第五章 微熱の街 四
四
コンクリートで固められた街は、銃声と土煙に満ちている。土くれと硝煙と湿気た空気、そして滝のように流れる自分の汗の臭いが混じり合い、乃木は今にも吐きそうだった。周囲に気を配る北村に視線を注いだまま半壊したビルの壁に寄りかかり、口元を押さえる。
何人撃ったか、もう覚えていない。そんな事をいちいち把握している者もいないだろうが、乃木は気になって仕方がなかった。
「北村君、もう少し隠れて。見つかるよ」
キアラがひそめた声で言うと、北村も聞き取れないほど小さな声で応え、壊れた扉の端から少し離れた。別の隊と挟み撃ちにする算段で、こうして半壊したビルの中で待ち構えているのだが、一向に姿が見えない。ひっきりなしに銃声は聞こえているから、相手もこちらも全滅した訳ではない筈だ。
そう思うのも乃木だけで、実際は心配する程の時間も経っていない。監視組の北村の表情もそこまで硬くはないし、小隊長はずっと別動隊と連絡を取り合っている。乃木にはもう何時間も待っているような気がしていたのだが、時計を見ると、配置に着いてから二十分と経っていなかった。
こんな作戦が上手く行ってしまうのも、相手が伊太だからだと小隊長は言っていた。そもそも追われたぐらいで逃げ帰る兵士がどこにいるのだと呆れていたが、実際伊太支部の隊は、挟み撃ちにされて簡単に投降していた。そういうご州柄なのかも知れない。
案外今頃は、武器を捨てて投降しているのではないだろうか。乃木の楽観的な思考は、戦いたくないという逃げ腰の姿勢から来るものだった。投降してくれていればいいのにと、そう思う。無為に犠牲を増やすような事を、しなければいいのに。
別動隊と通信し合うキアラの声を聞くのが、怖かった。軍人にしては柔らかい口調の彼女だが、話す内容はやはり穏やかではない。乃木にはこの緊張状態の中、じっとしている事が怖くて仕方がなかった。
呑気に怯えている場合ではない。臆さず守り抜けとは、師団長からも再三言われている。今までも何度か戦闘にはなったし、いざ銃を構えてみれば緊張を通り越して冷静になったりもする。警戒している時が、一番緊張するのだ。逃げ出したくてたまらないのに、それもやっぱり、叶わない。情報操作されている可能性もあるが、出雲からの脱走兵は今のところ出ていないと聞く。
正しくとも誤りであろうとも、右に倣ってしまうのが出雲島民の悪いところだ。誰も逃げていないのなら、自分も我慢しようと思ってしまう。我慢出来る限りは、耐えていようと乃木も思っている。
情けないと、自覚はしている。けれど乃木だって死ぬ為に従軍したのではないし、間違っても、人を殺す為でもない。これが本当に護る事になっているのかどうかさえ、乃木には分からない。確実に防衛成功している筈なのだが、目で見えないものは分からないのだ。
何もここだけに攻めて来ている訳ではない。伊太と戦闘になっている第三師団内からは、流石に陣地を取られたという報告もないが、他の地域の隊からは、街一つ占領されたとの報告も入っている。誰もが等しく戦っているのだと頭で分かってはいても、自分だけが苦しいような錯覚に陥っていた。
銃声が、徐々に近付いてくる。隊内の空気が俄かに緊張し始め、乃木の手は銃を握り直す。頭と手が、別の生き物になってしまったようだった。
「そこの路地。構えて」
送話機を補佐に渡し、キアラは隊員達に短くそう告げた。各々身を低くしたまま小銃を片手で構え、合図を待つ。乃木の心臓が大きく鳴り、視界が狭まって行く。それでも他の隊員達と同じように、すぐに飛び出せるよう片足を立てて小銃を構えた。
自分の体の動きに、乃木の頭はついて行ってくれない。軍人の体に中学生の頭を乗せたようだ、と揶揄する前小隊長の声が、頭の中に響く。全くその通りではないか。勇猛果敢な兵士の体に乗っているこの頭は、青臭い少年のそれに過ぎない。死ぬかも知れない恐怖と殺さなければならない恐怖に、心臓は破れそうなほど大きく脈打つ。
急激に速まった鼓動に、胸が苦しくなった。心臓の音は鼓膜を叩くように頭へと直に響き、こめかみは焼けた鉄を押し付けられたように痛む。そこには確かに血が流れているのだと主張するかのように、血の巡りの速くなった体が熱くなって行く。最早体中が、燃えるように熱かった。
監視役の北村の頭が引っ込み、キアラを見上げた。無言で頷き、キアラは銃の安全装置を外して外を覗く。
「……もう少し」
トリガーに指をかけそうになった乃木は、慌てて手を離した。目を細めて待ち構えるキアラの横顔は、少し汚れている。連日の雨のせいで、走ると泥が跳ねてしまうのだ。
足音と銃声が、更に近付く。逃げるくらいなら降伏すればいいのにと、乃木は思う。考えても、仕方のない事なのだが。
「二人一組で、手筈通りに……出よう」
言うが早いか、キアラは真っ先に飛び出して行った。強い緊張感から乃木の視界が更に狭まったが、足は勝手に動く。外は霧雨が降っており、出た瞬間、ぼやけた銃声が更に近くに聞こえた。敵方が喚く声までが、はっきりと聞こえてくる。視界が狭いせいで、他の感覚がやけに研ぎ澄まされていた。
隊員は道いっぱいに広がって、向かって来る部隊に対して銃を構える。本部側は砂色の戦闘服を着ているが、相手は市街地では目立つ迷彩を着ていたから、敵味方はっきりと識別出来た。追われながらもこちらへ銃口を向けた先頭部隊に対して即座に射撃開始した途端、狭まっていた乃木の視界が開ける。
飛んでくる銃弾の軌道が、やけにゆっくりとして見える。開けた視界がモノクロに変わり、弾を避ける事さえ出来た。それでも自分の事で精一杯で、周りを見る余裕はない。
乃木は出来る限り姿勢を低くして、両手で構えた銃を反動を抑え込みながらひたすら発砲する。銃の重さと腕に響く反動が、乃木の肩を痺れさせて行く。狙いを定めている余裕はないし、そんな事をしていられるのは狙撃兵だけだ。腕や顔の側を銃弾が掠めたが、無心になった乃木は構わない。
白黒になった乃木の視界に、血の色だけが映る。それを横目で見ると世界が色を取り戻し、二の腕から僅かに出血しているのが見えた。怪我を認めた途端痛みを覚えるが、かすり傷程度で退く訳には行かない。
「撃ち方やめ!」
小隊長の声に反応し、ぴたりと銃声が収まった。それまで気にならなかったが、至近距離で銃声を聞いていたせいか、耳鳴りがしている。腕の痛みよりも、鼻をつんと刺激する硝煙の臭いが、乃木の顔をしかめさせた。
敵方はもう、武器を捨てて両手を挙げていた。崩れた舗装道路に倒れ伏す兵の姿も、ちらほらと見受けられる。
「……みんな生きてるね。怪我人に応急処置をして、重傷者はアンビまで運んで。向こうの兵も頼むね」
キアラは銃の安全装置をロックしながら、そう言った。乃木はそこでようやく隊内を見回し、死人がいない事を確認して安堵の息を吐く。しかし地面に尻を着いた同僚の足に、大きな赤黒い染みを見付けて、唇を噛んだ。
乃木は自分の腕の痛みも忘れ、彼の傷に釘付けになっていた。たった一つの銃弾が、あんなにも血を流させる。その事実が、恨めしくてならなかった。自分が撃った弾が誰かを傷付けたのかと思うと、苦しくて堪らない。
「乃木、腕」
後列にいた為か無傷だった北村に包帯を巻かれるに任せ、乃木は小さく息を吐いた。足を撃たれた兵は両脇にいた二人から、応急処置を受けている。二人は怪我人の足の付け根を縛って出血を止め、隠れていたビル内へ運んで行った。アンビはここから少し遠いから、車を使うのだろう。
降伏した敵兵の処置は、反対側から来た部隊が行っていた。敵方の更に向こうから味方部隊の兵が走って来て、無線で後方へ報告していたキアラに敬礼する。彼女は目礼を返して、マイクを口元からずらした。
「お疲れ様です、ベルガメリ小隊長。捕虜の誘導はこちらが請け負います」
「ご苦労様。華の航空隊が迫っていると言うから、早く避難させないと」
「高射砲部隊へは?」
「本部から、とっくに連絡は行ってるよ。航空隊も応戦中じゃないかな。報告待ち……」
キアラはふと視線を横へ流し、耳に嵌めたイヤホンを指で押さえた。目を細めて無線を聞いていた彼女の表情が、徐々に硬くなって行く。近付いているのだろうかと、乃木は不安に思う。
「小隊長!」
ビルから出て来た補佐が、キアラの顔を見るなり叫んだ。乃木は北村と顔を見合わせ、お互い首を捻る。
キアラは緊張した面持ちで、駆け寄って来る補佐官と向き合った。軍曹は表情を曇らせたまま、キアラの前に立って敬礼する。あまりいい報告ではない事は、側で見ていた乃木にも分かった。
「華の戦闘機を一機逃したと連絡がありました。応戦していた第五航空隊は壊滅。こちらへ向かって来ているようです」
乃木は思わず声を上げそうになったが、すんでのところで堪えた。しかしキアラは動じる事なく頷く。いつまでも怯えている乃木と違って、彼女はもう、腹を括っているのだろう。
「高射は間に合わない?」
「手が空きません。空軍露支部から応援が向かっていますが、ギリギリかと」
「分かった。一旦分隊ごとに分かれて全員屋内へ、様子を見よう。君は隊に戻って捕虜の避難を」
報告に来た兵は機敏な動作で敬礼してから、隊の方へ駆けて行った。乃木は言われるがまま分隊で固まり、周囲を見回す。先の戦闘で建物は大分崩れているが、隠れるだけなら問題ないだろう。
分隊員は各々怪我はしているものの、概ね無事だった。今日も欠けなかった事を安堵している間もなく、乃木は微かに聞こえた高い音に、怪訝に眉をひそめる。この音はもう、何度も聞いた。
「……佐渡分隊長。ジェット機の音、聞こえませんか?」
「え?」
佐渡はビルに入りかけていた足を止めて、鉄帽を持ち上げた。他の隊員も同じようにして耳を澄ますが、首を捻るばかりだ。
「いや……何も」
首を横に振って鉄帽を被り直した佐渡は、不思議そうに片眉を寄せていた。乃木も気のせいだったかと思ったが、横で聞いていた北村の表情は硬い。北村は再び避難しようとした佐渡の腕を掴んで引き止めてから、ちょっと待ってくれとばかりに掌をかざした。
「乃木は耳いいんです。小隊長!」
北村がキアラの下へ駆け寄った後、乃木は鉄帽を持ち上げて耳を澄ます。微かだが、やっぱりジェットエンジン特有の甲高い音が聞こえる。先ほどよりも、近付いて来ているような気さえした。
連絡は来ているのだろうかと、乃木は考える。自分の恐怖心が生んだ幻聴ではないのだろうかとも思った。確かめようと双眼鏡を手にした所で、背後から声がかかる。
キアラは些か青ざめているようにも見えた。慌てて駆け寄って来る彼女に、どう言ったらいいだろうと乃木は思案する。
「乃木君、本当に聞こえる?」
「はい。自分の幻聴でなければ……」
言葉尻を濁すと、キアラは僅かに眉をひそめて首から提げていた双眼鏡を持ち上げる。音から判断するに、双眼鏡ではまだ見えないだろうと乃木は思う。
「……あの、小隊長」
「君の聴力が師団内でもトップクラスなのは知ってる」
聴力でトップと言われてもあまり誇れないと乃木は思っていたが、実戦ではそこそこ役に立つ。幻聴を聞いていては意味もないが。
「……雨で見えないね。早く捕虜を避難させよう、応援が来るまで保たせないと」
空を見上げると、今にも落ちて来そうな程近い位置に暗雲が立ち込めていた。胸騒ぎを覚え、乃木は捕虜を誘導する小隊の方を見る。掩体を構築している暇もないから、先に避難するつもりでいるらしく、きびきびとビル内へ誘導していた。
甲高い耳鳴りが、徐々に近付いて来る。まだ聞こえないのだろうかとキアラを見上げると、彼女は双眼鏡を構えたまま雲を見詰めていた。
「……いる」
乃木の背筋を、寒気が走った。キアラは双眼鏡を離して隊員達へ向き直り、声を張り上げる。
「早く捕虜を避難させて! 射程に入る!」
キアラが叫んだ、その時だった。エンジン音がようやく聞こえたらしく、北村が空を見上げる。雨の音にかき消されて、気付かなかったのだろう。
こんな狭い道で、戦闘機になど太刀打ち出来る筈もない。雨で視界は悪いし、そもそもビルに邪魔されて空が見えないのだ。対抗するよりは、一時的に避難した方が賢明だ。
「佐渡分隊、遺体を運んで。遠野小隊長、戦闘機です!」
事態を飲み込んだ捕虜達の間から次々と悲鳴が上がり、乃木は焦った。混乱すればするほど、全員避難するまでに時間がかかる。
避難場所を指示するキアラの表情にも、焦りが見える。北村と二人がかりで遺体を運びながら空を見上げると、遠くの雲に影が見えた。戦死した伊太兵に心を痛めている場合ではない。耳鳴りのような音も、最早かなり近くまで迫っている。逸る気持ちを抑えて遺体を屋内へ運び込むと、どこかから悲鳴が聞こえた。
尖った鼻先で暗雲を裂くように、雲の割れ目から、一台の戦闘機が姿を現す。垂直の尾翼に引っ掛かった雲が尾を引き、軌道を描くように伸びた後かき消えた。そして轟音と、大通りの向こうから上る、土煙。
戦闘機が撃つ機関砲の音は、地響きのように辺りに鳴り響いた。既に壊れかけていたビルが、もうもうと土煙を上げて倒壊するのが遠くに見える。乃木は迫り来る戦闘機に一瞬凍り付いたが、屋内へと叫ぶキアラの声に我に返った。
「早く!」
最早遠くまで誘導している余裕はない。遺体の運搬を手伝ってくれていた捕虜を比較的無事なビルへ押し込んで、乃木は分隊員と共に避難しようと駆け出す。逃げ遅れた出雲兵の肩が爆ぜ、崩れ落ちて行くのが見えた。近い距離ではないのに、焼けた被服と砕けた骨が血に混じって飛ぶ様子まで、鮮明に見えた。
それでも怖がっている場合ではない。すぐそこまで迫る機関砲の音に、乃木は思わず隊員達に向かって声を張り上げた。
「伏せて!」
倒れ込むように伏せた瞬間、銃弾が体の横すれすれを通り過ぎた。火薬と土の混じった臭いに、鼻が痛くなる。コンクリートを易々と穿った弾に、乃木の背筋が寒くなった。
「乃木、早く立て!」
北村の声に弾かれたように立ち上がり、乃木は隊員の後を追う。ビルに入りかけた所でふと振り返ると、半壊したビルの外壁が崩れかけているのが目に入った。その下には、負傷した兵を隣のビルへ誘導するキアラ。
今出て行ったら、きっと狙い撃ちにされる。けれど今から逃げて、キアラは間に合うだろうか。声をかけたところで、動揺しないでいてくれるだろうか。
コンクリートの壁が揺れ、更に崩れて行く。銃弾が乃木の目の前を通り過ぎ、崩れかけたビルを直撃した。コンクリートの壁が大きく傾くのを見た瞬間、乃木は走り出す。考えている暇はない。答えを出す前に、足が勝手に動いた。
そこに意思はなかった。危ないから助けに行くという、条件反射的な行動でしかなかった。
「ば、乃木!」
「北村行くな、乃木! 戻れ!」
北村と佐渡の声は聞こえていたが、乃木はそれでも走る。目を見開いて崩れる壁を見上げるキアラは、最早間に合わないと悟ったようだった。死ぬ覚悟を決めてしまったのかも知れない。
そんなのは、駄目だ。
乃木は思いきり踏み切って跳び、キアラの肩を掴んでその場に押し倒すように伏せる。直後背中に鈍器で殴られたような衝撃を受け、視界が土煙で満たされた。背中が痛い、というよりは、熱い。
不思議と何も聞こえなかったし、痛いとも思わなかった。真っ暗な中に意識だけが浮かんでいるような、心細い感覚。家に帰りたいと、そう思う。
やがてその意識も薄れ、闇に溶けて行った。