第七章 変わり行く世界 五
五
執務室のドアを開けた芙由の目に、真っ先に飛び込んで来たのは、デスクで頭を抱える千春だった。どうもノックの返答が歯切れ悪いと思っていたが、このせいだったのだろう。気持ちは分かるが、せめて顔を上げて迎え入れて欲しかった。
「お呼びだと聞きましたが」
白々しい台詞を吐くと、千春は溜息と一緒に、ああ、と呟いて、顔を上げた。しかし芙由の姿を見た瞬間、顔をしかめる。
「何だその格好は」
「賢者殿に謁見する際は、礼装が基本です」
脱帽しながらソファーに腰を下ろすと、千春は益々顔をしかめて芙由を睨んだ。頭を抱えていたせいか、髪が乱れて鳥の巣のようになっている。
「ジャケットを脱ぎなさい。お前はいつも胸が苦しそうで、見ていて腹が立つ」
「私のせいではありません」
千春はとうとう舌打ちして、大きな溜息を吐きながら椅子の背もたれに身を預けた。その目の前には相変わらず書類が積まれているが、手をつけた形跡がない。仕事もしたくないのだろう。
雨支部の部隊が反目したと聞いた時、芙由は驚きはしたが、同時に納得した。キースが去り際に言っていたのは、この事だったのだろうと。
それでも今回の奇襲は彼が取るような手口ではなかったし、後から参戦した二州の要求内容についても、疑問が残る。裏があるのではないかと勘ぐっていたから、指揮官の任を解くと言われても、拒否しなかった。
まず賢者の所へと言われて、芙由はここへ来た。全部隊には到底挨拶出来なかったが、余裕を作ってくれたのは、千春なりの配慮だったのだろう。気を遣うぐらいなら呼び戻さなければいいだろうと思うが、千春にこれ以上迷惑もかけられない。自分が戦地にいる事で神主も動き辛くはなるし、また聖女を捕らえようとする輩が出ないとも限らないから、芙由も大人しく従った。
逃げた訳ではない。ただ、芙由の身に何かあったら、困るのは出雲だ。いつまでも我が儘ばかりは言っていられないと、先の事で実感した。それを少し、悔しくも思う。
「さて、カークランドが雨支部の総司令になったのは、聞いているかね」
あまりにも唐突な問い掛けに、芙由は顔をしかめながら上着を脱いだ。聞いてはいなかったが、自分が避難させられたという事は、そうだろうとは思っていた。
いいえ、と返した時、ノックの音が聞こえた。千春は乱れた髪を解いて結び直しながら立ち上がり、どうぞと答える。茶汲みに来た事務員はドアの前で一礼した後、ガラス製のセンターテーブルへ、ティーセットと茶菓子を並べて行く。茶菓子が出たのは初めてかも知れないと、芙由は思う。千春の執務室には、隠し金庫ならぬ隠し冷蔵庫があるので、必要ないのだ。
「なんだ、マドレーヌ一つずつとは味気ない。けちらずに一箱持って来なさい」
「賢者様、近頃食べ過ぎです。お体に障りますよ」
言外に太ると言ったのだろう。冷静な若い事務員は、もう慣れているのかも知れない。千春が言葉に詰まったので、事務員はもう一度頭を下げてから出て行った。
複雑な面持ちで茶菓子を手に取り、ふと芙由を見たところで、千春は再び渋面を作った。何か言われる前にティーポットを取り、芙由はカップに紅茶を注ぐ。
「それで、何です?」
白々しいと、自分でも思う。千春は眉を顰めたまま暫く黙り込んだ後、シュガーポットから角砂糖を二つ摘んでカップに入れた。
「参戦して来る気配のある地域が多くて、参っているよ。独、仏、伯剌、印辺りはすぐ動けそうだが、どの程度まで止められるかは甚だ疑問だ」
「加と大洋への妨害行動に使うなら、欧州と南米、印辺りが妥当でしょう。雨を止めるなら、本部と露が出ない事には難しいでしょうが」
「華が動かせれば良かったのだがな。あちらの空は、なかなか優秀だ」
華も動けはするだろうが、出雲が応援要請したところで素直に応と言うとは、芙由には到底思えなかった。陳が華を出る時も一悶着あったと言うし、今回も一筋縄では行かないだろう。
協力を仰ぐより、本部を動かした方が早いのは重々承知しているが、陸には最後の砦となってもらわなければならない。特に第三師団は近衛師団と共に大社周辺を固めているから、まだ動かしようもなかった。軍部は何が何でも出雲列島に侵入させないつもりでいるが、今回ばかりは時間の問題だろう。
「流石に華は難しいでしょうが、今度はこちらが、早期の降伏を目的として動かなければなりません」
そう、と頷いて、千春はカップに口をつけた。赤い唇が立ち上る湯気に霞み、紅が白いカップの縁に移る。芙由はぼんやりと、それをきれいだと思う。幼い頃、雪の上に椿の花弁を撒いて遊んだ事を思い出す。
「そこでカークランドだ」
彼を説得出来るなら、それが一番早いだろう。けれど、芙由には疑問もある。
果たして彼が、戦場に出ないでいるだろうか。全軍の指揮官なら、当然だが前線には出ないだろう。芙由には、キースがその地位に甘んじているとは、どうしても思えなかった。
元々彼は子供が傷付かない世界をと、従軍していたのだと聞いた。百と数十年の時を経て、その願いは制度が固まるにつれて叶えられて行った。ならば今の彼は、何の為に軍にいるのだろう。
「本当に奴が率いているのなら、私が殴り込みに行きましょう」
「本当に、か……」
溜息混じりに呟き、千春は黙り込んだ。
キースは安息を求めているのではないかと、芙由は思っていた。軍人である事にこだわっていた彼が賢者でいる事も、苦痛であったのではないかと思う。
理由が必要なのは死ぬ時だけだと、キースは言った。あの時芙由はぼんやりと、彼は死にたいのではないかと思ったのだ。無為な人生を終わらせる為に、戦争する為に戦争を望んでいたのではないだろうか。だから、戦場に出ない筈はない。
「お前はどう思う」
聞かれるだろうと思っていた。ただ、千春がどこか聞きづらそうに視線を逸らしているのが気にかかる。
彼女は何を知っているのだろう。先に話してくれればいいのに、後出しポーカーのような真似をするから、芙由はあまり千春と話したくないのだ。今日ばかりは、そうも言ってはいられないのだが。
「馬鹿だと思います」
千春はとうとう頭を抱えた。大きな溜息まで聞こえて来るが、芙由は発言を撤回しない。事実だったし、あまり深く考えたくもなかった。
彼が出雲に不満を持っていたとは、芙由にはどうしても思えない。キースが反乱を企てるとするなら、世界を変えるという目的よりは、自分自身の為ではないかと考えていた。
「ニコライと連絡がつかなくなったのは、奴のせいだとは思う。しかしね、どうも妙なのだ」
それも初めて聞いたが、芙由は口を挟まなかった。千春が暗い顔をしている時は、話させておくに越した事はない。
今更、驚きようもなかった。何もかも常より懸念していた事で、防ぎようもない事だった。千春が悔やんでいるのだとしても、芙由には沈黙する以外に、為す術もない。
「……雨の海軍内部でね、ストライキが起きているそうなのだよ」
「カークランドが総司令官なのに、ですか?」
重々しく頷き、千春はカップに口をつけた。それが言いたかっただけなら、先に言えばいいだろうにと芙由は思う。普段の傍若無人ぶりからは想像もつかないような、遠慮がちな彼女の態度が、訝しくも思えた。
「海軍は全軍出航準備を整えているが、第七艦隊の一部だけは、全く動きを見せない」
「総司令官が居た隊なのにですか」
前置きの長い話は嫌いなのだ。芙由は問い返し続ける事で、結論を急かす。どうせ千春の中では、とうに結論付けられているに違いない。
「オフィーリアも、未だ動かないそうでね」
「総司令官が乗っていた艦なのに、ですか?」
千春は顔を上げて、芙由を睨んだ。逐一言わせるなと言いたいのだろう。
カップを持ち上げて、芙由はその中を覗き込む。深い色をした紅茶の表面に自分の目が映り込み、静かに揺れた。柔らかな香りを吸い込んで、ゆっくりと息を吐く。胸の内から流れ出た呼気が、やけに熱かった。
後悔はしていないし、自分で選んだ道だから、戻る気もない。それでも、心は揺れた。今まで一度も揺らぐ事のなかった全てが、軋む音を立てている。
「州庁に問い合わせてみたが、知らず存ぜぬの一点張りでね」
「余計に怪しいでしょう。カークランドは何を……」
何をしているのか。そう言いかけて、芙由は言葉尻を濁した。千春の表情が、あまりに暗かったからだ。
易々と利用されるような男ではない。しかし、状況から見れば怪しいところだろう。沈黙を貫く州庁よりは、ストライキ中の海軍部隊に聞いた方が早そうだ。
キースの乗っていた艦の連中は、何を知っているのだろう。連絡をつけるのは容易いが、それがまた策略であったらと考えると、安易に動けもしない。この大事な時にニコライを頼れない事が、もどかしかった。
「私はね、矢張り総知事が怪しいと思うのだ」
北米総知事のことを、芙由はよく知らない。任期は長いが会った事もないし、彼が就任してからこちら、ずっと外交には携わって来なかった。各支部の事は手に取るように分かるが、大陸庁の事は知り得ない。
だから怪しいと言われても、答えようがなかった。思案する芙由を見て、千春は再び口を開く。
「カークランドに良からぬ風聞が立ったのは、現総知事が就任したのとほぼ同時期だった」
「それだけですか?」
いや、と答えて、千春はカップを持ち上げる。もう温くなっただろうその中身を飲み干して、彼女はまた一つ溜息を吐いた。
「総知事は就任する前、歴史学者だったようだ。加、濠と共謀している確証も取れた。雨は殆ど総知事の意思で動いていたよ。退役した近衛兵の証言だ、間違いないだろう」
芙由は一瞬、言葉を失った。総知事は、キースと共謀している訳ではなかったのか。まだその可能性も捨てきれないが、総知事が雨州庁を動かしていたなら、沈黙している雨知事も疑う余地がある。何より、キースが総司令官という地位に就くとは、到底思えない。
総知事が歴史学者だったなら、出雲に反乱を企てる動機は充分にある。ロスト以前雨にあった国は、世界一の経済力と軍事力で、世界を牛耳っていた。詳しく知れば知る程、出雲に傅いていたくはなくなるだろう。
もし、この反乱がキースの意思ではなかったのだとしたら。彼を利用して、総知事が企んだ事だったとしたら。
「……カークランドは」
さよならと呟く声が、頭の中に木霊する。二度と会わないだろうと言ったのは、死ぬつもりだったからなのだろうか。彼は死ぬつもりで、戦争を仕掛けようとしていたのではないだろうか。
しかし総司令官となった彼が戦場で死ぬ可能性は、万に一つもないだろう。首謀者が彼でないのなら、キースに一番近かった艦隊の一部が、ストライキしている理由も分かる。芙由の中にはもう、悪い考えしか浮かばなかった。
本当に、あれが今生の別れだったのだろうか。胸の虚を隙間風が吹き抜けるような感覚に、芙由は全身の力を抜く。薄墨で塗り潰されたかのように、視界が暗くなった。
「カークランドは……何を」
千春に聞いても、どうにもならない。だから芙由のそれは問い掛けではなく、独白に過ぎなかった。それでも千春は、黙ったまま首を横に振る。
伏せていた視線を上げ、千春は芙由と目を合わせる。千春の切れ長の目にも薄い唇にも、普段の笑みはなかった。
「お前、あれと何かあったね」
子供を叱る時のような口調だった。芙由は思わず目を伏せて、唇を引き結ぶ。
何かあったかと聞かれれば、否定は出来ない。こう聞いたという事は、千春は気付いているのだろう。あまり感付かれたくない事ではあったが、そうなれば下手な嘘も吐けない。ずっと近くにいたから、何も言わなくとも、お互いに何があったかぐらいはおぼろげながら分かる。
「……国を護る事が、私の使命だと思っています」
千春の表情を見るのが、怖かった。芙由の目には、膝の上で握り締められた彼女の拳が、痛々しく見える。
「何も出来ないのなら、軍人として国を護ろうと考えていました。しかし私は結局、出雲を危険に晒した」
悔やむ羽目になる前に軍を抜けようと、芙由はそう思っていた。だから大社へ避難しろと言われた時も拒絶しなかったし、いい加減我が儘を通している訳にも行かないと、こうしてここにいる。それでも自分の中では気持ちの整理がついていないから、結局、今更聖女としては生きられないだろうと思う。
まだ、判らないでいる。どちらの道を選ぶべきなのかも、どちらが最良の選択なのかも。
今はただ、不安だった。自分がどんな選択をしようとも、変わらないだろうと思っていた人が、安否さえ分からない状況にある。彼も自分も変わらないだろうと思ったから、芙由は拒絶した。国を護ると決めたから、この道を選んだ。
それなのに。
「結局私が守っていたのは、国ではありませんでした。自分と、家族だったんです。それも今は、守り抜けるかどうかも分からない」
「軍の総司令部に転属するか、聖女として出雲知事の任に就くか、決めろと言っただろう」
俯いたまま力なく左右に首を振り、芙由は微かに笑みを浮かべた。胸が詰まるように苦しくて、息が出来ない。
肯定するのが怖かった。自覚してはいたが、明白にそうと認識するのが、恐ろしくて堪らなかった。
「今の私は危機的状況下にある国よりも、彼が心配なんです」
拒絶したのは自分の方なのに、忘れられなかった。思慕の情と責任の間で揺れる心が、軋みを上げている。未練がましく迷っている自分がおかしくて、芙由は力なく笑う。
千春は暫く黙り込んだ後、ゆっくりと立ち上がる。芙由は紫色の表着がぼんやりと滲んだように見えるのが、不思議だった。
「素直に言えば良かったものを……どうしてお前は、いつもそうなのだ」
結局芙由は、私情より責務を取る事で、ちっぽけなプライドを守っていたのだろう。何もかもが崩れ始めた今となっては、後悔の念しか浮かばなかった。無論、責務を捨てて彼を選ぶ事が許されるほど、芙由が背負うものは軽くない。どうにもならない事だと分かっていたから、意思を曲げなかった。
だから、千春が何故そんな事を言うのか分からなかった。これ以上の我が儘は言えないから、芙由は何も言わずにいた。それなのに何故言わなかったのかと問われたら、また後悔してしまう。
「お前はもう、自由になっていい。お前が苦しむような事は、お父様も望んではおるまいよ」
傍らに立った千春の手が、芙由の頬を包み込む。触れた手は温かいのに、芙由の肌は冷えて行く。下瞼と上下の睫毛が、やけに重たかった。
ゆっくりと顔を上げると、悲しげに微笑む千春が見えた。自分はこの人の為にこの道を選んだのだったと、芙由はおぼろげな記憶を辿る。
「済まなかったね、芙由」
喉の痛みと瞼の熱さに、芙由は自分が泣いている事をようやく知覚した。胸につかえていたものが喉元までせり上がり、微かに嗚咽が漏れる。顔が熱くて、鼻が痛くて、堪らなかった。
零れ落ちる涙が千春の指を濡らし、肌を冷やす。それと反比例するかのように、芙由の頬は熱くなって行った。
「私……」
掠れた自分の声が情けなく思えて、芙由は唇を噛んだ。しかし頬を撫でる指の優しさに促され、再び口を開く。
「好きなんです。彼が……諦めたつもりだったのに、忘れられなかった」
懺悔でもしているような心持ちだった。際限なくこぼれ出す涙が頬を流れ、千春の指を伝い落ち、乾いた唇に触れる。ぬるくて少し塩辛い涙の味を、芙由は久しぶりに思い出す。
泣かなかったのは、泣けなかったからではない。泣いてもどうにもならないと知っていたからだ。だから今、どうしてこうも次から次へ溢れて来るものなのか、不思議でならなかった。胸につかえていたものが、全て目から出て行くような気さえするのに、泣けば泣くほど呼吸が苦しくなって行く。
「私はもう、お父様の為に生きられない。お父様より、好きな人が出来てしまった」
千春は何も言わずに、抱きしめてくれた。温かい胸が、表着に焚き染められた香の、どこか懐かしい香りが、更に芙由の涙を誘う。痙攣する横隔膜よりも、ぽっかりと穴のあいた胸が痛くて、せつなかった。