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神の国  作者:
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第三章 道なき道を 七

 七


 欧州賢者達の命運は、最早天に委ねられた。向こうが追い付いて来るのが先か、こちらが北米の治空に入るのが先か、考えずとも答えは出ている。音速で飛行する戦闘機に、たかが自家用機が敵う筈もない。

 幸い下は海だから、万が一撃ち落とされても、アーシアの命だけは助かる可能性がある。けれど、キアラとフランチェスコの命はない。生きて捕まっても、彼らの処罰は免れないだろう。それだけは、あってはならない。

 人の命は全てが小さなパズルのピースで、どこか一つが欠けても、この世界は成り立たない。これ以上奪われてはならないし、奪わせてもいけない。アーシアが守るべきは、その小さなピースの一つ一つなのだ。大小の問題でも、数の問題でもない。全ての人が、幸せに暮らせる世界でなくてはいけない。

 アーシアは小さな拳をきつく握り締めて、祈るような気持ちで前方を見据える。せめて雨海軍の監視船でもいてくれればいいのだが、そう上手くは行かないだろう。

「賢者様……もうし」

「諦めちゃ駄目よ」

 緊張感に満たされた機内の静寂を破ったのは、掠れたフランチェスコの声だった。しかしアーシアは謝ろうとする彼に最後まで言わせず、強い口調で言い切る。

「まだ望みはある。キースが直接迎えに来るって言うなら、向こうもただ待ってるだけじゃない筈よ。彼は海軍の大佐だもの」

「そう……でしょうか」

「弱気になってはいけません」

 キアラはフランチェスコを落ち着かせようとするかのように、笑みを浮かべて見せた。彼女の柔らかな笑顔に、フランチェスコは肩の力を抜く。軍人だからか肝が据わっているキアラは、こういう時頼りになる。

「必ず逃げ切れます。大丈夫」

 何の根拠もない台詞だったが、フランチェスコはそれで落ち着いたようだった。拳を握り締めていたアーシアも、力を抜いて隣のキアラにもたれ掛かる。かなり緊張していたのだと、アーシアはようやく自覚した。

 キアラは溜息を吐いたアーシアを驚いたように見下ろした後、そっとその小さな肩を抱いた。抜けるように白いキアラの手は、それでも温かい。熱いほどの体温に、彼女はやっぱり太陽なのだと、アーシアは思う。

 アーシアは、キアラもパイロットを買って出てくれたフランチェスコも、死なせたくない。優しい人が傷つくような世界であってはならない。この世界は、生きる人の為に神が作り直した世界だ。だから絶対に、無為に人を死なせてはならない。

 けれど、今のアーシアに何が出来るだろう。自分の半分も生きていないキアラに励まされ、守るべき人に守られている。あまつさえ臆病風に吹かれて、彼らを勇気づけてやる事も出来ない。

 そんな賢者に、何が出来るだろう。せめて毅然としていたかったのに、それすらも危うい。キアラがいなかったら、アーシアはここまで平静を保っていられなかっただろう。自分の不甲斐なさが、情けなかった。

「軍機、軍艦及び武装した兵は、他州へ進入してはならない。出雲本部ならば、戦闘を目的としないならこの限りではありませんが、支部はいかなる理由があろうと、独断では管轄地域外へ入ることが出来ません」

 キアラが言うと、フランチェスコは不安げに眉尻を下げた。

「しかしあちらが軍規を守るかどうか、怪しい所ですよ」

「守らなければ、罰せられるだけです。出雲が伊太の政治に強制介入するだけの、大義名分が立つ」

 キアラはそこまで考えていたのかと、アーシアは彼女を見直した。あまり頭は良くないと、本人が言っていたからだ。

「つまり向こうは、絶対に他大陸の治空へは入って来ない」

「でも、それって……」

 フランチェスコが言いかけた時、無線が耳障りな音を立てた。キアラの表情が硬くなり、フランチェスコが震える手で送話機を取る。しかし彼が切りっぱなしだった受話機の電源を入れたところで、操縦席へ身を乗り出したキアラの手が、送話機を取り上げた。

『……り返す。私は自衛空軍伊太支部少尉、バレリーニ。そちらのパイロットと乗員、飛行目的を速やかに』

 高圧的な声だった。フランチェスコは青い顔をして、横から顔を出したキアラを見つめる。アーシアの目の前が一瞬真っ暗になったが、肩を抱いてくれていたキアラの手に軽く背中を叩かれた事で、我に返った。

 誤魔化しは効かない。向こうはもう、こちらが賢者を乗せた機だと知っている筈だ。小柄なアーシアが航空機を操縦出来る訳がない事を、あちらは知っている。一人だと言った所で、信じはしないだろう。

 アーシアはよっぽど、キアラから送話機を取り上げようかと思った。けれど、何と言えばいいのか分からない。大事な人が死ぬかも知れないという不安がアーシアの思考を奪い、動けなくさせた。

「こちら自衛陸軍曹長、ベルガメリです。乗員は欧州賢者のみ。どうぞ」

 声を上げそうになったフランチェスコの口を、キアラは掌で塞いだ。アーシアは彼女があっさりと賢者が乗っていると言った事に驚いたが、二人と言った事に対して、それ以上に驚いた。彼女の経歴は軍に握られているから、テオドラにも伝わっている筈だ。航空機の操縦経験などない事ぐらい、向こうは承知しているだろう。

 案の定、受話機からは鼻で笑う声が聞こえた。

『ベルガメリ曹長、パイロットがいる筈だ。隠し立てするな』

「いいえ。乗員は二名です、少尉」

『嘘を吐くなと言っている』

「此度のフライトは私の独断によるもの。パイロットは存在しません。私がパイロットです」

 キアラはそこまで言ってから、震えるフランチェスコの肩をそっと叩いた。伊太の女は総じて強いものだが、彼女はその中でも群を抜いている。

 証拠となる証言がない限り、捜査の手は入れられない。副知事が下手を踏む可能性は万に一つもないし、伊太に残してきた協力者達の身元が割れるなら、こちらがミスした場合だけだろう。捕まらない限りは、きっと何も露見しない。

 つまり嘘を吐いたキアラはまだ、逃げ切れると信じている。逃げ切れると信じて、フランチェスコを庇ったに違いない。

『曹長、我々は君たちの機を撃墜させる事も視野に入れている。君は大罪人だ、そこにいる欧州賢者もな』

「罪は罪と認めましょう。しかし私は州の為に生きると誓い、己の正義に従ったまで。それによって罰を受けるなら、喜んで」

 キアラの淡いグリーンの目には、迷いなど微塵もなかった。彼女は確かに州の為にこの道を選び、ここまでアーシアについてきてくれた。真っ直ぐなその姿勢が、萎えかけていたアーシアの気力を奮い立たせる。

『……州の為に、賢者を連れ出すと言うのか』

「伊太がどんな状況にあるかは、あなた方もご存知の筈。然るべき人に協力を仰ぐ事が出来たなら、私は賢者様と共に我が母なる伊太へ戻ります。賢者様は伊太を建て直す為、私は罰を受ける為に」

『君は自分を何だと? 救世主だとでも思っているのか?』

 話し声とは別に、誰かの嗚咽が聞こえてきた。あちらも本意ではないのだと、アーシアは確信する。

「私は軍人です。州の為、大陸の為、延いてはこの世界の為に生きると決めた、一介の兵士です。今の伊太を救うのは、ここにいる賢者様以外にない」

 世界の為、生まれ育った州の為。本来軍人達が持つべきその感情は、失われつつはあるものの、確かに彼らの中に根付いている。今も州を愛する人がいる限り、完全に失われはしない。

 賢者達を追ってきた彼らの中にも、まだ州を守りたいという気持ちはあったのだろう。キアラの言葉に黙り込んでしまったのが、その何よりの証拠だ。

 アーシアはまだ、伊太の人々を信じている。まだ州を想う人は、絶対にいると。きっと誰もが、心のどこかでは州を想っているのだと。

「キアレッタ、代わって」

 その時、フランチェスコがレーダーを指差した。レーダーの反応は、後方の機影の他に、前方から別の質量が近付いている事を示している。これ以上、何が来るというのだろう。

 しかし今は、そちらに気を取られてはいられない。自らが盾になろうとするキアラの為に、危険を省みずここまで来てくれた、フランチェスコの為に。そして大陸で待つ人々の為に。アーシアは、強くなければいけない。

「パガニーニです、少尉。私の話を聞いて頂けますか?」

 返答はなかった。聞いているのかどうかも分からなかったが、アーシアは構わず続ける。

「私は確かに法を犯しました。言い訳をするつもりはありませんし、許される事でもありません。しかし全ては大陸の為。目的を遂げたら、私は必ず欧州大陸に戻り、伊太の復興を贖罪とします。許しては頂けませんか?」

 受話機は、微かなノイズだけを発した。アーシアは悲しげに眉尻を下げ、肩を落とす。最早賢者への関心など、人々の中からは失せてしまったのだろうか。

「アーシア様」

 キアラの緊張しきった声が、アーシアを呼ぶ。彼女はレーダーを指差して、表情を曇らせていた。

「米大陸の方向から、何か近付いて来ています。もうかなり近い」

 アーシアは目を丸くして、思わず身を乗り出す。米大陸の方向からなら、迎えの艦だろうか。しかし。

「ここはまだ欧州よ。向かって来てるの?」

「恐らく。雨支部が入って来られる筈はないのですが、方向は北米で間違いありません」

 アーシアは僅かに顔をしかめて、口元に手を当てる。異常な速度で向かって来る何かは既に欧州側に入っているが、先ほど見た時はぎりぎり北米側にいた筈だ。つまり、北米のどこかの艦か航空機と見て間違いない。旅客機も輸送船もこんな速度は出せない筈だから、軍所有のものだろう。

 考え込むアーシアの肩を叩き、フランチェスコが望遠鏡を差し出した。彼が指し示す方向には、豆粒大の何かが見える。アーシアが首を傾げてキアラを見ると、彼女は望遠鏡を受け取って筒を回した。あれでズームするのかと、アーシアは納得する。

 暫くそのまま望遠鏡を覗き込んでいたキアラは、何かを見とめて動きを止めた。望遠鏡を離し、フランチェスコと顔を見合わせる。

「何が来ているの?」

 アーシアが聞くと、キアラは険しい表情で彼女を見下ろした。

「巡洋艦です……雨支部の」

 アーシアは驚いて息を呑む。そんな筈はない。管轄外の海域に進入したとなれば、雨支部も咎められる。彼らはそれを、分かっているのだろうか。

「本当に、雨なの?」

「あれは現在、世界最速のミサイル巡洋艦です。保有しているのは出雲と雨と露だけで、出雲と露がここまで来る筈はないですから」

「……雨なのね」

 アーシアが呟くと、キアラは深く頷いた。雨支部は一体何を考えているのだろう。そこまでしてくれたのは有り難いが、悪ければ共倒れしかねない。

 いかに出雲の息がかかった雨支部であろうと、他州へ侵入すれば処罰は免れない。こちらが密告しなければいいという話でもない。

 既にこの機にかなり肉迫している追っ手の方も、巡洋艦には気付いている筈だ。黙りこんだ相手方がどう出るか、アーシアには分からない。キアラの言葉が効いていてくれればいいのだが、引き返さない所を見る限り、まだ向こうも諦めてはいないのだろう。

 硬い表情で唇を引き結んでいたキアラは、もう一度望遠鏡を覗き、首を捻った。

「……オフィーリア?」

 アーシアは思わず身を乗り出した。その悪趣味な愛称は、忘れよう筈もない。

「オフィーリア? 本当?」

「ええ……船体に大きく」

 アーシアは思わず安堵の息を吐いた。キアラは怪訝に片眉を寄せ、フランチェスコと顔を見合わせる。

「オフィーリアの艦長は北米賢者よ。ここまで迎えに来たんだわ」

 キアラが目を丸くして固まった。フランチェスコも大きく口を開けたが、すんでの所で両手で声を抑える。

「北米賢者だからといって、軍艦でここまでは来られないのでは?」

「本部旗があれば、ここまで進入出来るわ。出雲が手を回してくれたのよ」

 キアラはぽかんと口を開けたまま、全身の力を抜いた。フランチェスコは口元を押さえたまま、勢い良く拳を握る。

 神に見守られていると思うだけで、こんなにも安堵する。状況が好転した訳では決してないのだが、神の住む出雲が手を貸してくれたと知るだけで、彼らは安心する。神は確かに、彼らの中にいる。勿論、アーシアの中にも。

 まだ、大丈夫。そんな安堵感に機内が満たされた時だった。それまで黙り込んでいた無線機が、再び誰かの声を拾う。フランチェスコはアーシアとキアラの顔を交互に見た後、ゆっくりと、スピーカーの音量を上げる。キアラは送話機を取って、黙り込んでいた。

『こちらオフィーリア。艦長カークランドだ、パイロットに告ぐ』

 その訛りのない出雲語も癖のある低い声も、確かに北米賢者のものだった。アーシアは彼の声に安堵したが、キアラは怪訝に眉を顰め、彼女を見た。

『そちらさんのケツにくっついてるラビオリが、発射準備中。進路を十度ばっかり南西に変えな』

 一瞬、機内の空気が凍った。真っ先に我に返ったフランチェスコが、慌てて操縦桿を握る。

 アーシアには、キースが何を言ったのか分からなかった。キアラも目を見開いて呆然としている。可能性は考慮していたが、本当に撃ってくるとは思っていなかった。

 本当に、撃ってこようとしているのだろうか。何かの間違いではないのだろうか。アーシアは呆然としたまま、そう考える。

「……ど」

 キアラが漏らした声に、アーシアも我に返った。

「どういう事です艦長!」

 送話機に向かって怒鳴ったキアラの声が、機内中に響き渡った。フランチェスコは驚いてキアラを見たが、彼女は顔をしかめたまま相手方の返答を待っている。アーシアは未だ、混乱していた。

『大声出すなよお嬢ちゃん(スィニョリーナ)。落ち着いて避けろ』

 落ち着けと言われても、落ち着ける筈がなかった。後ろから狙われていると突然言われて、空軍でもないキアラが落ち着いていられる筈もない。アーシアも混乱してはいたが、キースの声を聞いて幾分落ち着いた。

 フランチェスコは、操縦桿を握り締めて眉間に皺を寄せていた。あまりコースを逸れると、見当違いの方向へ行ってしまう。

 避けられるのだろうか。避けたとして、その後はどうなるのだろうか。キースの方は、どう出るつもりなのだろう。そもそも何故、雨の艦の目の前で撃ってくる気になったのか。

 もう、なるようにしかならない。アーシアは祈るように両手を握り、目を閉じた。

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