第三章 道なき道を 八
八
伊太軍機からの連絡が入ったのは、一時間ほど前だった。わざわざ試験導入段階で上手く繋げない、軍用衛星携帯から電話して来た理由を、キースは悲しくも思う。
彼らは、泣いていた。州の為を思えば賢者達を連れ戻す事は出来ないし、戻れば知事に記録を渡さなければならない。そうなれば、賢者達に罪を犯す意識があった事を知られてしまう。連れて帰る事が出来なければ、どの道自分達に命はない。彼らは、そう言った。
これからどうするかを決める段になって、掠れていた少尉の声もまた、同乗していた兵の嗚咽と同じように、涙混じりになった。自分達は機体ごと、母なる海へ帰りますと、そう言った。悲しいだけの判断だった。
しかしそれ以外、彼らに何が出来るだろう。州を想えばこそ、彼らは州には戻れない。そもそも追っ手として出て来た彼らに、そんな気持ちがあった事が、キースには意外だった。賢者達と通信していたようだから、そこで何かあったのかも知れない。
今も昔も変わらぬ愛を大陸の人々へ注ぐ、欧州賢者の言葉が、彼らの心の琴線に触れたのだろう。優しい賢者だからこそ、彼らは自分達の判断を知られたくなかった。彼女が心を痛めるようなことを、したくなかったのだ。
あの州は、今や崩壊の危機に瀕している。そんな中でも、人はしっかりと生きていた。州を救えるのは今や賢者だけだが、彼女に動きようがなかったから、今の今まで誰も何も出来なかった。賢者の行方も分からなかったし、そもそも知事が彼女を捕らえたという証拠もない。証言させようにも、出来そうな辺りは既に州知事の手が伸びていたから、出雲も手の打ちようがなかった。
大事な時だ。軍人の一人や二人死ぬぐらいで心を痛めている場合ではないとキースは思うのだが、欧州賢者はそうも行かないだろう。優しい人というのは、人の数倍傷付くものだ。
賢者達との通信を終え、キースは銜えていた煙草を手に持ち替えた。溜息と一緒に煙を吐き出して、彼は報告を待つ。自分はいつでも待つだけだと、うんざりした。
艦内は、連絡を取り合う乗員達の声で騒がしい。演習以外でミサイルを撃つ機会など滅多にないので、興奮するのは分かるが控えて欲しいものだと思う。賢者達と話していたせいで、キースは騒ぎに乗り遅れてしまった。
艦のことは、普段は副艦長に任せてある。お陰で乗員達の中にはキースの顔を覚えていない者もいるし、副艦長の方を艦長だと思っている者さえ存在する。仕方ないといえばそうなのだが、キースからしてみれば、それも少し寂しいのだ。
艦内電話が鳴ったので、キースは億劫そうに受話器を持ち上げた。
『こちら射撃班。発射準備完了です、キャプテン』
「オーライ、あっちはちゃんと避けてるか?」
『対象はコースから外れたようです。弾は……』
相手が言いかけた時、高々と上がる水柱が窓から見えた。伊太の少尉が宣言してきた通り、本当にすれすれに着水したようだ。賞賛の拍手でも送ってやりたい程の腕だが、今は褒めている場合ではない。キースは顔をしかめて、黙り込んだ相手に声をかける。
「記録は?」
『……と、取ってあります』
「撃て」
それだけ言って、デスク上に転がっていた双眼鏡を取りながら電話を切った。最早二つの機は、双眼鏡でも確認出来る位置にある。
キースは窓の前に立って、双眼鏡を覗き込む。この平和な世界で、ミサイルを撃つ機会などそうそうない。船員達が更に興奮しているのは、艦内の騒がしさから容易に想像出来た。
けれど彼は、呑気に興奮してはいられなかった。州の為に自ら死を望んだ軍人と、直接会話してしまったからだ。
彼らはキースに、軍に入った理由を滔々と語った。四十代半ばと思われる彼らが従軍した頃、まだ州は平和であったのだという。彼らは州を愛していたし、だからこそ、従軍したのだと言った。
けれど軍の上層部が知事の手に落ち、軍部は丸ごと腐敗して行った。誰も金の力には敵わなかったのだと、彼は悲しげに懺悔した。こんな州の為に従軍した訳ではないと、彼らは知事を憎み、上官を憎み、その内州ごと憎むようになってしまった。軍人の誰もがそんな状態で、誰もが右に倣えとばかりに堕落して行った。
苦悩する彼らの心は、民衆の不安を吸い上げて、州と同じように腐って行った。自分が利を得る為ならなんでもしたし、知事に逆らおうとさえ思わなかったのだと、少尉は語った。
最後は改心出来て良かったなと言ったら、彼らは漏れる嗚咽を隠しもしないまま、はい、と答えた。彼らが流した涙は、死を恐れたが為ではないのだと、キースは思っている。
「せめて仲間の最期ぐらい、派手に飾ってやろうじゃねえか」
他に誰もいない艦長室で、キースは一人呟く。船体の揺れに、心まで揺さぶられるような気がした。賢者の訴えに応え、身を挺して州を護らんとする彼らの最期を、この目で見届ける。決して悲しみはしないが、自分は生涯、彼らを忘れないだろう。
「鎮魂歌を歌ってやりな、オフィーリア」
艦は彼の声に応えるように、轟音を発した。円筒形のミサイルが窓の端から飛び出し、戦闘機へ向かって行く。正確に調整されたその軌道に、誤りはない。日の光を受けて煌めきながら真っ直ぐに飛んだミサイルは、吸い込まれるようにして戦闘機に命中した。
爆発の瞬間、キースは双眼鏡を離して敬礼した。そうして彼は、昨日まで名前も知らなかった二人の兵士の健闘を称える。州の為と空で散り、母なる海に帰った彼らに、掛けてやる言葉も見つからない。
しかし柄にもなく愁思に浸る彼の神妙な表情は、長くは保たなかった。一瞬にして艦内に満ちた歓声が、あまりに喧しかったのだ。
キースは苛立ち紛れに双眼鏡をデスクへ放り投げ、つかつかと入口に歩み寄って勢い良く扉を開けた。廊下でハイタッチしていた二人が、凍りついた表情でキースを見る。滅多に顔を合わせない分、彼らにとって艦長は怖かった。
「サルみてえに騒いでねえでさっさと持ち場戻れこのテトラポット、それ以上太りやがったら艦下ろすぞ。港行くんだよ港!」
「り、了解!」
キースが扉から顔を出して怒鳴ると、廊下で騒いでいた乗員達が蜘蛛の子を散らすように駆け戻って行った。どいつもこいつも、と心中毒吐く。
室内へ戻り、キースはブリッジへ連絡を取る。とにかく今は、賢者達を無事に雨まで連れて行かなければいけない。これ以上追っ手は来ないだろうが、念には念を入れておきたい。
「カークランドだ、迷子のバンビに行き先を伝えろ。何か質問されても答えるな。寄港する」
返事を待たず、キースは受話器を置いた。
感傷に浸っている暇はない。今も世界は、刻一刻と動いている。伊太が早くても、出雲が早くてもいけない。正確に時期を計り、動かなくてはならない。
待つのも楽ではない。待っている間に、自分の中に迷いが生まれたのにも気付いている。けれどもう、キースは戻れない。彼が出雲の旗を背負ってここまで出て来たからには、後は済し崩しに進んでしまうだろう。戻ることは、許されない。
世界は狂い始めている。平和だったこの世界にまず一石を投じたのは、世界を守るべき賢者だった。最初は小石が水溜りに投げ込まれたような波紋に過ぎなかったが、時間が経つにつれて徐々に拡大し、今ではどこもかしこも揺れている。北米総知事もキースも、動くならば今しかない。その先に何があるのかも、分からないままに。
煙草に火を点けて、キースは倒れこむように椅子へ腰を下ろす。赤絨毯の敷き詰められた部屋より、潮の匂いのする甲板の方が好きだった。しかし今外へ出たら、間違いなく副艦長に怒られる。
何も考えず、釣りでもしたい。そう考えながら何の気なしにデスク上へ視線を移すと、潰れた煙草のパッケージが目に入った。白地に赤い円の描かれたデザインが何かに似ている気がして、キースは力なく笑った。
最寄の港に着くと、キースは真っ先に欧州賢者を迎えに出た。ついて来ると言った部下も跳ねつけ、一人ジェット機へ歩み寄る。たまたま居合わせた船乗り達が怪訝にキースを見ていたが、構ってはいられない。輸送船が停泊する港を選んだのは、紛れられるからだ。
巨大なプレハブ倉庫が建ち並ぶ港は、夕陽に照らされて橙色に染まっていた。普段なら大型トラックが何十台と停まっている筈の駐車場は閑散としており、小型のジェット機だけがぽつんとある。
既に機を降りていた三人は、ぐったりしていた。あんな事があったら、無理もないだろう。
「ようバンビ、元気だったかい?」
軽い調子で声を掛けると、キースはアーシアに思い切り睨まれた。残りの二人は、複雑な表情で彼を見ている。怒られる理由は分かるが、こうもあからさまに敵視されると困る。
アーシアの淡いブルーの目に、夕陽が映り込んで輝いている。白い頬までが橙色に染まり、オレンジの実のようだった。
「あなたは軽率すぎるわ」
小鳥がさえずるような声で吐き捨てるように言われ、キースは思わず目を丸くした。そして、鼻で笑う。彼女達は事情を知らないし、口止めされている以上、説明する気はない。嫌われるのには慣れているから、笑う以外の反応も出来なかった。
そんなキースの態度をどう取ったのか、アーシアは白い頬を真っ赤にして眉をつり上げた。最近はどうも、女に睨まれてばかりいる。
「そう怒るなよ、正当防衛だ。こっちが撃たなきゃ、そっちもどうなってたか分かりゃしねえぜ」
アーシアはつり上げた眉を顰めて、華奢な肩を落とした。素直な分、聖女よりは扱いやすいとキースは思う。あちらには寧ろ、いいようにあしらわれているように思えてならないが。
「……ごめんなさい。迷惑かけちゃって」
「構やしねえさ、お陰で久々に航海出来て良かったよ。そっちはお供かい?」
だらだらと謝られるのは嫌だったので、キースは話をすり替えた。アーシアの後ろで疲れた顔をしていた二人が、慌てて姿勢を正す。赤毛の女が敬礼したのを見て、キースは小さく頷いた。特に意味はないが、癖なのだ。
「自衛陸軍伊太支部曹長、キアーラ・ベルガメリです、大佐」
毅然とした態度の、すらりとした長身が美しい女だった。赤毛と淡い緑色をした目の対比が、中々好ましい。こちらも夕陽に照らされて、抜けるように白い顔がオレンジ色に染まっている。
「キース・カークランドだ。綺麗なリンゴだな」
「……は?」
問い返した彼女とは対照的に、アーシアは渋い顔をした。彼女はスラングぐらい分かる。
あまり深い話をしたくなかったので混ぜ返したが、逐一睨まれるのは少々困る。ただでさえ出雲に嫌われているのに、これ以上嫌われると味方がいなくなってしまう。どうせ最後は誰もが敵になると分かってはいるが、今円滑に物事を進めるには、多少の味方は必要だ。
「やめてよキース、キアレッタは真面目なのよ」
「お前さんも相変わらず過保護だな、バンビ」
彼女は大陸に目を掛けすぎて、自滅した感もある。大陸に愛されたからこそ、アーシアは利用された。愛されて悪い事はないだろうが、反面、反逆者が出た場合は真っ先に狙われる。
そうなっては困るから阿弗利加は放任主義を貫いているし、出雲は多大陸を跨いで己の存在をあやふやにしている。兎にも角にも、アーシアは純粋すぎるのだ。大陸の為に動く彼女の姿勢には素直に共感出来るが、彼女は確固たる地位を築きすぎた。賢者は国宝として、ぼんやりとした存在であるべきだとキースは考えている。
「そっちは?」
困ったような顔をしていた栗毛の男は、はっとして頭を下げた。眉尻の下がった呑気そうな男だが、彼がパイロットだろうと、キースは思う。
「フランチェスコ・モレッティです……あの、賢者殿で?」
「階級章光らしてる時は軍人さ」
肩を竦めて笑って見せると、フランチェスコは怪訝な顔をした。説明する気はないので、キースはすぐに彼から視線を逸らす。北米賢者が軍人だというのは、有名だと思っていた。北米と軍部内だけの常識だったのかも知れない。
逸らした視線の先に、何か言いたげなキアラがいた。キースが僅かに首を傾けて見せると、彼女は眉根を寄せて首を竦める。初心そうでいいと、キースは思う。出雲の女共は何を言っても動揺しないから、つまらないのだ。
「先日は済みませんでした、賢者様……浅学なもので、全く気付かなくて」
「いいや、どっかで会ったかい?」
キアラは目を丸くしたが、アーシアが小さく笑った。アーシアは、フォローだと思ったのだろう。しかしキースはそこまで気の回る性質ではない。何かの拍子に出雲に告げ口されたら、困ると思ったのだ。
キアラと一度会っていた事を千春に漏らされでもしたら、厳重注意では済まない。軍人であるキースが軍人を見れば、一目でどの階級なのか、どんな役職に就いているのかは分かる。近衛師団の小隊長が最高級のホテルにいたとなれば、明らかに怪しい。
報告しなかった事が露見したら、また千春の警戒が厳しくなる。そんな事になったら動き辛くなるのは目に見えているし、期を逃してしまう可能性もあった。ここまでじっと待っていたのに、下らないことで転びたくはない。
「それよりキース、あなたの艦、太平洋担当じゃなかったの?」
アーシアの問いかけに、キアラとフランチェスコが目を丸くした。キースは頷いて見せてから、視線を艦へ向ける。甲板では、暇を持て余した船員が釣りに興じていた。
「南米側からぐるっと回って来た」
「ウソでしょ」
「ウソ。巴奈馬運河渡って来てたんだよ、長期航海訓練中だったんでね。出雲の海域近付くとうるせぇし、北米は治海狭ぇし」
出雲本部が管轄する海域は列島の周囲のごく狭い範囲だが、その分警備隊が口喧しい。近くで釣りなど始めようものなら烈火の如く怒られるので、どの支部もあの海域には近寄りたがらないのだ。無論進入すれば罰せられるから、間違っても近付けない。
楽しそうに笑ったアーシアは、ふと暗くなった空を見上げて、今気付いたとでも言うように驚いた顔をした。思っていたより時間が経っていた、といった所だろうかと、キースは思う。
「ここから、どうするの?」
キースは袖を捲り、時計を確認した。時刻は既に、午後六時を回っている。呑気に仮眠を取っている暇がなかったから眠気もあったが、空腹の方が勝っていた。しかし、あまり時間がない。
「ワシントンから迎えが来る事になってる。明日公人用のジェット機を手配してあるから、今日は市内のホテルで休んでくれ」
「寄り道は出来ないの?」
「とりあえずワシントンまでメシ食う時間はなさそうだ、途中のドライブスルーだな」
何の気なしに見たアーシアの顔は、嫌そうにしかめられていた。彼女は美食家だ。
「嫌よ、雨のファストフードは不味いわ」
「英の水っぽいチップスよりはマシさ」
大袈裟に肩を竦めて、キースは煙草に火を点ける。濃い煙を吐き出しながら、アーシアから顔を逸らした。
「出雲の牛肉が食いてえな」
「それよりマルゲリータがいいわ。お腹も空いたし素敵な旅とは行かなかったし、一枚丸まる食べたい気分なの」
呑気なアーシアの言葉に、キースは鼻で笑う。
「伊太州民はピッツァかパスタしか食わねえのかい」
「あら、ビスコッティも食べるわ。ねえ、キアレッタ?」
アーシアが振ると、キアラは口元に手を添えて小さく笑った。皮膚が薄いのか、彼女の頬はそれだけで僅かに赤らむ。赤毛は中々可愛くていいと、キースは思う。
「キアーラ、お前さんは何がいい? 美味いパスタもマカロニもねえがな」
「お腹に入れば、なんでも構いません。アーシア様のご希望通りに」
「そりゃ困った。グルメな小鹿の可愛い口に合うようなモンは、この雨にはありゃしねえや」
キアラはアーシアと顔を見合わせて、また笑った。その大輪の花のような笑顔に、キースは目を細くする。どんな女でも、笑顔は可愛い。そう考えたところで無愛想な聖女が脳裏に浮かび、顔をしかめて打ち消した。
あれは笑わなくても綺麗だが、如何せん愛想がなさすぎる。愛されすぎるのも問題だが、反感を買うのも良くないのではないかとキースは思う。
守ると言ったあの言葉に、嘘はなかった。神主が神主たり得る為に必要な存在である彼女に、あそこで何かあったらキースが責任を問われる。そんな打算的な考え以上に、被虐的な彼女を見ていたくなかった。そう思ってしまうほど、彼女と自分にはどこか通じる部分がある。
「……フランク。いや、フランキーか? お前は?」
思考を無理矢理打ち消すように、キースはフランチェスコに問いかける。好ましげな目でアーシアとキアラを見ていた彼は、朗らかに笑って体ごとキースを向いた。
「なんでも。腹に入れば一緒です」
「そりゃ良かった。油っこくてよく太れる、不味いファストフードで決まりだな」
「もう!」
頬を膨らませたアーシアを笑ったところで、建ち並ぶ倉庫群の陰から、迎えの車がやって来るのが見えた。目立つから黒塗りの車で来るなと言っておいたので、民間のハイヤーを借りたようだ。煌くシルバーブルーの車体が眩しかった。
ここで全てが終わり、ここから始まる。不安にも似た期待感に、キースは両の口角をつり上げ、喉の奥で笑った。