第五章 微熱の街 一
一
艦内は、新兵の歓迎会より遙かに騒がしかった。船員達が忙しそうに走り回り、荷を積み込んでは基地へ行く。何故さっさと出航準備をしておかなかったのかとキースは疑問に思うが、ギリギリまで陸上戦闘訓練を行っていたから、仕方ないのかも知れない。それでも備蓄を積むぐらいは出来た筈なのだが。
キースはタバコを挟んだ唇の隙間から煙を吐き出し、傍らに置かれていたロッドごと針を摘んだ。しばらく使っていなかった竿の状態を確認しながら、足の間に抱え込んだ缶の中を探る。しかし指先に触れたのが水に浮いた吸い殻だったので、キースはその隣の餌が入った缶に手を入れ直した。
そんな頃合いだろうとは、思っていた。わざわざ梅雨の時期に仕掛けてきた辺りは馬鹿としか言いようもないが、そう長く待ってはいられなかったのだろう。テオドラは自らに影響力がある内に何かしら起こすつもりだろうと、キースは考えていた。彼女も、もう四十近い。伊太内で知事への不満も出始めていると聞くから、そろそろギリギリだった筈なのだ。
好色な伊太男相手に、美貌のテオドラが何を武器としたかは想像に難くない。目的の為なら手段を選ばないその姿勢は結構だとキースは思うが、彼女を哀れむ心もまた、存在している。アーシアが彼女を糾弾しなかったのは、恐らくそのせいもあった。
本人が望んでやった事ならば、そう望んでしまうだけの何かがあった筈だ。ただの売女に、州を動かすほどの大事は為せない。何かがあったからこそ、テオドラは州をあそこまで腐敗させた。アーシアはきっと、テオドラに何があったか知っている。だから彼女に同情的だったのだろう。
どすどすと立つ重い足音と共に、尻を叩かれるような衝撃が甲板から伝わって来る。キースは顔をしかめて煙草を煙缶へ落とし、背後を振り返った。丸々と肥えた船員が、全身を揺らして走って来るのが見える。思わず舌打ちした。
「オイ走るんじゃねえよ障害物野郎! ブイの代わりにされてぇのか!」
キースが怒鳴りつけると、走って来た船員を含めた数人が足を止めて即座に敬礼した。その全員が、ハッチを通れるギリギリまで太っている。船舶勤務は往々にして太るとはいえ、この状況はまずいのではないかとキースは思う。
「自分は副艦長から、艦長の邪魔をしろと仰せつかりました!」
釣りをする事は黙っていたが、察しのいい副艦長にはバレていたのだろう。彼にはキースのする事など、全てお見通しなのだ。付き合いが長いというのは嫌な事だと、キースは心中独り言ちる。
キースは舌打ちを漏らして片手で煙草に火を点け、黙り込む。そうしている間にも、衝撃が伝わってくる。また走り始めたのだ。
文句を言うと口煩い副艦長に告げ口されそうなので、キースは何も言わなかった。忌々しい。ゆっくり考え事をするには、釣りをするのが一番だというのに。
寄せては返す波の音と、煌めく水面。煙草の匂いに混じって辺りに漂う磯の香りが、鼻腔を満たす。湿りを帯びた空気が、肌に染みて行く。白い波が艦底を叩かなくとも、甲板からは衝撃が伝わって来るのだが。
キースも事情は知らないながら、テオドラには同情心を持っていた。娼婦を見ると哀れに思ってしまうのは、昔から変わらない。同情するほど偉いのかと聞かれればそうだと答えるし、それが罪悪感から来る同情心だという事も分かっている。
だから彼女を止めてやろうという気になった。だから、出雲に逆らわない。本当は、このままヘンリーと共謀し続けるかどうかさえ迷っていた。出雲に自分と似た人を、見付けてしまったからだ。
彼女は何も知らない。この世界の歴史を全ては知らないし、恐らく千春のように、世界の情勢を完全に把握してはいないだろう。何も知らないから、神を信じてそれを護る事に存在意義を見出した。自分の為に従軍する事を選んだ点は、キースと同じだった。だから似ていると、そう思ったのだ。
世界を護るというのは、幾ら自分の為であっても易い事ではない。それを理解しているからこそ、彼女は自分に甘くない。そしてそれを知ってしまったから、彼女が警戒を解いた今も、利用する気にならなかった。
出雲は今頃、戦っているのだろうか。彼らが蒙古で華と戦っていた時は何も思わなかったのに、今はそんな事を考えてしまう。出雲を護ると彼女に誓ったせいか、キースは焦燥感を抱いていた。大きな口を叩けるほど、自分も強くはないというのに。
胸ポケットに入れていた携帯電話が、唐突に鳴った。電源を切るのを忘れていたのも悪いのだが、船には衛星電話もあるのだから、そちらに掛けてくればいいだろうにと思う。
無機質な電子音に誰からの電話なのかを察し、キースは眉をひそめる。それでも出ないとまた煩いので、携帯電話を開いて耳元に当てた。
「おう」
電話の向こうから、荒い鼻息が聞こえた。
『閣下、マクレイアーです。華が、とうとう……』
「うるせえ、分かってるっつの」
動揺した声を聞いて苛立たしげに吐き捨て、キースは唇の隙間から煙を吐いた。潮風と混じってすぐに溶けて行く煙は、苛立つ彼を少しだけ落ち着ける。
「だから言ったろ、戦争になるって」
『いえ、そうは伺っておりませんが』
「お前が気付かなかっ……ファック! 電話してんだよ、静かにしろ!」
電話を口元から離し、相変わらず走り回っていた船員を肩越しに怒鳴りつけると、彼はすぐに動きを止めた。キースは舌打ちして海へ向き直る。
「悪い、何だっけ?」
暫しの間の後、ヘンリーは一つ咳払いした。怖かったのかも知れない。
『華、伊太、英が連合軍となったとの事……捌き切れましょうか』
キースも予想はしていたし、既に連絡も入っていたので、今更驚きはしなかった。
「別に全軍総出で来るワケじゃねえだろ、英も伊太も出雲は遠いぜ。うちが叩き潰しゃ出雲も文句言わねえよ」
『そういう問題ではないのでは』
「例えだタコ」
静かになったお陰か竿に手応えがあったので、キースは携帯を耳と肩に挟んでリールを巻いた。なかなか強い引きに、期待感から身を乗り出す。銜えた煙草から、灰が甲板に落ちた。
『このまま出雲に協力し続けるおつもりですか?』
「今はそうしとくべき……」
力任せに引っ張り上げた釣り糸の先にいたのは、暗褐色の軟体動物だった。キースは目を丸くしながらも、竿を振って振り子の原理で獲物を甲板に上げる。
濡れた洗濯物を叩いたような音を立てて甲板に落ちたのは、紛う事なく、タコだった。昔は悪魔の遣いとして忌み嫌われていた、タコ。吸盤を持った八本の足がのたうち回り、奇妙にぐねぐねと動いている。爬虫類を思わせる目と目が合うと、キースは脱力した。
「……タコ……」
『タコ?』
思わず呟くと、ヘンリーは怪訝に問い返してきた。答える気も起きないが、たこ焼きが食べたいと、キースは思う。しかしたこ焼きを作れる船員はいない。悲しかった。
「なんでもねえ」
溜息混じりに返して立ち上がり、釣り針を外してタコを海へと蹴落とした。靴の先に柔らかな感触と吐き出された墨が残り、キースはうんざりと肩を落とす。
『この際協力するより、雨支部も宣戦布告する方が早いのでは?』
キースは呆れて黙り込み、その場に座り直して釣り針に餌を引っ掛ける。混乱に乗じて仕掛けようとでも考えているのだろうか。ヘンリーなら考えかねないが、無理に決まっている。
「アホ、今三つ巴になってもめんどくせえだけだろ。混乱に乗じて楯突くような真似はしねぇよ」
携帯を持ったまま片手で竿を振ると、針は風に乗ってよく飛んだ。光を反射して煌めきながら、同じく太陽光を乱反射する海へ落ちて行く。
『しかし、今が好機なのでは』
「どこがチャンスだよ。こっちゃ戦争が実際どういうモンなのか、何も分かってねぇんだぞ」
キースの指摘に、ヘンリーは黙り込んだ。キースは煙草を吹かしながら、鼻で笑う。
「この戦争でこっちも経験積ませて貰うんだよ。指揮官の能力は、まだあっちが上だ」
数々の内紛を鎮めて来た出雲には、ゲリラ戦ではあるが戦闘に出たという経験がある。ほんの少しの差だが、あるとないとでは大違いだ。その点本部第三師団は強力だと考えているし、常に不安そうな事を言っている出雲の地力も、キースは知っている。
今混乱に乗じて仕掛けるのは、愚の骨頂だ。それなら卑怯ではあるが、出雲も強力な露も、ある程度被害が出た後に攻めるのが妥当だろう。こちらにも被害は出るだろうが、出雲が払う犠牲には到底及ばない筈だ。
「いいかハンク、俺達に今必要なのは混乱じゃねえ、経験なんだよ」
『勝たなければ意味がない、ですか?』
「そうだ。これが終わったら、古狐が忙しくなる。イワンとコソコソ話してるヒマもねえぐらいな」
キースの言うスラングが、ヘンリーには理解出来ないようだった。何度か口に出したが、恐らくヘンリーは未だに分かっていない。説明するのも面倒だったので、彼が発言する前に再び口を開く。
「氷漬けのあの州にはな、多分誰も知らねえ出雲の協力者がいる。そうでなきゃ、あの古狐が年中お喋りしちゃねえさ」
『……露ですか? 何故露と?』
「盗み聞きした。露州語で挨拶してたんだよ」
ヘンリーはまた、黙り込んだ。さて盗み聞きを咎めるつもりか露を糾弾するかとキースは思ったが、彼が次に発した言葉は、そんな事ではなかった。
『探しますか?』
キースは視線を耳元の携帯へ向けて、驚いたように片眉を上げた。一瞬困惑したが、すぐに彼の意図を察する。探すなら、今しかないのだ。
馬鹿だと思っていたが、そのぐらいは理解したようだ。キースはこみ上げる笑いを堪える事なく漏らしながら、釣り竿と携帯を持ち替えた。胡坐をかいた膝に頬杖をつき、見るでもなく水平線を眺める。くすんだ色の空に、鴎が浮かんでいた。
「そうだ、草の根分けてでも探し出しな。捕まえるなよ、探すだけでいい」
露にいるのが誰なのか、キースには見当がついていた。だから賢者であるキースが直接どうにかしないと、少なからず困る事になる。露も大概好戦的だから、州間での問題を起こす羽目になるのも避けたかった。
『見つけた後は、いかが致しましょう』
「俺が戻るまでほっとけ。大人しくしといて貰わねぇと困るんだよ、出雲の武器庫には……」
「コマンダー」
出雲の仁王像が喋るとしたらこんな声を出すのではないかと思うほど低い声に、キースは思わずびくりと肩を震わせて、銜えていた煙草を落とした。いい具合に煙缶の中に落ち、じゅ、と音がする。
電話の向こうから、突然黙り込んだキースへ怪訝に呼び掛けるヘンリーの声が聞こえた。しかしキースは、その声に答えられない。喉が乾いて、舌が貼り付いたように動かなかった。喉を鳴らして無理矢理唾を飲み込み、ゆっくりと口を開く。
「も、もう出航だ。切る」
早口にそう言うと、ヘンリーが慌てて問い返す。何故かと聞かれても、キースには答えられなかった。
『まだ話は終わって……』
ヘンリーの言葉を遮るように、キースは電話を切った。携帯を持つ手が汗ばんでいるのが分かる。背後の威圧感に、今にも潰されそうだった。
電話を切ってからも振り返るのが怖くて、しばらくそのまま固まっていた。キースは脂汗を流しながら、携帯の電源を落とす。
「釣れますかな、艦長」
感情の窺えない野太い声に、キースはゆっくりと振り返る。太い足を視線で辿って行くと、その先にあったのは案の定、黒人の副艦長のごつい顔だった。一つ一つのパーツが大きい顔の中、つぶらな瞳が可愛らしくも見える。
キースは彼に引きつった笑みを浮かべて見せ、亀のように首を縮こまらせた。その愛想笑いを見ても、彼は眉一つ動かさない。そもそも眉がない。
年中不在の艦長の代わりにこの艦の船員を統率しているのが、彼だ。立場は上であるキースが怯える必要は本来ないのだが、彼に対しては艦を任せきりにしているという引け目がある。それでなくとも、彼は個人的に怖かった。
「そ、そこそこ……」
「私は艦長室で待っていて下さいと、申し上げた筈ですが」
ダリー・キングの二メートル近い長身を見上げ、キースは萎縮した。短いパンチパーマと、白い制服の袖から伸びる筋肉で張り詰めた太い腕が、余計に威圧感を増大させている。
「い、いや、まだ時間あるから、今晩の飯でもと……なァバッファロー。いいだろそのぐらい」
「お気遣いは結構。艦長は釣りがあまりお上手ではございませんからな」
というより、下手だ。釣れるのはゴミやヒトデばかりで、何故か魚が寄って来ないのだ。これはある意味才能だとも言われているが、持って生まれたくはなかった才能だ。湾内清掃活動中には重宝されているが。
キースは渋い顔をして、リールを巻いた。上手い具合に途中で何か引っかかってくれないかと思ったが、そんな事もないまま、釣り針が手元へ戻って来る。ゴミさえ引っ掛からなかった。
「全艦出航準備が整いました。港に整列させておきましたので、スピーチを」
キースは釣り竿を持って立ち上がりつつ、怪訝に眉根を寄せる。そんな話は聞いていない。
「スピーチ?」
「我々が戦争に出るのは初めてです。臆する者がないよう、尻を叩いてやって頂きたい」
ふうんと鼻を鳴らし、キースは餌の入ったバケツを拾い上げた。おがくずに埋まったワームは、先ほどのタコの足を思わせる動きでのた打ち回っている。
思わず顔をしかめると、ダリーが手を出した。掌だけが白い手と黒い顔を見比べて、キースは瞬きする。
「片付けておきましょう。一旦向こう側へ」
再び渋い顔をして、キースは差し出された手に竿とバケツを渡した。気が利くのはいいが、どうせならスピーチも代わりにやって欲しかった。
気乗りはしなかったが、キースは反対側の甲板へ、のっそりと出て行く。背中を向けていたから見えていなかったが、港では艦側を向いた海兵達が、ずらりと並んでいた。他の艦の乗員も、各々自分の艦の方を向いて整列している。
不安では、あるのかも知れない。ロスト以降の歴史の中で、戦争が起きた事はない。唯一戦闘になったのも出雲と華だけだから、他州の人々は戦争を知らない。キースの記憶の中には勿論あるが、実際に体験した事はなかった。
経験したかのように記憶しているキースはいいが、他の軍人は、確かに不安だろう。実戦では、演習のようには行かない。合同訓練とは違う。キースの艦の兵は敵機相手に実射を経験しているから、いざとなっても撃てるだろうが、他の艦の船員はそうも行かない。尻を叩けというのも、司令官が気を利かせたのだろう。
タラップの下に立っていた水兵にスピーカーを手渡され、キースは耳の裏を掻いた。スピーチしろと言われても、何を言えばいいのかよくわからない。なんと言えば彼らの不安を取り除いてやれるのか、キースには分からなかった。
もたもたしている内にダリーが出て来て、キースの背中を叩いた。力が強すぎて軽く叩かれるだけでも痛いので、キースは肩越しに振り返って睨む。
「お好きにどうぞ。適当に、あなた好みの演説をして頂ければ構いません」
キースに睨まれても、ダリーは笑っていた。彼からは、微塵も不安など感じられない。厳しい彼が誰よりも自分を信頼してくれている事を、キースは知っている。
厚い唇に弧を描く彼に笑みを返して、キースは船員達に向き直った。スピーカーを口元に当てると、計ったように全員一斉に敬礼する。
「神様の防衛戦だ」
犬が唸るような低い声は、機械を通して風に乗り、よく響いた。
「死にたくねぇ奴ァクソして寝てろ。死にてぇ奴はコンクリ詰めたドラム缶に括ってやるから、海底にキスしてな。死ぬ気がねぇなら乗れ」
艦上にはためく支部旗と本部旗が、艦の門出を祝っているかのようだった。戦地へ赴く彼らに、きっと不安はない。
「自衛海軍雨支部第七艦隊オフィーリア、出撃する」
真っ白な制帽が、そこかしこで宙を舞った。