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神の国  作者:
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第七章 変わり行く世界 一

 一


 ニコライ・ロマンツェフは一年の内ほとんどを、この部屋の中で過ごしている。外に出られない訳ではないし、禁じられているのでもない。ニコライ自身が、出たくないからだ。

 軍部の庇護下に置かれているから、それでも生活するには困らないし、人並み以上の暮らしはさせてもらっている。それでも時折、寂しいと思う。日がな一日一言も口を利かず、パソコンと向き合う日々が、もう何年続いているだろう。そんな生活を続けていて、寂しいと思わない方がおかしい筈だ。

 日用品や食事を持ってくる露支部の軍人は、皆生真面目で、雑談出来るような雰囲気ではない。秘密厳守の仕事だから、真面目でなければ到底務まらないのは、ニコライも重々承知している。ご近所付き合いも出来ない彼にとっては、出雲の友人との電話でのやり取りだけが、唯一の息抜きだった。

 この世界中の殆どの人が、ニコライを知らない。彼を知るのは露支部の一部と、出雲の三人だけだ。両親とも死別し、州内に友人もいない彼にとって、出雲の友人は掛け替えのない存在だった。だから彼女の為に、出雲の為に、ここに引っ込んで世界中を監視している。誰も自分を知らなくても、いいとさえ思っていた。

 けれどそんな彼に、来客があった。出雲と華、伊太との内戦が終結し、二ヶ月程経った冬の事だ。

「まさかこんな都会にいるとは思ってなかったよ、坊ちゃん」

 ニコライを訪ねて来たのは、分厚いコートを着込んだ長身の青年だった。出雲語を話す彼の低い声には独特の癖があり、常ににやけている。目つきは鋭いものの、淀んだ暗い目をしていた。髪も目も黒いが、彫りの深い顔立ちと肌の色で、白人と分かる。

 坊ちゃんと呼んだという事は、彼はニコライの素性を知っているのだろう。またニコライも、彼を知っていた。だから迎え入れて早々額に銃を突きつけられても、別段驚きはしなかった。彼なら自分がここにいる事に、いずれ気付くだろうと思っていたのだ。

 こそこそとどこかの手の者が嗅ぎ回っている事にも、ニコライは気付いていた。彼自身なるようにしかならないと考えているし、そうして諦めてもいる。出雲の友人への申し訳なさはあるものの、いつ死んでも構わないと思っていた。だから銃を突きつけられても、動揺も抵抗もしない。抵抗出来るような体でもないのだが。

「直接来たんだね、カークランド大佐。一目でも会えて嬉しいよ」

 ニコライがそう言って笑うと、キース・カークランドは濃い眉を歪めて怪訝な表情を浮かべた。それからニコライの額に当てた銃口はそのままに、物珍しそうにぐるりと室内を見回す。ニコライがこんな普通のマンションにいた事が、意外だったのだろう。

 蛍光灯で照らされた室内は、整然と片付いていた。よくある独身者向けマンションの一室だが、段差が全て取り払われており、通路も広い。車椅子での移動が楽になるように、この部屋だけ改装されているからだ。

 この一室は玄関から入ると、すぐに広めのリビングになっている。全ての部屋へリビングから行けるように、室内には部屋と同じ数の扉が並んでいた。家具は殆どが、成人男性の平均的な腰の高さまでしかなく、窓もない。

 仕事部屋へ続く扉脇の壁には、一対の義足が立てかけて置いてある。ニコライは殆ど車椅子で移動するので、出雲で開発されてすぐ、サンプルとして持って来て貰ったあの最新型の義足も、宝の持ち腐れだ。義足を使って移動するような機会も、そうそうない。

「驚かねぇんだな」

 笑うキースに、ニコライもまた、笑って見せた。丸顔のふっくらとした頬には、笑うとえくぼが出来る。飛び出したようにぎょろりとした目が、分厚い眼鏡の奥で細くなった。

「君こそ。最後の賢者が完全四肢欠損症だなんて、思わなかっただろ?」

 自虐めいたニコライの言葉に、キースは困ったように眉根を寄せた。千春は彼を良く思っていないようだが、性根は存外優しい人なのかも知れないと、ニコライは思う。

 電動車椅子に乗ったニコライには、四肢がなかった。ジーンズを穿いた下半身には、本来あるべき二本の足の膨らみがなく、毛布で覆い隠されている。セーターの長袖から覗く手に肌はなく、樹脂の向こうに、義肢の骨組みが透けて見えている。

 別段この義手もこうでなくてはならない訳ではなく、人工皮膚の質感がどうも肌に合わないから、このように特注してもらったのだ。かなりの我が儘を言ったが、それでも作ってしまうのが、出雲の凄い所だろう。

「テツローが欲しがってた、機械の体だな」

 銃を懐に収めながら、キースはそう言って笑った。ニコライは小さく声を上げて笑う。

「死ねないのは元々だけどね」

「死にてぇのか?」

 キースの台詞は脅しではなく、問い掛けだった。ニコライは軽く肩を竦めて、首を捻って見せる。何も言わなかったが、キースは理解したようだった。

 ニコライはその場で車椅子を回転させ、リビングに入った。キースは咎める事もせず、黙って付いて来る。

「立ち話もナンだから、座ってよ。ウォッカでいい?」

「昼間からそんなモン飲めねぇよ。酒瓶だらけだな」

 部屋の中は片付いているものの、テーブルの上にだけは、酒のボトルが雑然と置かれていた。世話役の軍人は一週間に一度しか片付けてくれないので、いつでもこうして散らかっている。車椅子の上からでも手が届くテーブルの上は、片付けても片付けても酒瓶だらけになってしまうから、もう諦められているようだ。

 キースはダイニングセットには近寄らず、コートを脱ぎながら、部屋の隅に置かれたソファーに腰を下ろした。それから煙草を出したので、ニコライは手頃な空き缶を投げ寄越す。透明な樹脂でコーティングされた義手の動きは、いつ見ても滑稽だった。

「なんでこんな所に引きこもってんだ?」

 テーブルの上から飲みかけのボトルを取り、ニコライはキースと向き合う。ニコライがボトルに口を付けて直接一口飲むと、キースは顔をしかめた。

「僕はインドア派なんだ」

 嘘ではない。ニコライが外に出ないのは、奇異の目に晒されたくないからだ。しかしキースは冗談と取ったようで、鼻で笑った。

「賢者の仕事はいいのかい。ペンギン相手じゃ必要ねぇかな」

 亜細亜、南北米、欧州、大洋、阿弗利加、そして出雲。賢者は本来七人いたとされているが、一つだけ、足りない大陸がある。

「僕が南極賢者だと思ってる?」

 南極大陸。氷に覆われたその地を管轄するのは大洋だが、定住者がおらず利用価値もない為か、それに不満が出る事もなかった。厳しい環境の為、現地にいた人間は全て他州へ移住してしまっており、現在では濠州に併合すべきだという声も上がっている。

 そんな南極には、長年賢者がいないとされていたから、南米賢者の息子のニコライが南極賢者だと思われても、不思議ではないだろう。けれどそれは違うと、ニコライは思っているし、千春もそう言っていた。

「違うのか?」

「死んだ南米賢者は、露の南極観測員の子孫だったんだよ。寒い所は懲り懲りだっていうんで、智利へ移住したんだ」

 それでキースも、理解したようだった。頷く彼に、ニコライは更に続ける。

「僕の父親が、南極賢者だったんだ。僕は混血だから、僕を賢者と呼ぶなら、本来は僕が南米賢者なんだよ」

 背もたれに上体を預けていたキースは、身を乗り出して空き缶を持った手の人差し指を立て、ニコライに向けた。足の上に上体を被せるようにして、膝に両肘を置く。普通の人はあんな姿勢も出来るのだと、ニコライはぼんやりとそう思った。

「だったら尚更、南米に居るべきだろ。なんでここにいる? あの出雲賢者が許可したのか?」

「そうだよ。千春は優しいからね」

 その台詞の何が不思議だったのか、キースは片眉を上げて怪訝な表情を浮かべた。彼も千春の事は、あまり快く思っていないようだ。ニコライにも、その気持ちは分かる。

 けれど出雲賢者は優しい人だと、ニコライは思っている。自分が忙しくなる事よりも、ニコライの意思を優先してくれたし、露に移住したいと言った時も、全て任されてくれた。彼女は真実、この世界の人の為に存在しているのだと、そう思っている。

 半面、その為に冷徹にもなれる彼女が、嫌われる理由も分かる。露知事は人使いが荒いとぼやいているし、何かにつけて露支部をこき使う出雲に、軍人達は不満もあるようだ。それでも出雲の裁量は絶対だから、単純に逆らえない。

「あんまり千春を嫌わないであげてよ。いい人なんだ」

「嫌いなワケじゃねぇさ。仲良くしたくはねえが」

 吸いさしの煙草を空き缶にねじ込み、キースは懐からまた一本新しいものを取り出す。話に聞いていた通りのチェーンスモーカーのようだが、長年酷使されて来た彼の肺は大丈夫なのだろうかと、ニコライは思う。

 タバコの煙の臭いが、懐かしくさえ感じられる。褪せない記憶の中にはあるが、実際に嗅いだのは何年ぶりだろうか。郷愁を呼び起こされ、ニコライは目を細める。

「死ぬ前に、君に話しておくよ」

 キースは煙草を銜えたまま、不意に動きを止めた。彼にはもう、ニコライに危害を加える気はないのだろう。

「僕らの頭の中にはさ、差別された記憶も、差別していた記憶もあるだろ」

 ああ、と呟いて、キースはゆっくりと煙草を吸った。蛍光灯に吸い込まれるようにして、煙が天井へ上って行く。

「どっちも知ってるから、苦しい方を助けたくなるんだよね。でも僕は、助けようと思う程優しくないんだ。自分がそうだから」

「自分も差別されるからって?」

 苦笑いを浮かべて、ニコライは頷いた。

「僕には、差別する側の気持ちも分かるから。だから怖いんだ、外に出るの」

 今もどこかにあるサーカスの中には、ニコライのような障害を持つ人がいる。助けられないのは本人達がそこで働く事を望んでいるからで、差別的意図はない。自らの障害を逆手に取って商売に使う前に、ニコライは賢者となってしまった。

 見せ物にならなくても、ニコライには出来る事がある。世間に顔を出さなくとも、こうして仕事は出来る。それが、彼を賢者としては生きられなくさせた。

 賢者になれば、否が応でも人と顔を合わせなくてはならない。相談事をしに来た人に奇異の目で見られるのは嫌だったし、自分が補佐官だと、民衆も不安だろうと思った。だから、ニコライはここに引きこもっている。

 優しい出雲に甘える形で、ニコライは生きている。それに引け目を感じこそすれ、見せ物になどなりたくはなかった。小さな枠から少しでも外れるものがあれば、人は振り返って指を差す。好んで見物もする。それが、堪らなく嫌だった。

「賢者なんて元々、見せ物みてぇなモンさ。大陸庁の飾り物だよ、見世物小屋の団員と大差ねぇ」

「君は、芙由様みたいな事言うんだね」

 キースの目が、一瞬細くなった。何かあったものかと考えながら、ニコライはボトルの中身をラッパ飲みする。

 千春は、何かを懸念していた。最後に電話したのは、終戦してすぐ。報告と雨の動きに気を配れという注意だったが、彼女は雨というよりは、キースを気にしていた。同時に、芙由の事も。

「会った事あんのか」

「あるよ、一度だけね。怖い人だった」

 芙由と初めて会った時の事は、あまりよく覚えていない。記憶にないというよりは、千春が強烈すぎて霞んでいるのだ。ただ、綺麗な人だと思った事だけは覚えている。

 そこだけ少女のまま、大人になってしまったような澄んだ目だけは、今も鮮明に思い出せる。あの頃はお互いまだ若かったが、それでも五十は超えていただろうか。彼女を心配する千春の気持ちも、分からないではない。

「でも、いい人だった。ロスト以前の記憶なんかないのに、彼女は嫌な顔もせずに、この手を握ってくれたよ」

「無愛想なだけだろ」

 彼のその反応が、ニコライにはなんだか可笑しかった。思わず笑うと、キースは眉根を寄せて目を逸らす。

 彼が何を考えているのか、ニコライには分からない。長年話にだけは聞き続けてきたから、人となりは知っているが、それ以上は何も知らなかった。けれどこうして顔を付き合わせて話してみて、千春が言う程悪い人ではないのだと思う。

 それでも自らここに来たという事は、千春の懸念していた通りなのだろう。彼が何をしたいのか、何をしに来たのか、ニコライには分かる。分かるからこそ、ニコライはこうして、彼に自分の感情を吐露したのだ。

「それで、君、雑談しに来たの?」

 話を変えてやると、キースは顔を上げて軽く手を振った。違うと言いたいのだろう。

「一つ頼みがあるんだがな」

「殺さないから、情報提供するのやめろって言いたいんだろ?」

 キースは渋い顔をして、短くなった煙草を空き缶の口に押し込んだ。無駄と悟ったのだろう。確かにニコライは、ここで死んでも後悔はしないと思っている。

 前屈姿勢のまま、キースは耳の裏を掻いた。困惑しているような彼に、ニコライは笑いかけて見せる。

「別にいいよ。なんか、もう飽きちゃったし」

「は?」

 目鼻立ちの整った顔を歪ませ、キースは問い返す。間の抜けた声だった。

「僕、何してるんだろうと思うんだよ。僕には人の為に生きるなんて出来ないしさ、何の為に生きてるのか、分からないんだ。世界に飽きたんだよ」

 ニコライは、自分が納得し得るだけの意味を持たない。毎日この部屋にこもって、一日中各州を監視する。それだけがニコライの仕事で、それだけがするべき事だった。そんな自分の境遇が、虚しくもなる。

 自分で決めた事だ。甘えているのは分かっていても、このまま何の意味もなく生き長らえるのは、嫌だった。

「……そうかァ」

 呟いたキースは、やがて肩を震わせて喉の奥で笑い出す。嘲ってでもいるのかとニコライは思ったが、そういう類の笑いではなかった。低い笑い声は、聞いていて不快なものではない。

「どうして笑うの?」

 両手を肩の高さまで上げて首を傾げると、キースは小さく首を左右に振った。煙草に火を点ける彼の指は、脂で黄色くなっている。

「なァ、お前こっから出た事あるか?」

 煙を吐き出しながら問い掛けるキースに、ニコライは薄い眉を歪めて反対側に首を捻った。ここを出なくても、ニコライは全て知っている。外へ出る必要がないのだ。

「あんまり出た事ないけど、地球の裏側の事まで全部知ってるよ」

「そりゃいい。大社に行ってみな、お前の頭ん中にはねぇモンが見れるぜ」

 彼が笑った理由を、ニコライは理解した。そして同時に、自分を恥じる。世界中を飛び回っていたキースは、今の世界を知っている。殆どこの部屋から出た事もないのに、世界に飽きたと言うニコライの言葉が、おかしかったのだろう。

 そう納得すると、自分でもおかしくなってきた。ニコライは小さく噴き出した後声を上げて笑い、ボトルに残った酒を一気に飲み干した。楽しみは、これだけだと思っていた。

 世界は広い。記憶の中にあるものが全てではないし、窓のないこの部屋の外の景色も、毎日変化して行く。長く生きている内に、そんな事も忘れてしまっていた。

「嫌だな君は、死にたくなくなっちゃったじゃないか」

 空になったボトルを覗き込みながら、ニコライは楽しそうにそう言った。ボトルの底越しに歪んで見える床すらも、今は新鮮に感じられる。

「そりゃ残念だったな」

 芝居じみた口振りで言いながら、キースは再びソファーの背もたれに体を預けた。ニコライは形の歪んだ唇に笑みを浮かべて、傍らの戸棚からボトルを取る。酒のせいか、頭の中が浮ついたように気分がいい。

「君の望む通りにするよ。その代わり、いつか一緒に飲みに行こう。いい?」

「そいつァ無理だ、俺は下戸でね」

 とてもそうは見えなかった。キースは灰皿代わりの空き缶を持ったまま立ち上がり、ソファーに置いてあったコートを拾う。ニコライはもう、自由に動き回る彼の長い足を、羨ましくは思わない。

 吸いさしの煙草の火を空き缶の縁で消して、キースはコートを羽織った。彼の分厚いコートから、微かに、乾いた冬の匂いが漂ってくる。

「代わりと言っちゃナンだが、こっちが一段落ついたら、出雲に連れてってやるよ。大社の桜は綺麗なんだ」

 桜は出雲の、この国の象徴とされている。満開の桜は記憶の中にあるが、実際に見た事はない。今実際に見たら、何か違うだろうか。違って見えるだろうか。

 その日が来るのかどうかも疑わしい。彼に約束を果たす気があるのかどうかも、甚だ疑問だ。

 けれど、ニコライは頷いた。そうするのが最良のような気がしたし、信じたかったからだ。

「楽しみにしてるよ」

 軽い調子で返すと、キースは目を細めて笑った後、手を振って玄関へ向かう。その背に手を振り返して、ニコライは壁に立て掛けられた義足へ視線を移す。

 キースが何をしようとしているのか、ニコライは知らない。知りたくもない。千春が懸念している通りの事が、起きるのかも知れない。それでもニコライにキースを止める権利はないし、干渉しないと約束したからには、果たさなければならない。今更止めても、彼は止まらないだろう。

 だからせめて、また会えればいい。そう考えながら、ニコライは部屋を出て行くキースの背を見送った。

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