第四章 繋いだ手に誓う 一
一
黒檀のデスクの上は、バレンタイン時期に堆く積み上がっていた箱など幻であったかのように、整然と片付いている。大社一階の最も奥に位置するこの部屋の主は、険しい表情で携帯電話を耳に当て、長い呼び出し音を聞いていた。
まだ夕方だというのに、寝ているのだろうか。そう考えながら、笹森千春は書類にペンを走らせる。またぞろ飲みすぎて潰れているのだろう。電話の相手は一度酔い潰れると、耳元で銅鑼を鳴らしても起きないのだ。やってみた事はないが。
褐色の指が苛々とデスクを叩き始めたその時、ようやく寝ぼけた声が聞こえた。ごにょごにょと何か言っているが、全く聞き取れない。千春は更に苛立つ。
「起きろニコライ、緊急だ」
山が溜息でも吐いたような大きな欠伸の後、ニコライ・ロマンツェフは露州語で、なあにと聞き返した。休日の朝に、無理矢理起こされた大学生のようだ。
『寝てたんだけど』
今度は出雲語だった。やっと覚醒したのだろう。
「こんな時間から寝るんじゃない、太るぞ」
デスクを叩いていた手を書類の上へ戻し、千春はそう軽口を叩いた。電話の向こうから、笑い声が聞こえる。
『食いしん坊の千春に言われたくないよ』
そう言われてしまうと、千春には言い返す事が出来ない。しばらく黙り込んだままでいると、ニコライは気を良くしたようだった。千春をやり込めると、彼は途端に機嫌が良くなる。いつでも気のいい男ではあるのだが。
『今日はなに?』
「欧州賢者が亡命してきた」
今度はニコライが絶句した。千春とて予想だにしない事態だったのだから、彼が驚くのも当然だろう。
一週間ほど前の事だっただろうか。雨州知事から、欧州賢者の亡命の手助けを頼まれたと、連絡があった。あの時は雨が欧州内部と繋がっている事に驚いたが、よくよく考えてみれば、伊太の前州知事と現雨知事は親交が深かった筈だ。しかし前州知事である現伊太州副知事が、賢者と繋がっている事にも気付かなかったので、千春の驚きは当然と言えよう。
雨州知事は、オルトラーニ現知事に事が漏れないよう、秘密裏に賢者の亡命計画を進めてきたのだと言った。尤もな言い分だが、それならそれで、出雲には対処のしようもあったのだ。途中出雲に助けを求めない道を選んだ事には、裏で糸を引いている者が存在していたと見て、間違いないだろう。
そこで千春は真っ先に北米賢者を疑ったのだが、彼は今回、バンビが心配だから本部旗の使用を許可してくれ、と言ってきただけだった。そもそも謀略を図れるような時間も、彼にはなかった筈だ。何を目的として動いているのかも今のところは不明瞭だし、時間もなかったから、海軍元帥を通して許可せざるを得なかった。
『……え? ソレ、まずいよね?』
千春は溜息と一緒に、ああ、と呟いた。ペンを握る手に自然と力が篭もり、紙にインクが滲む。
賢者が大陸を離れる事は、出雲で世界会議でもない限りは許されない。必要に迫られれば各州の許可を貰っての外出も可能だが、今の欧州賢者には、悠長に承認を得ている余裕もなかっただろう。そもそも伊太知事が許可するとも思えない。
「実にまずいんだよ、コーリャ」
暫く間が空いた後、電話の向こうから恐ろしい速さでキーボードを叩く音が聞こえた。彼の目も、すっかり覚めただろう。
軍人である北米賢者の場合はこの限りではないが、今回欧州賢者が大陸を出た事は、完全に違法行為となる。彼女だけで逃げられるとも思えないので、協力者がいる筈だから、悪ければそちらに罰則が行く。それは賢者も知っての事だろうが、何らか手は打ってあるのだろうか。情状酌量の余地はあるが、罪は罪だ。
そこはそれで千春が適当に理由をつけてやれば、出雲の役人は納得する。しかし、賢者が法を犯した事は問題だ。大陸を治めるべき欧州賢者が不当に大陸を出たとなれば、テオドラが黙ってはいないだろう。これが好機とばかりに、出雲に対して難癖をつけて、何らか行動を起こす可能性もある。
『……いや君、本当にまずいよこれ。普段ない筈の伊太州庁、北京間の通話記録が残ってるよ』
「だからさっきからまずいと言っ……本当か」
千春は目の前に相手もいないのに、意味もなくデスクの上に身を乗り出した。肘がティーカップにぶつかって倒れそうになったので、慌てて支える。
現時点で出雲と華が停戦協定を結んだとマスコミから伝えられているのは、亜細亜圏内と露州内だけだ。しかしテオドラは、停戦中である事をキースから聞いて知っていたから、華も今なら利用出来ると踏んだのだろう。交戦中ではなかなか連絡もつき辛かっただろうし、出雲からしてみれば、タイミングが悪かったとしか言いようがない。余計な情報は流すなと、事前に注意しておけば良かった。
『賢者が逃げたのはいつ?』
「伊太を経った時間は私も聞いていないが、明日の昼過ぎにはこちらに来る」
『逆算すれば大体合ってるね。向こうも必死だ』
予想はしていたが、改めて言われると腹が立つ。欧州賢者は結局のところ誰も憎みきれはしないから、テオドラの出方も読めなかったのだろう。或いは、目先の不安に囚われて冷静に判断出来なかったのか。
欧州賢者は、大陸の政治に関与しすぎている節があった。本来補佐官なのだから、総知事が動きやすいようにしてやればいいだけだ。大陸の為と尽力していた事は咎められないが、そもそも彼女が捕らえられたのは、伊太に対して大きな影響力を持っていた為だと思われる。元々いつ利用されても、おかしくはない状態だった。
それもあるから千春は政治に関しては放任主義を貫き、決定権を行使して偉そうに口だけ出している。他の大陸の賢者も、概ね同じようなものだろう。逐一大陸の人々に目をかけていたのは、欧州賢者だけだった。
「流石にテオドラはただでは転ばぬか」
忌々しげに吐き捨てると、電話の向こうから、酒をコップに注いでいるものと思しき音が聞こえた。間違いなく迎え酒だろう。千春は吐き気を催す。
『監視しておこうか?』
「逆探知されても困る、程々にな。聖女はどこぞの阿呆に入れ知恵されて気付いてしまっていると来ているし、困ったものだよ」
喉を鳴らす音が聞こえた後に、くぐもった笑い声が続いた。笑い事ではない。
『サバーカも懲りないなぁ。ちょっと前にも出雲の女性士官に変な入れ知恵して、君んとこ通い詰めさせてたよね』
「本人にその気はなかったようだがね。口から生まれたんだよ、あの犬は」
犬、もといキースのにやけた顔が脳裏をよぎり、千春は顔をしかめた。嫌いではないが、彼はいけ好かない。
『それにしても、二人で伊太に行ってから随分親密そうだね。見た? 週刊誌』
千春は丸めてゴミ箱に放り込まれていた雑誌を一瞥し、思い切り舌打ちした。ニコライが小さく、怯えたような悲鳴を上げる。出雲でしか出回っていない雑誌を彼がどうやって入手したのかは、この際聞かない。
「見たさ、ああ見たとも。聖女と六賢者一のバカが肩を並べて、よりによってラーメン屋だ。博多ラーメン!」
『え、ハカタメンがダメなの?』
千春は苛立ち紛れに、デスクを拳で叩いた。
「何が深夜の密会だあの馬鹿雑誌。聞けば夕飯を食いっぱぐれたから、奢らせただけだと言うじゃないか。全然深夜ではない。カークランドのアリバイまで作りおってからに」
『……よく分かんないけど出雲の回線で見たよ、芙由様の会見。門前の仁王像みたいな顔で、出雲列島が突風で大気圏外に吹っ飛ばされるより有り得ないって言ってたね』
「あれはいつでも仏頂面だ」
千春の剣呑な声に、ニコライは黙り込む。語気に表れた怒りを隠しもせず、彼女は続けた。
「大体あれだけ嫌っていたのだ、昨日今日で顔を突き合わせて飯を食うような関係には……」
『いや、でも二人でラーメン屋には行ったんでしょ?』
千春はまた、デスクを叩いた。その鈍い音が電話の向こうにも届いたのか、ニコライもまた、ひい、と情けない声を漏らす。
忘れていた怒りが、沸々と込み上げて来る。マスコミというのは、何故にああも信憑性のない記事を、尤もらしく書き立てるのが好きなのだろうかと、千春は思う。どうせならカークランドの悪行でも暴いて欲しい。
いやそれも困る。あれは叩けば叩くほど埃が出てくる男だ。
千春が後生大事に護ってきた出雲の宝が、芙由だ。彼女がいなければ神主は神主たり得ないし、出雲島民に対しては、彼女は顔を見せない神と神主が確かに存在している証となる。
また、他州民に対しては、彼女の存在自体が、神主が賢者とは別格であるという証明になる。そんな芙由を従軍させたのは根負けしたからであって、本当なら神主代理として大社に詰めていて欲しいところなのだ。それなのに。
「認めぬぞ私は。あんな穀潰しが、出雲の至宝たる聖女と親交を深める事さえ万死に値する。神主に顔向け出来ぬ」
『別にいいじゃない、ラーメン屋ぐらい……』
「駄目だ。ラーメンだろうが焼肉だろうが認めぬ」
うう、と呟いて、ニコライは再び黙り込んだ。そもそも何故この話になったのだろうと、千春はふと我に返る。
「……時代の流れか」
ぽつりと呟くと、電話越しに喉を鳴らす音が聞こえた。
「人々が神を“神格化”するようになって久しい。陳やテオドラの反乱も、時代の流れなのかも知れぬな」
『それで戦争されちゃ、かなわないけどね。世界が動こうとしてるんだ』
世界は刻一刻と変わって行く。今も人はどこかで産まれ、どこかで死んでいる。そんな当たり前の事はずっと変わらないのに、人は変わって行く。進歩を忘れた世界だというのに。
神は、進むことを禁じた。科学技術はほんの少しずつ進歩しているが、それでもロスト以前と大きな差はない。神は人としてこの世に産まれ、生きて死ぬことを、まず人々に思い出して欲しかったからだ。今までどのように生きていたのか、神は人々に思い出して欲しかった。だから、まだ進む事は出来ない。
それなのに気の早い者達は、やれ内戦だ政変だと無駄に足掻いている。その行為自体を愚かだと思いこそすれ、思想は否定出来なかった。統治する者がある限り、人々の心に垣根がある限り、争いは続く。宗教のない今は、宗教戦争という言葉さえ歴史の教科書を紐解かない限り出て来はしない。けれど伊太との間に内戦が起きるなら、そう呼んで間違いないのではないだろうかと千春は思うのだ。
「恐らく数ヶ月の間に、世界は大きく動く。役者が揃ってしまったのだよ。それだけの時を、この世界は過ごしてきた」
『それも進歩と言えるのかも知れないね。いいか悪いかは、どうとも言えないけど』
この世界はまだ、完全に立ち直っていないのだと思っていた。出来の悪い子供の面倒を見るように、世界を導いていたつもりだったが、そう思っていたのは千春だけだったのかも知れない。この世界は千春が思うよりずっと大きくなっていて、とっくに自立していたのではないだろうか。
それも少し、寂しい。神を除けば誰より長くこの世界を見つめてきた彼女にとって、この世界はまだ、伝い歩きの赤ん坊同然に思える。けれど世界が千春の目の届かない所で動こうとしている以上、それも思い違いだったのだろう。千春もまた、欧州賢者と同じく過保護なのだ。
「……それより、あの坊やがなかなか聡くて困っているよ」
あまり考えていたくなかったので、混ぜ返すようにそう言った。ニコライはくぐもった声で笑う。
『どちて坊やかい? 甘やかすからいけないんだ』
千春は坊やとしか言わなかったが、ニコライは理解したようだった。会話に詰まると、千春はよく乃木の話をする。いい話のネタになるのだ。
「何故軍があるのかとまで聞かれたよ。そんな事は私も知らぬ」
出来上がった書類を脇に避け、千春は未記入の書類を手元に置く。近頃は書類の枚数ばかりが増え、講義にも出られない。
『そろそろ君の言う、無意味な事を考えてしまうかも知れないよ。早いとこ縁談でも持って行って、誤魔化したら?』
「行き遅れた親戚の娘に、見合い写真を持っていく伯母のような事はせぬよ。向こうもまだ、仕事がしたいだろう」
『仕事ねえ……』
ニコライは、何故かしみじみとそう呟いた。彼は仕事と呼べるような仕事もしていない。
手に職を持つことは大事だと、千春は考えている。こと真面目な人に関しては、他に生きる目的も見つけ辛い。芙由がそうだったし、乃木もまた、そうなのではないかと千春は思っている。
「仕事が生きがいのようなつまらん人間も、存在するのさ」
自虐めいた口振りだった。気付いたのかそうでないのか、ニコライは声に出して笑う。
『それは分かるけどさ。僕は一日飲んでいたいよ』
「お前はいつだって一日中飲んでいるだろう」
乃木は真面目に過ぎる。考えなくていいような事まで深く考え込んで、一人で悶々とした挙げ句、千春に聞きに来るのだ。千春も手早く答えてやれればいいのだが、最近はなかなか答え辛い事ばかり質問して来るので、ほとほと困り果てている。この間はタイミング悪く芙由が怒鳴り込んで来てしまったので、知られたくない事にも気付かれてしまっただろう。
彼一人に気付かれたところで何が変わる訳でもないが、彼から部隊内に不安が広がってしまう可能性もなくはない。あまり余計な心配をさせたくないし、それによって訓練に身が入らなくなるのは、千春も望むところではない。いずれ分かる事とはいえ、今はその時の為に、精進して欲しかった。
『やっぱり難しいのかな。世界を守るなんてさ』
何を考えていたものか、ニコライは唐突にそう言った。千春は椅子の背もたれに上半身を預け、小さく笑う。
「難くとも、為さねばならぬ。それが私達の仕事だ」
『分かってるよ、千春。君子は危うきに近寄らず。近寄らざるを得ない状況に立たされたら、露支部七十万の同志が出雲を護るさ』
「有り難いな。だが同志という言い方はやめなさい」
その時のニコライの含み笑いの意図が、千春には珍しく読めなかった。彼は時々、千春が嫌う発言をして笑うのだ。
『冗談だよ。今更アカだ白だなんて言ってられないだろ』
ニコライは笑っていたが、千春は目を伏せて全身の力を抜いた。千春に凭れられるものは、何もない。この世界を、神が定めた枠の中で護りきらなければならない。千春の使命は、今も昔もそれだけだ。
きっと、多くの軍人が傷つくだろう。決して他州へ攻め込むことのない出雲は、自州の防衛だけで手一杯になってしまうだろう。それでどうやって、降伏させるというのだろう。今考えるべき事ではないが、不安で仕方がなかった。
『じゃ、動きがあったら連絡するよ』
「酔い潰れて見逃さぬようにな」
『分かってるよ、今日は珍しく飲みすぎただけさ』
千春には、彼はいつも飲み過ぎのような気もする。
「気をつけなさい。おやすみ、コーリャ」
『おやすみ、グレートマザー』
虚を突かれて目を丸くしている内に、電話が切られた。千春は暫くそのまま動かずにいたが、やがてゆっくりと携帯電話を耳元から離し、終話キーを押す。思えばこの携帯も、随分と古い型だ。そろそろ替えたいと思っていたが、結局忘れていた。
そんな些末な事などすぐに忘れてしまうほど、彼女は忙しい。自分でも何をしているのかよく分からないまま、ただ、時だけが無情に過ぎ去って行く。己が為すべきことを、忘れてしまうそうになる事さえある。
そっと引いていた柔らかく小さな赤ん坊の手は、いつしかしっかりとした、大きな手に変わっていた。そんな大事なことにさえ、千春は気付けなかった。
それでも彼女は、母のように父のように、この国を見守っている。世界の安寧を願い、少しでもいい方向へ導けるように、優しく、時に厳しく、手を引いてやる。進むべき道を進めるように、背中を押してやりもする。彼女にはそれしか、出来る事がないからだ。
どれほど歯痒くとも、千春本人は大社を出られはしない。それが神の島たる出雲の賢者に課せられた、使命である限り。
「世界はいよいよ、巣立とうとしているのですね。神よ」
呟いた声は広い室内に拡散し、響く前に溶けて行った。