第四章 繋いだ手に誓う 八
八
賢者達が出雲へ来てから二ヶ月後。華と伊太それぞれからの要求が外交官宛に来たと、千春の下に連絡があった。華の要求は以前と同じく独立だったが、伊太側の要求は、賢者を大陸へ戻す事、となっていた。
千春は伊太知事の要求に疑問を覚えたが、そもそも真っ向から神を寄越せとは、流石に言わないだろう。出雲側が拒否する事を予想して、賢者を返せと言って来たのだ。そしてこの要求を拒否すれば、出雲は糾弾される。伊太にとっては、出雲に侵攻するだけの大義名分が出来る。
華はともかく、今伊太からの要求を呑んだとしても、賢者の安全は保障されない。どちらにせよ大陸法を犯した事を理由に、伊太知事は出雲を糾弾するだろう。要求を承認しても拒否しても、最早出雲に逃げ道はない。
しかし拒絶すればすぐに開戦するだろうと判断し、出雲側は一先ず回答を先延ばしにした。伊太知事を監禁罪で捕らえる事も法律上は可能だったが、欧州賢者本人がこれを拒否、否認した為、叶わなかった。
彼女の判断を責める声も、議会内では出ていた。世界の為ならば、要求どうこうよりも、知事を糾弾すべきだと言うのだ。しかしアーシアが軟禁された事実を肯定していたとしても、賢者と出雲が法を犯した事の方が重大であるのは、火を見るより明らかだった。
両成敗という訳には行かない。首都たる出雲が法を犯したと知れれば、他州の不満をも増大させる結果となりかねない。欧州賢者が知事を責めなかったのには、事が大きくなるのを恐れたせいもあるだろう。
華と伊太が開戦準備を進めている事は、ニコライから千春に知らされていた為、出雲はこの要求を事前警告と見做し、軍部の対応を早めた。更に軍部は要塞の建設を急ピッチで進め、マスコミを通じて聖女の口から出雲全土に情勢を伝えさせた。大社は出雲島民に対して、任意での州外への非難勧告を出し、軍部に輸送と、民間企業に避難所の建設を委託した。
千春は避難地域に、雨を使わなかった。伊太が雨州内に侵攻しないとは限らなかったし、雨ばかりを頼ってはいられないと判断した為だ。賢者は呑気に避難所の建設ならしますよ、と言っていたが、今はそれよりも兵器の生産が先だと言って、千春は断った。雨には他にやって貰わなければならない事が、山ほどあるのだ。
要求が来てから、更に二ヶ月。諸々の対応に追われ、千春は疲弊しきっていた。四月に新兵が入隊した軍部の足並みは、そろそろ揃って来ているが、銃器の生産が追いつかない。募集してもいないのに、予備役に就きたいという民間人が増えたせいもある。
正直な所、軍部にとっては大迷惑だった。ただでさえ実戦訓練を強化したせいで普段以上に忙しいのに、教育までこなさなければならない。兵力が増えるのは有難いが、余計な仕事を増やしてやりたくなかった気持ちも、千春にはあった。
それでも志願兵の受け入れを断りきれなかったのは、元帥達が泣いて喜んでいたからだ。従軍経験のない民間人など、数ヶ月訓練したところで、精々陸軍の警備隊になるのが関の山だ。彼らにはそんな事ぐらい分かりきっている筈だから、人々の気持ちが嬉しかったのだろう。
『とうとう来ちゃったね』
沈んだニコライの声を聞きながら、千春は書類を書き殴っていた。最早読めるような字も書けていないが、今はとにかくこれを片付ける事が先決だ。ニコライと雑談している場合でもないのだが、彼からの報告がないと、不安で仕方がなかった。
「まだ来ていないよ。州境はどうだね」
『今の所は動きなし。華も伊太も英も、工場がフル稼働中だよ。英も何やってんだか』
「英は賢者が逃げた事を知っているからな。これで欧州総知事が完全にテオドラの手の内にある事も、再確認出来たよ。クソ」
舌打ちせんばかりの勢いで吐き捨てて、千春は書き上げた書類を束の上へ叩きつけた。どすん、と凡そ書類が立てたものとは思えない音がする。
『テオドラはなんで大陸内に、出雲が法を犯した事を伝えないのかな? 彼女ならやりそうだと思ったんだけど』
「あまり触れ回ってしまうと、知事本人の悪事も露見する。独が怖いのもあるだろうよ」
書き上がった書類よりも、未処理の書類の方が、まだ多かった。千春は角印と書類の山を見比べて、顔をしかめる。いい加減、腱鞘炎になりそうだった。
『そうだよねえ、そこまで頭悪くないかぁ』
「テオドラが馬鹿なら、私もここまで追い詰められていないさ。ああ、どうして一日は二十四時間しかないのですか神よ!」
『それ別に神が決めた訳じゃないからね』
冷静な突っ込みは聞き流し、千春は未処理の書類の束に手を伸ばす。書類書き機にでもなった気分だった。
「軍部の出来は?」
『余裕だよ。うちの工場もフル稼働で、明日には生産依頼されてた小銃もまとめて輸送出来る』
「ああ、助かるよ。昨日印から弾薬が来たんだが、肝心の本体の方が間に合わなくてね」
『余裕だって言ってたじゃない。そんなに志願兵が増えたの?』
「尋常ではない。軍部の人事が死にそうにしていたよ」
ニコライの笑い声は、珍しく苦笑いのように聞こえた。
『教育部隊は死んでるだろうね』
「私もね」
ニコライは笑ったが、千春にとっては笑い事ではなかった。そもそも笑っていられる状況でもない。
大規模な内戦が、起きようとしている。それだけで今までになかった事だというのに、既に各州入り乱れての混戦となりそうな予感さえする。早めに世界に向けて警告しておくべきかとも思ったが、伊太知事はともかく、陳はもう他州に迷惑を掛けるような事はしないだろう。独立を望んでいるなら、他州に嫌われては意味がない。
それ以前に、千春はこれ以上の混乱は避けたかった。黙っていればいいという話でもないが、ギリギリまでは隠したい。芋蔓式に伊太の悪事が露見するのも、あまり良くない。
「出雲入りした雨の部隊は、万全だと言っていたが……本当に大丈夫だろうか」
調子のいい雨支部は、なんでも大袈裟に答えるから話半分にしか聞けない。一方出雲はなんでも謙遜するから、何度聞いても不安だと言うので、こちらもよく分からない。空軍元帥が年中駄目だ駄目だと言っているから、自州の空は駄目なのだと思っていたが、この分だとそうでもないのだろう。
大丈夫なのだろうとは思うが、もっと自信を持って欲しかった。足して二で割ってしまいたい気分だ。
『雨なら平気でしょ、いつだって臨戦態勢なんだから』
「まあ、頼りにはなるが……」
『出雲はどんと構えててよ。それより、華支部の駐屯地にどんどんプレハブが出来上がってるよ。そろそろじゃないの?』
ニコライの声は、あまりに呑気だった。千春は脱力しそうになるのをなんとか堪え、ああ、と答える。気の抜けた声を出した拍子に手から力が抜け、ペン先が滑った。
「伊太支部が大移動を終えるまで、余裕はあるだろう。空と陸を重点的に監視しておいてくれ」
『そんな簡単な問題かな。チェンはなんかやらかしそうな気がするんだけどねぇ』
千春にも否定は出来ないが、陳はそこまで焦るだろうかとも思う。前回の蒙古侵攻も、期を窺い続けて痺れを切らした末の事だったから、今度も軽挙に出るとは思えない。彼はそこまで愚かではないからだ。
陳を処罰する事も捕らえる事も、法律上は不可能だ。大陸法内には賢者法という項が存在するが、賢者はその法の内でしか裁けない。つまり、賢者には賢者法以外の全ての法が適用されないのだ。
これは別段、賢者が通常憲法で裁かれるべき罪を犯してもいい、という事ではない。賢者は全ての歴史を知るが故に、大きな責任を神から負わされた。責任ある立場であるからこそ、己で己を律する事が出来なければ意味がない。それが出来なければ賢者である資格はないと、神はそう言ったのだ。
けれど現実には、賢者を裁けるのは神だけであると、憲法上で明言されている。神が動かない限り、このまま内戦は進んでしまうだろう。神主に問うのは易いが、陳を処罰するとなれば、今度は亜細亜大陸内から不満が出るだろう。千春が後任となればいい、という訳でもない。
「陳が何をしようとも、迎え撃つしか出来ないのが出雲だよ」
『戦闘を目的として他州内へ入っちゃいけないってだけなら、みんなで本部旗掲げて制圧しちゃえばいいんじゃないの? 蒙古の時だってそうだったじゃない』
千春は思わず肩を落とし、呆れた溜息を吐いた。ニコライの怪訝な声が、スピーカーから漏れる。
「あのねコーリャ、出雲がゲリラ戦の制圧に行けたのは何故だと思う?」
『え?』
問い返すニコライの声は、あまりに間抜けだった。
「首謀者を捕獲するという目的の為だったからだよ。相手が民間人だったからだ。軍対軍では、戦闘しなければ制圧出来ないだろう? 無血勝利を掲げるのは容易いが、不可能だ」
『ああ……うん』
「蒙古へ入れたのは、華が蒙古へ侵攻したからだ。露支部が本部から、蒙古から出るなとしつこく言われていたのを、知らないのかい? 蒙古を護るという目的の為に動いていたんだよ」
ニコライはまた、ああ、と呟いた。納得したのかしていないのか、それだけではよく分からない。
『めんどくさいね』
「何を今更」
千春はその感想もないだろうと思ったが、深く突っ込むのはやめた。呑気なニコライのお陰で、少しは緊張も解れた。書類はなかなか片付かないが。
『なんか不公平だよね。どうにかなったら、出雲だけが責められなきゃいけないんだからさ』
「権力があるからさ。同じ国なのだから、不公平も何もない」
『神は、何やってるんだろう』
ニコライの呟きに、千春の手が止まった。きっと誰もがそう思っているが、考えないようにしている。神が動かない理由を誰も知らないし、神が口を出さなくなった理由も知らない。
それでも出雲は、世界の為に戦おうとしている。それでも人々が神を信じていられるのは神主がいるからで、神が確かにこの島に居ると信じているからだ。軍人が出雲の為に戦えるのは、他ならぬ聖女が従軍しているからだ。それを信仰心と呼ぶのなら、そうなのだろうと千春は思っている。
最早芙由に戻れとも言えない。彼女が指揮しているお陰で、第三師団が模範部隊たり得るのは事実だからだ。彼女が軍人達に信頼されている事は、根幹にある信仰心が失われていない証拠であるとも言える。どちらが欠けても成り立たない信頼関係を、今更崩すような事はしたくなかった。
「それを言っていたら、きりがないだろう。神は賢者に、国を預けたんだ。自分に頼らなくとも、人が生きて行けるようにとね」
『結局頼りっきりのような気もするけどね』
ニコライのぼやきは、愚痴めいていた。愚痴りたくなるのも分かるが、まさか千春が神の悪口を言う訳にも行かない。
「向こうの動きは、見えないか?」
ううん、と唸って、ニコライは暫く黙り込んだ。また飲んでいるのだ。喋る度に一口飲むのはどうかと思うのだが、燃料だと言って憚らないのでもう咎めない。
『無理だね。向こうも警戒して、暗号使ってるよ。うちの支部で解読しようと頑張ってるけど、伊太語と華弁が混じってるから、ちょっと難しいかも』
「こうもさっさと体制を整えられてしまうと、出雲が劣っているようじゃないか」
『本部には前から暗号あったじゃない。あれ僕も解読できないんだけど、何あれ』
「解読しようとするんじゃない。軍事機密だよ」
ずっと手が止まっていたのに気付いて、千春は再び書類にペンを走らせる。もう何も書きたくない気分だった。
『うちも今回作ったけどさあ、時間がなさすぎるよ。支部に広める前に解読されそう』
時間がないのは、向こうも同じだ。すぐに開戦するとは思っていないが、要求を提示して来た以上、そう遠くはない筈だ。年内に侵攻して来るかどうかだろうと千春は思っていたが、如何せん向こうの動きが早すぎる。早ければここ数ヶ月の間に、侵攻して来てしまうかも知れない。
千春はもう、どうすれば終わるのかを考えている。どうすれば被害を最小限に食い止められるのか、考えても答えが出ない。法という枷が、出雲の足を引っ張っているように思えてならなかった。
『出雲、大丈夫?』
暫しの間の後のニコライの問いかけに、千春は眉を顰めた。彼が何を指して大丈夫なのかと聞いているのか、分かっているからだ。
「大丈夫、ではない。このままでは島民の避難が間に合わぬ、島外へ出たがらないのだ」
『でも、絶対市街地戦になるよね?』
狭い出雲には、適当な土地がない。開けた土地は島民の避難区域として重点的に護るつもりでいるから、わざわざそこへは攻めて来ないだろう。主要都市へ簡単に攻め込ませる気も更々ないが、他州の土地へ入る事は一ミリたりとも許されない。
そんな状態で、本当に護りきれるのだろうか。千春が護る訳でもないのに、不安が拭いきれない。対抗策が取れる自州での防衛戦ならば有利とはいえ、迎え撃つしかない出雲の軍人が、哀れでならなかった。
「向こうが狙って来るとするなら、まあ基地か駐屯地だろうよ。若しくは都市部だな。神を護る民を殺しても、制圧は出来ぬ」
『基地も駐屯地も、殆ど市街地にあるじゃない。大きいのは山の中だっけ?』
「その辺りには要塞を建設している。市街地で一番駐屯地が密集しているのは、この大社周辺地域だよ」
ニコライが絶句した。知らなかったのだろうかと千春は思うが、わざわざ言った事もなかった。
『……出雲はバカなの?』
「自衛軍は戦争する為の機関じゃない」
『戦車だの高射砲だの装備しておいて、それはないと思うけど』
「そこは神に聞いてくれ。私は知らぬ」
しれっと言うと、ニコライは溜息を吐いた。
千春も、危ないのは分かっている。けれど今更移設も出来ないし、大社周辺地域に基地や駐屯地を多く置いたのは、神なのだ。神が何を思ってそうしたのか知っている身としては、何も言いたくはなかった。
神は偉大だと、千春は思っている。神は誰よりも人を信じ、人を愛している。そして愚かで、哀れな人なのだ。
「余計な詮索はせぬ事だ。どうせ私にも答えられはしない」
『出雲の秘密主義は徹底してるね。神はもう、避難してるのかな』
「さてね。神主に聞いてみないと分から……ん?」
気が付くと、廊下側で騒がしい物音がしていた。怒鳴り声とも悲鳴ともつかない声に、千春は妙な胸騒ぎを覚え、そのまま黙り込む。
『どうしたの?』
「……済まない、何かあったようだ。動きがあったら随時報告してくれ」
『分かった、それじゃ』
電話を切った瞬間、ドアを破らんばかりに叩く音が室内に響いた。かなり焦っているようなその音に、千春は顔をしかめる。ペンを置いて返答しようとしたが、口を開く前に勢い良くドアが開いた。
中年に差し掛かったばかりと思われる日焼け顔の男は、ぎょろりとした目を更に見開いて、肩で息をしていた。恰幅がいい為、呼吸する度に腹までもが揺れている。彼が纏う黒のダブルは、海軍の常服だった。袖には本部の長である事を意味する、金色に輝く四つの桜。
千春にとって彼は、今一番来て欲しくない人物だった。息急き切って現れたという事は、報告内容も予想はつく。
「……どうしました、根室元帥」
静かに問い掛けると、根室は顔を歪めた後、背筋を伸ばして敬礼した。
「っ……笹森補佐官!」
彼が叫んだのは、己を奮い立たせる為であったのだろう。落ち着いてはいられない。それでも千春は、平静を保っていなければならなかった。
「華の戦闘機が、東支那海上にて本部第五護衛艦隊を攻撃。四隻中二隻被弾しましたが、乗員に死者はなし。四機中一機を撃墜。残りは華へ戻って行きましたが、現在第二陣と交戦中です。ならびに同海上の偵察部隊から、華の輸送機が沖縄へ向かっていると」
千春は真っ直ぐに根室を見詰めたまま報告を聞いていたが、彼が言い終わった途端に俯いた。まさかこんなに早く仕掛けて来るとは、思っていなかった。華支部はまだ準備しきれていないと踏んでいたのだが、考えが甘かったようだ。
伊太は富裕な州だ。テオドラが出雲も把握しきれていないマフィアをも操っていたとするなら、華支部への援助も容易い筈だった。そこまで何故考えが回らなかったのかと、千春は心中歯噛みする。
「応援は?」
「空軍本部に要請致しました。今頃は、こちらも応戦中かと」
もう、止まらない。後戻りは出来ないし、華も伊太も、今更止まりはしない。戦争を禁じているとはいえ、放棄も出来ない。護る事が、軍と千春の役目である限り。
「分かりました」
書類など書いている場合ではない。言いながらゆっくりと立ち上がり、千春はデスクを離れる。眉間の皺が消えない根室の肩を軽く叩くと、彼は少し力を抜いた。
「戦闘区域に当たる地域の住民に、避難命令を。近い半島は受け入れをするだけの余裕がない。米大陸の避難地域まで、出雲入りしている雨の部隊に護送を頼んで頂きたい。向こうの方が早いでしょう」
「了解」
「陸と各支部に連絡は?」
「既に行っています」
「宜しい。私は神主に報告して来ましょう」
千春はドアに近付き、ノブを握った所で逡巡する。真鍮性のドアノブから指先に低い温度が伝わり、心まで冷えて行くようで、ドアを開けるのを躊躇した。それでも、迷ってはいられない。
思い切ってノブを握る手に力を込め、ぐっとドアを開けた。ホールの方から、騒がしい物音と誰かの焦った声が聞こえる。混乱した役人達がなだれ込んで来る前に、千春は神主への報告を済ませておきたかった。
千春は小さく溜息を吐いてから入り口を塞ぐように室内へ向き直り、根室を見上げる。千春から見ればまだ若いと言える元帥は、緊張した面持ちで千春の言葉を待っていた。
「出雲本部全軍出撃準備に入り、迎撃体勢を取れ」
根室は胸を張って敬礼した。大袈裟に動かないと、気力を保っていられないのかも知れなかった。
軍部の長たる者、常に平静を保っていなければならない。そう注意する事は出来たが、千春自身不安に押し潰されそうだった。戦争を知らない人々が、戦わなくてはならない。懸念材料は山ほどある。それでも。
千春はドアの前から避け、道を開けた。元帥は会釈しながら部屋を出て行く。それを追うように執務室を出て、千春は後ろ手でドアを閉めた。そして、殆ど吐息のような小さな声で呟く。
「戦争だ」