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神の国  作者:
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第七章 変わり行く世界 三

 三


 華、伊太との内戦が終結してから、半年後の春。出雲中に、大きな衝撃が走った。復興支援に勤しんでいたはずの雨支部の全部隊が、突如として掌を返し、基地を攻撃したのだ。幸い出雲側の対応が早かった為に大きな被害は出なかったが、軍部はおろか、大社までもが動揺したのは確かだった。

 笹森千春は被害状況の報告書を読みながら、憎々しげに柳眉を歪めていた。攻撃を仕掛けられてから、まだ三時間も経っていない。未だ応戦中の部隊もあると聞くし、雨で何があったか、その報告も来ていなかった。焦りと苛立ちに、浅黒い額には汗が滲む。

 まだ、半年しか経っていない。雨が動くなら華、伊太との内戦が終結してからだろうとは考えていたが、こんなに早く奇襲をかけてくるとは思ってもみなかった。

「笹森補佐官、ロマンツェフ氏は……」

 ソファーに腰を下ろした青年は、白い顔を更に青白くして、そう聞いた。細面の優しげな面差しだが、その目には強い意思の光が宿っている。それも今は、不安げに揺らいでいた。元々下がり気味の眉が、更に垂れ下がっている。

 切れ長の目を伏せ、千春は小さく左右に首を振った。頭頂部に近い位置で結われた黒髪が、背中で揺れる。優美な曲線を描く髪は、普段の纏まりを失っていた。

「四ヶ月ほど前から、連絡が取れません。軍部に再三掛け合ってみましたが、部屋にはいるから出ない筈はないと」

 ニコライの事も、いつかはどこかに漏れるだろうと、千春は思っていた。気付くならキースか陳だろうとも考えていたから、大きな衝撃はなかった。それでもやっぱり、ひどく動揺した。

 水面下の情報戦を制する事が出来ていたのは、圧倒的な情報収集能力を持つニコライがいたからだ。それがなくなった今、不安は大きい。千春が余裕でいられたのも、自分に何があってもニコライがいるという安心感があったからで、心の支えを奪われたような気にさえなる。それは神主も、同じ事だろう。

「ご存命ではおられるでしょうが……心配ですね」

 小さく溜息を吐き、神主は俯いた。少しばかり伸びた襟足が、ワイシャツの襟の中に滑り込む。骨張った白い拳が、膝の上で握り締められていた。

 赤い唇を引き結び、千春は整った顔をしかめる。その眉間からは、数時間前から寄ったままの、深い皺が消えない。まだ猶予があると思っていた自分の浅慮が原因か、または雨で何かがあったのか。どちらにせよ、正確な情報はまだ入って来ない。報告がない以上は、動きようがなかった。

 神主の言う通り、ニコライが殺害されたとは考えにくい。それなら軍部が泡を食って報告して来るだろうし、露の頭脳とも言える彼の身に何かあったら、知事も黙ってはいないだろう。露知事は野心家だが、千春とは馬が合うから、彼が謀反を企てた可能性もない。

 具体的には、何一つ分かっていないのだ。事が起きたばかりで焦ってもどうにもならないが、現状に焦燥感ばかりが募る。不安げな神主に何を言ってやればいいのかさえ、今の千春には分からなかった。それすらも分からない程、疲弊している。

「……雨にはコネクションもありますが、どこからも報告が入っていません。根こそぎ潰されたとも思えぬが」

「報告出来ない状況下にあるのかも知れませんよ。若しくは、それが可能な誰かが、雨にいたか」

 雨の状況についての報告も、報道もなかった。定例の報告会でも異常なしと言うばかりで、不審な点も見られない。雨州内の状況についても、大した報道はされていない。出雲で流れるニュースといえば、せいぜい大物女優のスキャンダルぐらいのものだ。

 首謀者がマスコミと癒着していると考えるべきか、露見しなかっただけなのかは、定かではない。こうなるまで手を打てなかったのは伊太の時と同じく、手が出せなかったからだ。現雨州知事はどうも千春を嫌っているようだから、無理に言う事を聞かせる訳にも行かなかった。下手に刺激しないようにしていたつもりだったが、逆効果だったのだろう。

 それも伊太の時と同じく、今となっては言い訳にさえならない。起こってしまった事は仕方がないと腹をくくってはいるが、不安も動揺も、憤りもあった。何に対して怒ればいいのかも、分からないというのに。

「北米賢者殿……でしょうか」

 千春は眉を顰めて、視線を机上に落とす。そう考えるのも、安直すぎるように思われた。

 雨が反乱するなら、首謀者はキースだろうと思ってはいたが、彼がこんなに早く動くとは考えられなかった。そもそもキースというのが見掛けによらず慎重な人物だから、安易に出雲島内にいる部隊を動かすとも思えない。彼なら一度全軍を雨に戻してから、態勢を立て直して攻めようとするだろう。そもそも今回の奇襲に、海軍は参加していなかったとの報告を受けている。

 千春は、総知事が怪しいとも考えていた。キースと共謀しているのなら予想の範疇だが、彼が黙って従うだろうかと訝っている。彼なら艦上からいきなり二三発撃ち込んで来ても、おかしくはない。

「北米賢者なら、もっと派手にやるでしょう」

「そういう問題でしょうか」

 困惑した面持ちの神主に微かに笑いかけ、千春は頷いた。

「そういう問題なんですよ、奴に関しては。……そろそろ、軍部から報告が来る筈ですが」

 処理に手間取っているのだろう。軍部からの報告は、三十分ほど遅れていた。資料がまとまらないと会議のしようもないので、千春も神主も、ここで待っている。

 何が起きても、解決策はあると思っていた。当然ながら雨州庁内部にコネクションはあるが、この状況では安易に連絡も取れない。せめて、雨で何が起きているのかだけでも分かればいいのだが。

 今のところは、とにかく迎撃するより他はない。華にしたように、経済制裁も視野に入れるべきだろう。そう考えた所で、待ちかねていたノックの音が室内の静寂を破る。

「どうぞ」

 返答すると間もなくドアが開き、濃緑色の背広を着た初老の男が入って来る。間口で一礼し、几帳面にドアを閉めた彼の表情は、一目で分かる程硬かった。

「お疲れ様です、元帥」

 神主が声を掛けると、梅垣は即座に敬礼して答えた。笑い皺が残る柔和な顔立ちだが、些か疲れているようだ。終戦後間もなくまた攻撃されては、彼も疲れて当然だろう。

「雨州庁から、やっと返答がありました。此度の攻撃は出雲本部に対する不満を鬱積させた、軍部の一存によるものと」

「それはない」

 千春が決然と言い切ると、梅垣はゆっくりと頷いた。彼も軍部の内情はよく把握しているから、考えは千春と同じだろう。神主は何を思うのか、無言のまま険しい表情を浮かべている。

「私もそう思いますし、そう返しました。しかし……」

 白いものが混じる太い眉を歪め、梅垣は言い淀んだ。千春は黙って彼の言葉を待つ。

 視線を落とした梅垣は、僅かに肩を落としたように見えた。彼が悲しむような事が、雨にあったのだろうか。胸の内がざわめくのを深呼吸で抑え込み、千春は再び眉間に皺を寄せる。

「……北米賢者殿が、雨軍の総司令官となったと」

 神主は大きく目を見開いたが、千春は歯噛みするだけだった。何かを堪えるように拳を握る梅垣は、どこか苦しげに表情を歪めている。

 苦しいだろう。梅垣は彼を信じていたのだ。彼を信じていたから、キアラの処遇を決める時も同席させたし、聖女が従軍している事も、彼に明かすのを許した。キースは梅垣が元帥に就任するまで、芙由が従軍している事を知らなかったのだ。

「そんな……今回の奇襲が、賢者殿の一存で行われたと言うのですか?」

「雨からの返答は、その通りです」

 重苦しい空気の中、梅垣は打ちひしがれたようにそう答えた。彼はそれを事実として受け止めたくないのではなく、受け止められないのだろうと千春は思う。

 賢者が首謀者となれば、華のような状況にも陥りかねない。雨支部は元々、本部から手足同然に使われる事を良しとはしていなかったから、キースの命とあらば、此幸いと喜んで聞くだろう。軍人同士の小競り合いも出雲の比ではなく、血の気の多い者が揃っているから、民衆がどうであれ軍部だけでも動く可能性はある。

 けれどそうなると、総知事の手の者が嗅ぎ回っていた理由が分からない。キースもよりによって総知事を手先として使おうとはしないだろうし、あちらにも何か思惑があったと見て間違いはない。

「元帥。あなたはそれが、事実だと思われるか」

 高いような低いような、千春の静かな声が、室内に響く。梅垣は視線を落としたまま暫く逡巡した後、首を左右に振った。

「私も賢者殿を詳しく知る訳ではありませんが……とても、そうは思えません」

「私もだ。何かあるな」

 雨の州庁内で、何かが起きている。ニコライと連絡が取れなくなったのはキースの仕業だと千春は考えているが、今回の奇襲攻撃までもが彼の一存によるものだとは、到底思えない。軍部の動向を追うのが趣味のような報道機関が、こうなるまで沈黙していた事も気味が悪いし、大社周辺を嗅ぎ回っていた節のある総知事が、関与していないとも考えられない。

 雨支部が何事か目論んでいると噂が立ったのは、いつ頃だっただろう。その前から千春はキースを訝っていたが、支部自体が怪しいとは考えていなかった。瞬く間に世界中に広まった噂は、軍部にいる北米賢者に対する不信感を生んだ。あの根も葉もない風聞が流れたのは、果たしてどこからだったのか。

 何にせよ、末端から締めて行くしかないだろう。長い戦いになりそうだと考えながら、千春はこめかみを揉む。

「理由がどうであれ、軍部には戦ってもらわなければならぬ。援軍の要請は?」

「諸地域に連絡済みです。雨支部と戦うとなれば、先の内戦で痛手を受けた出雲と露だけでは、少々辛いでしょう」

 雨支部は強大だ。いざとなったら出雲の盾となるべく、一番軍備を強化しているのも雨だし、ロスト以前の遺産もある。その雨が出雲に対して戦争を仕掛けてきてしまっては、元も子もないが。

 味方でいる内は心強いが、一度敵となれば、出雲にとって最大の脅威となる。訝しくはあるがキースが司令官である以上、華と伊太がそうしたように、手っ取り早く頭を叩こうとするだろう。ならば真っ先に狙われるのは、従軍している聖女だ。

「激化する前に、戸守中将を大社へ避難させましょう」

 予想していたのだろう。梅垣は重々しく頷き、神主を見た。黙り込む彼は、それでも梅垣の視線に応える。神主と目を合わせてから再び千春に向き直り、梅垣は口を開いた。

「第三師団には不安も残りますが、致し方ありません。雨支部の司令官に知れている以上、戸守中将……芙由様の身の安全が、最優先でしょう」

 神主は自分の膝を見詰めたまま、暫く黙り込んでいた。無言の静寂に、梅垣は背筋を伸ばす。

 師団長不在となれば、さしもの第三師団も混乱は免れないだろう。それよりも、出雲にとっては聖女を失う方が恐ろしい。それを交渉材料とされれば、要求を呑むより他はなくなる。

 誰にとっても、辛い選択となる。それでも、これ以上芙由の我が儘を聞き続けている訳には行かない。

「彼女は……納得するでしょうか」

 絞り出すような声で、神主は疑問を口にする。あの芙由が潔く引くとは、千春にも思えない。しかしいつまでも駄々をこねさせている訳に行かないのも、確かだった。

 彼女をあんな風にしてしまったのは、千春だ。芙由は聖女であるが故に、己の存在意義に疑問を抱いた。軍人となる事で国という枷に縛られて、護国の為にしか生きられなくなった。自分自身には何の意味もないのだと、そう信じ込んでいる。尊い者の娘として、生まれてしまったが故に。

「納得しなくとも、避難させねばなりません。元帥、全部隊配置に着き次第、私の所へ来るようにだけ言ってくれ」

「承知しました」

 きっちりと腰を折って一礼した梅垣が背中を向けたその時、勢い良くドアが開いた。駆け込んで来て早々、梅垣を見て頭を下げた青年は、千春の秘書だ。

 皺のないスーツ姿の青年は、避けた梅垣の横を大股で通り過ぎ、千春と神主に向かって深く腰を折った。真面目だが、些か動作が大仰に過ぎる。

「失礼します、笹森補佐官。先程また、軍部宛に……」

 分厚い眼鏡を掛けた痩せぎすの青年は、そこまで言って顔をしかめた。

「構わぬ、報告しなさい」

「はい……」

 動揺しているのだろう。ずれた眼鏡を押し上げて直す彼の手は、震えていた。

「濠支部、加支部から、同時に宣戦布告されました。要求は、神が定めた憲法を基幹とする政治体制の廃止。既に各部隊、出雲へ向かってきているようです」

 僅かに震える声が途切れた瞬間、千春は力任せにデスクを叩き、勢い良く立ち上がった。一気に頭に血が上り、驚く神主を気にしてもいられない。憤るより他に、反応のしようがなかった。

 いつかは、こんな時が来ると思っていた。けれど、どんな対抗策が取れただろう。如何に賢者といえども、人心までは操作出来ない。

「愚か者共が……本部特例法を知らぬか」

 唸るような声で吐き捨てた千春の言葉で気付いたらしく、神主は顔を上げて目を丸くした。元帥は扉の前で立ち尽くしたまま表情を引き締め、秘書は俯いて拳を握り締めている。

 華の目的は独立でしかなかったし、建前に過ぎないが、伊太の要求は賢者を大陸へ戻す事だった。どちらも、直接的に神に背くような要求ではなかったのだ。しかし今回のように、神の定めた法を廃止して、新たに作れと言うのであれば、対処法も違ってくる。

 神に背くとあらば、出雲も全霊で迎え撃つ事が出来る。それをどう取るべきかは、今の千春には分からない。けれど軍部からしてみれば、今までより格段に動き易くなるだろう。今までより遥かに、護り易くなる。

「神主殿、最早情けは無用です。避難なさっている神に、問う必要もありません。特例法適用の許可を」

 有事特例法は、存在する。軍人達も多くは忘れているだろうし、条件が厳しい為か、今まで適用された事がないから、あると知っている者も少ないだろう。

 最後の手段として、神が定めた法だった。神に頼る事が叶わない今、それが出雲の最後の手段だった。ロスト以前なら当然だったが、今は出来ない事。それが今なら、可能なのだ。

 神主はゆっくりと頷き、ソファーから立ち上がった。千春は黙って彼の挙動を見守る。

「許可します。本部旗の使用、他治海、空、他州土への進軍に関して、最終的な決定は上層議会で。五階第一会議室へ、上層議員十二名と三元帥を召集して下さい」

 州を挙げて神に背く者あらば、武力を以てこれを制する。神に背く目的で支部軍が動くならば、本部軍は州土へ進行する事も可能となる。神が保身の為に定めた法であるという者もいるが、今使わずしていつ使うというのだろう。

 千春にとっては、長い戦いになるだろう。しかし、最短で終わらせなければならない。出雲が非難されようと、神が糾弾されようと、犠牲は常に最小限で食い止めなければならない。

「腹を括りましょう、元帥。私達は、この国を守り抜かねばならぬ」

 梅垣の力強い敬礼が、千春を少しだけ落ち着かせてくれた。何があろうと、退く訳には行かない。それが国を守る為に生きる者としての、使命である限り。

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