してきたら、雨も悠長に構えてはいられなくなるだろう。そしてその時が、キースにとっての好機となる。
「出雲の言うことを聞いていればいいとは思いませんが、雨を想うなら、自分達は軍部の決定に、反対するべきだったんでしょうか」
「お前が反抗してたら、今頃お前じゃねぇ誰かが、俺の事見張ってただろうよ」
また黙り込んだ看守の表情は、房の中からは見えない。顔の見えない相手と会話するのはあまり得意ではないが、退屈は紛れる。暇潰しにするには、重い会話ではあったが。
「なあ、お前」
まだそこにいるのかどうかも分からない相手に、キースは声を掛ける。はいと返事が聞こえたので、そのまま続けた。
「お前、この州が好きか?」
会話の流れとは、到底繋がらない問いかけだった。しかし看守は疑問の言葉を口にする事もなく、すぐに答える。
「好きではありません」
そうだろうと、キースは納得する。雨は州自体は富裕だが州民の貧富の差が激しく、国内でも有数の大都市を有する傍ら、未だ貧民街をも多く抱えている。州民の気質も荒く、ロスト以前からの悪習を受け継ぎ、肌の色での差別意識も大きい。
肌の色が違うだけで、人は人を差別する。少しでも自分と違うものがあれば、排斥しようとする。そんな気質が残っている限り、神の定めた法が完全であるとは言えないだろう。法というよりは、州自体が抱える問題ではあるのだが。
「でも、大事に思っています」
鉄扉の向こうから聞こえたその声に虚を突かれ、キースは目を丸くした。
彼がそう言う理由がなんであれ、それは何よりも大事な感情だ。アーシアはその思想を持ってもらえるように大陸を動かしていたし、陳はその為に、出雲に反抗したのだと聞いている。生まれた州を想う事が、平和への一番の近道なのだと、キースも考えている。
この大陸は、神が隠遁して以降ずっと、出雲賢者が導いていた。大陸の人々は賢者を重要視こそしていないものの、彼女の思想は深く根付いている。
出雲は、正しい。神がどうなのかは別として、実質的に大陸を統べる人は、正しい人なのだ。
雨支部が反抗したのも、別段出雲が間違っていると考えているからではない。自分の意思で動きたくなってしまったから、頭ごなしに命令する出雲が煩わしくなったのだ。
それを、成長と言うのだろう。出雲は正しいが、それなら今の法は、もう変え時なのだと言える。
「ああ……大事にしろよ」
法を変える。結局は、キースもそんな結論に行き着いてしまった。
恐らく人々は知らず知らずの内に、時代を理解していたのだろう。この国の法は、あまりに古すぎる。長年の内に凝り固まった古い頭では、到底及ばなかった考えだ。ヘンリーが反目した理由も、もう賢者が必要ないと言ったその本当の意味も、今なら理解出来る。
州の為に、自分の為に、神の定めた法を変える。必ず、変えさせる。そう決意し、キースは硬いベッドに倒れ込んだ。