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神の国  作者:
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第七章 変わり行く世界 四

 四


 有事特例法の適用が許可され、本部は一時騒然となった。これは神に背く事を目的として、支部が本部へ宣戦布告するならば、侵攻されていなくとも、治海空はおろか、他州土へも合法的に進入出来るという法だ。同時に、本部旗を掲げてさえいれば、他支部も本部と敵対する州への進攻が可能となる。

 乃木はそもそも、有事特例法があった事自体忘れていたので、かなりの衝撃を受けた。出雲の側に付くと名乗りを上げた支部には、本部旗の使用許可も下り、現在の主戦場は空と海上となっているとも聞く。

 また、雨支部が突然掌を返した事も、本部の動揺を煽った。それを発端とする内戦なのだが、乃木には相変わらず現実味が湧いていない。

 ついこの間内戦が終結して、安堵していたところだった。それなのに、突然世界大戦ですと言われて、信じられるものだろうか。無理に決まっている。駐屯地で報告を聞いた時は、何を言っているのかと呆然としてしまった程だ。

 第三師団は気がついたらまた警戒態勢に入り、全部隊が大社周辺地域に配置された。流石に出雲島内には未だ侵入を許してはいないし、島内に残っていた雨支部は、全部隊一時撤退したと聞いている。現時点で濠、加との連合軍となっているが、別支部が参戦する可能性もなくはないという噂が、まことしやかに囁かれていた。

 この世界は、どうなってしまうのだろう。どこへ向かおうとしているのだろう。どす黒い靄に覆われるように、乃木の胸の内は不安で満たされる。

「まさか……雨が反乱するなんて」

 白い顔を更に青白くして、キアラ・ベルガメリはそう呟いた。気丈な彼女も不安なのだろう、乱れた髪を結び直す気配もなく、長い足を抱えている。この所忙しかった為に、話をしている暇もなかったが、配置に着いてようやく落ち着いたので、天幕の中で当たり障りのない会話をしていた。

 キアラの呟きに頷いて、乃木は横目で彼女を盗み見る。涼やかな横顔はどこか不安げで、淡いグリーンの目にも影が落ちていた。警戒態勢に入って忙しさも和らいだところで、張り詰めていた気が緩んでしまったのだろう。その点は、乃木も同じようなものだった。彼の場合、不安がっているのは元々だが。

「雨支部は挙動が怪しいような事も言われていましたが、仕掛けて来るとは思いませんでした」

 頬にかかった後れ毛を耳に掛けながら、キアラは頷く。明るい赤褐色の髪は、彼女の白い肌によく映えていた。

 落ち込んでいるのは、キアラばかりではない。拠点で待機する小隊の面々は、皆一様に暗い顔をしていた。先の内戦で共に戦った部隊と、戦闘になるかも知れない。その現実が、背中に重く圧し掛かる。無線から時折漏れる声を聞くだけで、疲労感に苛まれた。まだ何もしていないのに、勝手に疲れている訳にも行かないのだが、精神的な疲労感ばかりは防ぎようもない。

「待機待機って……いつまで待機してりゃいいんですかね」

 ぼやく北村に、キアラは曖昧な笑みを返した。小隊全体が落ち込む中、彼だけは相変わらず元気そうだ。心強いといえばそうだが、本人はただ馬鹿なだけだ。

「退屈?」

「もう訓練でもなんでもいいから、動きたいです」

 乃木は思わず突っ込みたくなったが、北村に突っ込む事の無意味さを知っているので、何も言わなかった。代わりにキアラが、乾いた笑い声を漏らす。さしもの彼女も、これでは呆れもするだろう。北村の発言には、緊張感が全くない。

 いつ何があるか分からないから、拠点からは動くなと言われている。つまり訓練するなとは言われていないので、別に構わないのだが、小隊長は休息する方を取った。昨日まで忙しかったし、今はまだ出雲島内にいる師団はどこも動いていないが、いつ戦闘になるとも知れない。休める時に休んでおかなければ、体が保たないのだ。

「北村は頭の中身まで筋肉で出来てるからな」

「分隊長……それはさすがに」

 佐渡の言葉を咎めて、乃木はふと北村を見た。目を丸くする彼に、乃木は思わず顔をしかめる。

「え、脳って筋肉で出来てるんじゃないんですか?」

 北村は終わっている。これが、あの受験戦争と地獄の定期試験を共に潜り抜けて来た男の台詞だろうか。乃木は涙が出そうになるのを堪えて、嘆かわしげに首を横に振った。

 彼は昔からそうだった。試験前だけは要領良く勉強して、終わったら全て忘れてしまうのだ。頭の許容量がどうのと言っていたが、女子生徒の誕生日だけはよく記憶していたから、そちらで一杯になってしまうのだろう。外付けハードディスクドライブでも付けてやりたい。

 キアラと佐渡は顔を見合わせて、無言のアイコンタクトを取った。どちらも表情が呆れている。隊員達は声を殺して笑っていた。

「……北村君、キミ疲れてるんだよ」

 キアラのそれは、優しさだったのだろう。しかし北村は気付かなかったようで、冷凍しすぎて黒く変色した肉まんのような顔を、不思議そうに歪める。

「え、元気ですよ?」

「今の内に寝ておけよ。また眠れなくなるから」

 キアラが眉尻を下げて悲しそうな顔をしたので、乃木は慌ててフォローした。どんなに気を遣っても、北村には伝わらないのだ。寧ろ放っておいた方が、周りに迷惑もかからない。真面目なキアラが哀れでならなかった。

 どんな時も呑気な北村を嫌そうに見ていた佐渡は、ふと、膝を抱えてうつらうつらと舟を漕ぐ隊員を見た。それからキアラに視線を移し、心配そうに眉根を寄せる。

「小隊長も自分の天幕に戻って、お休みになった方がいいんじゃないですか?」

 ううん、とキアラは曖昧に呟く。彼女も一人天幕の中で悶々としていては気が滅入るから、ここにいるのだろう。なんだかんだで話しやすいのはこの分隊だと、彼女はよく乃木にこぼしている。

 無言の間が続いた時、閉め切られていた天幕の入口が開いた。乃木は思わず背筋を伸ばしたが、顔を出した人物を見て、勢い良く立ち上がる。

「ここは元気そうだな」

 真っ先に乃木の目に入ったのは、濃緑色の背広の肩に取り付けられた金の飾緒と、礼服の厚い生地を苦しそうに押し上げる胸だった。しかしすぐに視線を逸らし、恐る恐るその顔を見る。

 作り物のように、端正な顔立ちだった。横一直線に切り揃えられた前髪は長い睫毛に掛かり、澄んだ目を際立たせる。小ぶりな唇は少し荒れているのか、薄紅色に染まっていた。

「お疲れ様です!」

「ご苦労。お前達は腐っていないようで何よりだ」

 涼やかな声で言いながら、戸守芙由は天幕の外を睨んだ。逐一見回っているのかも知れないが、何故そんな事をしているのだろうと、乃木は疑問に思う。

 この師団長は事務仕事が大の苦手で、年中副師団長に押し付けて訓練に励んでいるという。今日もそうなのかと思ったが、飾緒と白手袋をつけているという事は、どこかで式典があるのかも知れない。こんな時に、悠長にそんな事をしている場合ではない筈なのだが。

「あの、師団長……何か」

 おずおずと問い掛けるキアラを見上げ、芙由は一つ頷いた。

「師団長の任を一時解かれたので、今の内に見ておこうと思ってな」

 事も無げに放たれた芙由の言葉の意味が、乃木には理解出来なかった。あの喧しい北村を含めた全員が絶句し、微動だにしない。

 この大事な時に、芙由を師団長から下ろすと言うのだろうか。第三師団はここ何十年も芙由の統率の下、一個師団として動いてきた。それがこの土壇場で指揮官が変わって、果たして動けるものだろうか。

 軍部の上の人間には、聖女が前線に出る事を快く思わない者もいたから、そこからの意見が通ってしまったのだろうか。そうだとしても、芙由は納得しないだろう。現に、今までずっとそうだったし、戦闘中、彼女は司令部の天幕に籠もりきりになる。前線に出る事もあるが、実際戦うのは部下達だから、それも黙認されていた。

 何故、今更。疑問が浮かぶと同時に、忘れかけていた不安が、乃木の胸をよぎる。何よりも、芙由があまりにあっけらかんとしている事が、不思議でならなかった。

「師団長……どうして」

 震える声で問うキアラは、拳を握り締めていた。握り込まれた指先が白く変色しているのが、はっきりと見て取れる。

 彼女は、芙由の下で従軍していられるのならと、出雲に残る道を選んだと言っていた。我が儘を言う訳ではないにしろ、複雑ではあるだろう。タイミングも悪い。

「どうしてと言われても、上の判断だ。私も先の内戦で下手を踏んだからな、仕方ない」

 行方不明になった時の事だろう。あの時何があったのか、末端の乃木にまで話は聞こえて来ないが、負傷していた事は知っている。しばらく大社から指揮を取っていたはずだから、今回もそうすればいいのではないだろうか。

 しかしそれも、なかなか難しい事ではあるのだろう。距離の問題もあるし、芙由自身がそれに甘んじているはずもない。指揮官であろうと兵と共に戦場に立つというのが、彼女の信条だ。

「しかし、師団長……」

 佐渡が言いかけてやめ、顔をしかめて俯いた。不安なのだ。副師団長は元連隊長とはいえ、指揮官が変われば、隊の全てががらりと変わってしまう恐れもある。

 そもそも芙由は、それを言いに、わざわざ各天幕を回っているのだろうか。これが最後の挨拶のつもりなら、復帰の見込みはないのだろうか。しかし乃木には、芙由が軍を抜けるとは、どうしても思えなかった。

「もうお戻りには、ならないんですか?」

 沈んだ同僚の声が、そう聞いた。芙由は視線を流して少し思案し、首を横に振る。一つに結わえた黒髪が、背中で跳ねた。

「まだ分からん。この内戦が終われば、戻れるだろうとは思うが」

「この師団には、戻らないと?」

 不安を押し殺すようにひそめられた佐渡の声に、芙由は答えなかった。どちらとも言えないのだろうと、乃木は思う。そうでもなければ、彼女は言葉を濁したりはしない。

 視線を落とした芙由の表情は、憂いを帯びて見えた。長い睫毛が淡い影を落とし、またそれすらも、憂える美貌を彩る。

 やがて芙由は微かに鼻で笑い、視線を上げた。ふっくらとした唇が笑みを浮かべ、目尻が下がる。仕方なく浮かべているような、でもどこか、嬉しそうな笑顔だった。

「そんなに食い下がるのは、お前達ぐらいだ。編入されて間もないくせに」

 笑う芙由は、背筋が寒くなるほど綺麗だった。何故だか気恥ずかしくなって視線を泳がせると、北村がにやけているのが視界に入る。あれは後で分隊長に怒られるだろう。

 この師団に入る前から、乃木は芙由を知っている。慕われるというよりは恐れられると言った方が正しい彼女だが、部下を想ってくれている事も分かる。だから指揮官が代わる事ではなく、芙由が指揮官でなくなる事が、不安に思えた。

「乃木」

 唐突に呼ばれて、乃木は飛び上がらんばかりに驚いた。慌てて視線を芙由に戻すと、彼女は真剣な眼差しを向けている。切り替えが早すぎて、乃木はついて行けない。

「お前はどうする」

 心臓が跳ね上がったかのように、大きな音を立てた。不安を悟られていたのだろうか。逃げ腰な自分の心境を、見透かされていたのだろうか。いや、そうではない。

 そうでは、ない。

「自分は……」

 はなから無言よりも、何がしか答える方が失礼に当たらないだろうと判断し、乃木は意識的にゆっくりと呟く。けれど、その後が続かない。

 鼓動の音が、頭蓋に反響している。脊髄からじわじわと熱が上り、頭の芯がうだるように熱かった。ここで答えて、いいものなのだろうか。確かに北村は、乃木の事情を知っている。しかし北村以外は、何も知らないのだ。

 自分にも国の為に出来る事があるのなら、それに従事していたかった。それは多分虚栄心でしかなかったのだろうし、意地を張っていた部分もある。何の役にも立たないと言われるのが、怖かった。だから何度も迷ったし、何度も疑問に思った。自分のしていることは、本当に、正しい事なのだろうかと。

 それが今は、この国を護りたいと、強く思っている。そう思えたのもキアラの言葉があったからで、国を護るという言葉に恥じない、芙由の姿勢を見たからだった。必ずこの国を護るのだと、確かに一端を担う事が出来ているのだと、そう思った。

 しかし、今の芙由にそう伝えるのは、あまりに酷なように思えた。現在の乃木と同じ志を持って長年従軍してきた彼女は、今になってそれを断たれようとしている。腹は決まっているものの、答えるに答えられなかった。

「何を迷う」

 高すぎず低すぎず、耳に心地良い声が、静かに言った。決して声を荒らげる事のない彼女の言葉が、臓腑の奥底へずんと沈む。今の迷いさえ見透かされているような気がして、乃木の背中を冷たい汗が伝う。

 芙由は真っ直ぐに、乃木を見ていた。軍人として、聖女として国を背負う人の強い目に、乃木は思わず背筋を伸ばす。

「躊躇うな。お前はお前が選んだ道を行け」

 芙由は、この為に来たのだ。誰かに、聞いて来いとも言われたのだろう。彼女自身、乃木の迷いなどお見通しだっただろう。よくよく考えれば彼女とは、北村より付き合いが長いのだ。初めて芙由を芙由と認識したのは、キアラに言った通り、受験で迷っていた頃だったが。

 だから芙由は、ここへ来た。問う為ではなく、背中を押す為に。自分が出来なくなった事が出来る乃木の、頼りない背中を。

 乃木は大きく息を吸い込んで胸を張り、真正面から芙由を見た。乃木の鼻の高さにある彼女の視線が、いつだって見下ろされているような気がしていた目が、今は同じ位置にあるように錯覚する。

「自分は、この国を護ります。中将のように」

 芙由は僅かに目を細めて微笑み、ゆっくりと大きく頷いた。それから全員の顔を見て、姿勢を正す。しゃんと伸びた背筋が、少し上を向いた顔が、彼女の中に迷いがない事を、明白に表しているようだった。

「私は今日で指揮官の任を解かれる。これからと言う時に逃げるような形になったが、軍人としての私の心は、我が師団と共にある」

 餞別の言葉なら、臭すぎる方がいい。そう言ったのは、太平洋の向こうの大陸の、賢者だった。臭すぎて誰も感動しないけれど、大口を叩いて背筋を伸ばす程度が丁度いいのだと、彼は言っていた。そういう点では、芙由は少し、彼と似ているように思う。

 戦場を前に臆する兵士の尻の叩き方を、彼女は知っている。それだけで、芙由は申し分ない指揮官だった。

「国の為にこそ死ね。命を賭して母州に報い、生きて終戦を迎えろ」

 極端に狭くなった乃木の視界には、芙由しか映っていなかった。彼女は軍人としてではなく、雲の上の人として生きて行くのだろうか。それとも、大社の警備に就くのだろうか。

 どちらにせよ、彼女自身が選んだ道ではないのだろう。

「お前達の武運を、この出雲の空の下で祈っている。生き残れ」

 芙由の手がすうと上がるのと同時に、全員同じように、右手を浮かす。全員が全員、大袈裟な動作で、一斉に敬礼した。

 計ったようにぴったりと合ったその動きに、芙由は満足したかのように、微かに笑みを浮かべた。それから額に当てた手を下ろし、背中を向ける。絹糸のような黒髪が、空中で弧を描いた。

 薄い背だった。華奢な首だった。細い肩だった。けれど、強い人だった。

 あの人の代わりに、この国を。そんな思い上がった考えを持ってしまうほど、今の乃木は、彼女の部下であったことが、誇らしかった。

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