第五章 微熱の街 六
六
軍議を終えた後の、大社から司令部への帰路。どこから情報が漏れたものか、司令部へ戻る車が、道に潜んでいた英支部の兵に狙撃された。車はパンクして動かせず、単体で行動していた為に抗う事も出来ず、たった四人で班規模の隊と戦闘になってしまった。
目立たないようにと警護車両をつけなかった事が、仇となった。とにかく先に戻ってくれと一人逃がされた芙由は、走りながら唇を噛む。一体何をしているのだと、無意味に自分を責めたくもなる。
背後を振り返る余裕もなかった。振り返らなくとも、足音がついて来ているのは分かる。ここから司令部まで、あとどのぐらいかかるだろう。幸い長距離走には慣れているからまだ疲労感はないが、追われているという切迫感が、芙由を焦らせた。
どちらが先にばてるか。そう考えた所で、銃声が聞こえた。当たりはしなかったが、踏み込もうとした地面に銃弾が食い込み、一瞬ひやりとする。無駄と悟ったのか、追っ手はすぐに撃つのをやめた。舌打ちの音が、微かに聞こえる。
「止まれ!」
止まれと言われて止まる者がどこにいるのかと、芙由は思う。雑音となって耳元を吹き抜ける風に紛れて、微かに荒い呼吸音が聞こえた。そう近い距離を走ってはいない筈だが、緊張が五感を研ぎ澄ましている。音から判断するに、向こうの息も、そろそろ切れてきているようだ。早く諦めてはくれないものだろうか。
足音と己の呼吸音が、煩わしかった。応援は頼んであるが、一向に姿が見えない。数週間前は戦闘区域にあった街の壊れた建物が、余計に焦燥感を募らせる。ここにいた部隊は既に戦場と共に移動しているから、そう早い対応も期待出来ないだろう。
見つけてもらえるだろうか。酸素を求める肺の痛みに顔をしかめながら、芙由はそう考える。GPS情報は送ってあるが、常に移動していては意味もないだろう。せめて応戦している三人の方へ、行ってくれていればいいのだが。
街を抜けると、土手沿いの道路に出た。もう夏も終わるというのにしつこく降り続ける雨のせいか、草むらが濡れて輝いている。そのまま土手を飛び下りてしまおうと踏み切った所で、計ったように銃声が聞こえた。
不思議と、痛いとは思わなかった。しかし焼けるような熱さに足が竦み、芙由はバランスを崩した体勢のまま土手に落ちる。
「いっ……」
辛うじて着地はしたが、拍子に足首を捻り、そのまま尻を着く。足首に走った鋭い痛みに、目の前に火花が散ったように錯覚した。銃弾が掠めて行った足の状態を確認する暇もなく、芙由は顔をしかめて左右に頭を振る。
「本部第三師団の師団長だな」
頭上から聞こえた声に、芙由はゆっくりと顔を上げた。突きつけられた銃口が、鈍色に光っている。銃を構えて肩で息をする兵士の後ろから、更に二人出て来て土手を下り、座り込んだ芙由に小銃を向けた。
三つの銃口に囲まれ、芙由は苦々しげに唇を噛む。睡眠時間もまともに取れない不摂生な日々を送っていたせいか、荒れてひび割れた唇から、血の味が滲んで舌の上へ広がって行った。鉄錆と踏みつけた草の青い香りが混じり合い、鼻腔を刺激する。
「捕らえて連行しろと言われている。殺しはしない、抵抗するな」
「……なんだと?」
頭を潰すのは基本だが、この場で殺されるならともかく、捕虜にされる理由が分からなかった。機密がどこかから漏れたとも考えにくい。現在連合軍側の作戦本部は華に置かれているから、連行されるなら華だろう。そこまで考えて、芙由は目を細めた。
陳に気付かれたのだ。華支部で唯一顔を合わせた周は死んでいるし、一騎打ちした場で捕虜にした兵士は、自ら志願して出雲本部に転属されたと聞いている。けれどそれ以前から、陳には顔も名前も知られていたから、情報が漏れたと言うよりは、気付かれたと言った方が正しいだろう。
陳は別段、神自体に反抗している訳ではない。だから神主に楯突くような真似はしないと、芙由は思っていた。彼の目的は独立でしかないのだと、千春も言っていた。しかし神を手に入れようとするテオドラは、そうではない。
芙由は神を知らないが、彼女が知る神主は、神を知っている。強行手段に出たとしても、おかしくはなかった。こんな事になるなら召集に応じず、司令部に引きこもっていれば良かったと、芙由は後悔する。
「かの有名な第三師団の指揮官が女とは……出雲はそんなに人手不足だったのか?」
連隊の指揮官であった頃から、言われ慣れていた皮肉だった。兵士が吐いた言葉から判断するに、聖女とは伝わっていないのだろう。陳もテオドラもそこまで愚かではなかったかと、芙由は場違いにも安堵した。
他州の人間には、絶対に知られてはならない。芙由は聖女でいなければならないのだ。
「忙しいさ、貴様等のような馬鹿が多いからな」
「アンタも馬鹿だな師団長。わざわざ怒らせると、可愛いケツ穴小突かれても仕方ないぞ」
三人が、同時に笑った。伊太支部ばかりでなく英支部も堕落していたのかと、芙由は落胆の息を吐く。敵も案外やるものだ。
このまま捕虜となったら、出雲はどうするだろうか。上層部は、聖女を見殺しにするような真似はしない筈だ。聖女だからという理由ではなく、捕虜を見捨てるような判断を、出雲本部が出来ないのは分かっている。
いっそこの場で殺されてしまった方が、まだましだっただろう。少なくとも、出雲に余計な手間を掛けさせるような事にはならなかった。
結局自分は、足を引っ張るだけだった。芙由は視線を落とし、撃たれた足を見る。弾は太腿の外側を掠めただけだったが、走っていたせいか出血量が多い。草むらを染める赤を見ると、今まで焼けるように熱かった足が、途端に冷たくなって行くように感じた。
「……連れて行くならさっさとしろ。足が痛いんだ」
吐き捨てるように言うと、足元にいた二人が両側から腕を取った。頭上から、異州語の会話が聞こえて来る。完全には理解出来ない会話を聞く芙由の顔は、それでも一気に青ざめた。
凍り付いたような表情で顔を上げた芙由を見て、銃を突きつけていた兵士が笑った。三人の目は、どこか暗い。
「流石に分かったか?」
「分かったさ、お前達が無抵抗の婦女子を手込めにするような下衆だという事はな」
頭上にいた兵士が、睨むように顔をしかめた。彼は腕を掴んだ兵の横を通り過ぎ、草むらに投げ出した芙由の両足を跨ぐ。川の向こうに見えていた太陽が大柄な体に隠れ、青年の顔は逆光で見えなくなった。
暴行されるのが嫌だなどとは、今更思わない。蒙古に行った時にはもう覚悟していたし、歳も歳だから、それだけならどうなろうと構わない。
だからその時芙由が覚えた恐怖は、死に対するそれだった。死ぬ覚悟などとうに出来ていると思っていたのだが、いざ窮地に立たされてみないと分からないものだ。これだけ長く生きていて今更死ぬのが怖いと感じるとは、思ってもみなかった。長く同じ姿で生きているからこそ、尚の事恐ろしいのかも知れない。
「私を連行したら、また前線に出るのだろうに。無駄な労力は使わん方が賢明だと思うがな」
芙由の腰の上へ跨った青年は僅かに顔をしかめたが、淡緑色のジャケットごとワイシャツの襟を掴み、左右に引き裂いた。ボタンが外れて草むらに落ち、開いた胸元へ風が吹き込む。中に着た薄いシャツ越しに、忙しなく上下する自分の胸が見えて、芙由は鼓動が早まっている事を自覚した。
「もう戦場になんか、出たくない」
まだ若い声は、震えていた。芙由は視線だけを上げて、兵士を見上げる。逆光でよく見えなかったが、影が濃くなっているのは分かった。高ぶった感情をどう発露するか迷っているかのように、彼の表情は歪んでいる。
「どうせこれが最後なんだ、俺だって最後にいい思いしたっていいだろ!」
不安を振り払うかのように叫ぶ青年に、芙由は黙り込む。言い返す事も出来たが、そうしなかった。
誰もが怖いのだ。起きた事のない内戦に駆り出され、誰もが胸中に不安を抱えている。特に英州民である彼らは、支部ごと巻き込まれた形になる。戦いたくなどないだろう。
きつく胸を掴まれて痛みに顔をしかめたものの、芙由は何も言わなかった。片足は怪我もなく殆ど自由だったから、抵抗する事も出来たが、そうしなかった。我が身を最後の餞としてやろうというような、思い上がった同情ではない。ただ、形が変わるほど強く掴まれた胸が、苦しかった。
彼らは何を思って、戦っていたのだろう。英支部が参戦した理由は、名目上は出雲を糾弾する為だったと聞いている。しかし彼らは、真実を知っているのだろうか。真実など知らなくても、名目上の理由が全てだと思っていたのだとしても、彼らは戦おうと考えただろうか。
そうは、思えないだろう。最初から、戦いたくなどなかった筈だ。守る為の軍に入って、攻め込まなければならなくなった彼らの動揺は、芙由にも理解出来る。
そんな人々を、守らなければならないのに。こんな所で捕まって、何をしているのだろう。堪えきれなかったかのように、服の上から胸に顔を埋める青年の頭を見ながら、芙由はそう自問する。ここで生き残っても、意味はない。捕虜になった後生きて帰って来ても、きっと死んだ方がましだったと思うだろう。
捕虜になるぐらいなら、ここで死んだ方が出雲の為だ。上下の歯の間にそっと舌を挟み、このぐらいで本当に死ねるものなのだろうかと、そう考える。けれどもう、道は残されていない。
柔らかな舌に歯を立てた、その瞬間。頭上から三度、連続して銃声が聞こえた。
芙由が見開いたその目の前で、跨っていた兵士が何かに額を弾かれたように大きく仰け反った。服を掴んでいた手が反射で痙攣し、勢い良く首が反った拍子に開いた口と耳から、鮮血が滴り落ちる。足下に生温い何かが落ち、ずるりと地面へ滑って行ったが、青年の体に遮られて確認出来ない。芙由の位置からでは、限界まで反った彼の喉しか見えなかった。
横にいた二人が倒れて腕が自由になっても、芙由は凍り付いたまま動けなかった。魚の内臓のような生臭い臭気に、鼻を摘む事も出来ない。濃い鉄錆の臭いに胃液がせり上がって来たが、唾を飲み込んで堪えた。
ゆっくりと左右を見ると、背中に風穴を空けられた二人の兵が事切れていた。川の方へ頭を向け、地面に膝をついて土下座でもするような姿勢のまま、前のめりに倒れ込んでいる。道路側に背を向けて、屈んでいた為だろう。見開かれたままぴくりともしない遺体の目を見ていられずに腹の下へ視線を移すと、大量の鮮血に染められ、色の変わった草むらが見えた。
射出口は見えないが、背中の銃創の大きさから考えるに、普通の拳銃ではない。そもそも拳銃なのかどうかさえ疑問に思えるが、芙由にはこの傷を作ったのがどんな銃なのか、分かっていた。射手が誰なのかさえ、予想はついている。
「ファック!」
苛立たしげに吐き捨てる声は、唸る犬のそれのように低かった。視界の端から白いズボンを穿いた長い足が現れ、芙由の上で事切れた青年の体を蹴り飛ばす。横目で見た遺体の頭は、頭蓋骨が割れでもしたのか、原型を留めない程崩れていた。
地面に顔を伏せるようにして倒れた為、遺体の状態を正確には確認出来ない。けれど横から見ても、後頭部が大きく陥没しているのは分かった。額に着弾して、後頭部から貫通して行ったのだろう。つまり、足の上に落ちたあの生温いものは。
思わず眉を顰めた芙由の胸倉が、大きな手に掴まれた。思い切り引き寄せられて前のめりになり、芙由は視線を射手の手元に移す。その手には、銀色の大きな拳銃が握られていた。
「ロクでもねぇ野郎に腹上死させてんじゃねぇよ」
芙由はそこで漸く、射手の顔まで視線を上げた。鼻の頭に皺を寄せて眉をつり上げ、怒りを露わにしたキースの顔が、目の前にある。彼の鋭い双眸は、普段の若気たそれとはかけ離れた、憤怒の色を宿していた。
顔全体が逆光になり、彫りの深いその顔には、濃い影が落ちている。彼の目は、底の見えない深い闇色をしていた。怒りの為か、目と眉の隙間が殆どなくなっている。
「あんたまた前線に出てたのか? あんたが捕まったら、出雲がどうなるか分かってんのか」
芙由には、何も言い返す気力が起きなかった。ここまで本気で怒っている彼を見るのは初めてだったし、彼の言い分は正論だ。言い返せる筈もない。出雲がどうなるかと言われて分かっていると答える事も出来たが、言い訳が出来るような心境ではなかった。
頼りない記憶の糸を辿る限り、芙由にはあまり怒られた経験がない。彼女を怒れるような立場の人間が、周りに存在しなかったからだ。だから今怒られてみて怖いというよりは、驚いた。それは相手が彼だったせいもあるし、自分の中に生まれた感情のせいでもある。
「抵抗ぐらいしろよ胸糞悪ィ。てめぇがどういう体なのか分かって……」
「カークランド」
静かに名前を呼ぶと、キースは目を見張って口を噤んだ。僅かに表情が緩んだ隙に、芙由は再び口を開く。
「何をそんなに怒っている」
彼の顔を見た時、芙由は確かに安心した。死への恐怖心も、自ら命を絶とうとする気も失せた。そんな自分も、ここまで憤る彼も、不思議に思えてならない。
キースは暫く目を見開いたまま黙り込んでいたが、やがて気まずそうに視線を逸らしながら手を離した。彼自身、頭に血が上ってしまっただけなのだろう。芙由に咎める気はなかったが、落ち着いた所で、ようやく言い訳をする気力が戻ってきた。
「移動中に奇襲されてな。何しろ四人しかいないのに班単位で来られたから、私だけ先に逃がされた。追い付かれてこうなったが」
言いながら、芙由は草むらに落ちたボタンを拾う。替えは持ち合わせていないし、この格好のままでは流石に戻れない。
無言の間の後、キースは銃を腰のホルスターに収めながら妙な声で唸った。顔を上げると、彼は顔ごと横を向いたまま、耳の裏を掻いている。ばつが悪そうにしかめられた顔に、芙由はまた、安堵する。普段と何ら変わりない彼の仕草に、懐かしさすら覚えた。
「……スイマセン」
「私も悪い。お前の言う通り、大人しく大社に引きこもっていれば良かった」
複雑な表情で視線を落としたキースは、芙由の足の怪我を認めて眉根を寄せた。芙由はこれにも言い訳しようとしたが、キースは黙って胸ポケットから包帯を取り出す。しかしビニールを破こうとしたところでふと、顔を上げた。
「脱げますか?」
「破れ。どうせ替える」
キースは一瞬渋い顔をしたが、黙ってその場に屈み、裂け目から生地を破った。途端に傷口が空気に触れ、肌を濡らした血が冷え固まって行く。肌が引き攣るような感覚に、芙由は目を細めた。
怪我をしたのは、蒙古で周と手合わせした時が最後だっただろうか。刃物で削られた痛みとは違う銃創のそれに、足全体が熱を持ったような感覚がある。足首を捻ったせいもあるだろうし、実際精神的なもののせいだろう。撃たれたというだけで不安感を抱いている自分が、情けなかった。
「水あります?」
芙由が黙って指差した先には、先ほど銃殺した兵士の水筒が転がっていた。キースは腕を伸ばしてそれを取り、蓋を開ける。疼く傷口に冷たい水が掛けられ、芙由の全身が冷えて行く。
「大して深くねぇな。他に怪我は?」
「足を捻った。こっちの方が痛い」
手際よく止血するキースの問いに返しながら、芙由は拾ったボタンの数を確認する。上着のボタンは取れていなかったが、ワイシャツはほぼ全滅していた。裁縫道具だけは上着に入っている筈だから、迎えが来るまでに縫ってしまえるだろう。
包帯の端が結ばれたところで、地面に手を着いて立ち上がろうとすると、目の前に掌が差し出される。その手を取ると熱い体温が指先から伝わり、触れた自分の体温まで、上がったような気がした。
利き足を庇っていたにも関わらず易々と片手で引っ張り起こされ、芙由は複雑な気分になった。海軍指定の白い半袖から伸びる腕は、思いの外太い。確かに軍人なのだと考えたところで、ふとキースの顔を見上げた。
「お前はどうしてここにいる?」
また、視線を逸らされた。何が気まずいのだか、芙由にはよく分からない。
「艦と一緒に沈まれたら困るから、大社警護に来いって笹森補佐官が言うもんで。ついでに説教だそうですよ、たく」
また何かしたのだろうかと芙由は思ったが、キースの顔が徐々にしかめられて行ったので、何も言わなかった。
「こちとら海にいるのが仕事なんですよ。陸揚げすんじゃねえよチクショウ」
「国としてはお前に死なれると困るんだろう、大人しくびちびち跳ねていろ。私は何故ここにいるのかと聞いている」
キースはまだ眉根を寄せていた。何がそんなに不満なのか、芙由には理解出来ない。
「大社行く途中、本部の無線拾ったんで、道すがら上から探してました。航空隊は出ずっぱりだって言うでしょう」
言い訳でもするような口振りだった。芙由が怒ったとでも思ったのだろうか。そのつもりはなかったので、芙由は俯いて上着の襟を掴み、引き寄せる。
どうして関係のない彼がそこまでするのか、芙由には理解出来なかった。芙由がいなくなる事で出雲が被る被害などどうでもいいだろうし、気にするほど殊勝な男でもない。移動中だったなら、無視しても良かった筈だ。
「余計な手間をかけさせたな。済まん」
「いや……それよりさっさと戻んねぇと」
芙由は唐突に上着を掴み、左右に開いた。ワイシャツを見せたつもりだったが、キースの目は薄いシャツ一枚で目立つ胸に向けられている。
「どこを見ている」
「……え、違うんですか?」
「違うも何もない、この格好のままでは戻れん。指揮官が暴行されかけたとあっては、下の者に示しがつかんだろう」
ああ、と納得したように呟くのを聞いて、芙由は再び上着の前を閉じた。キースが浮かべた残念そうな表情は、この際見なかった事にする。服は着ているからいいが、不快ではあった。
「歩けますか?」
「多少辛い。済まんが肩を……」
言いながら腕をキースの方へ伸ばした所で、芙由は動きを止めた。肩までの距離が遠い事に、今更ながら気付く。
芙由もそう背が高い訳ではないが、低い方ではないと思っていた。人種の差もあるし、性別の差もある。けれどその距離が、芙由には悔しく思えた。
「背中貸しますよ。引きずっちまう」
頭の上にある彼の苦笑いもその台詞も、芙由の機嫌を損ねさせた。呑気に苛立っていられる立場でも場合でもないのだが、芙由はキースを軽く睨む。
「不愉快だ」
「文句言ってる場合ですか。それともこう横抱きに」
「断る。さっさとしゃがめ」
楽しそうに笑うキースの声が、懐かしいもののように感じた。月に一度は会ってしまっていたせいだと、芙由は無意味に自分に言い訳をする。
地面に片膝を着いてしゃがみ込んだキースの背後に回ると、その背がやけに大きく見えた。まだ若かった頃、どうして女に生まれてしまったのかと、悩んでいた事をふと思い出す。この背には何を負っているのだろうと、そうも考えた。
感傷に浸っている場合でない事は、分かっていた。ただ背に負われた記憶が遠すぎて、自分の記憶ではないようにさえ思える。それが少し、寂しかった。
「早く。司令部心配してますよ」
その声に我に返り、芙由は恐る恐る広い背に負ぶさった。厚い背中は、おぼろげな記憶の中にあるものとは到底結びつかない。別人の背なのだから、それも当然なのだが。
傷に触れないように両足を抱えて立ち上がったキースが、小さく呻く。流石に重かったかと肩を掴んで顔を覗き込むと、彼は何とも形容のし難い表情を浮かべていた。
「済まん、重いか?」
「いや、その……柔らかいです」
誤魔化すように抱え直された拍子に、胸が押し付けられているのが見えた。単純な男だと、芙由は思う。
「気にするな」
「俺は聖人君子じゃないんで気になります。天然モノですかこれ」
「混じりけのない天然物だ。無心で歩け」
少しの間の後、大きな溜息が聞こえた。
「無茶言うなよ……」
力の抜けた声で呟き、キースは一歩、足を踏み出す。ようやく歩き出した彼の足取りは、それでも軽かった。土手を上って道路に出ると、傷跡の残る町が見える。芙由は目を伏せて、肩を掴んだ手へ僅かに力を込めた。
何もかも、自分が悪いような気がしていた。守ると言いつつ守られて、気遣わせてばかりいる。今回も、結局多くの人に迷惑をかけてしまった。女だからと馬鹿にされても怒る事がないのは、結局、そう言われる理由を分かっているからだ。
「とりあえずどっか、隠れましょう。この辺にはもう、どこの部隊も来ねぇだろうが」
「その辺りのマンションの、管理人室を使わせて貰えばいい。通電していないからドアも開くだろう」
「水は?」
「出ない。非常用の蓄えがあればいいんだが」
熱い背中から伝わる鼓動が、自分のそれと混ざってどちらのものか分からなくなる。死を目前で見て、生の音を感じて、芙由はどこか頼りない感情を抱く。寂しいような、切ないような胸の痛みに、縋るように肩へ頬を寄せ、目を閉じた。
芙由の仕草には気付いただろうが、キースは黙り込んでいた。何も言わずに、掴んだ足を軽く叩いてくれる。力強い鼓動の音に、生きているのだと、そう思った。