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神の国  作者:
39/73

第五章 微熱の街 七

※多少いかがわしい表現がございます。

 苦手な方はご注意ください。

 七


 大きなマンションのエントランスホールは、不気味なほど静まり返っていた。全世帯避難しているのだから当然だが、キースは異空間に迷い込んでしまったような不安感に襲われる。

 道路に面したガラス戸の奥には、自動ドアと思しき取っ手のない扉がある。通電していないというから、あれも手で開けなければならないのだろう。キースは両手が塞がっているから、どうせ開けるのは芙由なのだが。

 背中では、負ぶった芙由が司令部と電話していた。少し縋ったと思えば次の瞬間には電話を掛けていた彼女の図太さを、頼もしくも思う。屋内は電波状況が良くないので、キースはガラス扉の前で、会話が終わるのを待つ。

「……一時間ほどかかるそうだ。遺体の処理も頼んでおいた」

 芙由の声は、普段と何ら変わりないものだった。落ち着いた彼女の声が耳元で聞こえると、むず痒いような感覚が首筋から這い上がってくる。

「律儀なこって」

「放置しておく訳にも行かん」

 肩越しに振り返って茶化すと、芙由は眉一つ動かさずに返した。彼女が動揺するところを、キースは見た事がない。怒りに任せて詰め寄った時も、芙由は動じなかった。

 正直なところ、キースはどうして自分があんなに怒っていたのか、分からなかった。ただ彼女に跨った青年を見た瞬間、一気に頭に血が上ったのは確かだ。三人掛かりで一人の女を押さえつけていた兵達よりも、何一つ抵抗するような素振りを見せなかった芙由に、怒りを覚えた。あんなに怒ったのも、久しぶりだっただろう。

 自動ドアをこじ開けてエントランスへ入ると、左手側にカウンターがあった。安っぽい人造大理石製のそれには、『本日の営業は終了致しました』と書かれたプレートが、セロハンテープ台に立てかけて置いてある。その光景が何故だか物悲しく思え、誰もいない街とはこんなにも静かだったのだろうかと、キースはそう考える。数時間前まで海の上にいたから、街の変化には気付きようもなかった。

 カウンターの中に入ると、芙由が背後から手を伸ばして自動ドア側の壁を指差した。見れば管理人室と書かれた、鉄製の白いドアがある。外玄関の壁に来客対応用の窓口があったから、通常はこの向こうに管理人がいるのだろう。

「開きますかね、これ」

「開かないだろうな。暑いからここでいい」

 肩を叩いて促されたので芙由を下ろすと、彼女は躊躇いなく床へ座り込んだ。キースが隣に腰を落ち着けた所で、彼女はカウンターの下へ手を入れ、ペットボトルを引っ張り出す。とりあえず水はあったようだ。

 カウンター裏はキースには窮屈だったが、床が冷たくて心地良かった。芙由は壁にぴったりと背中をつけて、小さく溜息を吐く。

「水より飯が食いたいな」

 二リットルのペットボトルから直に水を飲んで、芙由は不満げにぼやいた。色気より食い気とはこの事だろうかと、キースは思う。

「戻りゃ食えるでしょう。足見ますよ」

「頼む」

 芙由は短くそれだけ言うと、膝を立てた足をキースの方へ寄せた。ふくらはぎを掴んで靴を脱がしてやると、やはり痛いのか、芙由は僅かに顔をしかめる。

 ズボンの裾を捲って靴下を脱がせ、足首を露出させる。患部は見て分かる程腫れ、青く変色していた。

「これホントに捻っただけですか?」

「折れたようには感じなかった。冷やしておいてくれ」

 分かるものなのかとキースは思ったが、ペットボトルを渡されたので黙って従った。タオルを持ち合わせていなかったので、脱がせた靴下を濡らして足首に巻く。すぐに温くなってしまうだろうが、ないよりはマシだ。

 ふと顔を上げると、芙由はワイシャツごと上着を脱いでいた。中に着た一分袖の白いシャツは、汗の為か元々なのか、体にぴったりと張り付いている。豊かな胸に薄い生地が押し上げられ、引き締まった腹が僅かに見えていた。

 見事な体のラインを見て息すら止めたキースの目の前に、唐突に縫い針が突き出された。思わず首を反らして避けると、芙由は怪訝に眉根を寄せる。

「上着のボタンを頼む」

「……はい」

 差し出されるまま糸の通された針と上着を受け取ると、芙由は無傷な方の足の上へワイシャツを広げた。キースは針を銜えて両手で上着を広げ、ボタンを確認する。取れてはいないが、全て糸が切れてぶら下がった状態になっていた。

 今更また裁縫する事になろうとは、思ってもみなかった。キースはそう器用な方ではないので、先輩のお下がりばかり使っていた陸軍時代は苦労したものだ。今は繕い物から革靴の手入れまで、全て部下に押し付けてしまっている。

 芙由の肩が、少しだけ腕に触れている。半年も前なら、彼女はこの距離にいる事さえ嫌がっていただろう。これも進歩だろうかと、キースは感慨深く思う。

「聞いていいか?」

 肩の辺りから聞こえた声に、キースは視線だけ落として芙由を見た。出雲島民がよく使うフレーズだ。目のすぐ上で切り揃えられた前髪に隠れて表情は窺えないが、どうせ無表情なのだろう。

「なんなりと」

「お前はどうして従軍した?」

 一旦手を止めて、キースは片眉を寄せた。彼女が個人的な事情について聞いてきた事が、今までにあっただろうか。何か思うところがあったのか、単に無言でいるのが嫌なのか、定かではない。興味を持ってくれたという事なら、それは嬉しい事だとは思う。

 ただ、あまり話したくない事ではあった。針を持ったままつい耳の裏を掻いてしまった所で、キースは芙由の視線が自分を向いている事に気付く。

「言いたくないならいい」

 何故だか、ちくりと胸が痛んだ。縫い針が刺さった訳ではない。すぐに伏せられた彼女の目が、寂しそうに見えたのだ。

「……俺は孤児だったんですが」

「え」

 話し始めた所で聞き返され、キースは顔をしかめた。顔を上げてまじまじと見つめてくる芙由に、何をそんなに驚くことがあるのかと思う。

 しかしこのご時世に孤児という言葉も、なかなか聞かないだろう。戦争のない今は戦争孤児というものもいないし、出雲では殺人事件はおろか、死者が出るような交通事故さえ滅多に起きない。

「当時の雨は、クズの溜まり場だったでしょう。銃なんかも、まだ回収が追い付いてなかった時代ですよ」

「ああ……そうか」

 芙由は納得して視線を落とした所で止まっていた手に気付き、ゆっくりと縫い針を動かした。それを暫く見てから、キースも手元へ視線を落とす。

「まあ、産まれたスラム地区の孤児院で育ててもらったんですがね。昔の雨じゃ孤児院で育った子供は、大体軍学校に入ってたんですよ。軍学校なら奨学金も結構出ますし、孤児預かってる所は孤児院だろうが床屋だろうが、国から手当てが貰える。殆どタダで授業受けられますからね」

「今もそうだな、出雲には孤児なんぞ殆どいないが」

「でしょうね。従軍したのはそんな理由です、つまんねぇでしょう」

 芙由は俯いたまま困ったように眉間に皺を寄せ、曖昧に頷いた。つまらないと言いたいのだろうか。

「何かあったのだと思っていた」

 ぎこちなく動く自分の指を見下ろしたまま、キースはふと表情を消した。過去には他に何もなかったと言えば嘘になるが、従軍した理由を聞かれればそれだけだとしか答えられない。

 きっと芙由は、本当に従軍した理由だけが聞きたかった訳でもないのだろう。けれどキースは好きこのんで自分の過去を語るほど若くはないし、言いたくもなかった。

「何故今も軍人でいる?」

「補佐官なんてめんどくさいじゃないですか」

 即答すると、芙由は視線だけを上げてキースを睨んだ。それでもいつものような棘がないその表情に、彼は苦笑いを浮かべる。

 彼女は、自分の表情の変化に気付いているのだろうか。実際のところ本人がどう思っているのかキースには分からないが、芙由のこの些細な変化を、嬉しくも思う。無愛想な彼女の表面に出るものは、嘘を吐かないからだ。

 芙由に従軍した理由を聞いたこともあったが、彼女が答えたのも理由だけで、そう思うに至った経緯は教えて貰っていない。これでお相子としても良かったが、彼女が食い下がった事も、肩が触れる距離にいる事も、そうは出来ないような気にさせた。

「孤児院に、好きな子がいたんです」

 芙由は目を丸くして、すぐに逸らした。伏せられた長い睫毛が、その目を覆い隠すように影を作る。

「その子は耳にちょっとばかし障害があってね。軍学校には入れなかったもんで、十六過ぎても孤児院にいた。俺も青かったからな、軍人になったらまた会いに来るなんて、そんな約束してたんですよ」

 芙由は何を思うのか、黙り込んだまま針を動かしていた。指の動きが、どことなくぎこちない。

「晴れて軍人になってから孤児院に行ってみたが、当たり前だがあの子はいなかった。どっかで働いてんだろうって言われて、まあそん時は諦めたんですよ。ところがね、地元ギャングが違法に経営してた店に駐在課と潜入した時、再会しちまって」

 そこで一旦言葉を止め、ボタンをつけ終わった上着を畳んで膝の上に置く。芙由はまだ、ワイシャツのボタンを縫っていた。

 懐から煙草を出して火を点けると、幕が張ったように視界がけぶる。カウンターの外側へ視線を向けると、ガラス戸から差し込む橙色の光に、煙が吸い込まれて行くのが見えた。

「何の事はねえ。あの孤児院じゃ、軍学校に行けねぇガキ売り飛ばしてたんですよ。知ってる奴は孤児院に恩があるもんだから、取り締まれなかったんだ」

「軍学校に行けない子供は、そんなに多かったのか?」

 結局彼女は純粋培養なのだと、キースは思う。それを否定する気もないが、こんな話を聞かせるのも酷ではないだろうか。そんな事を言ったら、芙由はまた、軍人だからと否定するのだろうが。

「そりゃね。事故の後遺症で手が痙攣するとか、トラウマが原因で声が出ねぇとか、色々いましたよ」

 痛ましげに目を細め、芙由は針をしまった。触れていた肩が離れ、キースはそこに隙間風が吹いたように錯覚する。

「立派な娼婦になってましたよ。俺の顔見て気付いたのか気付かなかったのか、そりゃ良くしてくれた。六年てのは長いもんなんだって、初めて気付いたよ」

 その年数だけは、何故だかはっきりと覚えていた。生まれてから今までの事も、忘れている訳ではない。思い出したくないだけだ。忘れよう筈もないし、忘れられもしなかった。

 芙由は床にワイシャツを置いて、足を引きずるようにして膝を抱えた。寒い訳ではないのだろう。

「事が終わった頃には、つい感慨に耽って仕事忘れてた。うっかり背中向けちまったら、銃突きつけられましてね」

 あの時は肩甲骨の真ん中に、冷えた銃口を押し付けられたのだった。百年以上経った今でもありありと思い出せるその感触に、キースは肩を竦める。それから横目で芙由を見て、居住まいを正すふりをして腕と肩を触れさせた。

 芙由はやっぱり、何も言わなかった。口を挟まれなくて有り難いとも思ったが、何を考えているものか、余計に気になる。

「聞き取りづらい声で、犬が何しに来たんだって、そう言われたよ。だからお前に会いに来たって、そう言ってやった」

 立てた両膝に腕を乗せ、キースはゆっくりと煙を吐いた。触れた腕から微かな体温が伝わり、徐々に指先までもが熱くなって行く。

「その後は、仕事だった。軍人に銃向けりゃ立派な犯罪者だ。銃奪って、咄嗟に撃った」

 あの時彼女は、笑っていた。大きな目から涙を零しながら、寂しそうに、笑っていた。

 軍人として、彼女を殺した。恋した人を救えずに、地位を利用して殺してしまった。それが、誰も糾弾してはくれなかったキースの唯一の罪だ。彼以外には誰も知らない、心の奥深く刻みついた大きな傷だった。

「死ななきゃ分かんねぇバカもいる。零れたミルクが瓶に戻せないように、人生は元には戻らないんですよ」

 腰のホルスターに収まっているこの大きな銃は、あの時彼女から取り上げたものだ。部品は殆どすげかわってしまっているが、それでも、キースにとってはあの時の銃なのだ。

 だからどんなに扱い辛くても、替える気は起きない。威力だけが取り柄の格好だけの銃だと言われても、気にもならない。幸い砂漠の鷲と名のついたこの銃は、支部シンボルを鷲とする雨の軍人が好んで使うから、それを怪しむ者もいなかった。

「だから俺は躍起になって軍務に没頭した。苦しむ子供が出ないように、誰もが後悔しない人生を歩めるように」

「今も?」

 煙草を床に押し付けながら、キースは左右に首を振った。そして顔を芙由に向け、笑って見せる。

「惰性です」

「そんな口振りではなかったがな」

 キースは声に出して笑ったが、芙由は表情を変えなかった。抱えた膝の上に顎を乗せ、彼女は床を見つめる。

「私のこれは結局、自己満足でしかなかった」

 世界を守りたい、という事だろう。キースは僅かに首を捻って、煙草に火を点けながら、続く言葉を待つ。

「最初は、確かに国を護りたいと思っていた。だが歳を取るにつれて、何故何の役にも立たない私がこんなに長く生きているのかと、そう考えるようになったんだ」

「役には立ってるでしょう」

「私は何もしていない。不必要だと言われるのが怖かった。結局、自分に意味が欲しかったから従軍したんだ。軍人だという事に、縋りついて生きているのも自覚していたから、いつ死んでもいいと思っていた。それなのに……」

 膝を抱いた腕に顔を埋めた芙由の指先は、微かに震えていた。細い指の先は夏だというのにひどく荒れ、所々皮が剥けている。

 肩を抱いてやる事も出来た。腕を伸ばせば反対側の肩にまで手が届く距離にいるのに、キースは躊躇う。彼女はきっと慰めを必要としている訳ではないのだろうし、キースと同じように、断罪されたかっただけなのだろう。

 それでも誰も、彼女の罪を咎められない。本人にとっては罪なのかも知れないが、彼女の存在に救われている人は、大勢いる。本人も自覚してはいるのだろうが、それが余計に、彼女を苦しませてしまうのだろう。

「怖かったんだ。戦いたくないと言う彼らを、哀れに思ったのは確かだった。同情ではなかったが、それならそれでいいと思った。だが、怖かった」

 幾ら歳を重ねているとは言え、自己申告通りなら体だけは娘の筈だ。怖くない筈もないだろう。

 キースは胡坐をかいて、微かに震える指先をそっと摘んだ。しつこく暑さの残る季節だというのに、彼女の手は、ひどく冷えていた。指の腹に人差し指を添え、親指で手の甲を撫でてやる。芙由は咎めなかったし、何の反応も示さない。

「部下には国の為に死ねと言う私が、死ぬのが怖いと思ってしまった。馬鹿馬鹿しい」

「え、そっち?」

 思わず問い返すと、腕の間から僅かに顔を出した芙由に、思い切り睨まれた。混ぜ返すなとでも言いたげな視線だ。

 キースは途端に気まずくなって顔を逸らし、タバコの煙を吐きながら手を離そうとした。しかし芙由は引き止めるように指先を丸めて、離れかけた指を握る。子供が人混みに怯えて親の指を握るような、頼りない仕草だった。

 死にたくない。どんな生き物にも、その感情はある。厳密には感情ではないが、生き残る為に、種を保存する為に、死なない為に生命活動を行う。それが生命が生命たり得る証なのではないかと、キースは思う。

 それでは種の保存が出来ない自分達は、一体何なのだろう。どんな生き物にもいつかは訪れる筈の、死という安楽を奪われ、輪廻の輪に組み込まれる事もなく、他人の為に生きる事を強要される。だから己の命に意味が欲しいと、そう考えるようになる。最初から人としては生きられないと分かっていた彼女は、こんなにも己の意味をなくす事を恐れている。そんなものは無意味であると、分かっているのに。

 人として生きる道は、選択出来ない。賢者となって記憶を与えられた時点で、キースの中からその選択肢は消えた。それまでは確かに希望も野心もあったし、誰かを愛しく思っても、罪悪感はなかった。

 それが今は、どうだ。キースは死ぬ為に生き、過去の罪悪に囚われて、顔のない兵士として死ぬ事を望んでいる。愛した人を軍人として殺した贖罪のつもりで、誰でもない兵士として、死んでしまいたいと願っている。誰か一人の為には生きられない今の彼にとって恋は罪悪で、その先には何もない。それでも。

「怖いなら、俺が守ります」

 芙由は僅かに顔を上げたまま、目を丸くした。握った指先が、ほんの少し汗ばんでいる。

 それでも死にたくないと手を握る彼女が、愛しく思えた。死を忘れ、生きる意味に執着しても、確かにそれが、人である証なのだろう。タバコの先から立ち上る頼りない煙のようなものだったとしても、それが泣き言を言わない彼女の、唯一の人としての弱さなのだろう。

 暫く黙り込んだ後、芙由は無表情のまま、ゆっくりと口を開いた。

「くさい」

 キースも薄々、予想はしていた。しかし実際言われてみると、頭を抱えずにはいられなくなる。頭を抱える代わりに煙草の火を消して、キースは溜息を吐いた。

「あんたはほんっと……空気読んでくれませんか、頼むから」

「空気は吸うものだ」

「そういう意味じゃねえよ」

 吐き捨てるように呟くと、芙由はキースから視線を逸らし、俯いた。自分の膝に視線を落としたまま、それでもキースの指を握っている。

 やがて芙由の口角が僅かに上がり、鼻で笑う声が漏れる。馬鹿にしているというよりは、自嘲しているようだった。

「まだ護衛のつもりか? 結構な事だな」

 皮肉を言ったつもりだったのだろう。小馬鹿にしたような笑みを浮かべてもいたが、キースには、そうは見えなかった。

「いや、個人的に」

 逃げるなら、追う気もなかった。食い下がったのは誤解されたままにしておきたくなかったからで、他に理由もない。或いは、知っておいて欲しかったのかも知れなかった。

 芙由の横顔から、また表情が消えた。感情の一切を放棄したような無表情で、彼女は鼻先を自分の腕に近付ける。

「私にそんな事を言ったのは、お前が初めてだ」

 掠れた声に、いつものような威厳はなかった。強くもないし、弱くもない。そんな当たり前の女が、目の前に居る。

 握られた指を引き抜こうとすると芙由は僅かに力を込めたが、キースは構わずに一旦手を離した。それから下向きに拳を握った手に指の背を軽くぶつけ、指先だけを絡める。細い指は骨と筋しかないように硬く、痛々しく思えた。

 繋いだとは言えないほど頼りない接点に、そこから伝わる彼女の低い体温に、キースは息苦しさを覚えた。芙由は俯いたまま、微かに笑う。

「嬉しかったんだ、あのとき。柄にもなくな。お前が何を考えているのか、よく分からなかったが」

「分かって下さい」

 そう口を挟むと、芙由は俯いていた顔を上げ、キースを見上げた。澄んだ目と目が合うと、心なしか呼吸が楽になったように思う。ついこの間までは、この目が何より恐ろしかったというのに。

 目を細めて笑いかけて見せると、芙由は眉尻を下げて唇を引き結んだ。キースは指先を離さずに、下を向いていた掌を向こう側へ向け、指の間を埋めるように絡める。芙由は抱いていた膝を離し、ゆっくりと足を床に下ろした。

 静まり返ったせいか、警告音のような耳鳴りが聞こえる。これが正しいとは思っていない。或いは自分の何一つ、正しくはないのだろう。それでも今強く胸を叩く鼓動の音だけは、間違っていないのだと思えた。自己満足でも言い訳でも、戦場に在るが故の興奮状態がそうさせるのであっても、今は構わない。

 キースは正面から芙由と向き合うようにして座り直し、左手でゆっくりと一度、彼女の後頭部まで頭を撫でた。冬の空のように澄んだ目へ誘い込まれるように顔を近付けると、彼女は僅かに顎を引いたが、それ以上逃げようとはしない。

「……分からない」

 小さく呟いた芙由の頭に手を添えたまま、背中を丸めて、下から顔を覗き込むように唇を重ねた。小作りな唇は荒れていたが、それでも赤ん坊の頬のように柔らかい。角度を変えて深く口付け、啄ばむように唇を吸ってやると、鼻腔から柔らかな呼気が漏れ、頬に掛かった。

 胸に詰まる息を逃がすように口を開き、きつく結ばれた唇を舌先でなぞる。荒れてひび割れた唇に滲んだ血の味が、じわりと舌先に染みて行く。嗅ぎ慣れた鉄錆の匂いが、口腔から鼻へと抜けて行った。

 促されて緩んだ唇を更にこじ開けて口腔へ舌を潜らせると、握った芙由の手に力が籠もった。口内で触れた舌先さえも冷たく感じる程、彼女の体温は低い。その温度と縋るように握られた手に、長い事忘れていた感覚が腰から背筋を這い上がって、うなじを痺れさせる。

 舌先をぶつけるように押し付けて唇を優しく噛むと、芙由の喉の奥から漏れた熱い吐息が口腔を満たした。寒く厳しい季節と同じ音を持つ彼女の内にもこんな熱があったのかと、キースは場違いにも感心する。

 絡めた舌に熱が移り、徐々に熱くなって行く。戸惑ってでもいるかのようにぎこちない動きが、キースには悲しくも思えた。

 母親は既に死んでいるのだろうし、彼女自身、父親である神主とは滅多に会えないのだと聞いている。頼れる人もおらず、寄りかかれる人もいない。軍人として聖女として、芙由は一人で生きていた。人と触れ合う事すら碌になかったのではないかと思えるほど、彼女の舌の動きは拙かった。

 芙由が苦しげに口から息を吐いたので、唇を離して頬に押し付けた。横目で見た彼女の唇は赤く染まり、差し込む西日に照らされてつやつやと輝いている。

 首筋へ触れかけた所で視線を上げて顔を見ると、芙由もキースを見下ろしていたが、目が合っただけで何も言わなかった。息苦しかったせいか、それとも別に理由があるのか、潤んだ彼女の目を長く見ていられなくて、キースはすぐに視線を喉へ移す。

 冬の時期よりは少し日に焼けた首筋に鼻先を埋めると、甘酸っぱい女の汗の匂いがした。唇で触れた肌の、溶けて行ってしまいそうな程柔らかな感触に、切なくもなる。そっと繋いだ手を離して胸に触れると、芙由は両手でキースの肩を掴んだ。

 左胸は、鼓動に合わせて微かに揺れていた。震える肩を抱けなかった代わりに、豊かな乳房を下からすくい上げるようにして掌で包み込む。下着の厚い生地に阻まれて掌に感触は伝わらなかったが、人差し指だけは薄いシャツ越しに肌に触れていた。少し力を込めただけで深く沈む柔らかな乳房の感触に、頭の芯が痺れて行く。

「……ん」

 殆ど吐息に近い声は、耳から胸へと甘やかに染みて行く。首筋から耳の裏へと肌を啄むように口付けつつ、服の上から優しく愛撫してやると、芙由は切なげに眉根を寄せて顔を逸らした。一つに括られた長い黒髪が体の前に落ち、キースの手を撫でる。

「カークランド」

 今にも泣き出しそうな、ひとしきり泣いた後のような、喉の奥から絞り出すような声だった。キースはその声には答えず、髪を避けるように手を離し、シャツの裾へ潜り込ませる。掌で脇腹を撫でると、芙由は息を詰まらせて、手の甲を唇に押し当てた。

 撫で上げた腹は、あまりにも薄かった。滑らかな肌の向こうに、すぐ硬い筋肉の感触がある。柔らかな胸とは対照的な手触りに、目眩すら覚えた。

「……駄目だ」

 背中へ腕を回して下着に触れた所で、芙由はその手を掴んだ。腕を握り締めた彼女の手は、微かに震えている。

 怖かったのか、嫌だったのか。どちらでもないのだろうし、察しはついていたが、止めようとは思えない。久々に感じる人の温もりに、触れていたかった。

「やめよう、カークランド」

 キースの腕を掴んだ手に、力が籠もった。平静を装って鼻で笑い、キースは視線だけを上げる。

「何です、今更……」

 腕を掴んでいた両手が離れ、キースの頬に添えられる。顔を上げさせられて目が合った時、彼は心臓を掴まれたような痛みを覚えた。

 芙由の目は、優しかった。けれどその表情はどこか悲しげで、触れたら消えてしまいそうな程儚くも見える。目が合えば悪態を吐いていた頃の彼女とは、別人のように思えた。

「やめよう」

 優しく諭すような声が、ゆっくりとそう呟く。今の彼女は確かに、軍人でも聖女でもない。それらの枷に囚われ、身動きが取れずに多くを諦めた、ただの人だった。

「悲しいだけだ」

 その時キースの胸に込み上げた激情は、確かに彼女の言う通り、悲しみだった。こんなにも感情に揺さぶられるのは、どうせ叶わないと分かっているからに他ならない。キースは腹の底から鉄の玉でも這い上がって来るような息苦しさに顔をしかめ、発作的に芙由を抱き締めた。

 この先には何もない。許される事でもない。そんな事ぐらい理解していたし、だから自制するつもりでもいた。それでも手を伸ばしてしまったのは、僅かな望みに賭けてみたかったからだ。

 抱き締めた彼女の体が、ひどく小さく感じた。小さな頭に顔を寄せ、キースは歯噛みする。この世界の何もかもが、自分の道も彼女の道も、塞いでいるような気さえした。

「……芙由様」

 その呼称が、ベニヤの板よりも薄い壁だった。掠れた声で呟くと、芙由は黙って背中を撫でてくれた。泣きたい訳でもないのにこめかみが痛み、後頭部が熱くなって行く。酸味を帯びた唾液が、首のリンパ節の辺りから口の中へ広がり、喉が痺れた。

 現状に怒る事も、泣く事も出来ない。起きない奇跡を信じられるほど、若くもない。キースにはただ、無力な神を呪う事しか出来なかった。

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