第五章 微熱の街 三
三
アーシアは、出雲賢者の執務室で悶々としていた。午前中の会議には参加したが、午後は神主を交えて少人数での上層議会を開くというので、ここで千春を待っている。賢者であるアーシアも、神主に会う事は許されないのだ。
一人でいると考えていても仕方のない事ばかり考えてしまうので、アーシアは一人で居る時間が嫌いだった。弱い冷房の効いた室内だが、アーシアには少し暑い。出雲の夏は蒸し暑いので、あまり得意ではなかった。湿気のせいで髪は跳ねるし、体中汗でべたつく。
少しでも涼もうと、事務員が運んできてくれた冷えた麦茶を飲みながら、アーシアは窓の外を見る。デスクに積み上げられた書類に遮られてはいるが、竹の葉がさらさらと揺れているのは見えた。
青々とした竹林に、静かに雨が降り注いでいる。空は陰鬱な鉄色の雲に覆われており、アーシアは太陽の光を恋しく思う。今年は長い梅雨になると、天気予報で言っていた。戦場の兵士達は苦労するだろう。
キアラの部隊が戦闘に参加したと聞いたのは、いつだっただろうか。昨日のことのように思えるのだが、もう一ヶ月は経った筈だ。過ぎて行く時間に焦燥感が募り、キアラが心配でたまらなくなっていた。彼女だけを心配している場合ではないのだが、今はそれしか考えられない。考えなければならない事は沢山あるのに、余計な思考ばかり巡らせてしまう。
汗で体に張り付くブラウスの生地が鬱陶しくて、アーシアは胸元を摘んで風を送る。皮膚呼吸すら妨げるような湿気が、全身に纏わりついていた。この汗が本当に暑いから出ているものなのか、どうしようもない焦燥感からのものなのか、アーシアには分からない。
記憶の中にある戦争は凄惨で悲しく、人を傷つけるだけの無意味なものだった。その裏にある意図も思想も、アーシアは知らない。歴史は記憶の中にあっても、当時の人の心までは分からない。だから何故武力で制する必要があるのか理解出来なかったが、今なら、分かるような気がした。
それしか、方法がないから。こちらが説得しようにも会談の席を設けては貰えないし、出雲は絶対にあちらの要求を呑まない。話し合いで解決しないのなら、武力に頼るしか手段はなかったのだろう。
伊太と華を批判する声は、各州から上がっている。のみならず、戦争を放棄しなかった出雲をも糾弾する州知事もいる。内戦を禁じているとはいえ、戦わなければ、出雲はどうなってしまうだろう。戦争反対と声高に叫ぶのは簡単だが、それでは何も守れない。
州に残してきた人々は、無事でいるだろうか。ラウロは心を痛めているのではないか。アントニオは、どうしているだろう。知事の手が伸びてはいないだろうか。
考えても仕方のない事ばかりが頭に浮かんでは、アーシアを責め苛む。こんな事になるのなら、時間はかかっても、最初から雨づてに出雲を頼れば良かった。出雲なら、居場所さえ分かればなんとかしてくれただろうに。焦ってしまったが故に暴挙に出た事を、アーシアは今更ながらに後悔していた。
何よりも、欧州と出雲の人々に申し訳なかった。自分の我が儘のせいで、こうして戦う事になっている。本当なら、議会の言う通りテオドラを罰するべきなのだ。それをしないのは、アーシアが逃亡した事で出雲が糾弾されるのを避ける目的もある。けれど一番は、テオドラを救いたいからだった。
戦争になるのは時間の問題だったし、テオドラ一人の為に多くの人を犠牲にするつもりもない。しかし今テオドラを捕らえて戦争を止めても、伊太は立ち直ってはくれないだろうと、千春は判断した。八方塞がりの状況で、もう打つ手は残っていない。だから、開戦してしまった。
拳を握りしめて俯いた時、視界の端で扉が開いた。廊下側から顔を出した千春は、扇子で自分を扇ぎながら室内に入り、扉を閉める。それから大きな溜息を吐いて、アーシアの正面へ倒れ込むように腰を下ろした。かなり疲れているようだ。
「お疲れ様です」
「ああ、疲れたよ全く……議員達が寄ってたかって私を責めるのだ、不公平だと思わぬか」
ソファの背もたれに頭を預け、千春は天井を向いて愚痴を零した。アーシアは困ったように眉根を寄せ、首を傾げる。
「大丈夫でしたか?」
「大丈夫もどうもない。ああ嫌だ、だから頭の固い馬鹿は嫌いなんだ。カークランドの方がまだ増しだ」
「キースはおバカさんなの?」
千春は大きく頷き、音を立てて扇子を閉じた。
「ああバカだよ、とんでもないバカだ。昨日も全部潰せばバレないと司令官を唆して、北米の治空に侵入した伊太の航空隊を全滅させた」
「しっかりばれているのね」
「当然だよ」
全機撃墜させればいいと言って、本当にやってしまうのが雨海軍の凄い所だが、褒められた事ではない。そもそも彼はどうしてあんな無茶ばかりするのだろうと、アーシアは思う。考えてみれば、アーシア達を迎えに来た時も無茶をしていた。先に撃ったのが伊太側だったので、あの時はお咎めもなかったが。
一瞬静かになった室内にノックの音が響き、千春が疲れきった声で返答した。入室してきた事務員が、氷だけになったアーシアのコップと麦茶が入ったコップを替え、千春の前にアイスコーヒーを置いて出て行く。アーシアは、ガムシロップを二つも入れる千春を変だと思う。
「……キースも甘党だったわね」
何の気なしに呟くと、千春は嫌な顔をした。芙由と違って彼を嫌っている訳ではないそうだが、共通点があるのは嫌なようだ。アーシアには、その感覚がよく分からない。
「ラテに砂糖三杯入れるような男と一緒にしないでくれ」
「あんまり変わらないわ」
千春は顔をしかめたまま、ストローを銜えた。やっぱり嫌いなのではないのだろうかと、アーシアは考える。
追ってきた機に撃ち返した時は、確かに何を考えているのかと憤りもした。けれどあの時は、ああするしかなかったのかも知れない。撃たなければ、向こうがどうしていたか分からない。
分かってくれたと思っていた。アーシアは気付かれないように溜息を吐いたが、千春には聞こえたようだった。閉じた扇子を再び開いて扇ぎながら、彼女は首を傾ける。
「どうした?」
優しい声だった。アーシアは眉尻を下げて視線を落とし、テーブルを見つめる。ガラスの天板に、代わり映えしない自分の顔が映っていた。いつまでも幼いままの、子供の顔。
「私が逃げてきた時、先に撃ってきたのは伊太の方だったの」
「聞いているよ」
「でも彼ら、キアーラに説得されて、泣いていたのよ」
ゆったりと扇子を動かしていた千春の手が、止まった。しかし何も言わなかったので、アーシアは続ける。雑音に混じって聞こえた泣き声が、アーシアの脳裏に蘇る。
「分かってくれたんだと思ったの。でも、彼らは撃ってきた。キースが避けろって言ってくれなかったら、私今頃、海の底にいたわ」
深くうなだれて、アーシアは自分の膝を見詰める。何も言わない千春がどんな顔をしているのか、見えなかった。
「でも、自分が死ぬかも知れなかった事より、改心してくれなかった事が悲しいの。私やっぱり、もう伊太の人たちに……」
「必要だよ、アーシア」
透き通るように青いアーシアの目が、恐る恐る千春を見上げた。千春は紅を引いた唇に弧を描き、普段通りの微笑を浮かべている。しかし肌の色が濃いので分かりづらいが、目の下に薄い隈が出来ていた。
今一番疲れているのは、彼女の筈だ。それなのに泣き言を言ってしまった事を、アーシアは後悔する。千春が忙しいのも疲弊しているのも知っているのに、どうしてこんな事ばかり言ってしまうのだろう。
「カークランドに感謝しなさい。奴はお前も追っ手の軍人も、救ってくれたのだ」
千春の言う意味が、アーシアには分からなかった。アーシアの言葉から、何か酌み取ったのだろうか。
「……よく分かりません」
「分からないのなら知らなくていい」
知らなくて、いい。それが何を意味するのか、アーシアには理解出来ない。彼女は言わないと決めたら梃子でも口を開かないから、聞いても無駄だ。だから、考えずにはいられなかった。
州にはアーシアが必要だと、千春は言った。改心してくれたものと思われた軍人は、しかし撃ってきた。あのミサイルは、キースの艦すれすれに落ちた。それが何を意味するのだろう。その事実から、千春は何を汲み取ったのだろう。
「……対艦ミサイルだった」
千春は、反応してはくれなかった。何も言わずに、ただアーシアを見詰めている。
「私達を撃ったんじゃなくて、艦を撃ったの? ギリギリ避けるように?」
あの距離で落ちたという事は、ミサイルは海に向かっていた。対空ミサイルなら、そんな事は有り得ない。軍人ではないフランチェスコは気付かなかっただろうし、キアラはキースに何も言わなかった。彼女は、もしかしたら気付いていたのかも知れない。
どんな航空機にでも、通常は音声記録装置がついている。彼らが伊太に戻れば、アーシア達が大陸を出た証拠を、テオドラに渡さなければいけなかった筈だ。結果的には気付かれて糾弾されたが、あの時点で彼らが改心していたのなら、みすみす証拠を渡すような真似は避けたかっただろう。
彼らが攻撃したのが雨の艦に合法的に撃墜してもらう為だったのだとしたら、彼らはアーシアを庇ったことになる。キースはそれを知って、戦闘機を撃墜したのだ。
キースは弁解しなかった。彼らの意図に気付いたのか知っていたのか定かではないが、彼は確かに、あの軍人達を救ったのだ。そしてきっと、アーシアが心を痛めると推測したから、弁解しなかった。いつものように、笑っていた。
多くの人に守られたお陰で、アーシアはここにいる。大きな犠牲を払って、更に多くの犠牲を出して、彼女は安穏としている。
「……わたし」
胸の内から込み上げるものが、喉を塞いでしまったようだった。何故自分だけが、無事でいてしまったのだろう。拳をきつく握りしめ、アーシアは唇を噛む。犠牲を払ってまで、逃げたい訳ではなかった。最初から出雲に助けを求める事など、考えなければ良かったのではないだろうか。
考えれば考えるほど、アーシアの胸が詰まる。今にも泣き出しそうな彼女に、千春は緩く首を振って見せた。
「分かったら今は、泣くのじゃない。毅然としていなさい」
頷くのと同時に、苦い涙を飲み込んだ。泣いている場合ではない。あの時アーシアの言葉が届いていたのなら、きっと今も届く筈だ。伊太の人々に、自分の言葉はきっと届く筈なのだ。だからもう、悶々としている場合ではない。
一人だけ、安全な場所にはいられない。今の自分にも何か出来るのだと分かった途端、アーシアは居ても立ってもいられなくなってしまった。
込み上げる涙を堪え、アーシアは心持ち身を乗り出す。千春は生ぬるい空気を遮ろうとするように、扇子を使っていた。
「私、伊太に……」
「一人一人説得しに行くつもりかい」
アーシアは思わず黙り込んだ。千春の口調は柔らかかったが、口答えを許さない迫力がある。
「今は駄目だ。知事は今更止まらない」
「でも、でも私……」
「お前の安全が最優先なのだよ。連合軍側が危うくなれば、陳も考え直すだろう。お前は知事を説得する方法を考えなさい」
その役目は、自分が請け負うべきなのだろうか。疲れたラウロの顔を思い浮かべながら、アーシアは考える。
知事を説得出来るのは、ラウロだけのような気がしていた。間違いであったのだとしても、テオドラをずっと見守って来たのはラウロだったし、テオドラも彼を信用している。テオドラ自身は気付いていないのかも知れないが、少なくとも、アーシアはそうなのだと思っている。
「ベルガメリ小隊は、今も戦っている。お前も私も相手は違っても、戦わなくてはいけない所まで来ている」
「キアーラ……」
第三師団と伊太支部の部隊が戦闘になっているのは聞いていたが、言われてみて初めて実感する。一緒にここまで来たキアラも、今は戦地にいる。彼女だけではなく、出雲の全ての軍人が、戦争の只中にいる。ずっと考えていた事だというのに、今更ながら、その事実を思い知った。
世界の為に、世界の師表たる神の為に、誰もが戦っている。出雲を護る為に。この世界の根幹たる、人々を護る為に。それなら、神は。
「笹森補佐官……神は何故、この世界に戦争を伝えたの? どうして軍を作ったの?」
千春の切れ長の目が細められ、手の動きが止まった。答えられない質問はするなと、アーシアはよく言われている。怒らせてしまっただろうかと考えながら、アーシアは千春から視線を逸らした。
「そうだね……疑問に思うだろう」
彼女の返答に、アーシアは驚いて目を見張る。彼女が神についての疑問を肯定したのは、初めての事だった。
戦争になって、千春にも思うところがあったのだろうか。それとも、彼女も不安なのだろうか。感情を押し殺したような千春の表情からは、彼女の想いが見えて来ない。
「しかしね、アーシア……」
「言えないんです、パガニーニ補佐官」
静かな青年の声を聞いた瞬間、アーシアは勢い良く扉の方を見た。いつからそこにいたのか、スーツ姿の青年が立っている。優しげな面差しの彼の目は、どこか悲しげに揺らいでいた。
ノックもなしに賢者の執務室へ入ってきた彼を訝しく思いながら、アーシアは千春を見た。彼女の表情は、驚愕に歪んでいる。滅多に驚かない千春がそんな顔をした事に、アーシアは目を丸くした。
「……どなたですか?」
アーシアはそう問い掛けながらも、記憶の糸を辿る。ぎこちない、しかし穏やかな笑みを浮かべた青年の顔立ちが、誰かに似ているような気がしたのだ。けれど誰に似ているのか、どうしても思い出せなかった。
「それも申し上げられません。すみません」
アーシアは、少なからず動揺していた。困惑した表情を浮かべる千春にも、目の前に立った青年にも、戸惑った。彼は誰なのだろうと、そう考える。
「何をなさっているのです」
青年に問い掛けた千春の口調は、厳しいものだった。青年は曖昧な笑みを浮かべ、それでも千春の隣に腰を下ろす。小柄な千春の横にいると大きく見えるが、彼の背もそう高くないだろう。
就職活動中の大学生のようにも見える青年は、姿勢を正してアーシアに頭を下げた。何故礼をされているのかも、アーシアには分からない。
「この世界は、凪の時期を終えました」
男性にしては高い声は、室内によく響いた。アーシアは緊張していた自分に気付き、握りしめていた拳をそっと開く。汗ばんだ掌に冷房からの風が当たり、すぐに冷えて行った。
「神の時代はとうに終わり、今は賢者の時代にあります。今人々に必要なのは神ではなく、実際に手を引いて導く事の出来るあなた方です」
彼の言葉が、アーシアの胸に沁みた。彼女自身不安に思っていたが、千春に必要だと言われ、彼にもそう言われ、今はまた大陸の為に何かしたいと思っている。知事を説得しろと言われても疑問に思っていたが、それは確かに、賢者たるアーシアにしか出来ない事なのかも知れない。
隠遁した神の代わりに、賢者がいる。人々を正しく導く為に、賢者は存在している。その賢者に反抗する者を説得出来るのは、やっぱり賢者だけなのかも知れなかった。
「大陸の人を愛していてあげて下さい。人に世界を、愛してもらって下さい。あなたは間違ってはいない。どうか神に代わって、この世界を救って下さい」
その時アーシアは、彼が誰なのか理解した。
似ている。彼は確かに、あの人に似ている。不器用な笑顔まで、そっくりだ。
アーシアは青年と真正面から向き合い、花が綻ぶように笑顔を浮かべた。青年の眉尻が、安堵したように下がる。
「精一杯、努めさせて頂きます」
自分が出来るやり方で、力の及ぶ範囲だけでも護りたい。せめて世界を見守る人の信頼に応えようと、アーシアは思う。自分の存在に、意味がある限り。