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神の国  作者:
48/73

第六章 選ぶ道、選ばれざる道 八

 八


 自分なりの、けじめのつもりだった。元より終わらせると決めていた訳ではなく、彼女が首を縦に振ったなら、本当に逃げる気でいた。けれどそれも、今となっては終わった事だ。

 薄暗い執務室で煙草を吹かすキースは、もうかなり長い間、ソファーに寝転んで考え込んでいた。答えは存在しないし、考えてどうにかなるような事でもない。それでも、仮定を夢想する。

 終わったのだと理解していても未練はあるし、忘れようとしても簡単には忘れ得ない。もしあの時無理にでも連れて行っていたとしても、彼女は自分を責めなかっただろうと、そう思う。それに甘えて強硬手段に出る程、若くもないつもりだった。結局どうしようもないほど下らないプライドが、邪魔をしたのだ。

 お互いに、勇気がなかっただけだ。あと一歩を飛び越せるだけの柔軟さも、身軽さもなかった。どんなに身が軽くとも、今まで築き上げて来た全てが足枷となり、身動き一つ取れはしない。

 最後に、いい夢を見た。そうして諦めるつもりでいた。けれど、いざ一人になってここへ戻って来てみたら、また逃げたくて堪らなくなっている。

 何年生きても、青い感情に揺さぶられるのは変わらない。何を知っていても、どんなに誤魔化すのが上手くなっても、結局自分の感情にだけは嘘を吐けない。

「あの、閣下」

「うるせぇ話しかけんな」

 ソファーの傍らに所在なげに立ち尽くすヘンリーも、もう大分待たされている。出直せばいいものをそうしないから、急ぎの用事なのだろう。それでも、キースは動かない。

 高波に街一つ浚われてしまったかのような喪失感に、身を起こす気力さえ失せていた。それでも、ここまで来たからにはやらなければならない。ヘンリーに対する義理もあったし、一度決めた事を曲げたくもなかった。

 この世界に、得るものはないと思っていた。地中海に映る月も、エアーズロックに沈む夕陽も、エベレストの山頂から望む朝焼けも、全てが記憶の中にある。この目で見た事はなくとも、見た記憶がある。世界中の何を見ても新鮮味を感じられない人生に、意味を見出せなかった。だから、怖いものもない。

 全ての記憶を手に入れてから、初めて恐ろしいと思ったのが、芙由の目だった。キースの知り得ない何かを知り、彼が知る全てを知らず、それでも澄んだ目で世界を見る彼女に、新鮮さを覚えた。目を背けたくなる程に眩しくて、綺麗だと思った。その分、あの目に映る事が怖かった。

 最後に上げられた目を、見る事が出来なかった。後ろ髪を引かれる前に去ろうと思ったのに、結局未練を残している。彼女の選択は間違いではなかったのだろうし、自分が引いた事も、間違ってはいない。けれど恐らく、誰も望まない道だった。

「閣下、露に不審な人物を発見したのですが」

 キースは一気に目を見開いて勢い良く跳ね起き、ヘンリーを見上げた。また下らない相談事かと思っていたから、つい無碍にしていた。

「だったら早く言えよ」

 犬が唸るような低い声が、忌々しげに吐き捨てる。険のある響きに臆して身を引き、ヘンリーは灰色の眉を歪めた。

「閣下が話しかけるなと……」

「テメェの声は癪に障るんだよ。どう怪しいんだ」

 ヘンリーは困り果てて眉尻を下げ、その場で身を硬くした。キースの気が立っているのを察しているのか、今日は彼も随分と遠慮がちだ。彼のその態度さえ、今のキースの癪には障る。

 スーツの襟を正し、ヘンリーはキースに顔を近付けるように腰を折る。会話が外に漏れるような事はないが、彼は露見しては困るような話をする時は、大抵こうする。几帳面な男なのだ。

「モスクワ郊外にある共同住宅の一室に、連日通う私服の軍人がいるとの情報が。軍部が何者かを匿っている様子だと」

 支部によって違うが、露の場合は私服通勤を禁じている。家庭持ちの自宅通勤者だとしても、私服で出入りしているなら、そこが住居という可能性はないだろう。

「警備は?」

「いません。時間も一定です」

 ふうんと生返事して耳の裏を掻き、キースはヘンリーから視線を外す。

「聞き込みさせてねぇだろうな」

「まさか。住人を調べさせてみましたが、入居者は全て一般市民のようです。空室は三つ」

 勿体ぶった言い方だったが、結果から話すのは軍人ぐらいのものだ。キースは苛立ちを覚えながらも、急かすことはしない。過程を滔々と語り終えないと、ヘンリーは結果を話さないからだ。

 その過程を滔々と語っている間に、聴衆は引き込まれる。人の話を聞くのが嫌いなキースにとっては、彼の話はどうでもいい雑音でしかない。けれど彼が長きに渡って総知事でいられた理由は、その語り口にあった。

「その空室は本当に、もぬけのカラだって? 軍人は住人がいる部屋に入ってったワケか」

 先に言われて不満げに目を細めたが、ヘンリーは渋々頷く。

「入居者も、職業は軍人となっていたようですが……どう思われます?」

 問い掛けはしたが、ヘンリーの中で答えは出ているのだろう。答えるのも面倒になって、また生返事をして、キースはソファーの背もたれに頭を乗せた。

 元より、怪しんではいた。出雲賢者が妙に他州の内情に詳しいのは、今に始まった事ではない。しかし各州へ配下の者を送り込むにしても、限度があるだろう。各州庁のコンピューターの中身まで知り尽くしているような節があったから、そちらの知識に長けている者がいるのだろう、程度に思っていた。

 しかし、クラッキング行為は犯罪だ。あの法の番人のような賢者がそれを忘れているとは思えないし、露見しないとしても、罪を犯すとは考えられない。本人が行うならまた話は別だが、千春は忙しくてそれどころではないだろう。自力で情報を収集していたなら、あんな電話はしない筈だ。

「高波だなァ」

 ぽつりと呟いた声に、ヘンリーは怪訝に眉を顰めた。しかし、何も教えるつもりはない。

 ヘンリーにだけは、言ってはならない。否、ヘンリーだけではない。これだけは、自分の心の中に留めておくべきだ。最終的に出雲がどうにかなった時、彼女に逃げる場所を残しておく為に。

 またそんな事ばかり考えている自分が、少し可笑しかった。自分で蒔こうとしている種だというのに。それでも、今更やめようとは言えない。

 このまま悶々としているぐらいなら、当初の目的通り、出雲と戦争して死んだ方がマシだと思っている。別段破れかぶれになった訳ではないし、拗ねているのでもない。ただ、今更やめようと言っても、ヘンリーは納得しないだろうと思っていた。

「どうなさるおつもりですか?」

 痺れを切らしたように、ヘンリーが問う。それでも返答しないキースに渋面を作り、彼はゆっくりと屈めていた身を起こした。雨州民は、大抵気が短い。

 過ぎるほど慎重な出雲賢者は、少なからず情報に頼りきりの面がある。それを断ってしまえば、彼女も今までのようには動けなくなるだろう。

 問題は、どこから情報が行っているか、だったから、今回露州へ探りを入れさせた。別段協力者が知りたかった訳ではなく、出雲賢者を少しでも大人しくさせるのが目的だった。

 だからこの話の流れでどうするのかと聞かれても、答えは一つしかない。それも協力者に会うまでは伏せておきたい事だから、キースは返答に迷う。

「……どうするもねぇよ。動くんだろ」

 驚愕に目を見開いたヘンリーは、次にゆっくりと両の口角をつり上げた。もう露にいる誰かの事は、頭から抜けただろう。

 彼が何故覇権を狙っているのか、キースは知らない。出雲と戦争して負かしたとしても、神は揺るがないだろうとも、今は思う。出雲が負けても、他の州が黙ってはいない。伊太と華を説得し、その地位を更に確固たるものとした出雲には、最早勝ち負けなどは関係ないのだ。

 だからヘンリーが何故覇権を欲しているのか、聞く意味もなかった。どうせこの小さな男に、世界を統治出来るだけの器はない。神の国は、神とそれを信じる者が一人でも残っている限り、永遠にそのままなのだ。神を見つけ出さない限り、彼は統治者とはなり得ない。

「やっと……動かれますか」

 震える声で、ヘンリーは呟く。歓喜に満ちたその声に、キースは嗤笑する。

 もう、勝った気でいるのか。動きさえすれば、覇権が取れるとでも思っているのか。出雲と戦争して、何かが変わると思っているのだろうか。

 あの島に勝てるだけの軍事力は、確かに有している。けれどいざ内戦となれば、多くの支部があちらの味方に付くだろう。真の意味での勝利はないし、勝敗は表面的な軍事力だけで決するものでもない。数で勝てるものならば、最初に起きた抗争で、華の方が勝っていた筈だ。

 神という巨大な基盤の上に成り立つこの国は、それなしでは進めないし、動けもしない。今更仕組みを変えたとしても、世界が納得はしないだろう。万が一神を見つけ出したとして、何が変わる訳でもないのだ。

 武力での勝敗に、意味はない。こちらが勝っても負けても、戦う前から出雲の勝利は決まっている。それでも、後には引かない。キースにとっては、勝つ事が目的ではないのだから。

「いい加減頃合いだろ。雨は戦争を楽しめる所まで来た。準備始めな」

 キースはそう言ったが、楽しめはしないだろう。先の内戦で、雨支部の死者は数百とも数千とも聞いている。数万の死者を出した華には到底及ばないが、それでも少ない人数ではない。州内では、支部に重要都市の防衛を任せた出雲に対する不満も上がっている。

 そんな今こそが、この雨にとっての好機なのだ。開戦してから州に不満が出ては、意味もない。ヘンリーがどこまで民衆を動かしているかキースには知る由もないが、まずやれと言っておいた事だから、不備はないだろう。

「あの生意気な黄色猿のご機嫌取りをする必要は、もうないのですね」

 結局それかと、キースは鼻で笑う。

 差別の歴史を深く知る内、そこまでしたのには理由があるのではないかと、そう思うようになる者もいる。天狗が本当にいるのだと、昔話を信じて怯える子供と同じだ。見えないものほど怖くなり、自分と違うものを排他しようとする。

 けれどキースは咎めない。記憶の中に差別意識がある彼にとって、それはどうしようもない事なのだ。同様に差別された方の記憶もあるから、腹も立つのだが。

「まぁ、楽しくやろうぜ兄弟。ところでな」

 話を変えようとそう切り出すと、ヘンリーは姿勢を正してキースを待った。煩わしくはあるが、上手く動いてくれる忠実な犬だ。

 憶測でしかない。けれどもし、キースの予想が正しければ、ヘンリーが見つけた部屋には、本来なら居てはならない人物がいる。

「入居者の名前、分かったか?」

 ヘンリーは怪訝に眉を顰めたが、首を縦に振った。今更何故そんな事を聞くのかとでも言いたげだが、キースは理由を教えない。

「ニコライ・ロマンツェフです」

「父称は?」

 益々不可解そうに表情を歪め、ヘンリーは顎に手を当てる。暫しそうして考えた後、不意に顔を上げた。

「確か……アラモヴィッチだったかと」

 偽名の可能性はある。実名だったとしても同姓同名が多い露州で、それが確かな証拠にはならない。けれど、それはキースを確信付かせるに充分だった。

「死んだ南米の名前、お前知ってるか?」

 唐突な問いかけに、ヘンリーは上げた視線を再び落とす。銜えっぱなしの煙草から、とっくに火が消えているのに気付き、キースはそれを灰皿へ捨てる。

「失礼ですが、それとは……関係ないのでは」

 戸惑ったような返答に、キースは煙草に火を点けながら頷いた。吐き出した煙が顔に纏わりつくが、振り払う事はしない。代わりに漏らした笑いと共に、紫煙が拡散して行く。

 南米賢者は、確かに智利にいた。更に死んでいるのだと伝わっているから、関連性は見いだせないだろう。ヘンリーは南米賢者の真実を知らないし、そもそも賢者以外には知らされていない。

 顔を合わせた事はないが、智利にいた賢者は、南米大陸で生まれた人ではなかったと聞いている。ただ籍を智利に置いていたから、南米賢者と呼ばれていたに過ぎない。

「ああ、そうだ。関係ねぇよ」

 黙っているとまたうるさいので、そう返した。それでもヘンリーは怪訝な表情を浮かべているが、キースに説明する気はない。

 キースは長く、神主だけが、子が生まれても死なないという点に疑問を抱いていた。そこまで優遇されているなら、神のように、何か非科学的な能力を有していてもおかしくはない。けれど、神主にそれはなかった。それは記憶と長命だけを有する賢者と、何か違うのだろうか。

 子供が産まれたが故に死んだ南米賢者と、露州にいる誰か。そして、死なない神主。そこからキースが導き出した答えは、公表すれば出雲が糾弾されてもおかしくないものだった。出雲自体に思い入れはないが、公にする気はない。まだ確証がある訳でもないが、行けば分かるだろう。

「とりあえず、俺は野暮用済まして来る。戻るまでに準備しとけよ」

「畏まりました」

 恭しく頭を下げ、ヘンリーは漸く扉へ足を向けた。彼と話していると、言いたくない事が多すぎて気が滅入る。

 確認しに行かなければならない。これだけ確認して対処しなければ、ヘンリーも動き辛いだろう。

 何が理由か、存在すら否定され、歴史の表舞台にも出て来ない誰か。とうの昔に死んだと思われていた、最後の賢者。それが、きっと露州にいる。

 本当に生きているのだとして、それを広く公表したなら、この世界の根幹を覆す事件となる。それだけは、あってはならない。キースがすべきは出雲賢者の情報網を潰す事だけで、この世界の理は、絶対に変えてはならない。

 聖女として生きる道を選んだ彼女の意味を、なくさない為に。

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