第六章 選ぶ道、選ばれざる道 三
三
軍部から華支部が槍を使い始めたと報告を受けた途端、千春は今すぐ華へ飛ぶと言って、議員を困らせたという。話を聞いた時はアーシアも驚いたが、一も二もなくついて行くと決め、今に至る。
戦場を避ける為に大きく迂回した道を行くには、かなりの時間を要したが、体感的にはそう長い距離ではなかったようにも感じられた。気がつけば華州入りしていた、と言っても過言ではない。千春の段取りが良いお陰か、アーシアに実感が湧いていなかったせいかは、定かではないが。
華州庁には既に連絡が行っていたようで、北京市内で一泊した翌日、州庁から迎えの車が来た。陳がよく了承したものだとアーシアは思ったが、千春が言うには、陳は引くに引けなかっただけだから、当たり前なのだそうだ。
槍を使ったという事は、そろそろ華は限界だという事だ。陳はテオドラと違って州を想ってはいるから、悪戯に兵を死なせるような真似はしない。
逆に考えれば、そこまで追い詰めなければ、州庁はおろか、華州入りした時点で追い返されていただろう。上手く行けば降伏するだろうとの事だったが、テオドラが首を縦には振らないだろうと、アーシアは思っていた。陳はともかく、テオドラが動いている理由は、州の人の為ではないからだ。
州庁に到着すると、すぐに別々の部屋へ通された。中では既にテオドラが待っており、アーシアは少なからず驚く。相変わらず笑みを崩さないテオドラ本人にも、驚いた。そういう女だと分かってはいたが、こんな状況でも笑っていられる、その神経を疑う。
「お久しぶりですね、パガニーニ補佐官」
肩口で揃えられたブロンドが、スーツの生地を撫でるように揺れた。切れ長の目は柔和に細められており、その表情には僅かな陰りさえ見えない。あのホテルで会談した時も、テオドラはこの笑顔でアーシアを迎えたのだ。
「ええ、ホテルにお呼ばれした時以来だわ」
テオドラの笑みが、僅かに引きつった。アーシアは嫌味のつもりで言った訳ではなかったのだが。
相談があると言って呼び出されたのは、何年前の事だったろう。若い知事だからと甘く見ていたら、あんな事になってしまった。自分の軽率さは改めるべきだろうが、出来るなら、人を疑う事はしたくない。何より信仰心が強いと聞いていたから、まさか軟禁されるとは思ってもみなかった。何のことはない、テオドラの信仰心は、神そのものにしか向いていなかったのだ。
伊太から、連絡は来ていないのだろうか。以前よりは少し痩せたように見えるが、テオドラの浮かべる表情は変わらない。戸惑いと不信感に、アーシアは眉をひそめる。
少しでも動揺してくれていればいいと、アーシアはそう考えていた。ラウロの事は、彼女の耳にも入っている筈だ。それなのにテオドラの様子は、普段と何ら変わりない。
「パガニーニ補佐官、このまま伊太へお戻り下さらないかしら」
テオドラの言葉に、アーシアは更に顔をしかめた。今更そんな事は、彼女自身望んでいる筈もない。出雲へ攻め入る為だけに、彼女はアーシアを糾弾したのだ。空々しい台詞を吐くテオドラが、憎らしくさえ思えた。
「あなたこそ、戻った方がいいのじゃないかしら?」
「私にはここで、大陸を捨てたあなたの代わりに、する事がありますから」
棘のある台詞を吐いたテオドラに、アーシアは微笑んで見せた。自棄になった訳ではなく、腹を括ったのだ。向こうがそのつもりなら、こちらも真っ向から迎え撃つだけだ。
ここが、アーシアにとっての戦場だ。ここでテオドラに勝てなければ、伊太は終わる。百と数十年もの間守ってきたものが、アーシア自身の不手際によって、崩れ去ってしまう。それだけは、他ならぬ自分が、許せない。
「今は仕事の話なんて、していないわ」
アーシアの表情にか言葉にか、テオドラは僅かに目を細めた。なるべく柔らかな口調で、アーシアは続ける。
「ラウロはきっと待っているわ。あなたが帰って来るの」
「私の帰りを待たずに命を絶とうとした彼が、待っていると仰いますの?」
細い眉を歪め、テオドラは嘲るように鼻で笑った。嫌いな亭主の噂話をする主婦のようにも見えたが、恐らくそうではない。少なくとも、テオドラはラウロを嫌ってはいない。
きっと、彼女は動揺している。アーシアの言葉にではなく、ラウロの自殺未遂に。だから逃げも隠れもせず、拒否することもなくここで待っていたし、今、こんな風に笑った。
アーシアは、テオドラは少なからずラウロを想っているのだと、そう確信する。変わりない微笑を見て不安にもなったが、きっと、アーシアの思った通りだったに違いない。そうでなければ、テオドラはアーシアに感情など見せはしないだろう。
「何故ラウロが自殺なんてしたのか、あなた分かる?」
「死んではおりませんでしょう」
問いには答えず、テオドラは懐から取り出したシガーケースを開けて細葉巻を一本抜く。灰皿の上で先端を切るその仕草さえ、優美だった。赤い爪が、アーシアの視界にちらつく。
「今も、生死の境をさまよっているけどね」
濃い煙の向こうで、テオドラの眉間に皺が寄るのが見えた。グレーがかった青い目が、煙に霞んでいる。形の良い肉感的な唇が動く前に、アーシアは口を開く。
「ラウロがどうしてあなたと結婚したか、あなた分かる?」
テオドラの鼻から漏れた嗤笑が、震えているようにも聞こえた。
「嫌ですわ賢者様。好きだからでしょう」
最早テオドラは、質問に答えるのみだった。少なからず動揺しているのか、余計な話をしたくないだけなのか、彼女の口振りからは判断出来ない。
彼女の本音を、アーシアは聞いた事がない。今になるまで話す機会もそうそうなかったし、対話は向こうが頑なに拒み続けていた。だから今、初めて彼女自身の言葉が聞けたような気がした。
「違うわ、同情したからよ」
テオドラは、口元に浮かべた笑みを崩さなかった。しかしぴったりと口をつぐんだ事が、彼女の心情を表しているように思える。自分の読みは間違っていなかったのだと再度確信を抱き、アーシアは更に続ける。
「ラウロは、あなたを助けたかったのに。あなたはラウロの事、見もしないで」
「バカバカしい」
吐き捨てた声には、明白な苛立ちが滲んでいた。揺さぶる事が出来れば、隙も出来る。これで幾分、アーシアも話し易くはなるだろう。
竦めた肩に頭を乗せるように首を傾げ、テオドラは葉巻を持った掌を上に向ける。理解出来ない、とでも言いたげな仕草だった。
「何が仰りたいの? あなた、何を話しにここまで?」
「はぐらかさないで。私、あなたに伊太を建て直してもらう為にここへ来たのよ」
「建て直しますわ、この戦争が終わったら」
アーシアは唇を引き結んでテオドラを睨み、膝の上で拳を握る。華奢な肩を怒らせて、それでも彼女は、怒鳴りつけたくなるのを必死で堪えた。
「そんな悠長な事を言っている間に、ラウロがどうなると思うの? 意地を張っている場合じゃないのよ」
「意地? 私が?」
余裕を取り戻したテオドラは、濃い煙を吐き出しながらソファの背もたれに上体を預けた。しかし最早、彼女の顔に普段の完璧な微笑はない。見下すような笑みが、口元に浮かんでいるのみだった。
「妙な憶測でものを言うのは、やめて下さらないかしら。意地なら、英が手を引いた時点でこちらも引いておりますわ」
「あなたが意地になっているのは、そっちじゃないわ。ラウロの事よ」
アーシアには、テオドラは意図してラウロの話から逃げているように感じられた。本人に自覚があるのかないのかはまた別だが、彼女は何かを避けている。
ラウロの死か、それとも自分の感情か。或いはそのどちらもなのか。彼女のその姿勢が、アーシアには悲しかった。
一人で生きてきた彼女は、誰かを信じたくとも信じられなかったのだろう。だから自分の中で神格化した神に縋る事でしか、救いを求める術がなかったのだ。それまで誰も彼女に手を差し伸べなかった事が、だからラウロの手さえ取れなかった彼女が、アーシアには悲しく思えた。
「ラウロ、私に言ってたわ。あなたを救いたかったんだって。でもあなた、逃げてたんでしょう。気付いていたくせに」
「何から救うと仰るの? 人? 待遇? それとも、過去かしら」
険のある声に、アーシアは更にきつく拳を握り締める。テオドラの切れ長の目は、もう笑ってはいなかった。小ばかにしたように寄せられた眉に憤りを覚えるが、アーシアはそれでも、声を荒らげるような事はしない。
負けてはならない。伊太の為に、苦悩の末に自ら命を絶とうとしたラウロの為に、信じて任せてくれた千春の為に。そして、テオドラの為に。
「あなたの全てよ。その思想も、あなたの傷も、あなたの罪も、ラウロは全部、代わりに背負いこんでいたのに」
「今更遅いのよ。私の罪も傷も、私だけのもの。彼に肩代わり出来ると思いますの?」
テオドラはもう、何も隠し立てしなかった。ラウロの弁を、何故アーシアが知っているのかさえ聞かない。密会していた事は露見してはいないだろうし、亡命の手助けをしたのがラウロだという事も、テオドラは知らないはずだ。だからもう、彼女にはそこまで考えが及ばないのだろう。
もう少しだと、アーシアは思う。彼女が感情的にさえなってくれれば、まだ説得の余地はある。このまま煽り続けて、まずは怒らせなければならない。
「出来るわ。肩代わり出来なくても、一緒に背負う事は出来る。あなたが認めさえすれば」
更に目を細くして、テオドラは吸いさしの葉巻の火を消した。くすぶる火種から細く立ち上る煙が、テオドラの蝋のような頬を撫でて行く。
「何を認めろと? 副知事が私を救おうとしていること?」
「いいえ、あなた自身の問題よ」
誰も信じられなくなった彼女を救えるのは、ラウロ以外にいない。この世界の被害者を助けなければならないのは自分だとは思っているが、アーシアには、決して出来ない事なのだ。
せめて、伊太へ戻ってラウロに会ってさえくれれば。ラウロが目を覚ますかどうかは分からないが、側にいれば、きっと考えを改めてくれる。だから今アーシアは、ここでラウロと他ならぬテオドラ本人の為に、説得しなければならない。
アーシアにはそれしか、彼らのために出来る事がないのだ。
「あなた本当は、神なんか愛していないんだわ」
テオドラはとうとう、鼻で笑った。膝の上で組まれた指を見ると、僅かに力が籠もっている。
「アーシア様、あなたに何が分かるの? 信じるべきものは神だけだった私が、信仰心を持っていないと?」
「誰かを犠牲にしてまで手に入るのは、愛じゃないわ。それは信仰心なんかじゃない」
真っ直ぐにテオドラを見据えたまま、アーシアは眉をつり上げた。睨み合う二人の間で、空気が張り詰める。吸い込み辛い息でゆっくりと胸を満たし、アーシアは語気を強めた。
「あなたのそれは、虚栄心だわ」
何もかも全て捨てて生きていたテオドラが縋れたのは、神だけだったのだろう。仕事さえ出来ればいいと、そう考えていたのだろう彼女が求めていたものは、神の庇護であって愛ではない。人を信じる事も出来ず、神に護られているという幻想に取り付かれ、縋る余り愛情と勘違いした。
そしてそれに、更に縋りついていた。存在意義を神に求めて、神の庇護下に置かれる事に、意味を見出してしまった。そんなテオドラにも、ラウロの想いは確かに届いていた。届いていたからこそ、彼女は否定し続けていたのだろう。
テオドラは黙って、唇を噛んだ。睨むような視線はアーシアではなく、テーブルの上へ向けられている。
「私が何の為に、ここまでしたと思っていらっしゃるの?」
「少なくとも、神の為じゃないはずよ。戻るに戻れなかっただけなんだわ、だってあなた……」
赤い爪が、手の甲をなぞって行く。彼女のそれは、恐らく無意識だったのだろう。それでもその指は、金色に光るリングを撫でていた。左手の薬指で、慎ましやかに光る証。
それを見た途端、アーシアは顔をしかめた。葛藤した末に押し殺していたのであろう彼女の感情は、無意識下に発露している。それでも否定する彼女が、哀れでならなかった。
「あなたラウロのこと、愛してるんでしょう」
涙で掠れた声が消える前に、扉の開く音がした。驚いて視線を向けたアーシアは、そこにいた人物を見て更に驚愕する。
「テオドラ」
俯いていたテオドラの顔が、ゆっくりと扉の方を向く。灰みがかった青い目が一瞬にして見開かれた後、彼女の表情は驚愕を示したまま凍り付いた。
「……ラウロ」
アーシアは呆然と、そう呟いた。
開いた扉の向こうにいたのは、確かにラウロだった。傍らに付き添っている白髪混じりの男は、秘書だった筈だ。ラウロが乗った車椅子をゆっくりと押し、彼は室内へ入って来る。
ラウロは最後に会った時より、ずっとやつれてしまっていた。理知的な鳶色の目も、凛々しい眉も変わらない。けれど膝掛けに覆われたその足は、きっともう、動かないのだろう。
「テオドラ、やめよう。君はこんな事では救われない」
ゆっくりとした、子供に言い聞かせるような、優しい声だった。テオドラは目を見開いたまま、食い入るようにラウロを見詰めている。彼女のバラ色の唇は、震えていた。
どうして彼が。アーシアは疑問を抱きもしたが、一番は安堵した。
生きていたのだ。アーシアは彼の無事を確認して胸を撫で下ろす反面、昏睡状態から回復してこんなにすぐ動いていいものなのか、不安にもなる。けれど無理をしてまでここまで来た彼の心情は、察するに余りある。
「私はもっと早く、君を止めていれば良かった。済まなかった」
「何故、あなたが謝るの」
震える声が、ようやくラウロの言葉に応えた。アーシアは黙り込んだまま、二人を見詰める。
場に流れる空気を察した秘書が、そっとラウロの背後から離れ、アーシアの傍らへ立った。ラウロが知事だった時から、彼の秘書として働いていた痩身の男は、アーシアと目が合うと、躊躇いがちに微笑んで見せた。彼もアーシアと同じように、ずっと州を見つめていたのだろう。
「君は怒っているだろう、私がした事を」
眉根を寄せたテオドラは、それきり口をつぐんだ。ラウロは暫く黙って待っていたが、彼女が何も言わないと分かると、再び口を開く。
「君がした事も私がした事も、神は許しては下さらない。神が許しても、出雲は私達を咎めるだろう。だが、それでもいい。君のせいではないし、私も自分の意思に従ったまでだ」
テオドラの唇が、震えていた。誰が咎めても、ラウロは全てを許してくれる。それは確かに、救いだったのだろう。
「私は君と罰を受ける。君が嫌だと言ってもだ。もうこの戦争を終わらせて、一緒に伊太に帰ろう、テオドラ」
出雲は、彼らを罰する。テオドラがしたのは許されざる事で、必ず裁かれなければならない。
それでもアーシアは、喉に栓をされたように苦しかった。我が身を切られるように、切ない。結局テオドラは、世間の被害者でしかなかったのだ。
「私は今だって、君を愛しているんだよ」
低い声は耳から胸へ、荒れた地に降り注ぐ雨のように、深く染みた。テオドラは小さく左右に首を振り、切なげに顔を歪める。
ゆっくりと立ち上がって車椅子に歩み寄り、テオドラはおずおずと、ラウロの頬へ手を伸ばした。痩けた頬に触れた手に、ラウロが掌を重ねる。微笑む彼を見た瞬間、テオドラの目から透明な雫が零れ落ちた。
「……ラウロ」
迷子が親を呼ぶような、悲痛な声だった。その場に膝をついて、テオドラはラウロの膝に頬を寄せる。ラウロの手は、慈しむような仕草で、彼女の髪を撫でていた。
「ごめんなさい、ラウロ」
堪えていたものが、アーシアの目からもこぼれ出す。澄んだ色をした涙は彼女のブラウスの襟を濡らし、握りしめた拳の上にも落ちた。
無為な戦いは、これで終わりを迎える。けれど伊太は、終わらない。彼らが人を想う人である限り。
「ごめんなさい……」
涙で滲んだ声は静かな部屋に溶け、いつまでも響いていた。