第六章 選ぶ道、選ばれざる道 七
七
「何故お前がここにい……」
文句を言いかけた芙由は、けたたましく鳴り響く電話の音に顔をしかめ、言い終わらない内に受話器を取った。窓際に置かれたソファーに腰掛けて煙草を吹かす訪問者は、薄笑いを浮かべて彼女の挙動を眺めている。
電話を取った瞬間情けない声が聞こえ、芙由はげんなりする。誰も彼も、どうでもいいような電話ばかり掛けてくるのだ。寝る間も惜しんで事後処理に務める彼女の表情は、すっかり疲れていた。
「……なんだ、露からウォッカ? 知るかそんなもの、勝手に飲め。いちいち掛けてくるな」
放り投げるように受話器を置き、芙由は大きな溜息を吐いた。下らない用件の電話ばかり掛けて来られるので、何の為に副官がいるのか分からない。
終戦から二ヶ月。まだ忙しくて混乱しているのは分かるが、逐一伺いを立てられると、芙由の仕事が全く捗らない。ただでさえ何をしているのか分からなくなるぐらい忙しいのに、これ以上忙しくされると能率が下がるばかりだ。
芙由はデスクワークに関しては元々効率のいい方ではないから、デスクの上には待たせている書類が山と積まれていた。もっと真面目に勉強をしておけば良かったと、今更ながらに後悔する。学生時代は成績の悪い方でもなかったのだが、何しろかなり昔の話だ。もう、あの頃の勤勉さは失われてしまった。
痛む目を少し揉んだ後、芙由は手元の書類を見て疲労感に襲われる。部屋に籠もっていること自体、嫌で堪らなかった。座り通しな上に寝不足が祟り、体中が軋むように痛む。
疲れている内に再び電話が鳴り、芙由は思わず舌打ちする。勢い良く顔を上げ、据わった目をソファーに向けた。
「カークランド、電話線を引っこ抜け」
煙草を銜えたまま顔を上げたキースは、軽く肩を竦めて肘掛けの上から腕を伸ばした。そしてデスクの端に置かれた電話のケーブルを摘み、端子を引き抜く。鳴り響いていた音が止み、室内に静寂が戻った。そこでやっと、芙由は安堵の息を吐く。
キースは勝手に入って来てから、一言も言葉を発しなかった。普段から騒がしい彼のその態度が、芙由には不気味にさえ思える。果たして何をしに来たものか、皆目見当もつかない。
何も言わないなら放っておけばいいと、無視して仕事を続けていたのだが、そろそろ気味が悪くなってきた。何しろ動きはするが、口を利かないのだ。こんなに長い間、彼が黙っていた事があっただろうか。少なくとも、芙由の記憶の中にはない。
書類に視線を落としてしまえば、彼の姿は見えなくなる。息遣いも聞こえないし、芙由自身疲れているせいか、気配も感じない。ただ、煙草の臭いだけが漂って来る。落ち着かなかった。
「……何をしに来た」
室内に落ちた静寂を打ち消すように、芙由はゆっくりとそう聞いた。キースはどこからか持ってきた煙缶に煙草を落として、新しいものに火を点けながら芙由へ視線を移す。深い二重瞼の目は、少し笑っていた。
「手、空きました?」
癖のある低い声は、やけに耳に残った。やっと口を開いた彼の台詞が空々しく思え、芙由は鼻で笑う。
「私が何をしているか見えないのか」
問い掛けだけの会話が、ひどく不毛なもののように思えた。キースは煙草を銜えたまま煙缶を持って立ち上がり、デスクの正面に立つ。書類の上に影が落ち、手元が見えづらくなる。
「もう飽きたでしょう。こないだの続き、どうですか?」
明示された訳でもないのにありありと蘇る記憶に、芙由は眉を顰めた。あれで終わったのだと、彼女は思っていた。キースの中では、そうではなかったのだろうか。
相変わらず、彼の意図は酌めない。芙由の疲弊した頭の中に、分かって下さいと、懇願するように呟く声が反響する。一瞬、胸が詰まった。
重い息を気付かれないようにゆっくりと吐き、芙由は嘲笑した。自分ではそのつもりだったが、そう見えてはいなかっただろう。
「何の事だか分からんな」
感情の一片も籠もらない声に、キースは笑った。愛想笑いのような乾いたそれに、芙由は益々顔をしかめる。
「またまた。分かってるからそんな顔するんでしょう」
芙由は何も、言い返せなかった。そんな顔と言われても自分では見えないのだが、どんな顔をしているかぐらいは分かる。
嘲笑したつもりでも、心中の動揺は表情に出ていた。それを自覚する事自体、嫌だというのに。
芙由は荒れて熱を持った唇を引き結び、努めて視線を目の前の男へ向けないよう、書面を目で追う。幾ら追っても、文面の全てが文字の羅列にしか見えなかった。
仕事が手につかない。痛い程に感じる頭上からの視線が、身動きを取れなくさせる。ペンを持った手を動かす事さえ、憚られた。
「……吊り橋効果というだろう」
やっと動いた喉は、彼の言葉を否定しなかった。けれど、芙由の心までは肯定してくれない。
肯定したくはなかった。ここで許容してしまったら、築き上げてきた自分の全てが、壊れてしまうような気がした。長い年月を経て固まった信念は、簡単に捨てられるものでもない。
どんなに偉そうな事を言っても、結局は、自分の為にしか生きられないのだ。
「勘違いだって?」
笑っているのか怒っているのか、どちらとも判じ難い声だった。芙由は何も言わずにペンを置き、脇に置かれていた印鑑を取る。二の句が恐ろしかった。
「あんた、そんなに安い女じゃないでしょう」
朱肉の匂いが、鼻を突く。彼が何を言いたいのか、何と答えて欲しいのか、ぼんやりと理解した。けれどそれを口にする事も肯定する事も、芙由には許されない。
自分を許さないと、そう決めた。怪我をして気が弱っていたのもあるし、生と死を間近に感じて、頼りない心持ちになっていたのもある。全て利己心から来るものだったのだと無理に納得しようとしても、そうではないと、理解してしまっている。
あの時芙由は、確かに国を忘れた。他ならぬ自分の為に守らなければならないものを忘れ、守るという彼の言葉に絆され、どうなってもいいとさえ思った。
冷静になった今は、あの時はどうかしていたのだとしか思えない。けれど今、胸を疼かせる感情が何なのかも分かっている。だから芙由は、それを肯定は出来なかった。
「そう思うのなら、否定はしない」
芙由は書類に印鑑を押し付け、ゆっくりと捺印する。離した印鑑の下には仰々しい字体で、戸守という文字が浮かび上がっていた。
誰からもそう呼ばれるし、芙由自身、そう名乗る。けれど他ならぬ芙由自身が、一番良く知っている。そんな名前は、存在しないという事を。
まだ幼かった頃、この世界の戸を守るから戸守なのだと、母から聞いた覚えがある。芙由は幼すぎて、その時母が浮かべていた悲しげな笑顔が不思議に思えたが、今なら分かる。
この名も聖女という肩書きも、呪いだ。名の通りこの世界を守る為に生き、それ自体に縋りついている。それが生きる意味なのだと信じ込んでしまった末に、離れられなくなった。今更、失くせる筈もない。
「もう、いいじゃないですか」
消沈したような、溜息混じりの声だった。それでも、芙由は顔を上げない。
「やめましょうよ、こんなの。聖女だからとか国を守るとか、あんたそれ、本音じゃないんでしょう」
書類を置く指先が、微かに震えた。耳を塞いで逃げ出したい衝動に駆られるが、ちっぽけなプライドがそれを許さない。動揺を気取られる事を恐れて、殊更ゆっくりと、未処理の書類を捲る。
否定するのも、妙だと思った。否定も肯定も出来ないから、芙由は黙り込む。
今までどんな風に彼と接していたのか、芙由はもう思い出せない。記憶の端に上るのは、あの街で嗅いだ生臭い内臓の臭いと、握った手の熱さだけだった。
「自分の為に生きて何が悪いんです? 俺らみてぇな死なねえ人間に理由が必要なのは、死ぬ時だけでしょう」
彼の言葉には眉一つ動かさないまま、芙由は書類に目を通す。思考は曖昧模糊としているのに、視界は奇妙なまでにはっきりしていた。
理由を求める事さえ、今は恐ろしかった。考えれば考える程、自分の意味を見失ってしまいそうになる。もういいだろうと言う彼の言葉に気持ちが揺らいだのも、確かだった。
それでも全て捨てて逃げ出すような事だけは、出来なかった。したくないのではなく、芙由には出来ない。
聖女だからだの、責任があるからだのという、後ろ向きな理由ではない。芙由が本当に守らなければならないのは、顔も知らない誰かではない。彼女が本当に守っているのは、国などではないのだ。
「死ぬ理由を作るぐらいなら、生きる理由を守る。元から、私が守っているのは国ではない。自分の意味だ」
それも、真実ではなかった。けれどそうして拒絶する以外、芙由に選択肢はない。
人として生きる道を捨てたのは、いつだっただろう。もう遠い昔の事で、その理由さえもよく覚えていない。覚えていないと言うよりは、頭の片隅に追いやって、思い出さないようにしているだけなのだろう。
「あんたに、他に意味はないって言うんですか」
「無いんじゃない。あってはならないんだ」
煙缶に灰を落とす手が、視界の端に映る。タバコの先から細く立ち上る煙が、ひどく目に染みた。脂のせいか、長い人差し指の爪は、黄色く変色している。
「赤の他人は守るのに、自分自身は守れないんですね」
嘲るような、哀れむような彼の口振りが、芙由の癪に障った。何も教えていないのだから、何も知らないのは当然だ。キースの言葉に何も言い返せない事が歯痒く、同時に苛立つ。
こんな会話を続けて、何になる。芙由が揺らぐ事があると、キースは思っているのだろうか。何があっても揺るがなかったからこそ、今でも一人、こんな日々を送っているのだというのに。
「世界の人の中に、私自身は入っていない」
「あんたの父親が、そう言ったんですか?」
芙由の目つきが、徐々に険しくなって行く。察して欲しいとも思わなかったが、結局分かっていないのは彼の方ではないのかと、芙由は憎々しく思う。
分かる筈がない。芙由の事情は芙由以外誰も知らないし、知っていても理解は出来ないだろう。そう頭で分かっていても、無性に腹が立った。
「父は関係ない。戸守芙由は存在しないという事だ」
「知ってます」
苛立ちに任せて放った言葉にも、彼は驚かなかった。逆に芙由が目を見開いたが、意地でも顔は上げない。
「出雲には、子供にあんたの名前付ける親が結構いるんですね。戸守なんて世帯、一つもなかったが」
どこで調べたものかと芙由は思うが、彼も知識だけはある。権限は与えられていないが雨州庁には出入りしているようだから、調べる事ぐらいは出来ただろう。何の為にそんな事を調べたのか、疑問にも思うが。
「知るのはいいが、他言するなよ」
「バラされたくなかったら、ホントのとこ教えて下さい」
本気ではないだろう。芙由はそう思ったところで止まっていた手に気付き、頭から書類を読み直す。目の奥が痛くて、視線を動かす事さえ億劫だった。
何を聞かれるのか、もう分かっている。何度もこういう場面で聞かれたし、芙由も同じ答えを返していた。
「まだ、俺の事嫌いですか?」
その問い掛け方から彼の迷いが見えたような気がして、芙由は小馬鹿にしたように鼻で笑った。予想していたとはいえ、この期に及んで、まだそんな事を聞くのかとも思う。
受け流す事も出来たし、今まで通り、聞き流して突っぱねても良かった。その場逃れの嘘で誤魔化してもいい。けれど、それが出来ない。それは彼女自身変わってしまったからで、変えたのが、他ならぬ彼であったせいだ。
「嫌いではない」
嘘は吐けなかった。結局否定だけしたが、頭上からはキースの笑い声が聞こえる。嬉しそうでも、寂しそうでもあるその声に、芙由は伏せた顔を更に俯かせる。
「それだけですか?」
何を言わせたいのかも、なんとなく分かっていた。それでも、その先は叶わない。芙由だけなら、まだ良かった。問題は、曲がりなりにも彼が賢者だという事だ。
小さく溜息を吐いた後、芙由は俯いたまま口元に嘲笑を浮かべた。彼に対してではなく、自分に対するものだ。感傷に浸る気はないし、不幸ぶって自分を哀れむつもりもない。そこまで幼くはない。
芙由にとっても国にとっても大事なのは、芙由が聖女である事だ。それだけを優先して考えなければならないし、出雲から神主を奪ってはならない。
芙由が護るのは、国ではない。彼女が守らなければならないのは、神主という地位なのだ。
「お前が、ただの人なら良かったのに」
書類に映る影が、ゆっくりと動いた。持っていた缶を置いたのだろう。それから芙由の目の前に、掌が差し出される。
大きな手だった。何もかもを掴めそうな長い指に、芙由は全て任せてしまいたくなるような、頼りない感覚に捕らわれる。呼吸が速くなっているのも、自覚していた。
「もう、いいでしょう」
諦めの言葉は、淡く耳に染みる。胸を叩く鼓動の音がこめかみに響き、煩わしくさえあった。
「いいじゃないですか、逃げたって。悲しいだけなら、悲しまないような道を選べばいい」
この手を取って、どこかへ逃げる。そう決断するのは容易いが、どこへ逃げると言うのだろう。結局誰も、自分自身からは逃げられないというのに。
書類の上に置かれた芙由の手は、微かに震えていた。開かれた掌と比べると、視界の端に映る自分の手があまりに小さく見えて、芙由は拳を握る。それが精一杯の保身であり、今の芙由を支える脆弱な虚栄心だった。
この手は取れない。この手が優しい事も、熱い事も、芙由は知っている。肩に触れた強い腕も、髪を撫でる仕草も、覚えている。それが好きだということも、自覚していた。
それでも、この手を取れない。
「お前が何を考えているのか知らんが、ここで終わりだ」
しっかりと、芙由はそう言った。言い返される前に、再び口を開く。
「使命から逃げる事は許さない。二度とそのふざけた顔を見せるな」
開かれていた掌が、きつく握り込まれた。そしてゆっくりと、視界から消えて行く。
両の肩が、ひどく重たかった。彼も自分自身さえ、この道は望んでいない。けれど、惑う事は許されない。他ならぬ自分自身が、許せないのだ。
「一つ言っときます」
普段と何ら変わりないキースの声に、喉が熱を帯びて行く。喉から鼻へ抜ける呼気が、やけに熱く感じられた。それを厭うように、芙由は乾いた空気を大きく吸い込む。
「これから先何があっても、今日の事は関係ありません」
彼の言葉の意味が、分からなかった。芙由は拳を握り締めたまま、口を噤む。今は何を言われても、答えられないだろう。
「多分もう、会う事もないでしょう」
自分で言った事だというのに、いざ彼の口から聞かされると、胸が痛んだ。明確な離別の言葉に、芙由は堪えきれずに顔を上げる。そして、深く後悔した。
見上げたキースは、微かに笑みを浮かべていた。若気たいつもの表情ではなく、何かを諦めたような、寂しげな笑顔だった。
「さよなら、芙由様」
ここで引き止めなければ、本当に二度と会えなくなるような気がした。けれどすぐに背を向けた彼が最後に浮かべた笑みが、芙由をその場に縫い止める。返す言葉すら、出て来なかった。
部屋から出て行った彼の、遠ざかる足音が、空になった頭に反響する。拒絶する以外、芙由に何が出来ただろう。逃げていいような立場でもないのは分かっているし、今すぐ後を追う事も、今となっては許されない。
誰一人として、望まない道を選んだ。それが一時でも立場を忘れた自分に対する、罰のつもりだった。そして責任ある立場であるが故に、そうしなければならなかった。
「……さよなら」
疲弊した心に、呟いた別れの言葉が染みて行く。自ら与えるにはあまりに重く、辛い罰だった。
俯いた瞬間揺れた前髪から、微かに煙草の匂いがした。それが彼の、自分の未練のようで、芙由は力無く笑う。苦いだけの恋は、始まる前に終わった。