第一章 守人たち 四
四
見張りは辛い。元来体を動かしていないと落ち着かないタチの乃木にとっては、鬼のような小隊長のしごきより遥かに辛い。高圧的な態度を取るのが苦手だから誰何は不得手としているし、どうせ駐屯地に近付く民間人など滅多にいない。
しかしこの地獄に耐えきれば、休暇が待っている。家の事情で正月は必ず帰らなければならない事が、これほど有り難く感じることはない。お陰で昔は嫌だった年始の挨拶周りさえ、楽しみになってくる。
平時、といっても島内で内乱やテロが起きる事はほとんどないので、軍人の主な仕事は、管轄地域の警備や要人警護となっている。ロスト以前は警察や警備員という職業が存在していたようだが、今はその仕事も含めて軍が行う。勤務時の軍人以外には、銃や槍の所持が許されない為だ。
軍人を志す者は概ね、まず陸海空それぞれの軍部が運営、統括する高校に入学する。看護科や音楽科志望であろうと全員通らなければいけない道なので、全国に結構な数の軍学校がある筈だが、乃木はよく覚えていない。
そこで三年間みっちりと法律を学び、愛国心を持たされ、徒手格闘術や装備品の扱い方を身につけさせられる。つまり保安に当たる駐在課と、平時は警護、有事は戦場に立つ警備課の両方に必要な技能だ。勿論高校生だから、普通の勉強もする。
ここで乃木が一番苦しんだのはその勉強内容であり、基礎的な訓練内容ではない。訓練も勿論辛いのだが、それ以上に限られた時間内で、貴重な睡眠時間と休暇を削って勉強しなければならない事が、何よりの苦痛だった。これは乃木だけかも知れない。
各期に何十回とある試験で規定の回数落とされれば、落第となる。そうなれば即就職か、別の高校へ編入するか選ばなくてはいけない。無論そのまま居残る者もいるが、三年間馬鹿にされ続ける。何より落第者には先輩達の鉄拳制裁が待っているので、落第よりもそちらの方が恐ろしくて、落ちる者は殆どいないと聞く。
駐在課で軽犯罪の取締りに当たるか、警備課として本格的に軍人としての教育を受けるかは、卒業試験と称した体力検定や訓練時の振る舞いで判断される。振り落とされた者は各町の駐在所に派遣されるが、そちらの方がまだ増しだったと、乃木は今では思う。駐在課の方が、確実に休みを取れるからだ。
警備課として適正有りと判断されるとまず、術科を選択しなければならない。乃木は特にどこへ行きたいとも思わなかったので、一番頭数が必要な陸の普通科に入った。だが、これが間違いだったのだ。
普通科とはつまり歩兵だ。当たって砕けろをモットーとし、いきなり教育連隊へ放り込まれる。教育期間中は鬼のような教官達に小突かれシバかれ、軍人としての心構えと体力と技能を嫌でも身につけさせられる。
それでも普通科などはまだいい方で、下手に好成績を残して無理矢理航空科へ叩き込まれた挙句、空挺教育隊などへ入れられたら、もう目も当てられないという。乃木はペーパーテストも悪くはなかったし、体力検定では総合で一級と更にプラスが一つついたのだが、度胸が級外とされたようだった。自覚はある。
地獄の日々に耐え抜き、晴れて各部隊へ配属されれば少しはマシになるかと思えば、そうでもない。冗長な日々を繰り返し、時折思い出したようにやってくる休暇を待ち望むのみとなる。訓練は逃げ出したくなる程辛いし、警備は退屈だ。要人警護の機会も、乃木のような下っ端の兵には滅多に巡ってはこない。好きこのんで出征したいとは思わないが、出雲で警備に当たっていても退屈なのは確かだった。
平和な島だ。巷を騒がせるニュースは、要人達の噂話や芸能人の恋愛模様ばかり。物取りや詐欺程度の犯罪者がいかにも極悪人のように非難され、神を神とも思っていないと罵られる。
『お友達が神様かも知れない』この出雲において、殺人事件など滅多に起きない。平和なのはいい事だが、いささか平和ボケの嫌いがあるようにも思えた。
神が神がと言う割に、今も蒙古で神の為に戦う軍人達の事など、何一つ報道されはしない。誰より神を慕い、世界の平穏を願って戦っているのは、他ならぬ彼らだというのに。政府側が意図的に報道させまいとしているようだから、ニュースにならなくて当然なのだが。それでも乃木は、なんだか悔しいと思ってしまうのだ。
冬の冷たい風が、空腹にこたえる。身を切るような寒さの中、ただ立ち尽くしているだけというのはあまりに辛い。部隊内で迎える冬はこれが初めてでもないし、見張り役など何度もこなしてはいるのだが、いつまで経っても慣れなかった。
演習でタコ壺でも掘っている方が、いくらかマシだ。体を動かしていれば暖かいし、立ったまま寝るような醜態を晒さなくて済む。何より乃木は没頭するとそれしか目に入らなくなるので、身が入っていないなどと怒鳴られる心配もない。
怒られるのは好きではない。怒られたいと言うような奇特な者も、そうそういないだろう。怒られすぎて逆に気持ちよくなってきてしまった、哀れな友人もいるが。
「乃木!」
考え事をしていた乃木は、はっと顔を上げて振り返る。よく日に焼けた丸い顔は、怒られすぎて気持ちよくなってきてしまった友人のものだった。人なつこそうな北村の顔は、一般的に軍人と聞いてイメージするそれとはかけ離れている。
「……あれ? 交替お前だったか?」
「何言ってんだ、時間見てなかったのか? もう夜勤との交替だよ。十分経っても来ないから呼びに来たんだ」
乃木は一気に青ざめた。人間というよりは冷凍した豚まんのような北村と腕時計を交互に見て、思わず悲鳴を上げそうになる。こんなに長い時間考え事をしていたとは、思わなかった。
大隊長に殺される。休暇取り消しは流石にないだろうが、だだっ広い駐屯地を二三周はさせられるかも知れない。それは非常に困る。乃木は体力はある方だが、足が遅い。万が一寝坊して帰宅が間に合わなかったら、今度は両親に殺される。
慌てて集合場所へ戻ると、既に全員整列していた。寒空の中待たされていた隊員達の背中が、睨んでいるような気さえした。頭がかっと熱くなったように、落ち着かない気分になる。
隊長はしばらく乃木を睨んでいたが、何も言わなかった。この後呼び出されるのではないかと、乃木は内心怯える。
「蒙古の第三師団より戦況報告が入っている。静聴しろ」
当然誰一人として何も言わなかったが、緊張する気配は伝わってきた。びくびくしていた乃木も、更に緊張して背筋を反る程に伸ばす。
首都出雲が誇る世界有数の精鋭部隊、自衛陸軍出雲本部第三師団。出雲で唯一レンジャー連隊を有する彼らの機動力は、他に類を見ない。彼らは今まで幾度も他州へ遠征し、内乱を鎮めてきた。第三師団に属する事が学生達の目標であり、憧れだった。
だから敢えて航空科へ連れて行かれないように、体力検定で手を抜く輩も存在する。もちろん百戦錬磨の教官達には見抜かれるから、希望者の少ない需品科や輸送科の方へ放り込まれてしまったりするのだが。
第三師団の現在の師団長は、出雲本部に所属する兵士達ならば漏れなく憧憬の念を抱く戸守中将。出雲本部の歩兵だけが装備する事を許される出雲刀の腕は、島内随一と称される。
今は師団長として動いているから、あまり意味もなさそうに思えるが、それでも乃木は彼女に憧れている。彼女に憧れ、その考え方に深い感銘を受けたからこそ、この道を選んだようなものだ。
「重傷、死者合わせて八十七名、捕虜三十二名……なんか少ないな、隊長格だけか?」
乃木は以前、収容所のキャパシティが足りないと千春がぼやいていたのを聞いていた。元々捕虜収容所などなかったから、軍警察と駐在課の刑務所を間借りして使っているので仕方ないのだが、行き当たりばったりだ。
「兵力増強の為、暇な隊を師団に組み込むという話も出ている。暇そうにしていれば第三師団の一員になれるかも知れないぞ」
隊長が冗談を言っても、笑ってはいけないし歓声を上げてもいけないのだ。暇な部隊というのは恐らく冗談だろうが、次は北部の山岳部で鍛えられた、機械化歩兵連隊辺りから引き抜かれて再編が行われるのではないかと、乃木は考えていた。幹部達は一体何を考えているのかと疑問に思う。
「帰省組はさっさと飯食って屁こいて寝ろ。居残り組は夜勤組へ報告及び引き継ぎ後、気が済むまで騒いで邪魔しておけ。以上」
それだけか、と乃木は拍子抜けした。負けているとも勝っているとも言われなかった。負けているから何も言わないのか、何か考えあっての事なのか、乃木には推測出来ない。どちらとも言えないのかも知れなかった。
飯を食って風呂に入った後は屁をこいている暇もなかったので、乃木は早々に宿舎へ戻った。専用宿舎は、独身者向けの集合住宅といった所だろうか。除隊者が出ない限り、布団を二つ敷いたら一杯になるような狭い中での相部屋になるが、造り自体は綺麗だ。
どうせ寝る為とアイロンがけする為だけの部屋なので、宿舎の造りは乃木にとってはどうでもいい。自宅通勤にかなうものはないと思われるが、独身者が多いのでそれも滅多に見かけない。
「負けてんのかな、こっち」
乃木と同じく帰省組の北村は、布団の上で荷造りしながらそう問い掛ける。大した量ではないので、彼が荷物を詰め込んでいる鞄はやけに小さい。
乃木は少し考えてから、左右に首を振った。
「華は絶対数が多いから、こっちが頭数を増やして増強しないと間に合わないんだと思う。隊長格以上だけ捕らえたって事は、勝ってるんだよ、きっと」
自分に言い聞かせるように、乃木はそう言った。北村は納得して頷き、白い壁に掛かった時計を一瞥する。既に十時を回っているが、寝るにはまだ少し早い。
カーテンレールには、未だに夏物のワイシャツが引っかかっていた。乃木も北村も似たような体格をしているから、最早どちらのものだか分からなくなっている。困った時に使えばいいのだが、帰省している間に先輩に見つかったら殺されそうだ。後でジャンケンして、どちらが片付けるか決めようと乃木は思う。
北村は荷物を部屋の隅へ放り投げ、ぐっと伸びをした。ついでに欠伸が漏れる。乃木もつられて欠伸して、布団の上へ倒れ込んだ。
「お前ってさ、いつも仕事終わった後、ずっと賢者様の所行ってるじゃん。いつ飯食ってんの?」
煎餅布団の上で、乃木は首を捻った。
「食堂があるんだよ、大社に。そこで食べてから行く。公務員は出入り自由だから」
「なんでその度胸はあるのに、誰何は出来ないんだよお前」
北村は呆れたような顔をしていたが、それとこれとはまた違うのだと乃木は思う。賢者との面会は島民の権利だからいいが、誰何が苦手な理由はまた別次元の話だ。
「よく怒られないな。風呂間に合わないだろ」
「宿舎の風呂はいつでも入れるだろ。賢者様に面会に行くって言えば、毎日でも外出許可出るし」
事実だった。外出許可というのは、身内に何か起きない限りは出ないものだが、大社へ行く場合だけは例外だ。怒られもしないし、許可が出ない事もない。むしろ勤勉だと褒められる。他の部隊では、兵士が勉強してどうするのかと怒られる場合もあるようだが。
これは他ならぬ神が、ロスト以前の文化を深く知るべしと説いたからだ。知らなければならない理由が乃木には分からないが、疑問に思うと聞きたくなるタチなので、結局足繁く賢者の元へ通っている。
出るのは楽なのだが門限までに戻らないと、死んだ方がマシとも思えるような目に遭う。一度時間を忘れて話し込んでしまった時など、乃木は焦げついた膨大な数の炊飯器を、真冬に一人で洗わされた。不運な事に翌日は槍術の訓練だったので、あかぎれで手が痛み、本当に死ぬかと思った。
「毎日?」
「毎日。門限破らなければ」
へえっと声を上げ、北村は目を輝かせる。
「それじゃ……」
「勤労は義務だよ、仕事終わってからじゃないとダメ。賢者様の方に確認が行くから、嘘ついて許可取ってもムダ」
北村は目尻を下げて、残念そうに肩を落とした。顔が丸い割に体は鍛えられていてごついので、なんだか気味が悪い。土木工事員の厳つい体に、土人形の頭を乗せたようなのだ。乃木も引っ越し屋の体に中学生の頭を乗せたようだと、よくからかわれるのだが。
「どうせならさ、やっぱ蒙古行きたいよな。軍人としては」
「三本爪の黒豹のマーク背負って? 僕らじゃムリムリ」
それは格好つけすぎだとよく怒られている、第三師団のシンボルだ。乃木などは幼い頃に司令部のある駐屯地を見学に行った時、看板に大きく描かれた威圧感さえ抱くあのマークを見て、歓声を上げたものだが。シンボルはかっこいいに超した事はないと思う、男の子脳なのだ。
対して乃木が所属する第八歩兵連隊のマークは何故か尾長鶏なので、他の部隊や雨支部の連中からは、チキン野郎共と馬鹿にされている。同じ飛べない鳥なら、ダチョウの方が速いだけまだマシだったような気がする。
「どうせまた、北部の機械化歩兵連隊辺りから抜かれて再編だよ。僕らはずっと、ニワトリの長い尾っぽに絡まってなきゃいけないんだ」
「不平等だよなあ。実力がモノ言うとは言ってもさ、いいのかよ弱小部隊が弱小のままで」
「警備だけならいいけどさ、均等には行かないよ。前線に立つには、それなりに度胸も技量も経験も必要なんだからさ」
「ちっくしょー」
悔しげにぼやきながら、北村も布団へ倒れ込む。舞い上がったホコリが、蛍光灯へと吸い込まれて行った。
「俺だって出来るならムサくてごついオッサンの山鹿隊長じゃなくて、若くて綺麗な戸守中将に馬車馬みたいに働かされたいよ」
「若くはないよね」
彼女が何年生きてきたのかは知らないが、五十や六十などという生易しい年数でない事だけは確かだ。子供に不老不死が受け継がれない賢者とは違い、神に選ばれた神主の娘である彼女は、老いないし半永久的に死なない。つまりとんでもないご高齢なのだが、その事で悪口を垂れる者など、少なくとも乃木は見た事がなかった。
いかに彼女が軍人と言えど、聖女という尊い身分の方に悪態が吐ける出雲島民は、存在しないだろう。気軽に悪口が言える政府の要人は、キースぐらいのものだ。彼の場合は総知事補佐官ではないので、役人とは違うが。
「若くなくてもいい。もう女なら誰でもいいよおっぱい揉みたい」
「本音だだ漏れだよ。誰でもいいのかよ」
「取捨選択の余地がないだろ俺ら」
確かにその通りではある。女性兵士は衛生隊や補給部隊以外には滅多にいないし、外出も制限されている。そもそも出会いがないのだ。決して軍人がもてない訳ではない。
「だからって中将はないよ、ムリ」
「いや同じ部隊に入れば万が一」
「万が一にもムリ。大体あっちは、そんな事言ってる場合じゃないよ」
ちくしょう、と北村が頭を抱えた。畜生も糞も無理なものは無理だと、乃木は思う。
「まあ、地元で見付けて来ようよお互い。高望みしないで」
「誰でもいいから俺の童貞もらってくれー」
北村のぼやきに、乃木は力なく笑った。