第四章 繋いだ手に誓う 四
四
大社六階のエレベーター脇に位置する神主の執務室には、普段は誰も近寄らない。大社内部を完全に把握している者以外は、その部屋が何の為の部屋なのかさえ知らないし、この階にあるのは役人達の執務室だけなので、用があるのもお茶汲みに来た事務員だけだろう。執務室があるとは言っても、役人達はほぼ一日中会議室に入り浸っているので、この階には殆ど人気がない。
神主の執務室は、千春の執務室と面積はそう変わらない。けれどこちらは窓を大きく取ってあり、覗き込めば眼下に街の様子が一望出来る。殆ど軍学校や駐屯地ばかりなのだが、それでも滅多に外出しない神主にとっては、唯一人々の暮らしを垣間見る事の出来る、大事な場所でもある。
室内は斜め上から夕陽が差し込み、橙色に染まっている。今は薄暗いが、晴れた日の朝は、美しい青空と眩い程の陽光に照らし出され、部屋全体が光って見えるほど明るくなる。部屋に入っただけで目眩がしそうな程の光量なのだが、神主本人は、どんなに寝不足でも目が覚めるからいいと、気に入っているようでもある。
部屋はパーテーションで半分に区切られ、ドアのある側の壁は、窓以外の全面が背の高い書架で埋まっている。しかしそこに収められた分厚い本の数々は、今では殆ど読まれる事もない。多忙の主が本を読める時間は、限られているからだ。
窓の前にはデスクが置かれてはいるものの、主はあまりこの机を使わない。一日かけて片付けても、翌日にはまた書類で埋まってしまうから、使いたくても使えないのだ。だからドア前のリビングセットに座っているか、パーテーションの向こう側にいる。
「欧州賢者は相変わらずですよ、神主殿」
デスクのある側とパーテーションで区切られた空間には、畳が敷き詰められていた。部屋の中央には漆塗りの四角い卓袱台が置かれ、小さいながらも花瓶と掛け軸が飾られた床の間がある。
そこだけが異空間のような小さな和室には、二人の男女が卓袱台を挟んで向かい合わせに座っていた。歳若く見える彼らは、しかしこの国の頂点に近い地位にある。
「ここへ来て安心したのでしょう。最後は大欠伸ですよ」
千春の言葉に、正面の座椅子に腰掛けた青年が笑った。
不健康なまでに白い肌に、下がり気味の細い眉。薄い一重瞼の下で、黒目の大きな切れ長の目が笑っている。鼻筋の通った優男だが、彼の目に宿る光は、意思の強さを窺わせた。
糊の効いたスーツ姿も若いサラリーマンのような彼が、この世界の実質的な長、神主だった。就職活動中の大学生のようにも見える彼から、神主たる威厳は感じられない。けれど彼の目は、千春の知る中で一番純粋な目をした二人に、よく似ている。
「欧州賢者殿は、体は子供ですからね。お疲れだったのでしょう」
「頭の中身は私とそう変わりませんがね」
小さな笑い声を漏らし、神主は僅かに首を左右に振った。艶のある黒髪が、動きに合わせて揺れる。
「あなたほど達観してはおられないでしょう」
達観していると言うのも、大分オブラートに包んだ言い方だ。彼は優しいから、冗談でさえ悪態を吐く事が出来ない。他の連中なら、迷うことなく千春を老獪だと言うだろう。
「賢者殿は、まだこちらに?」
「早々に休ませましたよ。仮眠室を陣取っていた経理課を追い出すのが大変でした」
「可哀相に。今の時期から、経理は忙しいでしょう」
僅かに眉根を寄せて、神主は困ったような顔をした。千春は小さく笑い声を漏らす。
「冗談ですよ。相変わらず真面目なのだから」
神主は一瞬目を丸くした後、苦笑いを浮かべた。彼のこういう真面目なところが、千春には好ましく思える。よく話す者達は、擦れすぎていて可愛気がないのだ。神主相手に可愛いというのも、失礼な話ではあるが。
真面目と言うなら芙由もそうなのだが、あちらは軍部にいるせいか、妙に口が悪い。この神主と血縁関係にあって、何故にああなのだろうと千春は時折思う。
「しかし賢者殿がこの出雲へ逃げて来たとなると、いよいよ伊太も危険ですね」
神妙な面持ちで呟いた彼に、千春は頷いて見せた。いよいよと言えるような時期は、とうに過ぎている。
「もっと早く、手を打つべきでした。若い知事ということに気を取られて、彼女の動きまで監視出来ていなかった私の落ち度です」
「補佐官は悪くありません。見守ろうと言ったのは私ですし……見守りすぎたようですが」
テオドラが知事に就任した時、出雲は訝りはしたが見守る事にしたのだ。華の事で忙しかった、というのは言い訳に過ぎない。若くして当選したのだから、それなりに理由があったのだろうと思っていた。結局、悪い理由でしかなかったが。
「欧州賢者がいれば、保ち直すと思っていた部分もあります。結局利用されてしまって、こちらとしても当てが外れましたね。嫌な言い方ですが」
二人は同時に溜息を吐き、肩を落とした。何事も、見守るだけでは上手く行かない。華の事があった時点で、やり方を見直すべきだった。
賢者について定めた法を、そろそろ見直す頃合いなのかも知れない。神は体制が整うまで、法の改正を大きくは行わないと定めた。しかし、そもそも体制が整うというのが、何を基準としているのかも判断し辛い。曖昧な部分について問題が出た場合の決定権は神主にあるが、法に関してとなると、彼にも難しいだろう。
いくらロスト以前の記憶を有するとはいえ、その膨大な記憶の中から適当な例を探し出すのには、それなりに時間がかかる。忘れる事は永遠にないが、記憶として蓄えられているから、時には思い出せない事もある。
神主一人に任せておくのは、あまりに酷だ。だから千春が補佐をしているのだが、何しろ二人とも、滅多に大社から出られない。人々が今どんな暮らしをしているのか、世界はどうなっているのか、知る為には結局マスメディアを頼るしかない。そうでもしないと、多忙にかまけて時代に取り残されてしまうのだ。古い考え方でいては、世間に合うような判断は下せない。
「昔なら、それで済んだでしょう。時代が変わったのです」
「日々成長するのは、赤ん坊と同じですね」
軽口を叩いている場合ではない事は分かっているのだが、千春は彼の不安を煽りたくなかったから、冗談で返した。
あまりにも大きなものを見る場合、一番近くにいる者に、全体像は見渡せない。離れてみて、初めて気付く事もあるだろう。崩壊が始まって、やっと気付く場合もある。
それが正しく、現状と言えるだろう。如何ともし難い事象から逃げ続けた結果が、これだ。責められるべきは自分であろうと、千春は思う。
「世界は、私達の手から離れようとしているのでしょうか」
神主がぽつりと呟いた言葉に、千春は視線を落として唇を引き結ぶ。安易に否定は出来ない。ついこの間、千春も同じような事を考えていたのだから。
世界は充分、大きくなった。けれどまだ、出雲の目が行き届かない場所では、犯罪行為が多発しているとも聞く。まだまだ問題はあるし、格差も差別もなくなった訳ではない。意図的に許可された人道的に問題のある行為を、裁けるまで成長しきっていない。それを禁止するだけの余裕が、世界にはまだないからだ。
「まだ早いと……私は思うのですよ」
千春がそう言うと、神主は大きく頷いた。
「同感です、補佐官。華の事があったので、対処出来なかったと言えばそれまでですが。そもそも華の蒙古侵攻を契機として、事情は大きく変わりましたね」
「我々が動けていたとしても、止めようがなかったのかも知れません」
聖女が不在だった事が、不穏な動きを見せる伊太を止められなかった原因でもあった。今までになかった有事で、師団長である彼女は多忙を極めていたのだ。
しかし国の為にと従軍した彼女を、責める事は出来ない。全ては出雲の力量不足だった。それだけだ。
「過ぎた事を悔いても、仕方ありません。問題はこれからです」
俯いていた千春は、神主のその言葉に顔を上げて頷いた。神主は千春の反応を確認した後、言葉を続ける。
「欧州賢者殿を保護した事で伊太知事がどう動くか、もう分かりきったことです。腹を括るしかありません」
「出雲が要求を呑む事は出来ませんからね。神を手にするは覇権を握ると同義だが、テオドラの目的は世界征服ではない」
伊太知事と亜細亜賢者の目的は違うが、目的の為に取る手段は同じ筈だ。伊太が華と手を組む可能性は、充分にある。
伊太知事は、それでも今まで出雲に乗り込んでは来なかった。華が蒙古へ侵攻していたのも理由の一つだろうが、第一は、知事本人が神が定めた法を破れなかった為だろう。今までも散々法に触れるような事はしてきただろうに、そこだけは守るというのも、千春には納得が行かない。
或いは、彼女は法に触れるギリギリのラインを見極めて、州を動かしているのかも知れない。軍の私物化は禁じられているが、別段彼女が直接軍を動かしている訳ではない。知事は州を預かり、神に代わって統治するべしとはされているが、出雲に黙って操るなとは、少なくとも憲法には書かれていないのだ。
「早い内に、雨と露に報せておくべきでしょうか」
神主の表情は、不安げでもあった。平然としていられる筈もないだろう。それでも怯えはしない彼が、千春には頼もしく思える。
「未だ憶測の域を出ません。あまりこちらが先走りすぎるのも、問題かと」
「予防策は取っておくべきでは? 不安を煽るのは、確かに避けたいところですが」
「既に陸軍本部では、射撃訓練を強化しております。海軍も雨支部との合同演習を増やしているようですね」
「海軍の雨支部には賢者殿がいらっしゃいますから、勉強にはなるでしょうが……」
彼は言葉を濁したが、不安な気持ちは千春にも分かる。海に囲まれたこの出雲で、最も重要なのは海と空の防衛力と言える。空軍本部は人数が少ないが、その代わり露と雨が優秀である為、あちらに任せきりで今のところ問題はない。
しかし海軍はそうは行かない。海戦ともなれば支部に頼ってばかりもいられないし、個々の指揮能力が問われる。指揮官に実戦経験がないのは向こうも同じ事だが、攻められる側であることは精神的に不利となる。天候に大きく左右される海上で、実戦経験のない船員達が平静を保っていられるかどうかは、甚だ疑問だ。
戦争自体を禁じているから、昔のような条約など存在しない為、ゲリラ戦でも仕掛けられたら簡単に落ちてしまうだろう。テロルのような真似はして欲しくないものだと、千春は思う。
「海軍は元々、陸空に比べて特に厳しく指導しております。海は出雲の要ですから」
「しかしいきなり内地に入られたら、海が良くても意味がないのでは? 法に触れても攻撃されない限りは、手を出せませんよ」
千春は顔をしかめて顎に手を当てる。ついこの間まで華と戦闘していたから、すっかり失念していた。確かに輸送機だけで来られたら、手の出しようがないのだ。
「……永久要塞建設の検討を、議会に提出しておきます。せめてこの辺りにだけでもあれば、いざとなったら避難出来るでしょう」
神主は暫く無言のまま視線を落としていたが、やがて頷いた。
不安は残るが、他に手の打ちようもない。そもそも憶測の段階で手を打とうというのも妙な話だが、世界中に不安が広がりつつある今、いずれは要塞も必要になるだろう。守る為に軍があるのだし、盾が機能するようにと、神は兵器の開発を禁じた。
もし神が兵器を全て破棄していたとしても、いつかはきっと、人は武器を持って争っただろう。乃木に説明出来なかったのは、彼は否定するだろうと思ったからだった。彼は亜細亜賢者が出雲に反旗を翻した事も、伊太がただ一人の女の手によって壊れかけている事も知っているが、それでも、人の本質が善であると信じている。
人は生まれながらにして悪でも善でもなく、生まれてから長じるまでに構築された思想に動かされて生きている。全人類の思想を統一でもしない限り、人は争う事をやめないだろう。右か左か、酸いか甘いか、そんな細かな事でも時には口論になるというのに、争わずにいられる筈がない。
「私に、何が出来るでしょうか」
さりげないその問いが、千春の胸を締め付けた。彼が抱えていたのは経験のない戦争に対する不安ではなく、いざ開戦すれば、自分には何も出来なくなるという不安だったのだろう。
政治の最終手段が戦争であるとはいえ、今の世で領土を広げる意味はない。各州や大陸を治めるのは知事達だが、厳密には、州も大陸も彼らの領地ではない。全てが出雲に住む神の持ち物であるから、戦争にまで発展するのは、出雲とそれに反抗する州だけ、という事になる。
放棄する訳にも行かないが、戦争は頭から禁じられている。だから師表でなければならない神主が、有事に軍部が行う事に口は出せない。神主は、沈黙しているしかないのだ。
「いて下さるだけで、良いのです」
「……最早神の時代ではないんですよ。私だって、気付いているんです」
神主は、僅かに語気を荒らげた。千春は視線を逸らす事も出来ず、悲痛な表情を浮かべる青年を見詰める。
世界が統一されるに従い、言葉の意味も少しずつ変わって行った。宗教的な儀式や慣習はなくなり、宗教という言葉の本当の意味さえ、今の人々は知らない。感覚的なものだから、知る術がないのだ。
神というのが本来どういうものだったのか、知識の中にはあっても、本質は知らないだろう。千春も記憶の中にあるとはいえ、感覚的には理解出来ない。
現在の神は恐らく、ロスト以前に存在した神より非力であったのだ。現実に存在していると流布されているだけで、その脆弱性は比でもない。過去に信仰を集めていた神々は、姿が見えないから神秘性があった。対して今の神は、姿を見せない。この大きな違いは、最早如何ともし難い。
それでも神は天に御座すものと出来なかったのは、この世界の絶対的な統治者が、神であるからなのだ。統治する者が人々の中にしか存在しないとなれば、反乱はもっと早くに起きていただろう。
人々の中に神と繋がる神主に対して畏敬の念こそあれど、彼は所詮、神の代理人でしかない。彼本人には権力もないし、芙由がよく言うように、結局は飾り物でしかないのだ。何も出来ない事は、本人が一番良く知っている。
「神の時代はもう、百年以上前に終わり、この世は賢者に託されました。言うなれば、今は賢者の時代なんです」
千春には、否定出来なかった。神が統治する世でありこそすれ、現実に実権を握っているのは賢者と言っても過言ではない。だから華は賢者に導かれて反乱を起こしたし、伊太は賢者を隠して人心を操った。今更神主がやめなさいと言ったところで、誰も納得はしないだろう。
「ですが、この出雲にあなたがいる意味は、確かにあります」
神主は眉根を寄せたまま、千春を見つめていた。膝の上で拳を握る彼が、千春には痛ましくも思える。
「出雲は神の為に、世界の秩序を保ちます。出雲が神の島である限り、その言葉を伝えるあなたにも、出雲島民にとっては大きな意味がある」
己の意味を問うこと。高い地位にあればこそ、多忙にかまけて忘れがちでもあるが、その分、ふと思う機会も増える。明確な答えが出せない以上は無意味であると、千春は思うのだが、それでも考えてしまうのが人間というものだ。そんな事で懊悩して欲しくないから、千春はそれを無意味だと言う。
神に仕える立場である限り、存在することにこそ意味がある。神主は、人ではないのだから。
「聖女と北米賢者が軍人として生きる道を選んだ理由が、今は分かる気がするんです」
彼の曖昧な微笑が、悲しかった。千春は目を細めて、ゆっくりと息を吐く。
「悔いておられるのですか?」
神主は俯き加減に、ゆっくりと首を振った。その動きは微かに過ぎて、否定なのか肯定なのか分からない。
「後悔はしていません、自分で選んだ道ですから。国の為と仕えるのは、彼らも私も同じでしょう? ただ……」
西日に照らし出された青年の顔は、憂いを帯びて見えた。年相応にはなり得ない彼の心の虚を、映し出すかのように。
「私の目には、見えないのです。この手で成す事が、どんな事なのか。世界がどんなに苦しんでいても、私の目には見えない。眼下に広がっているものが真実なのかさえ、確認する術がない」
「見えるものが全てではありません。見えなくとも、あなたは国を想っている」
一呼吸置いて、千春は笑って見せた。
「世界にはそれで、充分ではありませんか」
暗い深淵を覗く時のように、彼は恐々と世界を見ている。見たくもないものも、見なければならないものも、千春は全て知っている。覗かせるにはあまりに酷なものも、千春は彼に見せてきた。彼自身も、知っている。それでも彼は、見えないと言う。
伏せた神主の目は、悲しげだった。せめて彼が傷つかなければいいと、千春は思う。彼女は神も神主もなく、彼を大事に思っていた。