第六章 選ぶ道、選ばれざる道 五
五
華、伊太との内戦は、連合軍側の敗北宣言によって終結を迎えた。乃木は数ヶ月前に傷めた背中の検査中に、ラジオでその報を聞き、衛生兵と抱き合って喜んだ。あの忌々しい戦争が、ようやく終わったのだ。
拠点に戻ってみたら、喜んでいる暇もなく移動になった。住居を破壊された人の為に、また天幕を設営しなければならないのだ。もっとも第八連隊が受け持つ太平洋側は、雨支部と空軍が頑張ってくれていたお陰で大した損害がなかった為、そこまで大変な作業ではなかったのだが。
大社周辺地域は、内戦前と何ら変わりなかった。一ヶ月が過ぎた頃にはどの師団も管轄地域内で街の復興など行っていたので、乃木は暇だった。ちらほらと戻ってきた住人達に物資の配給をしたり、火事場泥棒が出ないように駐在課と共に見回りをしていたが、やっぱり退屈だった。
気が抜けてしまったのだ。今まで生きてきた中で一番気を張っていたから、突然終戦を迎えて、空気の抜けたゴムボールのようになってしまった。何事も、やる気が出ない。つまらないと言っている場合ではないことも、分かっているのだが。
「なんだか、街が静かですね」
一日の軍務終了後、食堂でたまたま席が正面になったキアラは、気が抜けたようにぼんやりと飯を食っていた。乃木が話し掛けると、彼女は苦笑いを浮かべる。
「まだみんな、疎開しているからね。賑やかになるまで、もう少しかかるかな」
「この辺りは無事ですけど、僕らがいた辺りは大変でしょうね」
上陸されたのは、華から一番近い海沿いの地域と、最初の戦場となった沖縄ぐらいで、他は概ね無事だったようだ。雨は州土どころか、治海に侵入される前に攻撃していたと言うから、あまり褒められた事ではない。しかし内地に被害がないなら、それに越した事はない。出雲の重要施設は太平洋側に集まっているから、そうでもしなければ到底守りきれなかっただろう。
本部が出雲海側の治海に侵入されても攻撃しなかったのは、そちらの警備が手薄だと錯覚させる為だったと聞く。敵味方共に出来る限り死なせない為だと言うが、お陰であの一帯は、瓦礫の山と化した。どちらが最良だったのかは、乃木には判断しかねる。
「捕虜の解放も輸送も出雲がやるって言うし、あちらは忙しいね。手伝いに行ければいいけど、こっちはこっちで忙しいから」
「俺らは暇ですけどね」
北村が横から口を出すと、キアラは僅かに顔をしかめた。
「暇じゃないよ。警備もしなきゃいけないし、夜間の見回りだって、今は大事な仕事なんだから」
柔らかな口調で咎められ、北村は箸を使っていた手を止めてすいませんと呟いた。思った事がすぐ口に出てしまう彼は、毎日誰かしらに言動を咎められている。本人に直す気がない訳でもなさそうなのだが、どうも寝て起きると忘れてしまうようだった。鳥頭なのだ。
縁が欠けた茶碗から飯をかき込みながら、乃木は見回りの事を思い出して憂鬱になる。夜間の見回りは辛い。特にそろそろ寒くなってきたこの季節、キャンプの夜間警備に当てられると地獄を見る。近くのキャンプには人も少ないので、やりがいもない。
「そういえば、なんでこの辺りにキャンプがあるんでしょう」
何気なく放った乃木の言葉に、声が聞こえる範囲にいた同僚達の手が止まった。乃木は何かまずい事を言っただろうかと思ったが、キアラが首を捻ったのを皮切りに、皆顔を見合わせ始める。
「そういや変だな。この辺り、家屋も無事だったのに」
北村は手だけを動かして飯を食いながら、乃木に同意する。
「この辺り一帯は無事だったんだよね? 戦場になった地域からは、ちょっと遠いし」
「おエラいさんの考える事は分かんねぇな」
冗談ごかす北村に、乃木は苦笑する。ふざけすぎて怒られる事も多いが、のんきな彼の態度が、乃木の不安を取り除いてくれていることも確かだった。
今回、乃木はかなり北村に救われた。戦場での極限の緊張の中、北村の呑気な一言に余計な力が抜けた事もある。ふざけてはいるが乃木より遥かにしっかりしているので、彼がいる事で精神的にも支えられた。友達とは有り難いものだと、今更ながらにそう思う。
「自分の住んでいた街があんな風になっていたら、精神的に参っちゃうと思うよ。見えないように、この辺りにキャンプを作ったんじゃないかな」
暫く黙り込んでいたキアラの言葉に、乃木は納得した。それもきっと、守るという事なのだろう。
戦争する事自体に疑問を抱いていた乃木は、キアラにも救われた。傷付いても国の為に生きる事をやめない彼女を悲しいとも思ったが、彼女の強い意思が、迷う乃木の心に喝を入れてくれた。見舞いに来てくれた時に彼女とした会話は、乃木が従軍している事に意味を与えてもくれた。
世界を導く人の駒となって、世界を守る。小さな歩の駒でしかなくとも、それには意味がある。神の国の為に死ぬのが名誉だと言われても、生きて、生かして守り抜く事が、何かの為になる。それが分かっただけで、乃木は嬉しかった。
「ちゃんと、守ってるんですね」
何をとも誰がとも、乃木は言わなかったが、キアラは理解してくれたようだった。整った顔に柔らかな笑みを浮かべ、小さく頷く。
彼女のこの笑顔にも、乃木は救われていた。暗く淀んだ戦場で、穏やかな春の日差しのような彼女の笑顔が、唯一の光だった。だから。
そこまで考えて、乃木は俯いた。意識しなくとも、顔が熱くなって行くのが分かる。視線も落としてしまったので、正面にいるキアラの表情は、もう見えない。
「どうしたの?」
不思議そうに聞かれて、乃木は上擦った声で、いいえと返した。相手は小隊長だ、上官だと自分に言い聞かせても、大きくなって行く鼓動の音を抑えきれない。ただ動揺しただけで、そんなものは気のせいなのだと考えても、駄目だった。
毎日顔を突き合わせて、あの太陽のような笑顔を見て、あまつさえ優しい言葉を掛けてもらって、それでも惹かれずにいられるだろうか。そんな筈はない。
「あ、お、欧州の総知事、決まりましたね」
言うに事欠いて、乃木は唐突に全く関係ない話題を出す。欧州では新総知事が決定したと、最近ラジオで聞いた。出雲は事後処理に追われて多忙を極めていたから、乃木は選挙を行っていた事さえすっかり忘れていた。宿舎の部屋にはテレビがないし、忙しい千春に会いに行くのも憚られるので、今はラジオか携帯電話でしか世界情勢を確認出来ない。
乃木にしてみれば誤魔化したかったが為に放った一言だったが、キアラは眉根を寄せて顔を伏せてしまった。また何かまずい事を言ってしまっただろうかと、乃木は不安感を抱く。
「ああ聞いた聞いた。次、独だってな。欧州賢者様大変だよな、あんなやたら移動すんの欧州だけだろ?」
北村が身を乗り出して話に入って来たが、キアラの表情は浮かない。それどころか、益々沈んで行くように見えた。
欧州賢者の身を、案じているのだろうか。出雲では考えられない話だが、キアラは欧州賢者と懇意にしていたと言っていたから、心配なのだろう。出雲のあの賢者と仲良くなると言うとよく分からないが、欧州賢者なら、乃木にもなんとなく分かる。
「動かないのも、出雲の賢者様だけだよ」
「北米も総知事変わらねぇだろ、確か。阿弗利加とか亜細亜は、二三期毎だっけか」
「それも最近だね。昔はどこも、今の南米みたいにころころ変わってたんだってさ」
へえ、と呟いて北村はキアラを見たが、彼女の表情は浮かないままだった。何か言おうとしていたのだろう彼は、戸惑ったように視線を流す。逸れた北村の目と目が合うと、乃木は首を捻って見せた。
視線を落としたまま黙々と食べ続けるキアラに話し掛けるのもためらわれて、乃木は口をつぐんだ。空になった食器を重ね、後輩が入れてくれた食後の茶を飲む。今日は少し薄かった。
キアラにはまだ、何か不安が残っているのだろうか。悩み事があるなら、自分が聞いてもらったぶん力になりたいと思うのだが、いかんせん相手は女性だ。根掘り葉掘り聞くのも憚られるし、嫌がられたらどうしようとも思う。
「……上の人も大変だよなぁ」
北村がよく分からない感想で締めたところで、号令がかかった。片付けは新入りがやるので、乃木はさっさと宿舎へ戻る。早く戻ったところで、どうせ消灯まで北村や他の部屋の連中と駄弁るだけなのだが。
「乃木君」
背後から掛けられた声にびくりとして立ち止まり、乃木は恐る恐る振り向いた。
「ちょっといいかな」
背後には、不安げに眉を歪めたキアラがいた。ためらいがちなその問いかけに、乃木は短くはいと答える。
通行の邪魔にならないよう廊下の端へ寄り、周りに上官がいない事を確認してから、乃木は改めてキアラを見上げた。眉尻を下げた彼女の表情は、困っているようにも見える。一瞬何か注意されるのだろうかと思ったが、そういう訳でもなさそうだ。
「今日、私の部屋に寄れるかな?」
乃木の背中が、一気に熱くなった。背骨にまで血管が通っているかのように、そこだけが焼けるように熱い。口の中が渇いて舌が張り付き、何も答えられなかった。
違う。相談事だ。
そう思っても、それ自体が嬉しく感じられて、鼓動が早くなる。期待している訳でもないと頭で言い訳しても、頬が緩むのを抑え切れなかった。
「……ありがとう」
乃木はまずいと思って俯いたが、キアラはそれを肯定の意と取ったようだった。先導するように歩き始めた彼女に、乃木は黙ってついて行く。
この連隊には、元々女性兵が在籍していなかった。この辺りの軍学校を出た女性歩兵は皆、近衛師団に配属されるから、こちらの連隊にまで来ない。そのせいで、海軍並の完全な男所帯となっている。だからキアラが配属されるとなった時も問題はあったが、管理人室の隣に使われていない部屋があったので、そこに鍵を取り付けて入居する事で話が纏まったようだ。
今キアラが使っている部屋は、元々は反省部屋と呼ばれており、問題を起こした者が宿舎の管理人に夜通し怒られる為の部屋だった。管理人は退役した元軍人の中年女性なので、非常に恐ろしいのだ。
乃木は風呂はどうしているのかと聞きたかったが、訴えられそうなのでやめた。何より、言葉を発する余裕もない程緊張している。
「乃木君、どうしたの?」
はっとして伏せていた顔を上げると、キアラが扉を開けてくれていた。考え事をしている内に、部屋に着いてしまったようだ。管理人にお疲れ様と言う事さえ忘れていた。
「お、お邪魔します」
上擦った声で言いながら、乃木は靴を脱いで室内に入る。廊下へは靴のまま上がるが、室内は畳敷きなので、どの部屋も土足厳禁なのだ。
室内は、微かに畳の匂いがした。乃木はここに入る程の事をしでかした事がなかったので、聞いていた限りだが、北村によると畳も窓もボロボロだったというから、入居する時に直したのだろう。い草の青い香りに郷愁を抱き、乃木は深く息を吸い込む。深呼吸した事で、少しは緊張が解けた。
十二畳ほどの部屋には小さめの窓と押し入れがあり、部屋の中央には卓袱台が置いてある。カーテンレールに夏服の上下が引っかけられているが、最近では、あれもなかなか着る機会がない。乃木はここも他の部屋のようにワンルームなのだと思っていたが、扉から見て一番奥に、引き戸があった。
あの向こうに風呂があるのかも知れないと思ったところで、乃木はまた緊張する。余計な事を考えなければ良かったと、激しい後悔の念に駆られた。
「あの……立ってないで座って」
困ったようなキアラの声に、乃木は慌ててその場に正座した。座布団がないせいか、すねが痛い。キアラは怪訝な面持ちで乃木に視線を合わせたまま、卓袱台に手をついて腰を下ろした。
「……ねぇ、大丈夫? 顔青いよ?」
指摘されて思わず顔を触ると、キアラは不思議そうに首を傾げた。乃木は自分でも、何をしているのかよく分からない。それほど緊張している。
「だ、大丈夫です!……えっと」
何と言うか迷ってそう呟くと、キアラが表情を引き締めた。つられて姿勢を正し、乃木は両手を膝の上に乗せる。元々姿勢がいいので、背が少し反ってしまっていた。
「ごめんね。聞いて欲しいだけなんだけど……いいかな?」
僅かに眉根を寄せて眉尻を下げ、キアラは首を傾けたままそう問いかける。ほつれた明るい赤褐色の髪が、淡いそばかすの浮いた白い頬に掛かった。そのコントラストがあまりに鮮やかで、乃木は頷くついでに視線を落とす。
誰かに話を聞いて欲しいと言われた事が、今までにあっただろうか。乃木はいつでも話を聞いてもらう側で、相談に乗ってもらう方の人間だった。元来話し好きなのも、疑問を抱くと誰かに聞かずにいられないたちのせいもある。
だから話を聞いてくれと言われて、緊張しない筈もなかった。何より女性の部屋に入ったのも、初めての経験だ。努めて深く呼吸するようにしても、自然と肩に力がこもる。
卓袱台を挟んで対面に座ったキアラが、一つ深呼吸した音が聞こえた。目を合わせなければいけないような気がして、乃木は恐る恐る視線を上げる。
「伊太と戦争になったの、私のせいなんだ」
乃木は一瞬、呼吸すら止めて、彼女の言葉を頭の中で反芻する。意味が、分からなかった。
淡いグリーンの目が微かに揺れ、視線が畳の上へと移される。迷っているようにも、困っているようにも見えた。乃木は何と返したらいいのか分からず、黙り込む。
「うん……ちょっと違うかな。今になったのが、私のせい、かな」
言い直されても、意味が分からなかった。そもそも欧州に何が起きていたのかさえ、乃木は知らない。
「えっと……その、どうしてですか?」
何か言わなければと焦った挙げ句、乃木は結局続きを急かすように問いを返す。キアラは視線を落としたまま眉間に皺を寄せ、畳の上で掌を軽く握った。
「私ね、欧州賢者様とここに逃げて来たんだ。出雲に、伊太を助けてもらう為に」
「伊太を?……え、欧州賢者様と?」
乃木は益々混乱した。欧州賢者と一緒に来たと言う事は、賢者も今はこの出雲にいるのだろうか。しかし、それは法律に反する。
呆然とする乃木をちらりと見て、キアラは苦笑した。その表情が痛々しく思えて、乃木は顔をしかめる。
「大陸内にある全ての州の知事に許可をもらわないと、賢者様は大陸の外に出られないの。その法を破ったから、知事には出雲と戦争をする理由が出来ちゃったんだ」
それが、今回伊太が戦争を仕掛けてきた理由だったのだろうか。事情を全く知らない乃木には疑問も山ほど湧いたが、聞くのはやめた。彼女の表情を余計に曇らせてしまいそうで、怖かったからだ。
「私ね、賢者様の身辺警護だったの。警護っていうのも名ばかりの、見張りみたいなものだったけど」
「見張り、ですか?」
問い返しても、キアラは頷くだけだった。詳しくは話せないのだろうと、乃木はそう納得する。
「私、賢者様を止められるぐらい近くにいたんだ。待とうって言う事も出来た。でも、待てなかった」
キアラの言葉は、懺悔のようにも聞こえた。乃木は痛ましげに眉をひそめたまま、口をつぐんで聞きに徹する。
「早くなんとかしなきゃって思ってたし、私も、実際逃げたかったのかも知れない。だから賢者様を止めずに、ここまでついて来た」
キアラの口元には、自虐的な笑みが浮かんでいた。反対にその目は悲しげで、髪より少し濃い色の睫毛が、震えている。
逃げたかっただろう。逃げたかった筈だ。劣悪な環境に置かれて、逃げたくならない人もいないだろう。彼女の全てを知っている訳でもないが、あの野戦病院で、彼女は乃木の言葉を否定しなかった。完全に理解出来るとは到底思えないが、辛かっただろう事は推測出来る。
「賢者様は伊太を救う為にここへ来たけど、結局私は、逃げただけなんだよ。出雲に……君達に迷惑かけて」
そんな事はない、と言おうとしたが、キアラが顔を上げて真っ直ぐな目を向けて来たので、乃木は結局再び口をつぐんだ。
「伊太を代表して、なんて大それた事言えないけど、君達に謝りたかったんだ。私のせいなのに、黙ってるのも嫌で……」
彼女は、ずっと悩んでいたのだろうか。伊太と開戦したのがそのせいだったとしても、乃木には、それは彼女のせいではないように思える。もし本当にキアラが悪いのなら、出雲は軍本部へ配属させたりしないだろうし、芙由だって、あんなに目をかけてはくれないだろう。
どんな気持ちで、彼女はここへ来たのだろう。出雲なら助けてくれると、そう思ったから、この出雲へ逃げてきたのだろうか。それなら、彼女自身は余計に苦しむ事になってしまったのではないだろうか。
「あ……」
口の中がからからに渇いて、喉が張り付いたように動かなかった。掠れた声は出たが踏ん切りがつかず、乃木は一旦顔を伏せて唾を飲む。少しはましになったが、渇いた舌が痛かった。
再び顔を上げた時、キアラはまだ俯いていた。伏せた目に掛かる長い睫毛が、悲しげに揺れている。
「あなたは……悪くありません」
それだけ言うのが、精一杯だった。顔を上げたキアラと目が合うと、乃木は思わず表情を引き締める。
「誰かのせいでもないです。戦争は、誰か一人のせいで起きるようなことじゃありません」
キアラは、戸惑ったように首を竦めた。彼女自身慰めが欲しかった訳ではなく、本当に、ただ聞いて欲しかっただけなのだろう。だからこそ何か言わなければと、乃木はそう思った。
遠い異郷の地で、頼れる人もいないまま、キアラはこんなにも気を張っていた。親元から離れる辛さは、母親にべったりだった乃木にはよく分かる。彼女が自分に頼ってくれたからには、応えたいと乃木は思うのだ。
「あなたは悪くない。逃げたんだとしても、ここへ来て、あなたは自分を救ってくれました」
「……私、何もしてない」
困ったような表情を浮かべるキアラに、乃木は笑って見せた。彼女に救ってもらった分、自分に出来る事があるなら、出来る限り努めたかった。
「小隊長、言ったじゃないですか。駒になっても、生きて守るんだって。僕、嬉しかったんです。国を守るって、そういう事なんだって分かったんです。だから」
キアラの表情が、僅かに緩んだ。強い意思を内に秘めた彼女の目が揺れるのが、痛々しくて見ていられない。それでも、乃木は目を逸らさなかった。
乃木は、下を向いてばかりいた。身近にいる人と愚痴を言い合うばかりで、ずっと後ろ向きな姿勢でいた。いつでも逃げ腰の自分を、情けなく思ってはいたが、一人では変われなかった。だからそれを変えてくれた彼女の視線にだけは、しっかりと応えたい。
「あなたがここに来てくれて、良かった」
強くはない。けれどしっかりと、乃木はそう言った。キアラはしばらく気の抜けた表情を浮かべていたが、やがて目を細める。ゆっくりと白い歯を見せて笑う彼女が、乃木には眩しく見えた。
「ありがとう」
キアラの声は、ほんの少し震えていた。不器用にしか伝えられないが、分かってくれた事が、乃木には嬉しい。温かな何かが腹の内から込み上げ、胸を満たして行く。
彼女の笑顔を見て、ほっとした。こうして笑いかけてもらえるだけで、自分は幸せなのだと乃木は思う。話を聞いてくれと言われた事も、弱い部分を見せてくれた事も、嬉しかった。
「ごめんね。怒られると思った?」
「へ?」
その問いに、乃木は思わず間抜けな声を漏らした。キアラは咎めず苦笑して、乃木の顔を覗き込みでもするように、首を傾げる。
「緊張してたでしょう?」
「……え、あ……」
一瞬にして顔中に熱が上った。緊張していたのはそうだが、キアラは理由を勘違いしていたのだ。乃木は再び俯き、首を横に振る。
「ち、違うんです。僕、女の人の部屋に入ったの、初めてで……」
動揺して言うつもりもなかった事を打ち明けると、キアラは驚いたように目を丸くした後、小さく声を漏らして笑った。首から肩にかけてが熱を持ったように熱く、鈍く痛む。
乃木は北村のように、あっけらかんと童貞ですからなどと言えない。寧ろ彼にはもう少し慎んで欲しい。
「気にしないで。私なんて、半分男みたいなものなんだから」
「でも、小隊長、綺麗ですし……」
何も考えずに放った自分の事に、はっとした。しまったと思ったが、弁解するのも良くない。
黙り込んでしまったキアラの表情を上目遣いに盗み見ると、彼女は目を伏せて眉をひそめていた。驚いているものと予想していた乃木は、怪訝に思って顔を上げる。キアラは目を伏せたまま、口元だけに微かな笑みを浮かべた。
「私は君が思っているほど、綺麗じゃないよ」
それがどういう意味なのか、彼女が何を思い出してしまったのか、何故こんな表情を浮かべているのか、乃木は瞬時に理解した。波が引いて行くように羞恥が治まり、代わりに別の感情が込み上げる。怒りとも悲しみともつかない激情に突き動かされ、乃木は膝の上で汗ばむ手を握り締めた。
「小隊長はお綺麗です!」
思いがけず大声が出たが、乃木は後悔しなかった。自分が何を言ったか理解もしていたが、羞恥心はない。自分でも制御出来ない別の感情に支配され、羞恥を覚えている隙が心になかった。
キアラは驚いたように顔を上げ、自嘲するような笑みを消した。戸惑ったようなその顔が徐々に赤らんで行き、鼻までもが真っ赤に染まる。
「……あ」
何と返したらいいのか、迷っているようだった。口元に手をやって唇に触れ、キアラは視線を乃木から外す。
「ありがとう……」
消え入りそうな声だった。真っ赤な顔で俯くキアラを見た乃木の胸が、きゅんと音を立てた。
――ような、気がした。