第四章 繋いだ手に誓う 三
三
キースに促されるまま入った扉の向こうは、会議室というより談話室のようだった。三十畳ほどある部屋は、扉から見て左手側を正面とした長方形をしており、大きなホワイトボードが反対向きに置いてある。扉の正面、開いたブラインドカーテンの隙間から、青い竹林が見えた。
キアラには大社の全容から考えると部屋の面積が狭いように思えたが、大きなサイドボードと丸テーブルが部屋の面積の殆どを占めているせいで、そう見えるだけだろう。
丸テーブルの外周を囲むように椅子が置かれ、その内の一つに、体格のいい中年の男性が座っていた。固太りにも見える体つきだが、襟元から覗く筋肉質な首は、濃緑色の袖をきつそうに見せるものが贅肉でない事を窺わせる。彼の肩には、四つの桜星が光っていた。
「遠路遥々ご苦労だった」
階級章を見る限り、細い目を更に細くして柔和な笑みを浮かべた彼こそが、陸軍元帥その人の筈だ。キアラは慌てて姿勢を正し、その場で敬礼する。しかし後から入ってきたキースとフランチェスコは、軽く会釈しただけだった。フランチェスコはともかく、キースは最敬礼すべきではないのだろうかとキアラは思う。
「梅垣元帥、ベルガメリ曹長とモレッティ氏です」
「ああ、分かってる。硬くならずとも良いよ、曹長。三人共、座りなさい」
下膨れ気味の丸顔といい下がった眉尻といい、近所の優しいおじさんといった風体だから、人は見かけによらないものだ。しかしキアラは彼の階級章と顔を見比べた瞬間、呼吸が出来なくなった。忘れたつもりでいた記憶が、キアラの思考を奪い去って行く。
伊太支部の教官は、殆どが中年の男性だった。フランチェスコとキースは、見た目が若いから横にいても平気だったのだろう。少なくとも、キアラが胸の奥深くに閉じ込めていた記憶を、思い出すような事はなかった。
赤毛であったせいか、余り物として扱われていた彼女はそれでもましな方だったが、毎晩のように弄ばれていた記憶は、今も残る深い傷跡を作った。鮮明に蘇る臭いや感触を無理矢理押し込めるように、キアラは掌で口元を覆う。
「ベルガメリ曹長、どうした?」
元帥の声にはっとして顔を上げると、フランチェスコが心配そうな表情を浮かべているのが、キアラの目に入った。何度も瞬きしている内に、狭まっていた視界が広がって行く。戻ってきた視界に入った三人は、既に席に着いていた。
キアラは今更と、そう思った。けれど、身が竦んでそれ以上梅垣に近付けない。失礼に当たるとは思っても、彼の顔を見る事さえ叶わなかった。
かさついた掌が、肌の上を這い回るおぞましい感覚。甘酸っぱいような中年男性特有の臭いと、濃い汗の混じった悪臭。べたつく体液の手触り。脂で黄ばんだ黄色い歯。己の押し殺した悲鳴と、冷えた壁に立てた爪の間から、滲む血の色。力任せに貫かれた時の、あの痛み。
全てが蘇り、全てがキアラを苛んだ。込み上げる吐き気を堪えきれず、彼女は小さく呻く。分厚い暗幕でゆっくりと覆い隠されるように、視界が暗転して行く。指先までが心臓になってしまったかのように、鼓動に合わせて震えた。喉が引き攣って痛み、眉間に篭もった力とは反対に、首から下の力が抜けて行く。
「キアーラ」
よろめいたキアラが倒れる事は、なかった。一瞬にして開けた視界に、微笑を浮かべるキースの顔が映る。優しい目をしていたが、どこか暗く、淀んでいるように見えた。
「疲れてんならそう言いな」
支えてくれたキースの手は、熱かった。少し離れた位置から顔を覗き込む深い二重瞼の目は、暗いグレーにも見える。背中を撫でる子供を宥めるような手つきは、アーシアのそれと良く似ていた。
「……済みません」
キアラはそのまま肩を抱かれるようにして窓際の席へ行き、やっと腰を落ち着けた。彼女の肩からそっと手を離したキースは、後ろを向いてブラインドカーテンを巻き上げ、窓を開け放つ。青竹の香りを孕んだ風が吹き抜け、キアラの全身を冷やした。
背後の窓を振り返り、キアラは目を細める。見事な竹林と青い香りが、極端に速くなった鼓動を落ち着かせてくれた。
「ここの風は気持ちいいんだ。少し休んでな」
「平気かね?」
心配そうな梅垣の声に、キアラは苦しげに顔をしかめる。気遣ってくれる彼に申し訳なくて、何も言えなかった。
キースは部屋の隅に置いてあった小型の冷蔵庫からペットボトルを取り出し、キアラの前に置いた。キアラは見慣れないミネラルウォーターのラベルとにやけたキースの顔を交互に見てから、頭を下げる。賢者であり上官でもある彼に気を遣われていることが、情けなく思えた。
「長旅の疲れが出たんでしょう、ちょっと休んでて貰えばいい。先にフランチェスコを」
キースは煙草を取り出しながら、梅垣とキアラの間に座った。彼は気付いているのかも知れないと、キアラは思う。
「彼の事は、君から説明するんじゃなかったかね?」
「そうでしたっけ?」
キースがフランチェスコに視線を向けると、彼は身を竦めて首を引っ込めた。栗色の太い眉が下がり、叱られた子供のような顔になる。
「わ、私は、どうなるんです?」
フランチェスコは蚊の鳴くような声で、そう聞いた。キースは煙草を銜えたままにやりと笑みを浮かべ、梅垣を見る。梅垣も柔和な笑みを浮かべたまま、彼の視線に応えた。
「どうもなりゃしねぇさ。なァ元帥殿」
「国宝たる賢者の為にと、危険を犯してまで飛んでくれたパイロットを裁く法は、今の所ないな」
「俺が老衰で死んだって出来ねえでしょうよ。そういうこった、情けねぇ顔すんな」
泣きそうな顔をしていたフランチェスコは、心の底から安堵したように深い溜息を吐いた。キースはテーブルの上の灰皿を引き寄せ、その上で煙草を弾く。長い人差し指の爪は、そこだけが妙に黄色く変色していた。
「当面は出雲で生活してもらう。手当ては出るから安心しな、監視付きだがな」
「警備だよ大佐。空軍基地の宿舎が空いているから、そこを使って……ん?」
ノックの音に反応し、梅垣は怪訝な声を漏らした。キアラは水を飲みながら、つられて扉を見る。
「使用中だぞ」
梅垣はノックに対してそう返答したが、構わず扉が開けられた。入室して早々一礼した人物を見て、キアラはむせそうになる。
タイトなスーツ姿の、凛とした女性だった。黄色人種とは思えない程白い肌に、艶やかな長い黒髪がよく映える。小さな唇は薄紅色に染まり、長い睫毛に縁取られた漆黒の双眸は、シチリアの海のように澄んでいる。膝丈のスカートからすらりと伸びる少々筋肉質な足は、黒いストッキングに包まれていた。
「失礼します、元帥」
冷ややかな声だった。感情の窺えないその声を聞いてキアラは身を硬くしたが、反対に、横に座ったキースは身を乗り出す。何故か、嬉しそうに口角を上げていた。
「やァ、いい足ですね。とうとう熱愛報道されちまいましたが、どうします?」
キアラとフランチェスコは目を丸くしてキースを見たが、女は彼を無視して二人に視線を移した。人形のような無表情で見つめられ、キアラは思わず姿勢を正す。
「お二方、遠く伊太からご苦労だった。迎えに行ければ良かったのだが、生憎そういう訳にも行かん。神主に代わって謝罪させて頂く」
映画女優のような見た目に反して、彼女の口調は軍人を思わせるものだった。キースが不満げに顔をしかめているが、彼女には気に留めるふうもない。
キアラとフランチェスコは、黙り込んだまま、まじまじと彼女を見ていた。無機質な美貌に、僅かながら陰が落ちる。口をつぐんだ二人を怪訝に思ったのだろう。しかしキアラはどう反応したらいいか分からないし、フランチェスコも何も言わない。
「済まない、私が戸守だ」
神主に代わってと言ったから、分かると思ったのだろう。キアラは薄々勘付いてはいたが、キースの発言に出鼻を挫かれてしまった。そうでなくとも、すぐには反応出来なかっただろうが。
「……芙由様!」
暫しの間の後、キアラとフランチェスコが同時に声を上げた。しかし立ち上がろうとした彼らを、芙由は片手で制する。
「曹長はいい、座っていてくれ。モレッティ殿、悪いが少々外してくれないか」
フランチェスコは立ち上がりかけた姿勢のまま、大きく瞬きをした。聖女に名前を呼ばれる事など、一生の内に一度あるかないかだろう。そもそも芙由は出雲以外に顔を出さないから、その御尊顔を拝見出来ただけで、他州民にとっては誇れる事だ。
芙由は困惑していた梅垣の下へ歩み寄り、深々と腰を折った。その角度さえ、キアラの目には軍人のもののように見える。
「申し訳ありませんが、外して頂けますか」
「構わないが……しかし、いいのかね」
梅垣が問い返すと、芙由はゆっくりと身を起こし、大様に頷いた。胸の位置で切り揃えられた黒髪が流れ、体の前に落ちる。
「笹森補佐官が、彼女の事は私に任せて下さると」
出雲賢者の名前を出され、元帥は腑に落ちないような表情を浮かべながらも、渋々立ち上がった。フランチェスコはぎこちない動作で彼に続いて、扉へ近付く。
芙由の視線は、次にようやくキースを向いた。にやけた目と目が合うと、彼女は不快そうに顔をしかめる。やっと人間らしい表情を見たと、キアラは内心安堵する。
「お前も出て行け」
「え、俺もですか?」
元帥が益々怪訝に眉根を寄せ、首を捻った。キアラは不安げな面持ちで、二人のやり取りを見守る。
「邪魔だ」
あまりにも辛辣な台詞だったが、それでもキースは表情を変えない。キアラの目には、言われ慣れているように見えた。
「たまには美人二人に囲まれたいんですよ。口出しませんから」
キースの声は、楽しそうだった。反対に、芙由の表情は更に険しくなる。
「お前の存在が邪魔だと言っている」
「またまた、こないだ仲直りしたじゃないで」
「カークランド」
冷ややかな声に、キースは煙草を揉み消していた手を止めた。芙由はすうと片手を上げ、扉を指差す。
「ハウス」
言われたキースが目を丸くするのは当然だが、他の三人も同様に目を見張った。キアラは我が耳を疑ったが、他の面々の表情を見る限り、芙由は確かにハウスと言ったのだろう。しかしどういう意味なのか、キアラには分からない。
キースはしばらく黙り込んだ後、ゆっくりと立ち上がった。キアラの脳裏を、飼い主に怒られてすごすごと小屋に戻る、大型犬の姿がよぎる。
芙由の横を通り過ぎようとしたキースは、ふと足を止めた。それから背中を丸めて、彼女の後頭部を覗き込むように顔を寄せる。
「芙由様、彼女……」
「分かっている」
小声で交わされたその会話は、キアラにしか聞こえなかっただろう。けれど彼女は、思わずどきりとした。
「だから私が来た。さっさと行け」
キースは暫し真顔で芙由を見詰めた後、軽く肩を竦めてその場を離れた。それから入り口で呆気に取られていた元帥とフランチェスコの肩を叩き、追い出すようにして一緒に部屋を出て行く。キアラには、彼がよく分からない。
開け放たれていた窓を閉めてから、芙由はキアラから椅子二つ分離れた席に腰を下ろした。キアラが何か言うべきか迷っている間に、彼女はスーツのポケットを探って、キャンディ包みの小さなチョコレートを取り出す。
「とりあえず食べなさい、落ち着くから」
キアラは目を丸くして、差し出されたチョコレートを受け取った。表情を変えない芙由が何を考えているのかよく分からなかったが、言われるがままに小さな菓子を口に入れる。カカオの香りがふわりと口腔に広がり、一瞬の内に溶けて行く。懐かしいような甘さのお陰か、芙由の言う通り、キアラは確かに落ち着いた。
「……ありがとうございます」
「ん、いい色だな。太陽の色だ」
キアラは一瞬戸惑ったが、芙由の視線が頭に注がれていたので、髪の事だったのだろう。見慣れているというよりは、赤毛に劣等感を抱いているキアラには、彼女の言うようには思えない。それでも、嬉しかったのは確かだった。
「さて、先に言っておくが」
礼を言おうと思ったが、口を開く前に遮られてしまった。吸い込まれそうな程澄んだ目に見上げられ、キアラは居住まいを正す。
「私は軍人だ」
どう反応するべきか、キアラは迷った。そもそも唐突に過ぎて、意味が上手く飲み込めない。聖女が何を言っているのかとも思ったが、彼女がそんな意味のない冗談を吐くとも考えられない。
「……は」
言うに事欠いて、キアラは間抜けな声を漏らした。芙由は笑いも怒りもせず、再び口を開く。出雲の人と言うと愛想笑いばかりしているイメージがあるが、彼女は随分と無愛想だった。
「自衛陸軍出雲本部中将、戸守だ。第一級軍事機密なので、口外は控えるように」
キアラが問い返しても、芙由はそれ以上説明してくれなかった。軍人のようだとは思っていたが、神主の娘が本当に軍人であるなどと、誰が予想しただろう。
「笹森補佐官は、最終的な判断は本人に任せろと仰せだ。時間がないのでこの場で決断して貰いたい。構わないか?」
問い掛けの形ではあったが、有無を言わさぬ口調だった。キアラは思わず深く考える前に頷き、芙由と真正面から向き合うように座り直す。
この威圧感の前では、何を言われても拒絶など出来ないような気がした。黒目がちで大きな目は白人のキアラからすれば幼くも見えるが、宿った強い意思の光は、確かに百年の時を生きてきた者なのだと思わせるものだった。
「大陸法に基づけば、本来ならあなた方は何らかの罰則を受けなければならないが、今回は情状酌量の余地がある。出雲で罪に問うような事はせん。だがお前は軍人だ。職務を放棄したとあらば、草の根分けてでも探し出されるだろう。私刑は禁じられているが、まあ言っても聞かんな」
「……そうですね」
「お前が何故軍に入ったかは聞いていないが、伊太の女性兵が不当な扱いを受けている事は知っている。近年、他州から出雲へ逃げて来る者も多くてな。心的外傷を負った者も少なくなかったので、出雲は一部の教育部隊を男女別に分けた」
それはキアラも知らなかった。宿舎こそ別だが、伊太では部隊内での教育も男女混合で行われる。
「そんな思いをしても軍を抜けない女性兵達の心情は、察するに余りある。母州の為、世界の為と高い志を持って軍に入ったのに、そんな事で抜けたくなかったのは、お前もそうだろう」
彼女の言う通り、キアラの場合はその負けん気の強さも、軍を抜けなかった一因と思われる。そうでなくとも普通の企業へは転職し辛い部分があるし、そもそもそう簡単には抜けられない支部もあると聞く。教育部隊を男女別にしたのは、他州から来た軍人の為の、苦肉の策だったのだろう。
「ただ恥ずかしい話だが、女だけとなると、部隊内での虐めが多くてな。出雲は軍人も転職し易いよう、大社内に斡旋所がある。結局抜けてしまう者が、跡を絶たない時期もあった」
「今は違うのですか?」
「ああ、教官にペナルティが行くようにしたからな」
そこまでする必要はあるのだろうかと、キアラは思う。軍人の為の斡旋所があるのも、他州の軍人の受け入れを積極的に行っているのも、本部だけだ。
雨や独も他支部の兵の受け入れは承認しているようだが、わざわざ厳しい支部へ行く者もいないから、結局出雲に軍人が集まる。だから出雲は、人口の割に軍人が多いのだ。
「曹長に対して失礼とは思うが、お前にはとりあえず、一ヶ月ほど教育部隊へ入って貰う。三月の技能検定の結果によって、近衛師団か私の隊へ編入してもらう事になるだろう」
「中将の?」
「近衛師団は他支部から来た女性が多いし、私の隊は模範師団だ。忙しくはあるが、監視が行き届く。ここ数十年はこれといって内部での問題も出ていないので、安全だとは思うが」
ここまで説明されて断った場合はどうなるのだろうとキアラは思ったが、聞かなかった。ただ過保護なまでの本部の在り方に、疑問を覚える。
顔をしかめたキアラを見て、芙由は僅かに首を傾けた。真っ直ぐに切り揃えられた長い黒髪が、肩から胸へ滑り落ちる。幼い頃キアラが憧れた、美しい褐色の髪だった。
「……腑に落ちないようだな。不満か?」
言われてはっとして、キアラは身を硬くした。
「本部がそこまでして下さる理由が、分かりません」
今度は芙由が顔をしかめた。怪訝な表情を浮かべ、彼女は足を組み替える。タイトなスカートから伸びる引き締まった脚のラインは、見事としか言いようもない。
「済まんが、言っている意味が分からん。軍部での問題に、対処する事がおかしいのか?」
「いえ、そうではなく……」
キアラは、おおいに戸惑った。芙由にとっては、出雲の姿勢が当たり前なのだろう。しかしキアラにとっては、出雲の姿勢はあまりにも過保護に思える。
黙り込んだキアラを見詰めたまま、芙由は両腕を組んで椅子に背を預けた。身長は出雲の女性の平均程度なのだろうが、威圧感があるせいか大柄に感じられる。見上げられている筈なのに、遥か頭上から見下ろされているように錯覚した。
「国を守る立場の軍部内に、不安を広げる訳には行かん。軍が守るのはこの世界に生きる人だろう。目の届く範囲さえ守りきれずして国を守るなど、大言壮語するにも程がある」
キアラは思わず、目を見張った。そして当たり前の事を忘れていた自分を、深く恥じる。
軍が護るのは、国。軍学校では確かにそう習ったのだが、対象が大きすぎて実感が湧かなかった。しかし今、芙由の口から聞いて、ぼんやりとだが形が見えてきたように感じられる。
州だけを守っても、意味がない。州の人々が平和に暮らす為には、根幹たる世界の秩序が保たれていなければならない。軍人はその為に、神が定めた法を犯す者を罰する。そうして安寧と秩序を保ち、この世界に生きる人々を守る。
出雲で従軍しようと、母州で従軍しようと、大差はない。この世界は、一つの国なのだから。理解していた筈なのに、言われるまで気がつかなかった。
「国を……守る」
「そうだ、何もおかしな事はないだろう。戦場にあれば一つの駒だが……ん」
唐突に立ち上がったキアラを見て、芙由は言葉を止めた。キアラを見上げる芙由の目は、故郷の空のように澄んでいる。アーシアとは似ても似つかない顔立ちだが、彼女のその目だけは、己が敬愛する賢者に似ていると、キアラは思う。
誰もが幸せに生きられる世界をと、アーシアは言った。まだ遠い夢に過ぎないが、いつかはそんな世界になる時が来る。キアラにそんな確信を抱かせるほど、アーシアの目にも芙由の目にも、迷いがない。
「どうか、よろしくお願い致します」
キアラには、出雲語で上手く自分の感情を伝え得るだけの語彙がなかった。州を想う気持ちは、今も変わらない。けれどこの優しい島なら、きっと伊太も守ってくれると、そう思った。この島にいれば、きっと母州を守る事にもなるのだと。自分に対する言い訳ではないが、キアラの想いも、根幹は変わらない。
ここまで来た以上、伊太には戻れない。今のキアラに出来る事は、この出雲でこの国の為に働く事しかないだろう。それなら、それさえ出来るなら、精一杯努めるだけだ。
深く頭を垂れたキアラを暫く眺めていた芙由は、不意に、彼女の目の前に片手を差し出した。キアラが顔を上げると、芙由は微かに笑みを浮かべて見せる。
「お前が我が師団に入ってくれる事を、期待している」
それは、定例句であったのかも知れない。けれどキアラはやっぱり、嬉しかった。
握った芙由の手は、冷たかった。華奢な手だったが、指先がひどく荒れている。その手に触れた時、この人は聖女としてではなく、軍人として生きている人なのだと、キアラはそう思った。