第七章 変わり行く世界 二
二
鉛のように、両足が重かった。靴底が地面に貼り付いてしまったかのように、上手く歩けない。そもそも今までどうやって歩いていたのだろうと、それすらも不思議に思えた。行きたくもないのに、雨州庁の巨大なホールを抜けて、キースは執務室へ向かう。
本当にこんな事がしたかったのか、自分でも分からなくなっていた。顔のない兵士として、誰でもない誰かとして、死んでしまいたいと願っていた。褪せていた世界に色を取り戻してくれたのは紛れもなく芙由だったが、それも今では、届かない。
彼女に拒絶された時、キースは確かに色々なものを諦めた。己が持ち得る数少ない全てを捨てて、この世界の理から逃げるつもりだった。それが今更になって、飽きたと言うニコライに、一言一言に死にたいというその感情を滲ませる彼に、ことりとも音を立てなかった心が、突然氷解した。
キースは彼に、自分を見た。この世界に希望を見出すことが出来ずに、拗ねて投げ出してしまいたがる、哀れで愚かな自分を。ニコライを笑ったのは、客観的に自分を見て、結局甘えているだけなのだと気付いたからだ。
自分の意味など、最初から存在しない。それを求める事自体馬鹿げていると思っていたし、彼自身にそんなものはなかった。求めたのは贖罪としての死だったが、結局それも、罪悪感から逃げたいが故なのだろう。
逃げてどうなると言うのだろう。何も変わらないし、自分は何も分からなくなるだけで、解決はしない。ニコライとした約束も、破る事になる。それで本当に、いいのだろうか。
いいはずがないと分かっているから、キースの足取りは重い。
やっとの事で辿り着いた執務室のソファーへ倒れ込むように座ると、自重で深く沈み込む。もう一度、出雲へ行こうかとも考えた。しかしそれもなんとなく、正しくはないような気がしている。
昔と比べれば、世界は各段に良くなった。今が完全に平和であるとはとても言えないが、それでもあの頃目指した、子供が傷つかないで済むような世界には、とりあえずなっている。
それも、別段キースが成した事ではない。その為に働いていたのは、そう決意してから賢者になるまでの短い間だけで、それ以降は、ぼんやりと生きているだけだった。今となっては悔やみこそすれ、やり直しは利かない。
自分に何が出来るだろう。今更になって、そんな事を考える。今している事といえば、世界を混乱に陥れる事ぐらいのものだ。
そんな事で、いいはずがない。
「閣下!」
キースは顔をしかめて、煙草を取り出しかけていた手を止めた。ヘンリーの声ではない。
「やっと、ご決断されたのですね、閣下」
扉の前に立っていたのは、濃い色の金髪を短く刈り上げた、中年の男だった。濃緑の背広の肩には、金の星が四つ並んでいる。細い目に涙が滲んでいるのを見ながら、キースは胸の内がざわめくような感覚を抱く。
絨毯を踏みしめて足早に近付いてくる彼は、陸軍雨支部総大将その人だった。キースは懐に手を入れかけた体勢のまま、硬直する。
「賢者様が総司令官となって下されば、あの忌々しい出雲を叩くも容易となりましょう」
キースは彼が何と言ったのか、しばらく理解出来なかった。出雲を叩く、それは分かる。しかし。
「……分かった、ちょっと待て」
顔の筋肉が引きつり、口角が自然と上がる。しかし見張ったキースの目は、笑っていなかった。
ゆっくりと立ち上がったキースをどう勘違いしたのか、総大将は胸を張って敬礼した。賢者なら分かるが、キースは本来、彼から閣下と呼ばれるような地位ではない。腹の底から込み上げる怒りに任せて、キースは彼の胸倉を掴む。
「テメェ今なんつった?」
鼻頭に皺を寄せて怒りを露わにする彼を見て、大将は怯んだ。胸倉を掴まれたまま長身のキースを見上げ、僅かに身を引く。
「俺が総司令官? ふざけてんのか?」
首謀者は北米総知事だ。彼を頭として出雲に楯突くなら、総司令官は総知事でなくてはおかしい筈ではないか。
それよりも、キースは軍部の頭になる気など毛頭ない。だから共謀者となり得る人材がのし上がって来るまで待っていたし、その総知事にこの州を任せていた。それなのに。
「し、しかし……もう決定事項で……」
決定したという事は、もう彼に言っても無駄だろう。苦々しく表情を歪め、キースはゆっくりと胸倉を掴んでいた手を離す。
「象耳の狸親父はどこ行った」
「象……?」
「ヘンリーのクソ野郎だ、どこ行きやがった」
支部本部に、という蚊の鳴くような声を聞いた瞬間、キースは大股で彼の横を通り過ぎる。困惑する彼に、説明する気はない。容易に説明出来るほど、彼は事情を知らないだろう。
苛立ち紛れに音を立てて扉を開け放ち、閉めもせず廊下へ出る。物珍しそうな視線を向けて挨拶を口にする役人が、忌々しくも虚しかった。
表立っては行動しないと、ヘンリーには事前に言っていた。それを忘れたとは思えないし、彼が覇権より身の安全を選ぶとも考えられない。失敗した場合、最終的に全ての責任は自分が負うとも、キースは言っていた。それが何を考えて、不在の隙に総司令官に任命したのか。
私物のバイクに跨って、キースは本部へ急ぐ。ヘルメットとコートの襟の隙間から吹き込む風が、ひどく冷たかった。
ヘンリーは、そこまで馬鹿ではなかったという事だ。雨州民の間で賢者の重要性は薄まっているが、従軍して表向き州の為に働く北米賢者に関しては、未だ支持も尊敬心もある。特に軍人達からの支持は絶大なものであり、キースなくして軍部までは動かせなかった部分も、少なからずあった。仮に雨が首都となり、ヘンリーが覇権を握ったとしても、雨はともかく世界は納得しないだろう。
華が反乱を起こしたのは賢者が指導者だったからで、伊太の目論見が上手く行ったのも、賢者を隠したからだった。世界に大して、賢者の影響力は大いにある。
それをヘンリーが見逃さない筈はなかったのだ。ヘンリーが企てていた全てが賢者の威光を利用したものだったとしたら、易々と死なせてはくれないだろう。
己の浅はかさを呪い、キースはきつく歯噛みする。焦っても悔やんでも、時間は戻らない。それでも、後悔せずにいられなかった。
支部本部に着いた瞬間、キースはバイクを止めてヘルメットを脱ぐ。門前に立っていた衛兵が、彼の顔を見ると同時に敬礼した。答礼をしない代わりに、衛兵に向かって片手を大きく振る。
「さっさと開けろグズ! 総知事どこだ」
バイクを乗り捨てて、キースは開かれた門から敷地内へ駆け込む。三階第二会議室ですと叫ぶ声を背中で聞きながら、受付を無視してエレベーターに乗り込んだ。
こんな事を望んでいた訳ではない。声望も覇権も、キースには必要ない。ただ一つ、安息を求めていた。無為な人生に、終わりが欲しかった。
求めていたものは、本当は自己満足の贖罪ではなかった。罪の意識を胸の内に抱え込んだまま、国の宝などと呼ばれたくなかった。賢者様と呼ばれる度、そんなに偉いものではないと、逃げ出したくて堪らなかった。
拗ねて何もしてこなかった自分を、誰も責めはしなかった。忙しいのは確かだったが、それも出雲賢者の仕事を肩代わりしていたからで、自分から行動を起こそうとした事はなかったように思う。
待っていたつもりでいて、何もしたくなかっただけだ。全て他人任せにしてきた結果が、これだ。もう後戻りは出来ない。
それなのに何故、走るのか。自分はヘンリーを責めるつもりなのだろうか。責めるべきは、最後の最後でキースを嵌めたヘンリーではなく、自分自身なのではないだろうか。
それでもキースは、会議室の扉を開けた。広い会議室の長机には、許容量の半分以下の人数しかおらず、その全員が、突然入って来たキースを驚愕の表情で見詰めている。面子を見ただけで、総司令部の幹部達だと理解した。
「……閣下、お戻りでしたか」
否ただ一人、薄笑いを浮かべる男がいた。驚く素振りも見せずに立ち上がった彼は、空々しい台詞と共にキースと向き合う。
「ヘンリーテメェ、ハメやがったな」
自分のその台詞が負け惜しみのようだと、キースは思う。口元に笑みを浮かべて、ヘンリー・マクレイアーは緩く左右に首を振った。嘆くような仕草に、無性に腹が立つ。
「まさか。私は元から、そのつもりだっただけです」
「最初っから騙くらかされてたってのか、俺は」
自嘲するような笑みが、キースの唇を歪める。食ってかかったはいいが、もうキースに彼を糾弾する術はない。これはただの八つ当たりだ。
「馬鹿の振りをするのも、楽ではありませんでしたよ」
「難儀なこった。俺を総司令官に置きゃ、出雲の目はこっちに向くと思ったのかい」
「出雲の目など、最初からどうでも良かったのです」
キースは僅かに目を細め、左右に視線を巡らす。憲兵が二人、両手を塞ぐようにして立っていた。
「賢者という存在は不要なのですよ、閣下。総司令官となって頂いたのも、あなたと繋がりの強い総大将達の目を逸らす為」
役職柄、確かに軍部の長三人とは親交があった。最初からそこまで考えて計画していたのだとしたら、ヘンリーはキースが認識していたような人物ではなかった事になる。
正に、そうだったのだろう。彼は最初から、賢者を利用するつもりでしかなかったのだ。馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、本当に愚かだったのは、まんまと騙されたキースの方だった。
「私が覇権を握り、この黴の生えた政治体制を変えるまで、あなたには黙っていて頂かなければ困るのですよ」
最初から、ヘンリーに踊らされていたのだ。彼の口振りから察するに、幹部達は既にその手の内にあるのだろう。そんな事にも気付けなかった自分が、何よりも恨めしかった。
動かしていたつもりだった。つもりでしかなかったのだと思い知らされた今、為す術はない。黙り込んだキースに深く笑みを浮かべて見せ、ヘンリーは顎でキースの両脇に立った憲兵を促す。
全て、自分が悪い。両腕を取られても、キースは抵抗しなかった。雨があの出雲に敵うとは到底思えないし、ヘンリーの計画が、全て上手く行くとも考えられない。だから今ここでキースが何をしても、状況は変わらない。
自分のいない雨に、出雲は負けない。諦めた訳ではないが、その思いが、キースから逃げる気を失わせた。
自責の念もあった。自嘲する気持ちも、後悔も抱いていた。それでも、もうヘンリーに対して怒る気にはなれない。
「俺がバカだったって事で、納得してやるよ」
呟いた台詞に、ヘンリーは答えなかった。
「だがこれだけ忠告させろ。いいかいハンク」
キースが口角を上げると、ヘンリーは僅かに表情を曇らせた。口元の笑みとは対照的な暗い目がヘンリーを睨み、威嚇する。
「お前にこの国は動かせねぇ。出雲が生きてる限りはな」
出雲には、この世界が必要とする全てがある。偉大な統治者も、国を愛する民も、それを纏める母のような指導者も。
キースが戦争の相手に出雲を選んだのは、どさくさに紛れてしまえると思ったからだった。首都が沈めば、世界の混乱は免れない。その混乱の内に、人々の内から自分はいなくなるだろうと、そう考えていた。
それは出雲自体に絶大な影響力があると分かっていたからで、別段出雲が憎かった訳ではない。ヘンリーは恐らく、だから共謀出来ると踏んだのだろう。キースが出雲に何の愛着もないと気付いていたから、賢者とは別の地位に就かせ、大人しくさせておくと決めたのだ。
「出雲には最早、何の力もございません。だから華も伊太も、反旗を翻したのでしょう」
「そうかもな」
軽い口調で肯定すると、ヘンリーは益々眉間の皺を深くした。キースはそれを鼻で笑う。
ヘンリーも結局、自分と比べればまだ若い。比べる事自体間違っているが、それでまんまと騙された自分が、馬鹿らしくて笑えた。
「俺をどうすんだ、岩窟王にでもする気か?」
「総司令官殿には、軍部に居て貰わなければなりませんからな」
揶揄するような口調だった。キースは小さく舌打ちを漏らし、右手側の兵に視線を向けて自分の懐を指差す。
「暫く出れねぇんなら、煙草を買っといてくれ。ないと落ち着かねぇんだ」
若い憲兵は戸惑ったように視線を泳がせ、ヘンリーを見た。渋い顔をしたまま、ヘンリーは彼に頷いて見せる。それからキースへ向き直って、目を細めた。
「……何を考えていらっしゃるのです」
ヘンリーの問いに、キースは肩を竦めて見せた。にやりと笑ってやるとヘンリーは気分を害したようで、憲兵を顎で促す。
両腕を引かれて連行されても、何故だかキースに不安はなかった。どうにでもなれ、という気もあったし、どうとでもなるとも思っている。どうせ死ぬつもりだったのだから、どうなっても構わない。
惜しいものはない。最後の心残りにも、別れは告げてきた。未練はあるが、あれは体制が変わらない限り変わらないだろう。ただ一つ、ニコライには申し訳なかったが、二度と戻れないと決まった訳ではない。
「俺は今日から独房生活かい?」
どちらにともなくそう聞くと、二人の憲兵は互いに顔を見合わせ、下を向いた。本部の地下には、隊内での喧嘩など、軽い罪を犯した兵を入れる為の懲罰房がある。通常は反省させる為の部屋だから、皆二三日で出て行くが、キースはそうも行かないだろう。
「……すみません、大佐」
憲兵は俯いたまま、小さな声でそう言った。彼にも生活がある。上官には逆らえないし、ヘンリーが根回ししている可能性もある。彼らを責めるつもりはなかったから、キースは軽く笑った。
守らなければならないものは、誰にでもある。キースが守るべきは北米という大きな大陸だったが、守りたいものは、それではなかった。振られたというのに、まだそんな事を考えている自分が女々しくて、ひどく惨めに思えた。
それでも、後悔はする。雨は戻れない所まで来た。首都出雲を相手取り、誰もが戦わなければならなくなるだろう。
ヘンリーを助長させたのは、他ならぬキース自身だ。これが罰なら、受け入れなければならない。そしてまた、贖罪になったと自己満足に浸るのだ。
その馬鹿馬鹿しさに笑いが込み上げ、キースは低く笑った。