第六章 選ぶ道、選ばれざる道 四
四
白の単衣に緋色の袴、深い紫の表着を羽織った賢者は、変わらぬ微笑を湛えて会談の席に現れた。たおやかな物腰も、優美な仕草も、全く変わりがない。
それも、当然のことだ。老いる事がないのだから、何年経とうと変わる筈もない。
「変わりないな、笹森補佐官」
茶褐色の革を張ったソファーから腰を上げて、陳は千春を迎えた。彼女は表着の襟を引き寄せながら、笑みを深くする。
「そちらも。少し老けたかな?」
「痩せただけだ」
千春がソファーの傍らに立ったところで、陳は腰を下ろした。テーブルの上には、既に花茶の入ったポットが用意されている。それを一瞥してから、陳は視線だけで千春を見上げた。
切れ長の目の薄い一重瞼は、陳を見る事さえ拒むように伏せられているが、赤い唇は上弦の弧を描いている。いや、目を伏せていたのは、座ろうとしていた為だろう。陳に懸念を抱かせるほど、千春が纏う空気は重かった。
何年振りだろうか。ゆっくりとソファーに腰を落ち着けた千春を眺めながら、陳はそう考える。最後の世界会議が五十年ほど前だから、その時以来だろう。あれから今まで会談の要求は全て断って来たが、今回だけは、そういう訳にも行かなかった。
「さて、こちらもあまり時間はないのでな。無駄話はしたくない」
背もたれに上体を預け、千春はそう切り出す。彼女の発言は、昔から唐突だった。
「もう引くだろう?」
分かってはいたが、流石に驚いた。千春の唐突さは不親切極まりないが、彼女からしてみれば、何も言いたくないだけなのだろう。
素直に首を縦に振りたくはなかった。話し合いを拒絶しなかったのは確かに引こうと考えたからだが、言い訳さえ許さない彼女の態度が、陳は気に入らない。
けれどそう思うのも、真実彼女が気に食わないからではなく、自分に罪悪感があるからなのだろう。罪を自覚する事さえあまりにも今更で、陳は視線を落として自虐めいた笑みを浮かべる。
「退かぬのか?」
急かすような千春の声は、何故か楽しそうだった。彼女の性格の歪みぶりには、誰も敵わない。
「いや、退く。もう無意味だと分かった」
「気付くのが遅すぎたな、チェン。華の民が、どれほど死んだと思う」
濁さずはっきりと言ったのは、罪悪感を煽る為だったのだろう。確かに陳の胸は痛んだが、彼女の思惑通りになっているようで腹も立つ。だから彼女とは、話し合いをしたくなかったのだ。
陳は俯いたまま、テーブルの上の箱から葉巻を取る。口を切って火を点けると、千春が笑った。
彼女に余裕がある事が、不思議だった。いつでも余裕ぶった女だが、今だけは疑問に思う。出雲もかなりの損害を被っていた筈だから、怒っていてもおかしくはない。
それなのに彼女は、笑っている。テオドラとは質の違うその不気味さが、陳には腹立たしくも思えた。或いはそれは、自分が動揺しているせいなのだろう。余裕のない自分が、情けなくもある。
「戦争の無意味と悲惨さは、私も分かっていた。だがな、やらなければならなかったのだ」
「お前の理屈は、私には通用せぬぞ」
言い訳すら、許されないのか。陳は思わず顔をしかめて、口を噤む。
別段、最初から言い訳がしたかった訳でもない。ただ、理由はあるという事を知って欲しかった。今更独立させてくれと嘆願するつもりもないし、世界に不安を齎した罰なら、甘んじて受ける気でもいる。だからこそ、今の内に言っておきたかったのだ。
それも、きっと叶わない。言い訳は絶対に許されない。千春というのはそういう女で、決めたら梃子でも動かないのだ。
「お前の罪は、百遍縊り殺しても拭われぬ。伊太に戦争を持ち掛けられたなら、止めるが定石だ」
「私の罪は、それではないだろう」
多くの人を、無為に死なせた事。それが自分の罪だと、陳は考えている。出雲に背いてはいけないという法はないが、神に背いた事は大きな罪だ。然るべき罰は、受けなければならないだろう。
しかし千春は、またも鼻で笑った。小馬鹿にしたようなその響きに、陳は眉間に寄った皺を深くする。
「引きこもりすぎて耄碌したか? お前の罪は反逆罪だけだ。戦争して裁かれるのは、ふっかけた側の州そのものと知事だよ。この州に、知事はいないからね」
詭弁だとは思ったが、事実だ。公的には、この州は知事不在が続いている状態だった。陳が知事だと、認められてはいないのだ。
「華自体を罰するというのか? それとも、温情のつもりか」
「誰がお前に情けをかけてやると言った? 私は法に従うだけだよ、お前は五十年の禁固刑だ。華からは十期の間、総知事を出させぬ」
死刑に処されてはならない賢者を罰する方法は、禁固刑しかない。分かってはいたが、年数を聞くと虚しくもなった。鼻で乾いた笑いを漏らし、俯く。
「私を下ろすか」
いや、と短く否定して、千春はポットを持ち上げる。カップに注がれた花茶は、もう朝焼けより濃い色をしていた。
「補佐官として、仕事は続けてもらう。お前は五十年が過ぎるまで、華には戻らせぬ」
それが、出雲の結論だったのだろうか。賢者は大陸の為に生きなければならず、大陸を見放す事が一番の罪とされる。だから大陸から離れてはならないし、神に背いても罰せられない。
神の定めた法に、疑問点は多くある。陳がそれを守る事を馬鹿らしいと思ったのは、いつの事だったか。少なくとも、賢者でなかった頃の事ではない。あの頃は、国の在り方に何一つ疑問を持つ事もなかった。
「州の為とは結構な事だが、お前はやり方も方向性も間違えたのだ、チェン。独立が州の幸福だと、何故勘違いした?」
陳は賢者となる前、医療に従事していた。医者だったのだ。しがない町医者で、収入も多くはなかった。けれどその時はそれなりに、満ち足りてもいた。あの頃は、神の定めた通り人を救える事が、誇らしかったのだ。
「私が指導者となるまで、華は出雲に頼りきりだった。それは神も望んだ事ではなかっただろう」
「言い訳は不要だ。お前の経歴など知っている」
流石に、調べられていたのか。動揺はしなかったが、陳は努めてゆっくりと葉巻を燻らせる。
賢者ではなかった頃、陳は小さな町で、小さな診療所を開いていた。大気汚染の酷い人口過疎地だった近隣地域には、陳しか医者がいなかった為、それなりに患者は多かった。中には病気をしたら医者にかかるという知識を持っていない老人もいたので、巡回診察も行っていた。
幾ら過疎の町とはいえ、助手一人と自分だけで仕事をこなすのは骨が折れた。あの頃は、今より睡眠時間も短かっただろう。それでも神が言うのならと、陳は自分を省みずに働いた。
しかし、人々はそんな陳を理解してはくれなかった。出雲の医者さえ来てくれればと、口々にそう言っていたし、同州民である陳を、信用しない者もいた。彼らは、神の島の医者なら、どんな難病でも治せる筈だと考えていたのだ。
それどころか、出雲の医者がいれば病気にならないという非科学的な噂さえ、まことしやかに囁かれていた。実際、当時医療設備が完全に整っていたのは出雲ぐらいのものだったが、出雲の医者でも、公害病の拡大を食い止められはしなかっただろう。公害病を防ぐのは、医者の仕事ではない。
けれど、町の人々はそんな信憑性のない風聞を信じていた。神の島の民なら、神が住む島から来た人ならば、きっと救ってくれるのだと。取り上げた赤ん坊に先天的な欠損が見られた時など、出雲の医者ならこんな事にはならなかったのにと、詰られもした。それを悔しく思いこそすれ、陳には、何も出来なかった。
人を助ける事自体が、虚しくもなった。どんなに尽力しても理解して貰えない事は、何よりも辛かった。それでも、陳は神の為にと、人々を救い続けた。神が医者に人を救えと言うのなら、間違ってはいないのだと信じていたからだ。
「さて、下らん事ばかりよく調べるものよな。何を知ろうとした?」
薄い唇に笑みを浮かべて見せると、千春は首を傾けて笑い返した。艶やかな彼女の仕草には、どこか品がある。
賢者になった年に、陳は医者を辞めた。賢者としての義務を与えられた為、辞めざるを得なかったと言った方が、正しいだろう。有無を言わさず出雲に召集されて、医者でいるか補佐官になるか選択を迫られ、陳は補佐官を選んだ。
そちらを選んだのは、自分が記憶を与えられたから、という責任感からでもあったが、医者でいる事に疲れていたせいもある。血を見ると、膨大な記憶が呼び起こされてしまうのだ。
この世界の歴史は、飢餓と血に塗れていた。宗教だ政変だと、地球上のどこかで戦争が起こらない日など、一日たりともなかった。今となっては、理解出来ない世界だったのだ。
膨大な記憶が悪夢として眠りを妨げ、陳を責め苛んだ時期もあった。重い罪の歴史に、苦しむ人々の記憶に、押し潰されそうになる事もあった。
それらを乗り越えた時、陳はやっと自らの過去を思い出した。そして思ったのだ。あの地域の人々は、今どうしているのだろうと。
「分かっているのだろうに」
赤い唇は、もどかしくも感じられる程ゆっくりと動いた。陳は何も答えず、胸に溜めた濃い煙を天井に向かって吹く。つかえた記憶にこごった感情を、吐き出すように。
生まれた町に戻った時、陳は人々から手厚い歓迎を受けた。既に知り合いは皆逝去していたが、歓迎して貰えた事は、素直に嬉しかった。けれど人々は、陳が町を離れた頃から全く変わっていなかった。汚染された大気も少しは増しになっており、公害病に苦しむ人も減って来ていたが、人々はそれを、出雲のお陰だと言ったのだ。
陳は、愕然とした。自分がやってきた事を頭から否定されたような気がして、憤りさえ覚えた。それでも、陳に否定は出来ない。神を、出雲を信じる人々の希望を、否定など出来なかったからだ。
州の為を思って、記憶に苛まれながらも尽力してきた。それまでは大陸内のどの州も平等に扱ってきたが、故郷の現状を見てからというもの、陳は華にだけ目を掛けるようになり、その内街頭で演説を始めた。出雲は本当に、正しいのかと。
華の人々が母州を信じられるようにするには、それしかなかった。自分の力を信じて生きて行く為には、出雲に頼っていてはならなかった。神が望んだのは、出雲が支配する世界ではなかったはずなのだ。
黙りこむ陳を見かねてか、千春は再び口を開く。
「何故お前が独立を望んだかは、分かる。出雲としては肯定出来ぬが、個人的には、お前の考えを否定は出来ぬ」
彼女が陳に同調した事が、今までにあっただろうか。会議を開いていた頃も、千春は殆ど、陳の意見を真っ向から否定してかかっていた。そんな彼女が、否定はしないと言う。
心境の変化では、ないのだろう。彼女には彼女なりに考えがあるし、それが陳の考えと相容れない事は分かっている。
「珍しいな」
率直にそう言うと、千春は緩く左右に首を振った。彼女は、何かを懐かしむような表情を浮かべている。
「そうでもない。混ぜ返すのはいつも、北米だった」
記憶の糸を辿る限り、陳にはあの男は下らない冗談しか言わなかったように思える。底知れない人物だとは思っていたが、混ぜ返すような発言をしていたようには感じていなかった。
それも、自分が気付かなかっただけなのだろうか。彼と一番付き合いが長いのは、米大陸の二知事を補佐する千春だ。彼女にしか分からない事もあるだろう。
「北米は、どうしている?」
もう温くなっているだろう茶に口をつけ、千春は微かに笑った。場にそぐわない問い掛けだっただろう。けれど退くと決めた今、何よりも気になるのは、雨の動きだった。
混乱に乗じて何らか行動を起こすのではないかとも、陳は考えていた。けれど予想に反して、雨は相変わらず出雲に追従して戦っている。
「それは本人次第だ。あれはどうも、気になる女が出来たらしい」
陳は一瞬、千春の事かとも思った。しかし笑っているという事は、また別の誰かだろう。北米も昔から、彼女の事はいけ好かないとぼやいていた。
今更、何を言っているのだろう。出雲も北米も、なかなか腹の内が見えて来ない。
「誰の事だ」
「さてね。だから本人次第だと言っている」
言葉の意味を判じかねて、陳は片眉を歪めた。千春は落ちかかった表着の襟を直しながら、ふと笑みを消す。
「上手く行けば、何事もなく終わるだろう。だが、相手が悪すぎる」
ソーサーを膝に置き、千春はカップを口元へ持って行く。伏せられた目は、どこか憂えているように見えた。
そこまで分かっているのなら、何故口を出さないのだろう。彼女の憂いも理解出来ないし、北米の動きも、陳には読めない。上手く行かなければ何が起こるのかさえ、彼には分からなかった。
だが、聞いても無駄だろう。再び口を開く気配のないところを見ると、これ以上は何も言わない筈だ。そういう女なのだ。
或いは彼女は、理解して貰いたがっているのかも知れないとも、陳は思う。神主の為人は知る術もないが、それ以外、彼女に理解者は存在しないだろう。
「孤独に耐えきれなくなったのだよ。あれも、お前も」
孤独。そう意識した事はなかったし、そう考えた事もなかった。けれどその物悲しい言葉は、陳の胸にすとんと落ちた。
孤独だったのだろう。肉親も友人もいなくなった町へ帰った時、陳の胸には何の感慨も湧かなかった。懐かしいとも、汚染された大気が少しはまともになっていて嬉しいとも思わず、ただ、寒いと思った。あれは、寂しかったせいなのだろう。
自分が大陸の為にしてきた事を、知って欲しかった。理解して欲しかった。決して崇めて欲しい訳ではなく、ただ、信じて欲しかった。出雲ではなく、自分を頼って欲しかった。
陳はそこに、存在意義を見出したのだ。
「……貴女も、そうなのだろう」
カップの中身を飲み干してから、千春は目を伏せたまま笑った。どこか、寂しそうな表情にも見える。
「私の事はどうでもいい。雨もな。心配せずとも、今のところは問題ないよ」
はぐらかされたような気はしたが、陳はそれ以上言わなかった。上げられた千春の目が、厳しかった為だ。臆した訳でもないが、口を挟むのも憚られた。
「お前の目的も手段も間違っていたが、目標は間違ってはいない。州と人々との繋がりを強め、州を愛す事を説く。それは欧州が、長年行ってきた事だ」
陳は思わず、目を見張る。長く他州との親交を断っていた陳は、それすらも知らなかった。逐一口を出している、程度にしか、考えていなかったのだ。
情勢は知っていたが、出雲の動きばかりに気を取られ、賢者が何をしているかまでは把握していなかった。欧州賢者と自分は、ほぼ同じ事をしていたのだ。向こうと決定的に違うのは、一つの州だけを見ていたか、大陸全体を見渡していたかだろう。
「人が生まれた州を想う事が出来れば、誰の手も借りずに州は良い方向へ行ける。それが世界中に広まれば、世界は安泰だろう。神が望んだのは、そういう事だった」
千春は簡単に言ってのけたが、それがどんなに難しい事か、陳は分かっている。自分が率先してやってきた事だ、分からない筈もない。
千春の表情は厳しかったが、その目は我が子を見る親のように優しかった。彼女はこの目で、世界を見守っている。何よりも優しい、温かなこの眼差しで。
「お前は間違っていなかった。行き過ぎただけなのだよ。独立とまで言わなければ、華は今頃、どこよりもいい州になっていた。神が目標とした通りの州にね」
陳は、ゆっくりと口元を緩めた。笑みを浮かべた彼につられたように、千春も笑う。
「結局、神の手の内か」
陳は自嘲するように呟いたが、悔しくはない。それよりも、どこか嬉しかった。この世界の絶対的な統治者は、孤独な彼の、唯一の理解者だった。そして恐らく、目の前にいる出雲の人も。
この州は、確かに以前より良くなっている。何事も出雲頼りで、自分では何も行動を起こそうとしなかったのが、自らの力で問題を解決しようとするようになった。現状に甘んじ、無気力で短気だった人々は、生まれた州を愛するようになって、ようやく変わった。それは正しく、神が望んだ事だったのだろう。
「何事もね。チェン、五十年で、この大陸を華のように変えて見せろ」
陳にとっては、華の為に生きた五十年だった。少しだけ間違えて費やした時間と同じだけの年数を、今度は他の州の為に使えと言うのだろう。出雲は、相変わらず甘い。
「五十年で……私に出来るだろうか」
小さく声を漏らし、千春は笑う。ここへ来た時と同じく、楽しそうな声だった。
「お前一人ではない、私も出来る限り手伝おう。この大陸が落ち着いたら、お前には私の受け持ちを手伝って貰わないとならないからね」
「米か。骨が折れそうだな」
そこには、希望がある。陳の野望は潰えたが、別の目標が出来た。
「なに、出来るさ。時間は余る程あるのだ」
死なないことがこんなに有り難いと思った事は、今までになかった。やりたい事も、やらなければならない事も、山ほどある。神と出雲と共に、この大陸を陳の望む大陸にする。それが偉大な神の望みであるのなら。
気が遠くなるほど長い年月を、今度は大陸の為に使う。その役目を任された事さえ、今は誇らしく思えた。
「まぁその前に、華をなんとかせねばな」
「知事には適任がいる。私がいなくとも、華はやって行けるだろう」
ふうん、と呟いた後、千春は陳に片手を差し出した。その手を両手で固く握り、陳は頭を下げる。
腕に額がつく程深く頭を下げたので、千春の表情は見えなかった。けれど肩に添えられた手の温かさだけは、はっきりと感じられた。