第五章 微熱の街 二
二
華の沖縄侵攻から一ヶ月。各支部の協力部隊も続々と出雲に集い、狭い列島の人口は一時的に大きく膨れ上がった。出雲本部第三師団は管轄地域内で戦々恐々としていたが、届くのは海や他支部の部隊が、連合軍側と衝突したという報ばかり。本州に侵攻して来るにはまだ時間がかかるだろうとの事だが、このまま海空が頑張ってくれれば、上陸せずに終わるのではないかという気さえ、乃木にはしている。そう上手く行く筈もないが。
駐屯地のある街から離れ、乃木の部隊は出雲海側の静かな港町にいた。時折味方の軍機が通り過ぎて行く以外は、何事もない。本州には未だ戦場となった地域はないが、戦場となるなら市街地の可能性が高いと、師団長が漏らしていた。時間をかけずに出雲を降伏させる事が目的だから、真っ先に重要都市を潰しにかかるのではないかとの事だ。
だからこうして、第三師団は侵入経路を塞いでいる。この辺りは本来別師団の管轄になるのだが、太平洋側は雨に任せ、本部は出雲列島の西側を警戒すると決定したので、本部の部隊は殆どこちら側に集まっていた。
民間人には大社から避難勧告が出ていたので、島外へ出て行く人も少なくなかった。といっても、平和呆けした出雲島民の大半は、自宅で普通に暮らしていたが。地元の人々がたまに訓練風景を見物に来るのだが、乃木は脱力してしまうのでやめて欲しかった。
要塞もまだ出来上がってはいないし、避難所には駐在課が詰めてはいるものの、戦場となれば無事では済まない。しっかり学習はするのだが、実際の戦争を知らない人々には、危機感が足りないように思われた。
乃木の分隊は、小隊長と共に昼飯を食っていた。賞味期限ぎりぎりの米が余っていたので、今日はカレーだ。天幕の中は蒸し暑かったが、缶詰めでない飯は有り難かった。
「伊太はまだ動かないな」
どこかの隊の通信を拾いっぱなしの無線機から流れる声を聞きながら、北村はそう呟いた。一ヶ月経った今も、伊太が参戦して来る気配がないのだ。華に任せてしまったのかとも思われたが、華と連名で要求を提示して来たというから、そんな筈もないだろう。
まさか同時に攻めて来るとは、誰が予想しただろう。呑気な出雲島民は、戦争が起きている事にさえ、実感が湧いていないのではないかとさえ思う。既に戦場となっている沖縄からの情報は入って来るが、確かに乃木でさえ、異世界での出来事のように思えてしまうのだ。
「来ないに越した事はないけど、なんか気持ち悪いよね」
カレーを食べながら、乃木は北村に同意する。横から白い手が伸びて、乃木の皿に乗ったたくあんを摘んで行った。しかし咎める事は出来ない。
「知事に考えあっての事だろう。華に道を開けさせようとしているのかも知れんぞ」
乃木から当然のように奪ったたくあんをかじりながら、芙由は言った。のろのろとカレーを口に運んでいた北村が、輪の中央に置かれた無線機から芙由に視線を移す。
「伊太遠いですもんね、太平洋側はがっちり固めてますし」
北村が言うと、芙由は小さく頷いた。戦闘服ではなく相変わらず男物の常服だったが、やはり彼女も暑いのか、半袖の開襟シャツを着ている。引き締まった腕は、もう夏だというのに妙に白い。
「向こうが何を考えているのかよく分からんが、用心しておけ」
芙由の言葉に、全員頷いた。乃木はふと思い立ち、手を止めて芙由に視線を合わせる。
「伊太知事は、神を奪おうとしているんですよね?」
芙由とキアラ以外の全員が、驚いたように動きを止めた。北村に至っては、はあ、と問い返して来る。誰も伊太が出雲に反抗している理由を知らないのだ。
芙由は大盛りのカレーを本当に噛んでいるのかと疑いたくなるような早さで平らげながら、乃木の問いに頷いた。これには更に怪訝な声が漏れる。
「どういう事ですか?」
「お前達が知る必要はない。乃木、だからなんだ」
北村が聞いたが冷たく突っぱねられ、全員それ以上は聞かなかった。乃木は心持ち居住まいを正し、皿を両手で持ったまま膝に置く。
「神がどこにいるかも分からないのに、何故侵攻して来るんでしょう。居場所を知っているんでしょうか」
芙由はそこで手を止め、視線を誰もいない方向へ流した。人形のような無表情だが、その仕草で思案しているのだと分かる。
「それはないな。寧ろ、神を奪う為に侵攻して来ているんだろう」
「危ないじゃないですか。どこにいるかも分からないのに」
「向こうだって、いざとなったら出雲が神を避難させると考えているだろう。出雲も放置しておく程愚かではない」
乃木は僅かに顔をしかめ、唇を引き結んだ。出雲だって、神が誰なのか知らないのだ。神主も人前には姿を見せられないから、どちらも避難出来ないのではないだろうか。
「誰が神かも知らないのに、ですか?」
乃木の言葉に、芙由は眉間に皺を寄せた。
「馬鹿者。避難勧告が出ているのだから、自分で避難するだろう」
それは確かにその通りだと、乃木は納得した。それにしても、芙由は冷たい。知ってはいるが、彼女はいちいち冷たいのだ。
元々なのかとも思えるが、乃木にはわざとこういう態度を取っているように思えてならない。つまり、余計な事は話したくないということなのだろう。
「……あの、それより私にはよく分からないんですが」
黙り込んでいたキアラが唐突に口を挟んだので、分隊の全員が視線を彼女に向けた。キアラは一瞬怖じ気づいたように身を引いたが、顔をしかめて芙由を見る。
「何故当然のように師団長がいらっしゃるんですか?」
隊員達が、虚を突かれたように目を丸くした。あまりにも自然にそこにいたので、誰も不思議に思わなかったのだ。
全員今更驚いていたが、当の本人だけは相変わらず無表情でカレーを食っていた。米の一粒も残さず飯を平らげた後、今度は北村の皿からたくあんを摘む。そんなにたくあんが好きなのだろうかと、乃木は思う。
「私がいてはおかしいか?」
真顔だったので、しばらく誰も突っ込めなかった。しかしすぐにキアラが我に返り、益々顔を歪める。蒸し暑さの為か日焼けなのか、頬が赤くなっていた。
「いや、おかしいです」
「……あの、何してらっしゃるんですか師団長」
分隊長が恐る恐る、そう聞いた。芙由は水筒から水を飲みながら、彼に視線を送る。
「カレーを食っている」
「食べたかったんですか?」
乃木が問い返すと、芙由はあっさり頷いた。誰も突っ込まない。呆れているというよりは、意外だったのだろう。
「しかし暑いな、雨は降るし」
「いやだから、何しにいらっしゃったんですか?」
重ねてキアラが問い掛けると、芙由は目を細めて視線を逸らした。まさか本当にカレーが食べたかっただけなのだろうか。彼女ならやりかねない。
芙由は視線を逸らしたまましばらく眉間に皺を寄せていたが、やがて顔を上げて、キアラと真正面から向き合った。皿を持ったままのキアラの背筋が伸びる。
「華側から出てきた伊太と雨が、空戦になった。粗方片付けたそうだが、輸送機と護衛の戦闘機が包囲網を突破して北上し、この辺りに向かって来ているそうだ。輸送機には攻撃出来ん、このまま侵入されてしまうだろう」
「……えっ」
キアラだけが問い返し、後の六人はカレーを一気にかき込んで立ち上がろうとした。しかし芙由が片手でそれを制したので、乃木も黙って座り直す。
「え、じゃない。今すぐ来るとは言っていないが時間の問題だ。現在出雲海上は雨天、視界が悪いので近海まで三時間ほどかかるだろうとの事だから、一旦お前に聞きに来た」
伊太が迫ってきた所でキアラに聞く事など、乃木が思い付く限りは一つしかない。わざわざ師団長が来る必要はないような気もしたが、千春が言うには、キアラに関しては殆ど芙由と元帥が面倒を見たというから、芙由自身心配していたのかも知れない。
これは聞いていい会話なのだろうかと、乃木は思う。駄目なら出て行けと言われるだろうから、聞いている分には構わないのだろうが、気まずかった。キアラが下手に悩んだら、自分まで不安になってしまいそうな気がする。
「ベルガメリ、もう一度聞く。本当に、母州と戦えるのか?」
キアラは、微かに笑みを浮かべた。力が抜けたのは乃木だけではなかったようで、北村が欠伸を堪えて奇妙な声を漏らす。安堵するのはいいが、何故欠伸が出てしまうのだろう。
「お気遣いありがとうございます」
どこか嬉しそうにも聞こえるその声に、乃木は目を丸くした。彼女が少しでも迷ったら隊内に不安が広がってしまいそうだ、と思っていたのもあるし、彼女も緊張しているのではないかと思ったからだ。しかしその分、乃木は安心した。
頭を下げて一礼したキアラは、真っ直ぐに芙由を見て笑顔を浮かべた。芙由は長身の彼女を見上げ、眩しそうに目を細める。
「ご心配には及びません。私はもう、出雲の兵ですから。出雲と共に戦わせて下さい、中将」
キアラの声から、迷いは微塵も感じられなかった。彼女が今何を思うのか、隊員達が彼女をどう見ているのか、乃木には分からない。けれど、この人と一緒に戦うのだと思うと、心強かった。
芙由は真顔のまま暫く黙り込んだ後、片手を伸ばして彼女の背に添えた。そして徐に、自分の方へと抱き寄せる。これには乃木も驚いたが、キアラも目を見開いていた。北村は涙目だった。
上体を僅かに倒したキアラの顔へ頬を寄せるように身を乗り出し、芙由は彼女の背を軽く叩いた。キアラの眉が、僅かに歪む。
「頑張れよ、キアラ」
芙由はやっぱり心配していたのだろうと、乃木はそう思った。真っ赤な顔で泣き出しそうな笑顔を浮かべたキアラが、可愛いとも思う。
キアラから離れると、芙由は食器を持って立ち上がろうとした。しかし今の今まで存在すら忘れかけていた無線機を見て、顔をしかめる。
『……団長、師団長! どちらに……!』
その場にいた全員が、凍り付いた。しかし芙由だけは動じず、受信機の横に置いてあった送話機を取る。
「こちら本部中将戸守。磯川、どうした」
『どう……な……今……』
通信状態がよくないのか、緊急用の古い型の無線機だからなのかは、定かではない。乃木は怪訝に首を捻ったが、芙由は送話機をキアラに渡し、立ち上がった。
「今すぐ戻れだそうだ。諸君の健闘を祈る」
「え、わ……」
乃木は分かったんですかと言おうとしたが、芙由は即座に踵を返して天幕を出て行ってしまった。隊員と小隊長が呆然としている間にも、受信機からは慌てたような声が漏れている。
何か、あったのだろうか。芙由はまだ時間はあると言っていたが、そもそも彼女が言っていたのが何時間前の事なのか、乃木達は知らない。無言の隊員達の間に流れる重い空気に、乃木は不安を煽られてごくりと唾を飲み込んだ。
乃木が北村と顔を見合わせた直後、天幕に小隊長補佐が駆け込んできた。彼の緊張した表情を見て、全員一斉に立ち上がる。
「ベルガメリ小隊長! 小牟礼中隊長から連絡です!」
乃木の視界が一瞬、真っ白になった。大きく鳴った心臓の音が木霊するかのように、耳鳴りがする。一人動揺する乃木とは正反対に、キアラは表情を引き締めて隊員達の顔を見回す。
「佐渡分隊、外へ」
キアラは補佐の後について天幕を出て行き、分隊員もそれに従った。外では既に小隊の面々が右往左往しており、ある者は小銃を、またある者は槍を持っている。めちゃくちゃだと、乃木は呆れた。同時に動揺しているのは自分だけではないのだと気付き、少し落ち着く。
野外電話機を取ったキアラの表情は、硬かった。二言三言話した後、うろうろする隊員達の方を振り返る。
「整列!」
腹の底から出されたキアラの大声は、生ぬるい大気を震わせて周囲に響き渡った。おろおろしていた隊員達もその声にようやく規律を取り戻し、駆け足で整列する。
暗雲の立ち込める空は、今にも泣き出しそうな程淀んでいた。潮風が日焼けした肌に染みて、僅かな痛みに心まで引き締まって行く。乃木はどくどくと胸を叩く心臓の音に意識を奪われ、一瞬目眩を覚えた。緊張感から呼吸もままならず、息苦しさに顔をしかめる。
「伊太の戦闘機と輸送機がすぐそこまで迫っている。戦闘機に関しては航空隊が挑発しているが、攻撃する気配はなし」
キアラの落ち着いた声に、乃木の意識が戻って来た。大きく息を吸い込むと、潮の香りが胸を満たす。
攻撃されるか州土に侵入されなければ、こちらも手は出せない。戦争になっても、それは変わらなかった。もどかしさに下唇を噛み、乃木は眉をひそめる。芙由から聞いた時は現実味が湧かなかったが、キアラの口から聞いて、ようやく実感が湧いてきた。
戦争なのだ。書物や賢者の知識の中にしかなかった災禍が、この世界に降りかかっている。そして、乃木はその真っ只中にいる。いつものように訓練していた昨日とは違う、演習ではない戦闘が待っている。もうすぐそこまで、あの嫌な硝煙の臭いが迫って来ている。そう考えると、耳鳴りのようなエンジン音までが、聞こえるような気がした。
「輸送機は恐らくこの辺りで着陸する。戦闘機には州土上に侵入した時点で高射砲、航空両部隊から攻撃開始。伊太歩兵の装備は小銃、全員槍をしまうこと」
やっぱり、銃を使うのだ。
乃木の手が汗ばみ、指先が震えた。銃を持って、戦わなければならない。額や脇から次々と汗が流れ、シャツを濡らす。その冷たい感触に、頭の芯が冷えて行く。
同じ国の人と、戦わなければいけない。神に背いて、戦争をしなければならない。信じたくもない、けれど抗いようもない現実が、乃木の全身を震わせた。
さっきまで、皆でカレーを食べていた。それが嘘であったかのように、あれが夢であったかのように、陣営は緊張感に包まれている。開戦したからには、いつかは自分も戦闘に出なければいけないと分かっていたのに、小隊長の言葉が信じられなかった。信じたくなかっただけかも知れない。
こんなはずじゃなかった。乃木は叫びたくなるのを堪え、顔をしかめる。世界を守るのだと、そう思っていた。それなのに、世界を壊さなければいけない。人を殺さなければいけない。守る為に必要な事だと分かっていても、納得は出来なかった。
「作戦コードゼロイチサン。開始」
嫌だ。そう思っても、乃木の足は勝手に銃を置いた天幕へ走る。心は確かに拒絶していたのに、足だけは震えもせず、確かに地を蹴っている。人を殺す為の道具を、取りに行く為に。
嫌だ。そう思っても、乃木の体は隊員の後に続いて天幕へと入る。神はこんな事を許す筈がない。神は戦争をするなと、そう言っていたではないか。世界を護る為に、軍を作ったのではないか。それなのにどうして、こんな事をしなければいけないのだろう。
最早誰も、答えてはくれない。装具を取り付ける手は、汗ばんで震えている。一旦きつく拳を握り、頭を左右に振った。訓練時には気にならないその重さが、肩にずっしりと圧し掛かる。一歩も踏み出せないような気さえした。
汗を押さえつけるように手袋を嵌め、まとめて置かれた小銃に手を伸ばす。狭まった視界には、自分の指しか映らなかった。横から次々と隊員達の手が伸び、ためらいなく小銃を取って行く。乃木にはそれが、信じられなかった。
乃木は小銃を掴み取り、きつく抱いた。危ないと北村の声が微かに聞こえたが、応えられない。冷たい鉄の感触が、全身を冷やして行く。
殺したくなかった。誰も殺したくはない。それでも乃木はきっと、この銃を、撃たなければならない。
――神様。
そう呟かずには、いられなかった。