第一章 守人たち 五
五
最後の戦闘から、一週間ほど経過しただろうか。無線機から聞こえてくる異常なしと言う声も、いい加減聞き飽きた。芙由とて別段戦闘したい訳ではないし、攻め込んで来ないのはいい事だが、毎日同じ事の繰り返しでは流石に飽きる。短気なのだ。
兵達の楽観ぶりは、地元支部からのジンギスカンの差し入れを楽しみにするほどだが、最早咎められない。それによって鍛錬に身が入るのは事実だからだ。腹が減っては戦は出来ぬとは、よく言ったものだ。前線の兵士にとって最も重要なものは、食べ物であると言っても過言ではないだろう。
執拗に攻めては来るものの、そうそう毎日歩兵連隊を率いて侵攻して来られるほど、華支部は豊かな軍ではない。今のように師団がまともに機能するようになったのも、ごく最近のことだった。昔は軍学校に予算が下りず、特殊兵科の備品は全て、出雲からの支給だけで賄っていた筈だ。
華州が軍部自体に割く予算も、以前はもっと少なかった。州内での暴動の鎮圧に出雲本部の部隊が派遣されたことも、何度かあったほどだ。最低限の治安維持に必要な金さえ捻出出来ないほど、華州の財政は逼迫していた。
ロスト以前から深刻だった環境汚染問題の対策に予算を取られてしまう為、華州自体の州庫は今も窮している。予算不足は昔とそう変わらないだろうが、環境汚染の進行を食い止めてからは、若干なりとも余裕が出来ていたものと思われる。そちらにつぎ込んでいた分の予算を、丸々軍部に回したのかも知れない。それでも出雲へ反抗する為に軍を動かすより先に、するべき事がある筈ではないのだろうかと芙由は思う。
軍の事情が一変したのは、亜細亜賢者である陳偉が不法に知事を名乗り始めてからだった。陳は、何故我らばかりが汚染された華州に閉じ込められていなければならないのかと、民衆を集めて演説を始めたのだ。それから大人しかった華州民はがらりと変わり、軍を陳に預ける事で神に反旗を翻した。彼らは、国として独立せんと立ち上がったのだ。
汚染されているのは華州だけではない。己ばかりが苦しいと思っているのは、本人達だけだ。今や他州への移住ぐらい簡単に出来るし、大した金額もかからない。
しかし華州民もそうだが、陳も馬鹿ではない。そのぐらい承知しているのだろうから、神に反抗するには分かりやすい理由が必要だったという事だろう。神というのは、それだけ人々にとって大きな存在なのだ。
各々の州が国であった頃の歴史を知り、独立すべく神に反旗を翻した者は、今までにもいた。その全てが軍部によって鎮圧されてきたし、首謀者を罰すれば、反乱などすぐに収まる。首謀者を捕まえて神の言葉を聞かせてやりさえすれば、簡単に大人しくなったものだ。しかし今回ばかりは、事情が違う。
国宝とされる賢者を殺せば、誰であろうと極刑に処される。賢者が謀反を起こす事など神は想定していなかったものと思われるが、それにしても、芙由はもどかしく思う。首謀者一人捕らえてしまえば済むという簡単な話でもないが、辛くとも今まではそれで収まっていたのだ。小競り合いになった事もあったが、今のように双方師団を率いての戦闘にはならなかった。
それもまた、相手が賢者であるからなのだろう。このままどちらかが潰れるまで続くのかと思うと、百以上の時を生きてきた芙由でも気が遠くなる。神がこの世から消えない限り出雲が沈む事は有り得ないだろうが、華もまた、広大な州土と世界最多の人口に支えられている。出雲が華を侵略して華州自体をなくさない限り、潰れる事はないように思われた。
出雲へ帰りたいと思う事はない。このままこの地に骨を埋める覚悟も出来ている。問題はどちらの結末を迎えるにしろ、いつになるかだ。老いない芙由に定年はないし、寿命で死ぬこともない。ロスト以前に起こった百年戦争のように、いつまで経っても終わらなかったら、どうすればいいのだろう。それだけが気にかかり、恐ろしくもあった。
「戸守師団長、偵察部隊から連絡が!」
受信用の無線機を持ったまま、付隊の通信兵が司令部の天幕へ駆け込んで来た。受信用だけ持って来られても意味がない。わざわざ来る必要もないが、相当慌てていたのだろうと芙由は解釈した。
「どうした」
落ち着いた涼やかな声が返ってくると、年若い兵は、受信機を持ったまま姿勢を正した。
「偵察部隊から連絡がありました。華支部のジープが一台、こちらへ向かって来ていると。乗員は二名」
「ジープ?」
思わず問い返した。輸送機でも装甲車でもなく、ジープとは芙由にも理解出来ない。
「はい、ジープです」
「華支部からは?」
「通信はありません。本部からも、何も」
降伏かと芙由は思ったが、違ったようだ。それなら使者はこちらに寄越さず、出雲へ遣わすだろうが。
「……大体の位置を送るよう伝えろ」
通信兵は一礼して天幕を出て行った。ノートパソコンの画面上に映し出された地図を見ながら、淡々と議論していた参謀が二人、不思議そうに顔を見合わせる。芙由は眉間に皺を寄せ、視線を膝に落とした。
想定外どころではない。目的も分からないし、どう対応すべきかも分からない。
「小隊を向かわせますか?」
参謀の問い掛けに、いや、と答える。
「二人で何が出来るとも思えんが、来ているなら待てばいい。一応出撃準備をさせておけ。考えにくいが囮かも知れん、偵察機を飛ばせ。露にも動きがないか確認を」
「了解」
目的が明確でない以上、待つよりほかはないと思われた。州境線にほど近い場所へ司令部を移してから、華が動いたのはこれが初めてだ。何がしたいのか全く分からない。策であるとするならば、奇策の内に入るだろう。
奇策と呼ばれる策の内の殆どは、愚策に過ぎない。頭からそう決めてかかって対策を怠るほど愚かであるつもりもないが、口頭での頭脳戦でも仕掛ける腹積もりだとするなら、なめられたものだ。賢者のように歴史を知る訳ではないが、芙由も賢者と同じほどの時を生きてきた。老獪と言うならそうだろう。文人ならまだしも、軍人の話術に乗せられてやるつもりもない。
それよりも、陳の意図が読めないだけに不気味だった。出雲賢者から聞いた限りではあるが、陳というのは堅実な手段を取る慎重な人間である筈だ。
奇策を取るのは、どちらかというと出雲賢者の方だろう。こちらはただ変人なだけかも知れない。
「師団長」
言いながら、参謀がパソコンの画面を指差す。芙由は立ち上がって画面を覗き込んだ。
「ジープは時速五十キロで七時の方向から接近中。一時間ほどで州境を越えるものと思われます」
「たった二人でご苦労な事だな」
「トロイの木馬のつもりですかね。使い古した手だ」
「そんな大層なものでもないだろう。ジープに何百人も隠れられるものか」
くく、と笑う参謀を横目に、芙由は腕を組んで視線を落とす。
「司令部の位置を知られると厄介だ。検問に連絡して州境で待とう」
「行かれるのですか?」
「少々思い当たる節がある。話し合いなどと言われたら困るだろう。碌な装備も出来ない車で、特攻隊を気取っているとも思えん。部隊を配置につけ、警戒体制に入れ」
言いながら帽子を脱ぎ、ゴーグルを着けた。視界は悪くなるが、ないと砂が目に入って余計に見えなくなる。
「何かあったら、逐一報告しろ。急場の判断は任せる。溝口、行こう」
予想していたのだろう。外套を羽織りながら溝口を振り返ると、彼は両手で恭しく軍刀を差し出した。殆ど指揮用としてしか機能していないが、彼女が持てる唯一の牙だ。少々頼りなくはあるが、銃の携行は華が持ち出してこない限り許可されない。何より、銃や槍よりも刀の方が扱い慣れている。
飾り気のない鉄拵えの鞘部分を掴み、芙由は溝口に向かって僅かに頷いて見せた。刀を受け取った両手に、ずしりと真剣の重みが伝わる。
戦場で刀を抜く事は殆どなくなったが、芙由の手にはまた、別のものが掛かっている。昇進と共に装着位置の変わった階級章が、双肩に重く圧し掛かる。責任もそうだが、背負った第三師団一万二千余名の命が、鉄塊よりも重く感じられた。
「どう思われます?」
荒涼とした砂漠地帯を、砂塵を巻き上げながらジープが進む。口元を覆うマフラーを僅かに下げ、溝口が問いかけた。
「ラクダを使わせてもらいたい所だな」
「同感ですが、それでは車両部隊に飼育小屋を作らせなければなりません」
考えがまとまっていなかったので冗談で返すと、溝口は真顔で乗った。運転していた車両部隊の兵が、くぐもった笑い声を漏らす。
「ラクダの飼育方法を学んでおけば良かったな、田淵。少し硬いが、案外美味いぞあれは」
「いつ食べたんですか中将」
「忘れた。ジンギスカンも飽きたな、蒙古にラクダを貰おうか」
蒙古は娯楽施設があまりないので、貯めこんだ金の使い道がない遊牧民達が皆裕福だ。同様に税収で儲かっている州自体も富裕だから、そのぐらいの我が儘は聞いてもらえそうな気もする。芙由は半分本気だ。
「師団長は食べ物のことばっかりですね」
隣で軍刀を抱えた通信兵が、そう言って笑った。そうだっただろうかと考えながら、芙由は顔をしかめる。
「兵糧不足は指揮に関わるんだぞ。心配して何が悪い」
「不足なんてしませんよ、うちはどこからでも補給出来るんですから。自分が食べたいだけじゃないですか」
「いいだろう。腹が減っては戦は出来ん」
誤魔化すようにゴーグルをずらし、芙由は双眼鏡を覗き込む。遠くに小さく、むき出しの鉄路が見えた。一帯に避難勧告が出ている為、今は列車が通る事もない。時折巻き上がる砂煙に霞み、どことなく物悲しげにも見える。
「師団長、偵察機から華に動きが見られると連絡が」
「来ているのか?」
「そのようです。各連隊に任せますか」
「司令部にも連絡が行っているだろう。既に各部隊配置につけてある、来られても問題ない。問題があれば、泡を食って直接連絡して来るさ」
あちらの師団長は、どんな人物だっただろう。各州にある陸軍支部の幹部、師団長ぐらいなら記憶しているが、流石に名前と顔は一致しない。師団長が前線に出る事は滅多にないので、顔など覚えていなくても問題ないのだが。
「……周健だな」
漸く結論付けて呟くと、溝口が表情を強張らせた。彼も今交戦している師団の、指揮官の名前ぐらいは知っている。
「槍で有名でしたね」
芙由は黙って頷く。
「少将に昇級した時点で、三十二だったか。まだ若い筈だ」
昇級に問われるのは、実力だけだ。理由があって昇級しない者もいるが、優れた者ほど早く士官学校へ入って上の役職に就き、逆に劣っていれば、定年まで一等兵で終わる。
周はその槍の技術を買われ、異例の早さで少将まで上り詰めた。華も治安がいい方ではないから、その昇級には技術的なものよりも、上げた功績の方が深く関わっているのだろう。
それでも絶対数の多い華でスピード出世を遂げた事は、単純に見上げたことだと、芙由は思う。周のような天才というのはたまに出てくるもので、どこぞの海軍大佐も昔はそうだったと聞いたが、興味がないので詳しくは知らない。
「随分と、中将を目の敵にしていましたね」
「ジョウだけじゃない。私を知る支部の者は、大体私を嫌っている」
芙由が神主の娘である事を知っているのは、出雲の軍人だけだ。自分が一番だと思っていたのに、それより若い指揮官がいたとなれば、敵対視するのも仕方ないだろうと彼女は思っている。実際は全く若くないのだが。
個人的に嫌うのは勝手だが、もしも今ジープで向かってきているのが芙由の予想通りの人物だったら、問題だ。だからこそ出てきたのだが、軍を私物化しているのではないかという懸念すら抱く。
「師団長、見えました。ジープです」
双眼鏡を覗いていた田淵が、そう告げた。芙由は黙って頷く。何があろうと、真正面から立ち向かうしか道はない。相手が動かない限り、武器を持っては州境さえ越えられない。それが軍人だった。出雲の部隊ならば例外もあるが、基本的には武装して他州に踏み入る事は許されない。
消極的に過ぎるが、それが神の定めた軍規だ。勝手に変えてはならないし、犯す事も許されない。世界を支配する者が、出雲に住まう神である限り。
「磯川伍長、時間は?」
「ヒトヨンサンハチ」
「通りで腹が減っている訳だ」
「さっき昼飯食ったじゃないですか」
同乗していた三人が笑った。それぞれが抱えている軍刀など、そこにないもののように思える。出雲島民は呑気なのだ。
向こうが州境を越えた辺りで、お互い車を止めた。芙由は真っ先に車を降りて、上空を見上げる。晴れ渡った空に、自軍の偵察機が見えた。
「戸守中将殿ですね」
周は鷹のような目をした、眉の濃い男だった。身長は芙由より少し高いくらいだろうか。鎧は着けていないが、体格がいいのと見下すように視線を向けてくるのとで、実際より大柄に見える。彼の後ろには、鍵槍を携えた兵士が控えていた。
外套の肩についた階級章には、星が二つ。芙由は顔を覚えていなかったが、この男が周で間違いないだろうと確信する。予想通りだったが、出来れば外れて欲しかった。
「私に用があったんだな、ジョウ少将。連絡を入れてくれれば、こちらが迎えに行ったのに」
「生憎、弊軍の通信兵は自軍への連絡手段しか学べていないもので」
「露とは電子戦を繰り広げていると聞いたがな」
芙由が皮肉を言うと、周は唇の端を上げて笑った。
「我らはアナログな歩兵師団でして……今回ここまで来たのは、貴殿に折り入って、ご相談したい事がありましたので」
「聞くだけ聞こう」
恐れ入ります、と周は頭を下げた。慇懃だが、どこか芝居じみた所作だ。
「単刀直入に申し上げますと、私と一勝負して頂けないものかと」
「何?」
芙由は思わず聞き返した。細い目を更に細くして、周は笑う。鼻が詰まっているような、奇妙な笑い声だった。
「貴殿が出雲一の使い手である事は、広くこの大陸にも伝わって来ております」
芙由が出雲一と言われているのは、出雲刀の腕だけだ。周が得意とする槍とは当然別物だから、関係ないのではないかと、芙由は思う。
「個人的にとは申しません。この膠着状態を打破する為にも、部隊の威信を賭けた勝負を、していただけないものかと」
「槍と刀でか。具体的には?」
「そちらが勝てば、華は一旦引きましょう。こちらが勝てば、出雲は蒙古から手を引く……というのは」
顎を引いて口元をマフラーで隠し、芙由は鼻で笑った。個人的にとは言わないと言っていたが、充分私闘と言えるだろう。
「それは、貴公の独断か? チェンはなんと?」
「陛下は私に一任すると、言って下さっております」
陛下と来た。冷笑したいのをなんとか堪え、芙由はゴーグルを外す。周の後ろにいた兵士が彼女の顔を見て、驚いたように目を丸くした。聖女は出雲島内のメディアにしか顔を出さないから、彼が芙由を知っている筈もない。その反応は、思っていたより若かったから驚いた、といったものだろう。
「悪いが、出雲はその条件では納得せん」
マフラーを外して外套を脱ぐと、冷えた空気が芙由の首筋を撫でて行く。田淵が手を出したので、その手の上に服を乗せた。
「私が勝ってもお前が勝っても、条件は停戦だ。こちらもそちらも蒙古から撤退し、捕虜は全て解放する。それ以上も以下もない」
周は視線を落として暫く考えていたが、やがて後ろに控えていた兵に向かって片手を出した。
「構いません。出雲一と評されるその腕、拝見したく存じます」
兵士が差し出した槍を取って鞘から穂を抜き、周は薄く笑みを浮かべた。己の力を誇示したくて堪らないのかも知れない。
若さゆえであろうか。実力があるのはいいが、もう少し部隊経験がある者を師団長に任命した方がいいのではないかと芙由は思う。戦場に立ってみないと、問題点というのは分からないものだ。
ジープに置いたままの刀を取り、芙由は頭を振って肩口に落ちていた髪を退ける。ゴムで一つに結ばれた長い黒髪は、弧を描きながら背中へ落ちた。
得物が違うだけで、条件は変わらない。槍の方が有利とはいえ負ける気はなかったし、自分が死ぬとも、芙由は思っていない。
「溝口、連絡は?」
「第二連隊が戦闘開始している模様です」
送話器を手にしていた溝口が顔を上げ、芙由の問いに応えた。芙由は舞い上がる砂を厭うように、目を細める。
「近いな……ジョウ、観客を呼ばなくていいのか?」
喉を鳴らして笑い、周は左右に首を振った。
「そのつもりではありませんでしたよ」
「よく言う。磯川、偵察機と直に随時連絡を取れるようにしろ。判断は副師団長に任せる」
「了解」
部下達にも余裕が見られる。いつ如何なる時も平静を保つべしというのが、第三師団の信条だ。真に彼らが落ち着いているとも思えないが、頼もしくはある。
「さあ、やろう」
鞘を少しずらし、芙由は呟く。垣間見えた白銀の刀身が、太陽光を反射して鋭く輝いた。