第四章 繋いだ手に誓う 二
二
数十年ぶりに訪れた大社は、何一つ変わってはいなかった。変わらない佇まいに、アーシア・パガニーニは安堵感すら覚える。見事な竹林に囲まれた広大な土地に鎮座するこの真っ白な建物は、見る者の身を竦ませる程の威圧感で以って、アーシアを迎えた。背後の二人が絶句するのも、無理はないだろう。大社は、あまりに巨大だ。
軽い足取りで建物へ向かう北米賢者とは対照的に、アーシア達三人はおずおずと歩いていた。ここには神を除けば世界で一番尊い立場にある神主がいて、六賢者の長である出雲賢者がいる。緊張しない筈がなかった。
長い石畳の先にある扉には、そこだけ濃茶色の木材が使われており、白い建物の中でやけに目立っている。門前にいた衛兵が開けた扉の先には、広々とした円形のホールが広がっていた。一階には放射線状に通路が並び、入り口から見て左右にエスカレーターが設置されている。吹き抜けの天井からは惜しみなく陽光が差し込み、白い壁を明るく照らし出す。
入り口のすぐ脇にある受付にいた案内係が、先頭を歩いていた賢者の顔を見た瞬間立ち上がった。いつでもにやけた表情のキース・カークランドはそれを掌で制し、迷う事なく動く歩道のある通路へ進む。彼は何度も、ここへ来ているのだろう。
アーシアは扉をくぐったところで、黙りこんだままついて来る二人を振り返った。硬い表情のキアラ・ベルガメリは正面を向いたまま、しっかりとした足取りで歩いている。対して済し崩し的について来る事になってしまったフランチェスコ・モレッティは、不安そうに周囲を見回していた。一緒に逃げて来た立場のキアラは仕方ないが、彼には申し訳なくも思う。
それにしても、何故賢者が案内をしているのだろうか。そもそも秘密裏に動いているのだから、堂々と表から入ったらまずいのではないか。更にキースは、スーツを着るべきではないのだろうか。
そんな疑問が次々にアーシアの脳裏をよぎるが、キースに常識は通用しない。言っても無駄だろう。
「バンビは笹森補佐官の執務室、キアーラとフランキーはとりあえず俺と会議室だ。執務室の場所は覚えてるか?」
アーシアは視線を流して少し考え、オートウォークに乗ったキースを見上げる。
「三階だったかしら?」
アーシアが問い返すと、キースは肩越しに振り返って彼女を見下ろした。
「いや、十年前に部署一つ統合したから、空いた一階に移動した」
「じゃあ聞かないでよ」
思わず頬を膨らませると、キースは楽しそうに笑って、アーシアの頭を軽く叩くように撫でた。彼女の小さな頭など包み込めてしまいそうなほど大きな掌を、アーシアは羨ましくも思う。
毎朝鏡を見る度に、何故自分だけがと、悔しくなる。賢者である事に対してではない。何故自分だけが、幼いまま歳をとる事をやめてしまったのだろうと、そう思う。いつまでも幼いままの自分の姿を見る度に、歯痒くもなるのだ。せめて他の賢者のように、ある程度成長していれば良かったのに。
「芙由様と陸の元帥が来てっから、姉さんの処遇もついでに決める」
アーシアには、キアラが身を硬くしたのが分かった。芙由様といえば知らない筈はないし、元帥は軍部の最高司令官だ。キアラでなくとも緊張するだろう。
「え、自分はどうなるんです?」
フランチェスコが不安げに問い掛けると、キースは億劫そうに振り返り、唇だけで笑った。
「空軍入りかな?」
どうせ冗談だろうとアーシアは思ったが、フランチェスコは青い顔で絶句した。キースは彼のその顔を見て、肩を震わせて笑う。彼はいつでも楽しそうだ。
歩道が途切れた先に、部屋は一つしかなかった。長い廊下の途中には幾つもの扉が並んでいるが、その部屋だけは、一つだけドアノブの色が違っている。他はステンレス製らしき銀色なのだが、そこだけ真鍮製なのか、金色に輝いていた。
キースはどん詰まりの部屋を指差してアーシアを見た後、踵を返した。笹森補佐官の執務室は、この部屋なのだろう。
「じゃ、頑張れよ」
何を頑張ればいいのか、アーシアには分からなかった。キースは隣の部屋のドアを叩いてから、返答を待たずに開く。キアラの緊張した表情が見えたから、中には既に誰かいたのだろう。
三人が会議室の中へ消えた後、アーシアはドアに向き直って深呼吸した。出雲賢者と会うのは、何十年ぶりだろうか。彼女は幼い頃のアーシアを助けてくれた、恩人とも言える。会わなかった年数もそうだが、彼女に対する尊敬心が、アーシアを緊張させた。
意を決してドアを叩くと、すぐに返事があった。高いような低いような微妙な音程の声は、どうぞ、と穏やかな調子で言ってくれる。アーシアは少し肩の力を緩め、ドアを開けた。
「失礼します」
室内へ入って真っ先に目に入ったのは、見事な黒壇製のデスク。所々傷付いてはいるが、その分年季が入っていい色になっている。これは二十年ほど前に、伊太出身だった総知事が贈ったものだ。桜を象った上品な彫りは、当時伊太一と声望高かった職人が、手作業で仕上げた一級品だ。
窓際に置かれたデスクの手前には、本革製のリビングセットが置かれている。ソファーは英のチェスターフィールド、ガラステーブルは西班から贈られたものだった筈だ。千春の執務室は、欧州からの贈り物で成り立っている。
「やあ、二百年ぶりだったかな?」
リビングセットには、出雲賢者と聖女が向かい合って座っていた。革のソファーに腰を下ろした千春は、呑気にそう声を掛けてくる。
アーシアの目には彼女は二十代前半に見えるのだが、実際はもう少し行ってから賢者になったのだと聞いた。緩やかなウェーブを描く黒髪は頭頂部に近い位置で結われ、細く腰まで伸びている。切れ長の目は、少々垂れ気味だろうか。浅黒い肌に映える赤い唇は常に弧を描き、優しげな笑みを浮かべている。
「そんなに経ってはいませんわ、笹森補佐官」
「そうだったかな?」
濃い紫色の表着の襟を引き寄せ、千春は笑った。緋袴との配色が美しいと、アーシアは思う。
「久しぶりだな、パガニーニ補佐官」
ゆっくりと席を立ち、スーツ姿の戸守芙由は冷ややかな美貌をアーシアへ向ける。彼女は千春とは対照的に、恐ろしく無愛想だった。
アーシアはスカートの裾をちょんと摘んで持ち上げ、僅かに膝を曲げた。芙由はデスク側を通って、千春の横へ腰を下ろす。アーシアの為に席を空けてくれたのだろう。
「お久しぶりです、芙由様。その後お変わりなく?」
「上々だ。補佐官も思っていたより元気そうで、何よりだな」
芙由はそう言って、唇にだけ笑みを浮かべて見せた。やっぱり無愛想だと、アーシアは思う。むやみやたらに歯を見せて笑わないところには、聖女たる気品があるとも思うのだが。
「私はいつでも元気ですよ」
「いいことだね。さ、座りなさい」
千春が掌で促したので、アーシアは言われるがまま対面のソファーに腰を下ろした。部屋の隅に置かれた空気清浄機の機械音が、静寂をかき消す。
「人払いしてあるので茶は出ないが、とりあえず順を追って話してもらおう」
白い袖を摘んで組んだ足の上へ腕を乗せながら、千春は言った。アーシアは少々戸惑いながら、両手を膝の上で握る。
「ええ、あの……どこから」
「最初からだ。知事がテオドラに交代した辺りから」
出雲は、その辺りの事情も知らなかったのだろうか。アーシアは申し訳なく思いながら、膝の上で拳を握る。その仕草をどう取ったのか、千春は立ち上がって書架へ近付いた。あの裏には隠し金庫ならぬ隠し冷蔵庫があることを、アーシアは知っている。
千春は冷蔵庫からジュースのボトルを取り出し、ドアを閉めた。それから三つ重ねてグラスを取り、書棚を元通り閉める。冷蔵庫の脇に、食器棚まで置いてあるのだ。毛布があればこの部屋で生活出来そうだが、あの冷蔵庫には菓子類しか入っていない。
「あまり硬くなるな、ここは裁判所ではないよ」
「ええ……ありがとうございます」
グラスにボトルの中身を注ぎ、千春はそれをアーシアに差し出した。アーシアは両手でグラスを受け取って、一口飲む。芳醇な葡萄の風味が、喉を潤すと共に心を落ち着かせてくれた。
「現州知事のテオドラと前州知事のラウロが結婚したのは十五年ほど前でしたから、テオドラが二十歳の時かしら」
「後ろ盾をつけてからテオドラが知事になるまでに、二年しか経っていないのか」
千春は笑みを消して、険しい表情を浮かべた。アーシアは頷く。
「元々、話術に長けていましたの。あんまり言いたくないのだけど……彼女、元々は高級娼婦でしたから」
千春は絶句したが、芙由は動じなかった。テオドラの経歴は州庁のコンピューターに残っている記録でさえ改竄してあるから、調べられなかった筈だ。この場合は千春の反応が普通だろうと、アーシアは思う。
「カークランドが娼婦の目だと言っていたのは、そのままの意味だったか」
目を伏せて呟き、芙由は小さく溜息を吐いた。長い睫毛が、頬に濃い影を落とす。
「あの男、役に立たぬ勘だけはいいな。それから?」
「ラウロが、彼女が知事になれるようお膳立てしてあげたのは、彼女を救う為だったの」
「救う?」
「救いたかったんです、ラウロは。娼婦の私生児として娼館で生まれ育った彼女を、助けてあげたかったの」
千春は複雑な表情を浮かべたまま、口を挟まない。アーシアは更に続けた。
「彼女の思うようにしてあげて、満足するならと思ったの。でも、テオドラは彼の気持ちに気付いてくれなかった」
「甘やかす事が、救いになると?」
芙由の問い掛けに、アーシアは頷く事しか出来なかった。
「今まで苦労してきたから、それで少しでも救ってあげられればいいと。彼女のしている事が正しいとはラウロも思っていないけど、彼は今でも、テオドラを愛しているわ」
「不憫な男よ。不器用と言うべきかな」
真面目な人々はあまりに不器用で、上手くは生きられない。ラウロもキアラも、それぞれの大事なものを愛するがあまり傷付いた。アーシアはそれを哀れみたくはなかったが、悲しいと思う。
グラスの中身を一気に半分ほど飲み、千春は眉を顰めたまま押し黙った。彼女もまた、優しい人であることをアーシアは知っている。人は腹黒い古狐などと言うが、彼女のする事に間違いはないし、何もかもいい方へ導いてくれる。アーシアは、そう信じている。
「副知事がお前の亡命に手を貸したのは、罪の意識からかね」
「というより、今回の計画は全部ラウロが立てたものなんです」
旅立った日のラウロの表情が思い出され、アーシアの胸が熱くなる。彼の心情を思うと、悲しくて堪らなかった。喉元まで込み上げる涙を堪え、彼女は続ける。
「信用の置ける人をつけてくれて、航空機の手配までしてくれて。申し訳ないって、何度も謝られました」
「あの女性軍人も、オルトラーニ副知事が?」
静かな芙由の声が、込み上げてきたアーシアの涙を引っ込める。泣いている場合ではないのだ。
「キアーラは……元は私の護衛として、軍部から派遣された軍人です」
「見張りか。お前が逃げれば罰則が行くだろう、だから一緒に連れてきたのだね」
「ええ、でも、それだけじゃなくて……」
何と言ったらいいのか、アーシアには分からなかった。突然黙り込んだ彼女に、千春は怪訝な顔をする。
無表情を保ったまま微動だにしなかった芙由が、そこで音もなく立ち上がった。アーシアは不安げな目で、彼女を見上げる。怜悧な視線が、アーシアの目に応えた。
「笹森補佐官、ベルガメリ曹長と話して来ます。この件に関しては、私に一任して頂けますか?」
千春は、何も言わずに頷いた。
彼女の言葉に、アーシアは心の底から安堵した。聖女ならきっとキアラを救ってくれると、確信にも似た感情を抱く。冷たい素振りで周囲を跳ねつける彼女だが、本当は誰よりも、人々を想っている。
「キアーラのこと、宜しくお願いします。芙由様」
「心配なく、悪いようにはせん。彼女は、伊太には戻れないかも知れんがな」
キアラがどう答えるか、アーシアには分からない。けれど芙由はきっと、最良の判断をしてくれる。それだけで、キアラを連れてきて良かったとアーシアは思う。
「さて、話を戻そうか」
芙由が出て行くのを確認してから、千春が切り出した。アーシアは神妙な面持ちで頷く。
「副知事には、罪の意識がある。しかし今や絶大な権力を握ったテオドラに、逆らわない理由も分かる。問題は、テオドラがどう思っているのかだよ」
返答に窮して、アーシアは小さな唇を引き結んだ。千春は口元に笑みを浮かべ、彼女の言葉を待つ。
「分からない、としか。ラウロは、テオドラは自分の事なんて、なんとも思っていないと言っていましたが……」
「お前は、そうは思わないのだね」
アーシアは深く、頷いた。
「テオドラは誰も信用しません。誰にでもどこかしらに監視をつけているけれど、ラウロにだけはそれがありません」
「今回の計画が一先ず成功したのが、何よりの証拠だな。感情は見えて来ないが、信用はしているのだろうね」
アーシアには千春が一先ずと言ったのが気にかかったが、何も言わないでおいた。一で十も百も知る彼女の考えは、深すぎて分からない。
「知事のことは大体分かった。問題はお前だ」
千春の口調は、常より遥かに厳しいものだった。この歳になっても、アーシアは怒られるのが怖い。思わず身を硬くして、千春から視線を逸らす。
「大陸の承認を得ずに出雲へ来た事は、褒められた事ではないよ。分かっているね?」
アーシアは細い首を折れそうな程に曲げ、俯いた。
「……はい。重々」
「それでいい。お前には情状酌量の余地がある。どこにも公表はしないから、安心しなさい」
「でも、私が良くても、キアーラとフランチェスコは? どうなるの?」
視線を合わせた千春の顔は、笑っていた。優しげなその微笑に、アーシアは身を乗り出したまま肩の力を抜く。
「優しい賢者よ。彼らは母なる州の為と、お前に手を貸したのだろう? 咎める事はしないよ」
落ち着かせようとするかのような、ゆっくりとした千春の言葉に、アーシアはソファーへ深く座り直した。千春はきちんと、分かってくれている。優しい人が傷つかないように、最良の判断を下してくれる。
「ベルガメリ曹長は、中将と元帥に任せよう。モレッティ氏もすぐには伊太へ戻せないが、落ち着くまで身の安全は出雲が保証する。お前は何も心配しなくていい」
出雲が変わらないでいてくれて、良かった。アーシアは心の底から安堵すると共に、神に見守られているという安心感に包まれる。神の島たるこの州は、その母の懐のような温かさで、不当に大陸を出たアーシアをも迎えてくれた。
全ての州は神の為にあり、神は世界の為に在る。この世界を、アーシアは優しい世界だと思う。確かに誰もが世界と繋がっているし、神はその全てを見守っている。
誰かと繋がっていられる事がどんなに幸せなことか、アーシアは知っている。誰かを愛し、愛され、人々は生きている。人に愛される事を知らないから、テオドラは歪んでしまった。だからアーシアが千春の温かさに触れたように、テオドラにもまた、ラウロの想いに気付いて欲しい。
今はとにかく出雲で態勢を立て直し、自分の身の回りが落ち着いたら、改めてテオドラと話し合わなければいけない。出雲という巨大な後ろ盾を得た以上、恐れる必要はない。
「ありがとうございます。笹森補佐官」
顔いっぱいに笑みを浮かべると、千春は目を細めて笑った。優しい母のような、穏やかな表情だった。
「可愛いアーシア。とにかくお前が無事で私に顔を見せてくれて、嬉しいよ」
「私も、またあなたに会えて嬉しい。暫くお世話になります」
ゆっくりと頷き、千春はアーシアに片手を差し伸べた。アーシアは伸ばされた手を、両手で握る。優しい眼差しで世界を見守り続ける人の、温かい手だった。