第一章 守人たち 三
三
大きな窓から、冴え冴えとした西日が射し込んでいる。冬の夕陽は室内を仄かに明るく照らし出し、どこか寂しげな橙色で彩る。
窓の手前に置かれた黒檀のデスクに座った人物の表情は、部屋側からでは逆光になって窺えない。携帯電話を耳に当てたまま、彼女は手にした書類に目を通していた。
「……プリヴィェート、コーリャ。そちらはどうだい?」
電話の向こうの人物へ、千春は親しげに挨拶を述べる。彼女が愛称で呼ぶのは、恐らく彼ぐらいのものだろう。
『相変わらずの氷結地獄さ、千春』
スピーカーからは少し鼻にかかったような、青年の声が聞こえる。千春がした挨拶は露州語だったが、彼は公用語である出雲語で返答した。
『昨日は路面凍結でバスが横転、自衛軍も大変だよ』
「それが仕事だよ。済まないね、大変なのに」
軽い謝辞を述べながら、千春は書類に捺印した。デスクの上には、彼女の手元にあるものと似たような書類が、山になって積み重ねられている。
『僕は関係ないよ、とりあえず一般市民だからね』
そこで青年は、一呼吸置いた。千春は用件を言おうとしたが、あ、と声が聞こえたので、口を噤む。
『そうだ、戸守中将が豪古へ行ってるんだって?』
「もうそちらまで広まっているのか」
『まあ有名だからね、彼女は。出雲の軍部と、他のところの一部でだけど』
「偉そうな女だと? 華州はどうだ」
電話の向こうから、キーボードを叩く音が聞こえた。何をどう調べれば出て来るものか千春にはさっぱり分からないが、彼の手に掛かれば、軍事機密も明日の天気のように簡単に調べられる。
千春は彼の情報収集能力を、世界一と評している。そうでもなければ、こうして私用を装って電話したりはしない。
『やっぱり結構ガタガタっぽいね。戦況の報告は、そっちに入ってるでしょ?』
「ああ、戸守師団長はよくやってくれているよ」
『それならこっちはいいか……陳が“華国民”を集めて決起集会したみたいだ。また増兵する気だね』
千春は鼻を鳴らして冷笑し、手の甲に顎を乗せた。
「有象無象を集めても、その場凌ぎにしかならぬよ。戸守中将は頭もやっとうの腕前も、世界で五指に入る」
『戦況を見れば分かるよ、持ち直した挙げ句形勢逆転だ。お使い犬の出番がないね』
「なくていい、奴には大人しくしていて貰わないと困るのさ。伊太は相変わらずかな?」
ああ、と軽い調子の返答がある。彼にはなんでも肯定する癖があるから、話が遠回しになるのが面倒なところだ。
『女帝はずっと、こっちの様子を窺ってるよ。直接見たわけじゃないけど、軍がまともに機能してないね。水の都が血の都になっちゃってる』
「とうとう伊太全土に支配が及んだか……賢者が心配だな」
ふむ、と唸る声が聞こえた。僅かに間が空いた所を見ると、また一杯つけているのだろう。
『バンビは元気だろうけど、女帝の手の内さ。早いとこ、こっちが手を打たないとまずいかもよ』
「あれは大陸の宝を鹿肉にするほど愚かではないさ。既に何度も警告はしているのだがね、効果ナシだよ。上の者を遣わすか」
『上?』
怪訝に問い返す声に、ノックの音が被さった。千春は目を細めて扉へ視線を向けた後、デスク上の書類を伏せる。
『君が行くんじゃないの? その方が早そうだけど』
「私は嫌われているのでね。伊太女とキャットファイトしても勝ち目はないよ」
再びノックの音が聞こえると、千春は眉間に皺を寄せた。まだ聞きたい事の半分も聞けていないというのに、忙しない事だ。
「済まない、呼ばれた。また連絡する」
『補佐官は忙しいね。大変だ』
「忙しくしているのが私の仕事さ。それじゃ……どうぞ」
電話を切ってから、千春はようやくノックの音に返答した。最早叩き方で、誰が来たのか分かる。
「失礼。電話中でしたか?」
白の制帽が似合わない男だった。ダブルの背広が黒であるのと前を全て開けているお陰で、やっと着こなせているような有り様だ。ワイシャツではなく白いTシャツを着ているのも、千春はもう咎めない。言っても無駄だし、訪ねてきている相手が、自分だからというのもある。
千春はハイバックのチェアーから立ち上がり、リビングセットの方へ移動した。本来要人への報告は会議室で行うべきなのだが、向こうも立場は同じだし、最近はどうでもよくなっている。キースの行動をいちいち咎めていたら、話が全く進まなくなってしまう。
「失礼だと思うなら、何度もドアを叩くんじゃない」
「癖なもんで」
言いながら、彼は煙草に火を点ける。蔵書が傷むので出来るならやめて欲しいのだが、出来ないから何も言わない。お陰で空気清浄機を設置せざるを得なくなった。
ソファーに深く座り込んだキースの正面に腰を下ろし、千春はガラステーブル上の灰皿を向こうへ押しやる。脱帽して前髪をかき上げた彼は、軽く会釈した。
邪魔なら切ればいいだろうにと千春は思うが、散髪している暇がないのかも知れない。坊主頭のキースはあまり見たくないし、これ以上賢者らしからぬ容貌になられても困る。今でも充分賢そうではないが。
「戦況は?」
前かがみになって膝に上体を被せるような姿勢のまま、キースは視線だけ上げて問い掛ける。だらしのない男だ。
「持ち直した。このまま向こうが撤退してくれれば楽なのだがね」
「そう簡単には行きませんよ。いい加減、武者鎧でも送ってやりゃいいのに」
彼が同等の地位にある千春に対して敬語を使う必要はないのだが、そこまでフランクに接する気はないようだった。一方千春は、彼に対して敬意を表したくない。嫌っている訳ではないが、底が知れない分不気味な男だ。
こちらが下手に出たら、すぐにでも掌を返して来そうな気がする。雨州と出雲はそれなりの友好関係を築いているが、あの州は何を企んでいるのか分からない部分がある。キース自体呑気そうには見えるものの、その実何を考えているのか良く分からない。
だから謀を企めないよう、年中代わりに世界中を回らせているが、今度はその事で、彼にお使い犬などという不名誉な仇名がついてしまった。仮にも彼は国宝たる立場なのだから控えて欲しいものだとは思うが、そう呼んでいるのが各州の中枢にいる人々だから、始末に負えない。何より本人も、あまり気にしていない。
「兵を砂の海に沈めるつもりかな?」
「もういい加減、砂団子になってんでしょう。大変だな芙由様も、皇帝気取りのバカのレベルに合わせて、相手しなきゃならねえんだから」
千春は表衣の袖を摘み、皺になった裾を伸ばす。立ち上るタバコの煙が、視界を遮った。
「撃ち合いにならないだけマシさ」
「戦争してんだか平和なんだかさっぱりだな」
「内戦と言え。それよりクレオパトラはどうだった? 随分早かったが」
キースは目を細めて渋い顔をした。ある程度は予想していたが、あまり言いたくなさそうだ。面白いのでそのまま暫く黙っていると、キースは小さく溜息を吐いた。
「犯されそうになったんで逃げ帰って来ました」
「据え膳食わぬは恥だよ、カークランド」
「冗談!」
体を起こして背もたれに勢い良く背中を預け、キースは両手を肩の高さまで上げて見せた。雨州民は逐一動作が大袈裟だ。
「ヘマしたら死んじまいますよ。大体ありゃタイプじゃねえ、南米の二の舞はゴメンだ」
「ヘマしたら共倒れだな。お前が見かけによらず、貞淑な男で良かったよ」
愉快そうな千春とは対照的に、キースはしかめっ面だった。銜え煙草のまま腕を組み、唇の隙間から煙を吐き出す。拗ねてでもいるような仕草だ。
物理的に殺されない限りは生き続ける賢者達だが、彼らには唯一にして致命的な弱点がある。
「赤ん坊こさえたら死ぬなんてな、誰が予想した? 南米はいい反面教師だったよ」
南米の賢者だった男は、子供が産まれた瞬間、入れ替わりでもするかのように死んだと伝えられている。死の前兆はなかったし、殺された訳でもない。つまり子供が産まれると賢者は死ぬのだ、ということになっている。
どういった理由なのかは分からない。南米の賢者が有した記憶は引き継がれなかったと、世間一般に公表されている。つまり賢者達は膨大な記憶を与えられた代わりに、人として生きる道を永遠に奪われたのだ。
「お前の貞操がどうなろうと私には関係ないが、これ以上賢者に死なれては困る。ただでさえ一杯一杯だからね」
「ちょっとは心配して下さいよ。俺が乗っかれる恋人は、オフィーリアだけなんだ」
「艦には滅多に乗らないくせに、よく言うよ……しかし縁起の悪い名前だな。最低のセンスだ」
「俺のセンスじゃありませんからね。あれでも長生きなんですよ、俺と同じく」
テーブルの上の灰皿を持ち上げて、キースは煙草の火を消す。長い人差し指の付け根は、脂で黄色くなっていた。
「悲願だった対人地雷の完全撤去を終えてから、女王様はどうもダメだな。軍自体にやる気がねえ、暑すぎて頭沸いちまってやがる」
言いながら、キースは人差し指で自分のこめかみを叩く。
「軍を指揮するのは賢者ではないよ。再教育するべきか?」
「こっちは手一杯でしょうよ。うちから出します」
「お前が決める事ではない。元帥からそちらの総大将へ、連絡を取らせよう」
総大将は、各支部の陸海空それぞれの長。元帥が、全ての支部及び本部のトップだ。
各州の自衛軍隊は、全てが出雲を本部とする支部となっている。これは神が直接軍を指導していた頃の名残であり、出雲にだけ特権が与えられているのもその為だ。現在は当然ながら、各支部に教育部隊が置かれている。
「知事がダメだと、州ごとダメになるな」
その知事を持たない出雲の賢者である千春の仕事は、持てる知識を広める事と、神主の補佐役を務める事だ。更に賢者が死亡した為不在である南米大陸と、どこかの馬鹿のせいで補佐官不在の、北米大陸知事の補佐役も兼任しているから、実際一番忙しいのは彼女だった。キースなどは単純に肩書きが多いだけで、どの大陸の賢者より奔放に振る舞っている。
それをいい事に、散々知事や賢者の様子見のような雑用に使っているから、彼を咎める事も出来ない。千春はあまり出雲を離れたくないし、雑用に貴重な時間を使いたくはなかったから、助かっているのは確かだ。賢者との会談など電話で済ませても良かったが、直接顔を合わせた方が話しやすい事もある。
「全体が荒れている訳でもなかろう?」
煙草に火を点けながら、キースは視線だけを千春へ向ける。目つきが鋭い割に、淀んだ暗い視線だった。
「そりゃどこもそうでしょう。知事がダメでも、真面目なトコは真面目にやってますよ、神様の為に」
皮肉が滲む口調だったが、千春は気付かない振りをした。
「その通りだよカークランド。神は偉大だ。神の為に、なんでもしてもらわねば困る」
「出雲の狂信者共は、皆あんたの親戚か何かかい?」
彼の口元は笑みの形に歪んでいたが、眇められた目は笑っていなかった。銜えたタバコから立ち上る煙が、室内のぬるい空気に溶けて行く。それを横目に真正面からキースと向き合い、千春は赤い唇で弧を描いた。
一瞬、キースの目が細くなったように思われた。実際そうだったのだろうが、彼はすぐに、表情をいつもの若気たものへ変える。
「よして下さいよ、腹芸は苦手なんだ」
「それなら、忘年会では犬の鳴き真似をするのかな?」
「昔はね。今は笑わせて貰う方ですよ」
腹の探り合いを仕掛けるのは、大抵あちらの方だ。何を知りたいのだか千春は知らないが、どうせ碌な事ではないだろう。早々に突っぱねるに越した事はない。
彼は馬鹿だが愚かではないし、知識だけでない頭の良さもある。だから千春はこうして、のらりくらりと逃げる。
「俺に何を見てこさせたつもりです?」
不毛な会話に痺れを切らしたのだろう、彼は存外短気だ。
「不穏な動きがないようで何よりだよ。阿弗利加大陸には、いざとなったら伊太の抑止力となってもらわねばならぬ」
「露は手一杯って事ですか。難儀なモンだ、ガタガタだってのに」
「あちらはやる時はやる。一番信仰心が強い地域だからね」
「純粋な小学生騙してカメラの中身売りつけるようなマネ、俺は嫌いですよ」
彼は時折こうして前時代の話を比喩に使うので、意味が分からないと周囲に文句を言われている。賢者の知識は実際に見聞き、体験して得たものではない。しかしその実、知識ではなく記憶として備わっている為、こうして自然と口から出てしまう。
無論気をつけていれば出る事もないのだが、キースの場合実際に見聞き体験した記憶の方はすぐに忘れてしまうから、そうも行かない。天から授かったロスト以前の記憶の方が、彼が生まれてから今までの記憶より遥かに膨大だから、自然とそちらの方が口から出てしまうようだ。
「お前が好こうが嫌おうが、そんな事はどうでもいいのだよ。使えるか使えないかだ」
その時のキースの反応が、千春にとっては可笑しかった。普段飄々とした男が動揺するさまを見るのは、何故こうも楽しいのだろうと思う。
キースは虚を突かれたように目を丸くしてから、苛立たしげに煙草を灰皿へ押し付けた。それで大分落ち着いたようで、ゆっくりとソファーから立ち上がる。千春の目には、意図して緩慢な動作を取っているように見えた。
「とんだ性悪だ。早死にしますよ」
「憎まれっ子は世に憚るのさ。お陰でこれだけ長生きしている」
阿呆のような言い合いにも、千春は慣れた。知的な会話は疲れるので、得手とはするが正直なところあまり好きではない。代わりにキースを揶揄うのは好きだ。
「さっさとくたばっちまいてえモンですよ。平和すぎて退屈だ」
「賢者としては、お前に死なれては困るよ。個人的にはさっさとくたばって欲しいところだがね」
肩を竦めた彼は、ソファーの背もたれに腰を下ろして腕を組む。
「嫌われたモンだ」
「お前も私のことは嫌いだろう」
「好きですよ。オートミールよりは」
「微妙なセンだな……ところで、カークランド」
キースの眉間に皺が寄った。すぐ顔に出るから、彼は面白いのだ。彼本人は、千春にからかわれるのが不愉快そうだが。
「平和なのが嫌なら、平和じゃない所へ行って来い」
「またかよ。今度はどこだい、俺は伝書鳩じゃねえよ」
千春は鼻で笑ったが、鳩というよりやはり犬だろうと思う。
「伝言ではないよ、今度は護衛だ。神主の娘の」
怪訝に片眉を寄せた彼は、首を捻って千春を見下ろす。
「芙由様の? 必要ないんじゃ?」
芙由は公的には、神主の娘として副知事の職に就いているが、本人の強い希望により、内戦が激化する今も従軍している。軍に入る事を許可したのは千春だから、危ないから戻れとも言えないし、言っても彼女は抜けたりしないだろう。生まれが生まれだから上に立つ者としての素質は充分にあるのだが、如何せん従軍暦が長い為、政治的な問題に疎い。
出雲の知事を兼任する神主は、大衆の前に出る事を禁じられているから、本来各州の知事との会談は、彼女が務めなければならない。だが知事の中には、神とほぼ同等の特権を与えられている神主を、快く思わない者もいる。
だから彼女を遣わす事は滅多にないのだが、今回は事情が事情だ。どこぞの知事のように狡いだけの小者であって欲しくもないが、多少のずる賢さはあった方がいいと千春は思う。
「建て前だよ。あれは馬鹿ではないが、真面目すぎる。腹芸が出来ないのさ」
ふうん、とキースは些か鼻白んだ。顔には出るくせに、彼は何が楽しくて何がつまらないのか、千春には全く読めない。
「どこまでデートしてくりゃいいんです?」
貴人に対する言動ではない。千春は思わず顔をしかめそうになったが、なんとか堪えた。
「ローマだ。手を出したら縊り殺すぞ」
「どっちに?」
「どっちもだよ。いや、どれもだ。真実の口以外な」
「そりゃ出すじゃなくて入れるんでしょうよ」
キースは視線を窓の外へ流し、耳の裏を掻いた。悪癖ではあるが、千春も人様の癖に難癖付ける気はない。
「女帝……今の知事には会った事ないんで分かりませんがね。芙由様は話しかけただけで睨まれそうだ」
「お前が半径一キロメートル以内で息をしているだけで、不愉快だと言っていたぞ」
「そんなんじゃ護衛する対象に殺されちまうよ」
大袈裟に肩を竦め、キースは立ち上がった。窓から差し込んでいた夕陽はいつしか姿を消し、蛍光灯が室内を白く照らしている。
「芙由様がお戻りになったら、連絡下さい。地球の裏側にいても、インスタントヌードルが出来上がる前に駆け付けますから」
「うろついていないで、迎賓館で待機していろ。どうせもうすぐ戻って来るさ」
キースは暫く無表情のまま千春を見つめていたが、やがて一礼し、部屋を出て行く。そして彼の足音が聞こえなくなってようやく、千春は肩の力を抜いた。