第六章 選ぶ道、選ばれざる道 一
一
伊太知事の経歴や、各官僚とのやり取りが克明に記された書類と共に、大社の賢者宛にその手紙が届いたのは、ぬるい風が吹く七月の事だった。開戦してから、一年と少し。英州から来た一方的な降伏宣言と、ほぼ同時期の事だ。伊太の副知事から届いた手紙には、出雲とアーシアに対する謝罪の文がつらつらと記されており、最後に、妻を気遣う言葉が数行だけ書かれていた。
アーシアが見たのは千春から貰った手紙のコピーだけだったが、大きく揺れたその文字から、彼の心情は察する事が出来た。罪悪感に苛まれ、自らの罪を悔い、彼はこの手紙を書いたのだろう。今になって送ってきた理由が分からないが、彼の性格を考えると、謝らずにいられなかったのかも知れないと、アーシアは思う。
欧州は今、大陸総知事選挙を控えた大事な時期にある。そんな時に自分が大陸を留守にしている事も、伊太が今尚出雲島内へ侵攻している事も、アーシアの不安を増大させた。今すぐにでも、欧州へ戻りたい。今なら欧州は、アーシアを迎えてくれるだろう。
けれどそれは、伊太の終わりを意味していた。伊太知事が出雲への反乱を企てていた証拠が大社にある今、出雲は法的措置を取る事も出来る。けれど、それでは駄目なのだ。伊太の問題は、罰するだけでは解決しない。伊太の人々が神と賢者への尊敬心を取り戻さない限り、出雲は伊太の内政には介入出来ないだろう。
今の伊太に必要なのは新しい知事ではなく、指標なのだと千春は言っていた。引っ張って行ける者なら知事は誰でも構わないが、適任はテオドラ以外にいないと、アーシアも考えている。神と賢者への尊敬心が伊太から失われた今、人々へ道を示す為には、他ならぬテオドラの力が必要なのだ。
その為には副知事の協力が必要不可欠だし、動くならアーシアと一緒でなければならないと、千春は言った。なら今すぐ説得しに行くと返したのだが、彼女は首を横に振るばかりだった。駄目だと言われてしまえば、どんなに焦っていても従うしかない。千春の裁量は絶対なのだ。
それでも、アーシアは落ち着いていられなかった。いっそ伊太も知事選を行った方が、いいのではないかとさえ思う。けれど州知事から総知事を出すという特性上、総知事選挙と知事選を同時期に行う事は出来ないから、それも叶わない。何よりそれは駄目だと、千春に言われてしまった。
テオドラの伊太に対する影響力は、アーシアも重々承知している。市民から不満は出続けていたものの、州知事というよりは、軍部に対するそれの方が多かった。そのように仕向けたのも、テオドラだったのだろう。
「悩んでおられますね」
思い詰めた表情で肩を落とすアーシアの正面には、細面の青年が座っていた。最近アーシアは千春の執務室で、毎日のように彼に相手をしてもらっている。会議やマスコミの会見が増えたせいか、千春がずっと出ずっぱりなのだ。とはいえ彼も書類を書きながら話してくれているので、アーシアは話し掛けるのも気が引ける。本人は、気晴らしになるからいいと笑っているのだが。
青年の問い掛けに頷き、アーシアは顔を上げる。優しげな面差しは彼の娘と似ても似つかないのだが、その目の澄んだ色だけは、瓜二つだった。聞くなと言うから聞いていないが、間違いなく彼が神主なのだろうと、アーシアは思っている。だから気を遣わせてしまっている事が、尚更申し訳なかった。
「私、今すぐ欧州に戻った方が、いいのじゃないかと思うんです」
困ったように眉根を寄せ、神主は書類を書いていた手を止めた。アーシアの目には、大学生が論文を書きながら悩んでいるようにしか見えない。
「証拠が出て来てしまったから、伊太知事に対して法的措置を取るかどうか、議論してらっしゃるんでしょう? それなら結論が出る前に、私が副知事と知事を説得しに行った方が……」
「オルトラーニ知事の処罰は、決定事項です」
アーシアは言葉尻を濁したが、神主はきっぱりとそう言った。知らされていなかった事にもその事実にも、アーシアは胸を痛める。思わず口を噤んで肩を落とすと、神主は背中を丸めて彼女の顔を覗き込んだ。
躊躇いがちに微笑む彼は、優しい目をしていた。その目を見ると涙さえ込み上げ、アーシアは益々深く俯く。
「同様に、副知事も何らかの処罰は免れないでしょう。今、笹森補佐官が議論しているのは、その事なんです」
誰も知らない賢者の仕事が、それだった。必要とあらば軍部の会議に出向いて罪状を確定させ、法廷に立つ事もある。特に出雲は、州を跨いだ犯罪が起きた場合の裁判を任されるから、裁判所自体に経験は積まれているものの、賢者が召集される機会も多い。
罪人は裁かれる。当たり前の事なのに、知り合いが罰を受けると聞くと、悲しく思えた。ラウロの心情もテオドラの過去も知っている分、余計に裁いて欲しくないと願ってしまう。
自分は役人には向いていないと、アーシアは思う。裁判に必要なのは事実と民衆寄りの考え方であって、同情心ではないのだ。
「どうなってしまうんでしょうか」
「まだ、私にも分かりません。軍部はオルトラーニ知事を検挙するつもりでいますが、笹森補佐官は避けたいようですね。知事から下ろす事にも、難色を示しておられました」
「テオドラでないと、みんな言う事を聞いてくれませんから」
神主は、神妙な面持ちで頷いた。
「軍部の信用は地に落ち、神と賢者の重要性は忘れ去られました。信仰心を失った伊太の方々は、少なからず知事に頼っている部分がありますね」
「元々、話題性がありましたから。テオドラがしてきた事を一般市民は知りませんし、若い女性知事が頑張っているというそれだけで、彼女の地位は確保されています」
「他に縋るものがないのですね」
テオドラが知事となってから、十五年。その間彼女の地位が危うくなった事は、ただの一度もない。彼女自身に圧倒的多数の支持が集まっている事も理由の一つだが、伊太には他に知事となり得る人がいないというのが、一番の原因だった。
役所の警護を任される近衛師団に所属する軍人などは知っているようだが、一般市民は、テオドラが軍部を腐敗させた事には気付いていない。前知事であるラウロへの信頼が、今も残っているせいもある。何より伊太男は美人に弱い。疑う事さえしない者の方が、未だに多い筈だ。
そんな伊太からテオドラを奪うのは、千春も避けたい所だろう。出雲の軍部も分かってはいるだろうが、如何せん司法機関に勤める人間は頭が硬い。説得するのも骨が折れる筈だ。
「聖女が軍部にさえいなければ、もっと早くに手を打つ事も出来たのですが……申し訳ありません」
神主のその言葉に驚いて、アーシアは慌てて首を横に振った。出雲が悪いと思った事は一度もないし、芙由の姿勢は正しいと考えている。寧ろ自分がもっとしっかりしていれば、こんな事にはならなかったのではないかと、悔やんでさえいた。
「芙由様は悪くありません! 世界の為に、今も戦っておられるんですから」
「ええ……今も前線で、指揮を取っている筈ですね」
その時神主が浮かべた憂鬱そうな表情に、アーシアは違和感を覚えた。娘が戦場にいて心配しない親はいないだろうが、そういう類の表情ではない。心配というより寧ろ、憂えているように見えた。
現状を憂えるのは当然だろう。けれど、会話の流れからして妙ではないだろうか。
アーシアの怪訝な表情に気付いたのか、神主はそっと微笑んだ。それでもどこか不安げに眉尻を下げているが、元々こういう顔なのかも知れないと、アーシアは思う。それなら、自分の思い違いだったのだろう。
「また前線に出ておられるんですか?」
「司令部も、前線ですよ。私から見れば、軍人は皆前線にいるのと同じです」
彼にとっての戦場は、ここではないのだろうかとアーシアは思う。千春はよく、芙由が軍人として戦場に出るなら、自分は会議室で戦争をするのだと言っていた。彼女のそういう発言の意図はよく分からないが、その通りだとは思う。
物理的に護る事は出来ないから、後ろから支えてやる。直接的に口を出すアーシアは、他大陸からあまりいい顔はされないが、それも同じ事なのだ。
「せめて、支えてあげられればいいのに」
そう呟くと、神主は苦笑いのような曖昧な笑みを浮かべた。少なくとも彼の存在に支えられているアーシアは、複雑な気持ちになる。毎日のように顔を合わせているが、未だに彼が何を思うのか、理解出来ていなかった。
「私達は、ここで戦うべきだと思うのですよ。軍人ではありませんから」
「笹森補佐官も、同じ事を仰ってましたよ」
「ああ、バレましたか。補佐官の受け売りです」
彼の笑顔は、春の日差しのように優しかった。アーシアは彼の冗談に目を丸くした後、快活に笑う。
ここで笑っていていいのだろうかと、思う事もある。一番身近にいたキアラも戦っているのに、安全な大社で笑っている場合ではない筈だ。何より今も他州へ避難している出雲の人々を思うと、アーシアは心苦しくなる。生まれた州から離れて見守る事しか出来ない彼らの心細さは、察するに余りある。
アーシアに、出来る事はない。まだ時期ではないと、千春に言われてしまった。だから彼女は、ここで待つしかなかった。
「耐えているこの時間が、あなたにとっての戦いなのでしょうね」
心を読んだようなその言葉に、アーシアは身を竦めた。さっきまで微笑んでいた神主の顔から笑みが消え、その目が悲しげに伏せられている。つられて眉尻を下げたところで、アーシアは自分の顔の筋肉が強張っている事に気付いた。
「……すみません。私、あなたに気遣ってもらってばかりだわ」
神主は僅かに表情を緩めて、視線を手元に落とした。止まっていた手を動かしながら、彼は小さく左右に首を振る。
「人を心配するのが、私の仕事です」
その台詞で、アーシアは彼の全てが見えたような気がした。神の代理人である彼は、人前に姿を見せる事も許されず、ここに閉じこもっている。直接伝えたいのに何も言えないもどかしさは、アーシアにもよく分かる。だから自分には何も出来ないのではないかと不安になって、自分の意味を考え始めてしまうのだ。
確かに、誰かに想われている。アーシアはキアラと出会ってやっとそれに気付いたが、彼は知る事が出来るのだろうか。この大社に、人々の声は届くのだろうか。
一番不安なのは、神主なのかも知れない。世界の為を思っていても、結局自己満足でしかないような気にさえなる事もある。アーシアの不安を解消してくれたのはキアラであり、ラウロや伊太に残してきた老人でもあった。
けれど、神主にそんな人はいるのだろうか。神主を尊敬する人はいても、彼はそれに気付くことが出来るのだろうか。
「アーシア!」
ドアが勢いよく開く音と同時に、怒鳴るような千春の声が室内に響いて、アーシアは小首を傾げた。顔を向けたドアの前には、憎々しげに顔を歪めた千春が立っている。彼女の柳眉は急角度を描き、普段なら下がっている筈の目尻までもがつり上がっていた。
怒っているのか、焦っているのか。千春が笑みを崩す事はあまりないので、アーシアには表情の変化から彼女の抱く感情を読み取れない。
アーシアは短く返事をしたが、千春は書類を書く手を止めた神主を見下ろし、渋い顔をした。彼は今までに何度か、ここでアーシアと話し込んでいたせいで千春に怒られている。
「またあなたはこんな所にいらしたんですか、仕事をして下さい」
顔をしかめたままの千春に咎められ、神主は肩を落とした。母親に怒られた少年のようだ。
「お疲れ様、笹森補佐官」
「呑気に言っている場合じゃない、心の準備をしなさい。あなたは部屋にお戻り下さい」
アーシアは益々怪訝に首を捻ったが、神主は得心が行ったように頷いた。しかし、立ち上がる気配はない。部屋に戻る気がないのだろう。
「私が聞いてはいけない話ですか?」
やんわりと拒否され、千春は言葉に詰まった。千春に勝てるのは神主だけかも知れないと、アーシアは思う。
「心の準備って……何かあったの?」
千春はアーシアと神主の顔を交互に見て、深い溜息を吐いた。気の抜けたような溜息に、アーシアは少し落ち着く。彼女が焦っている時は、碌な事がないのだ。
「単刀直入に言うとだね」
神主の横へゆっくりと腰を下ろしながら、千春は袴に挟んであった扇子を引き抜く。漆塗りの扇子には、上品な色に染められた絹糸で、桜花が刺繍されていた。桜の花は、出雲と国の象徴だ。
千春の真剣な表情が、弥が上にもアーシアを緊張させた。自然と表情が強張り、肩に力が入る。
「昨晩、英から連絡があった。オルトラーニ副知事が、自殺を図ったそうだ」
アーシアは思わず目を見開いて、口元を両手で覆った。千春の隣で、神主が眉をひそめたのが視界に入る。
「一命は取り留めたが、現在昏睡状態にある。酸素の供給が数秒間止まっていたそうだから、目を覚ましても、何らか障害が残る可能性が高い」
「……そんな」
震える声で呟き、アーシアは力なく左右に首を振る。豊かな白金色の髪が揺れ、血の気の失せた頬を隠した。
万力で締め付けられたように、こめかみが痛かった。アーシアはぎゅっと唇を引き結び、その痛みに堪える。早鐘を打つ心臓が、ひどく熱かった。
「それは……早めに説得に行った方がいいのではありませんか?」
不安げな神主の声に、千春は首を横に振った。彼女の反応が何を意味するのか理解出来ず、アーシアは数秒の間硬直する。
しかし考えるまでもない。まだ駄目だ、という事だ。何故そんなにも頑なに説得を拒み続けるのか、アーシアには分からなかった。
「まだ待つ方が賢明でしょう。今行っても、拒絶されるだけです」
「なら、チェンをこっちに……」
ゆっくりと揺れていた扇子の動きが、止まった。
「アーシア、今更何を言っているのだね。召集をかけて来るようなら、とうにそうしている」
でも、と呟いたが後に続ける言葉も思いつかず、アーシアは黙り込んだ。千春が何を考えているのか、全く分からない。何が何故駄目なのか、彼女は教えてくれないのだ。
室内に沈黙が落ち、グラスの中で解けた氷が涼しげな音を立てる。アーシアの頭に上っていた血が、すっと引いていく。
「……遺書だったのかしら。あの手紙」
ラウロが送ってきた手紙の内容を思い返し、アーシアは膝の上できつく拳を握る。千春は小さく溜息を吐き、扇を動かした。風に煽られ、ゆったりとした袖口がはためく。
「私だって、さっさと華州庁に乗り込んでしまいたいのだ。あの愚か者共、聖女を捕らえようとしていたようだからね」
「陳は知っているの?」
アーシアはいつだったか、本人から軍人なのだと聞いていたが、陳は芙由と面識がなかった筈だ。怪訝に思ってそう聞くと、千春は投げやりに頷いた。
「流石に気付かれたようだ。中将も負傷したというし、陳を小突きに行きたいのはやまやまだがね」
「お怪我なさったの?」
思わず神主を見ると、彼は重苦しい動作で頷いた。
「かなり前の話ですよ。もう治ったと聞いています」
「だがそれを今の今まで、何故私に隠していた」
苛立たしげに音を立てて扇子を閉じた千春に、神主は苦笑した。
「梅垣元帥は、彼女に甘いですからね。大方、言うなと言われたのでしょう」
「どちらが上司だか分かりませんね。まあ……」
そこで言葉を止め、千春はソファーの背もたれに身を預けた。紅を引いた唇に、今日初めて笑みが浮かぶ。
「もうじき華に動きがあるでしょう。伊太副知事が目を覚ましてくれればいいが」
「行かれるのですか?」
千春は神主の問い掛けに、ええ、と短く答えた。
「副知事の事は心配ですが、今はなりふり構ってもいられません。一応、秘書に連絡だけ入れておきましょう」
やっと動くのだと、アーシアはそう思う。この一年が、彼女には途方もなく長い時間のように思えた。千春の言う通りなら、それももうすぐ終わるのだろう。
テオドラを説得する。それが自分に出来るのか、不安はあるがやらなければならない。アーシアはその為にここにいるのだし、その為に賢者として生きている。
賢者という地位にあること。それが今更恐ろしく感じられて、アーシアは小さく身震いした。