第三章 道なき道を 六
六
蒙古から戻ってきて、早一週間。乃木は向こうで誓った通り、賢者を訪ねて大社へ来ていた。千春は忙しいと聞いたが、気晴らしになるから来なさいと言われたので、それに甘えてここにいる。
この辺りには小規模の駐屯地や基地が密集しており、街では軍人をよく見かける。無論民間企業の工場も多少はあるが、基地が多くて騒がしいので、この辺りは都心だというのにあまり人通りがない。軍人達も休みでもない限りは外出しないし、他の建物は軍学校や工場ばかりなので、夜の道路は閑散としていた。
乃木が所属する連隊の駐屯地から大社までは、自転車で二十分の距離がある。軍隊で鍛えた乃木の足でもそれほどかかるので、そう近い距離ではない。けれど乃木は、暑かろうが寒かろうが毎週のようにこの道を通う。胸に疑問が湧く限り。
大社は、あまりにも巨大だ。竹林に囲まれた建物は、上空からでもない限り一望することは出来ない。世界の政治を司る場所なのだからそれも仕方ないといえばそうなのだが、ここまで横に大きく造る必要はなかったのではないかと、乃木は思う。とはいえ縦も十階建てで、とても内部の構造は把握出来ない。神と出雲賢者と神主しかどこに何の部屋があるか完全に把握していないというのも、冗談ではないのだろうと思える。
巨大な大社の警備には一個師団が丸々使われており、敷地内で軍人の姿を見ないことはない。ここの警備に当たる師団には他州民が多く配属されているので、なかなか興味深くもある。女性が多いのも特徴だろう。最近は伊太支部から勉強に来てそのまま配属された兵が多いと聞くが、軍人が出雲へ逃げ出して来る程、あちらの軍部はひどいのだろうかと乃木は思う。
乃木は賢者の執務室を目指し、長い廊下を進む。何しろ広いから要所要所に動く歩道も設置されているが、乃木は遠慮して使わない。ばれたらまた馬鹿にされそうだ。
至る所に立っている衛兵と挨拶をし合うのも手間なのだが、いちいち立ち止まって敬礼してしまうのは条件反射だろう。乃木は向こうとも殆ど顔見知りになっているので、その度に二言三言話してから通り過ぎる。ただでさえあまり時間がないのに、ここで時間を食ってしまうのだ。しかし元来話し好きなので、話し掛けられると無碍に出来ない。
乃木はようやく辿り着いた部屋の前で深呼吸して、ドアをノックした。ややあって返事があったので、扉を開ける。
「乃木です。失礼します」
室内には、何故か甘い香りが漂っていた。ついさっき夕飯を食ってきたばかりだというのに、食欲をそそられる。乃木は怪訝に首を捻り、部屋の正面に置かれた千春のデスクに視線を移す。
「やあ、三年ぶりだったかな?」
デスクには、お菓子のものと思われる色とりどりの箱が、山のように詰まれていた。また何か食っていたのだろうかと、乃木は呆れる。部屋いっぱいに漂う甘い匂いは、チョコレートだろうか。それにしても箱が多すぎる。
「一ヶ月しか経ってませんよ。またですか、これ」
「昭和製菓の陰謀だよ。バレンタインに貰ったのが、捌ききれなくてね。困ったものだ」
困ったと言う割に、千春の口調は楽しそうだった。なんでもよく食う人だから、困る筈もない。
乃木は何故千春が貰う側なのか理解に苦しむのだが、彼女は毎年バレンタインもホワイトデーも、こうしてデスクの上をお菓子の箱で埋め尽くしている。一体誰が彼女に貢ぎに来るものか、乃木には疑問に思えてならない。
「どうして毎年賢者様が貰っているんですか」
「やろうか?」
「いや、そういう問題じゃ……」
「どうせ誰にも貰えなかっただろう」
図星だった。そもそもバレンタイン時期には蒙古にいたので、貰える筈もない。子供に板チョコをあげた記憶はあるが。
千春は綺麗に包装された箱を一つ持って立ち上がり、ソファーの傍らに立ち尽くす乃木に近付く。乃木がなんと言っても、くれるつもりのようだ。持って帰ったら持って帰ったで、北村に質問責めにされそうだから、有難いのだか迷惑なのだか分からない。
千春は乃木を見上げて微笑み、箱を差し出した。
「本来バレンタインデーはね、普段お世話になっている人に贈り物をする日なのだよ。だから私がいつ何を貰ってもおかしくない。お前も見習いなさい」
「ああ、その……ありがとうございます」
彼女の理論はよく分からなかったが、何も言い返せなかったので、素直に箱を受け取った。千春は背が低いので、向き合うと見下ろす形になる。視線を落としたまま頭を下げると、千春は乃木の肩を軽く叩いた。
「さ、座りなさい。紅茶を入れてもらおう」
自分が飲みたかっただけだろう。乃木は言われるがままソファーに腰を下ろし、デスクに置かれた電話で内線を掛ける千春を眺める。袖を押さえて電話を取るその仕草さえ優雅なのだが、デスク上の空き箱の数を見る限り、いくらなんでも食い過ぎのような気がする。乃木も大概大食いだが、千春には到底かなわない。
電話を切って、千春は紫の表着の襟を引き寄せながらソファーへ腰を落ち着けた。真っ赤な紅の引かれた唇は、常のように弧を描いている。
「それで、今日は何かな?」
乃木は貰った箱をソファーに置いて、膝に視線を落とす。聞きづらかった。どう聞いたらいいのか分からない。
平安時代の女官のような千春は、黙って乃木の言葉を待っていた。その内待つのに飽きたのか、センターテーブルの上にも置いてあった箱を開けてチョコレートを摘む。最近来る度に何か食っているが、そんなに腹が減るのだろうかと乃木は思う。
「……何故、軍なのですか」
「前も聞かれたな」
間髪容れずに返され、乃木は萎縮した。確かに以前聞いた。というか、この質問は何度かしている。しかしその度に邪魔が入って、答えを出してもらえなかったのだ。
乃木が困り果てている間に、事務員が入って来て紅茶を置いて行った。千春はティーポットを軽く揺らしてから、カップに紅茶を注ぐ。
「だって、結局教えて貰っていませんよ」
言い返したが、千春はゆっくりと紅茶をすすっただけだった。乃木は彼女のその反応に脱力し、ソーサーごとカップを持ち上げる。冷まそうと紅茶の表面に息を吹きかけると、湯気が顔に跳ね返った。
「カークランドの言う通りだと思うがね」
馬鹿の行き場がないという事だろうかと、乃木は思う。そんな理由で軍隊を作られてもたまらない。
「そんな理由で軍隊を? 軍人だって、かなり勉強しますよ」
「警備隊の中途採用枠なら、知識はあまり必要ない。神はね、とにかく職を与えたかったのだよ」
「警察では駄目だったんですか?」
「一度で命令が行き渡るに越した事はない。同じ機関として統合した方が、動かしやすかったのさ。今ある古い企業の殆どはね、軍から出た技術者や学者が立ち上げた会社だ。何しろ仕事内容も忘れていたから、他は殆ど崩壊していたんだよ」
治安維持を優先した、という事だろうか。確かに治安が良くないと、何事も立ち行かないだろうとは思う。それでも乃木は納得行かない。
「何故軍隊だったのですか? 全て警察では駄目だった理由が分かりません。軍隊があるから、内戦が起きるのではないんですか?」
「神の意図を、私は知り得ない」
千春はチョコレートをまた一つ摘み、口に放り込んだ。真面目に話す気はないのだろうか。
「神は最も慈悲深く、聡明で、愚かな人間だったのさ。私はそれ以上を知らないし、知り得ない」
乃木は彼女のその言葉に驚いた。千春が神を愚かと言った事が、今までにあっただろうか。
彼女は何か知っている。けれどそれは恐らく、一介の軍人が知っていい事ではないのだろう。乃木はただの公僕で、神と世界の僕だ。国の内情に踏み込んでいい立場ではない。
「……賢者様は、神をご存知ないのですよね?」
「知らないよ。神主しか会えないのは、お前も知った事だろう」
「神について疑問が出るのは、当然だと思うんです。否定するわけじゃないんですが……」
何が言いたいのか、自分でも分からなくなってきた。乃木が言葉尻を濁して視線を流すと、千春は薄く笑って、腕を組む。さらりと、衣擦れの音がした。
「この世の疑問には、総じて答えがある。何故博打が合法化しているのか、何故軍隊があるのかというお前の疑問にも、全て答えはある」
千春は視線を窓の外へ向け、小さく息を吐いた。竹林はいつもと何ら変わりなく、ただ静かにさざめいている。夜の闇に溶ける新緑の竹藪は、不気味にさえ感じられた。
「だがその答えが出たら、人は苦悩するだろう。理由はどうあれ、悩むに違いない。無意味に己の意味を問うてしまうのさ」
一瞬の間の後、乃木は首を捻った。千春の言うことが比喩なのかそのままの意味なのか、それすら判断出来ない。
「自分の意味、ですか?」
「この世に人が在る訳さ。ロストが起きたのも当然だと思われてしまう事が、私は怖い。己に意味を求めて、それで答えが出なかったら、それは恐ろしい事なのだ」
自分の意味など、考えたこともなかった。それがどういう事なのか乃木には分からないが、千春が何かを隠したがっていることは分かる。神を知らない彼女が、神について隠さなければならないこと。
やっぱり乃木には、よく分からなかった。分からないが、聞いてはいけないのだろうと思う。隠すには、それだけの理由があるという事なのだろう。それよりも何故だか千春の目が、悲しそうに見えたのだ。
「済みません、僕……」
千春は掌をかざして、乃木を止めた。計ったようにノックの音が聞こえたが、千春が返事をする前に勢い良くドアが開く。
「どういう事です!」
乃木は思わずびくりと全身を跳ねさせて、怒鳴りながら飛び込んできた女を見上げた。その整った顔を認めた所で、今度は硬直する。
「やあ、どうしたね騒々しい」
千春は叩きつけるように後ろ手でドアを閉めた芙由にも動じず、のんきにそう聞いた。乃木は息をひそめて、事の成り行きを見守る。乃木にとって、芙由は何よりも怖い。
「どうしたじゃありません!」
千春の前までつかつかと進み出た芙由は、眉をつり上げて再び怒鳴った。敬語ではあるが威圧的なその声に、傍で聞いているだけの乃木が萎縮する。
「まあそう怒るな。綺麗な顔が台無しだ」
「カークランドと同じ事を言わないで下さい」
千春が顔をしかめたのを見て、芙由は少しばかり落ち着いたようだった。彼女が振り返る前に、乃木は立ち上がって敬礼する。
「お、お疲れ様です!」
「……ああ、ご苦労」
肩越しに振り返った芙由は今気付いたとでも言うように目を丸くした後、一つ咳払いして千春へ向き直る。千春は紅茶を一口すすって、芙由を見上げた。既に普段の微笑が戻っている。
芙由は飄々とした千春の態度を見て、益々眉をつり上げた。何を怒っているのか、乃木には全く分からない。
「雨支部に、本部旗の使用許可を出したそうですが」
乃木は思わず、え、と呟いた。今のところ本部旗の使用が許されたのは、教育部隊を除けば華との戦闘の際に応援を要請された、露支部だけだ。本部旗を掲げれば支部の隊も他州へ進入する事が出来るが、勿論掲揚が許可されるのは必要に迫られた場合のみ。今の雨に必要であるとは到底思えない。
目を丸くした乃木は、意味もなく千春と芙由を交互に見た。自分がそんな事を知ってしまって、いいのだろうかと思う。ついさっき、千春に深く知るべきではないと言われたばかりだというのに。
いい悪い以前に、既に二人の中からは、乃木の存在など忘れ去られているのかも知れないが。そういう人達なのだ。
「だったら何だね」
「必要性が感じられません。何か起きているとでも?」
切れ長の目を細め、千春は一瞬表情を消した。乃木は内心怯えるが、芙由は動じない。それどころか、益々勢い込んで千春に詰め寄った。
「何故許可したんです? 口をすっぱくして気をつけろと言っていたのは、あなたでしょう」
何の事なのか、乃木には分からなかった。何に気をつけるというのだろう。雨支部の話だろうか。
「必要があったからだよ」
「伊太が進軍して来るとでも言うんですか?」
瞬きしかけていた千春の目が、瞼を開ききったまま動きを止めた。乃木の胸中へ、さざなみのように不安が押し寄せる。胸騒ぎと共に大きな音を立てた心臓が、痛かった。
彼女達は、何の話をしているのだろう。芙由の言葉に対する千春の反応は、一体何を表しているのだろう。疑問に対する答えは乃木の中でも出ていたが、認めたくなかった。先見の明がある彼女達の話す事に、理由のない憶測がないことを、乃木は知っている。
「誰にそんな事を吹き込まれた?」
芙由は一瞬、僅かに顎を引いて口をつぐんだ。しかしすぐに、その薄紅色の唇を開く。
「動きがあるとすれば、それぐらいです。何かあったんですね」
冬の海に浮かぶ月を思わせる冴えた美貌は、感情の片鱗さえ窺わせない。ただ賢者を見下ろし、彼女の言葉を待っている。怒っているのではなく、これが普段通りの表情なのだろう。芙由は常日頃から無愛想だ。
千春は暫く黙り込んでいたが、不意に片手を上げ、細い人差し指で書架を差した。優美なその仕草につられ、乃木は彼女が示した方を見る。特に何も変化はない。その方向にはいつも通り、分厚い本の詰め込まれた書架が並んでいるだけだ。
「冷蔵庫に焼きプリンがあるよ」
乃木は混乱した。意味が分からない。このタイミングで、何故プリンの話が出て来るのかさえ分からない。そもそもこの部屋に冷蔵庫はない。
無表情のまま黙り込んでいた芙由は、千春が腕を下ろすと同時に指し示された方へ歩いて行く。書架の前まで行くと、彼女は木枠を掴んで横へ引いた。音もなく書架がずれ、白く四角い箱が顔を出す。
それは確かに、冷蔵庫だった。何故あんな所に冷蔵庫が隠してあるのかと、乃木は混乱する頭で考える。そもそもこの二人は、何の話をしていたのだろう。少なくとも、プリンの話などしていなかったはずだ。
一人混乱する乃木をよそに、芙由は冷蔵庫を開けて中から小さなプラスチックのカップを二つ取り出した。色合いから考えるに、中身はプリンだろう。プリンがなんだというのだろう。
カップを持って再び応接セットの方へ戻ってきた芙由は、千春と向かい合うようにして、乃木の隣へ腰を下ろした。乃木は慌てて肘掛けの方へずれ、隅で小さくなる。
横目で芙由を見た乃木は、しかしすぐに視線を逸らし、生唾を飲みそうになるのを堪えた。近くで見ると、圧倒されるほどの迫力がある。無論彼女にではなく、その豊かな胸に。
「いただきます」
そんな乃木など見えていないかのような芙由は、もったいぶるようにカップの蓋を開けた。表情は殆どないと言って間違いないが、彼女の横顔は、心なしか嬉しそうに見える。
「……え?」
思わず疑問の声を漏らすと、二人の視線が同時に乃木を向いた。乃木は更に萎縮して、亀のように首を竦める。
「何か?」
芙由は黙々とプリンを口に運んでいたので、千春が聞き返した。こっちが聞きたいと言いたくなるのをぐっと堪え、乃木は顔をしかめて千春を見る。
「なんだったんですか、どうしてプリンなんですか?」
別にそんな事を聞きたい訳ではなかったのだが、思わず口から出た。千春ははっとする乃木を無視して、ふうむ、と首を捻る。
「お前も食べるかい?」
「いや、食べたいわけじゃなくって」
この人たちは一体、何を考えているのだろうと乃木は思う。芙由はもう二つ目に手を付けている。そんなにプリンが好きなのだろうか。そもそも自分は何をしにここへ来たのだろうと、乃木は根源的な疑問を覚えた。
横目で隣の芙由を見ると、彼女は幸せそうだった。戸守中将は甘いものが嫌いだと聞いていたが、プリンは好きなのだろうか。しかしそんな事、今はどうでもいい。
「師団長殿は卵菓子が好きなのだよ。覚えておきなさい」
「え、あの……はい」
千春が楽しそうだったので、乃木は思わず頷いた。プラスチックのカップを重ねてゴミ箱へ捨てた芙由が、僅かに眉根を寄せる。恐ろしく食うのが早い。
「覚えなくていい。誰にも言うなよ」
「はい、すいません」
乃木には頷く事しか出来なかった。芙由が怖いというよりは、彼女が横にいると思うだけで緊張する。千春には慣れたが、芙由は今や乃木が所属する隊の最上位にいるし、そもそも滅多に会えない。話しかけられるだけで肝が冷えるのだ。
緊張する乃木のことなど知る由もなく、芙由は満足そうな息を吐いた。彼女も案外よく食べる。千春がチョコレートを口に運んだところで、乃木は我に返った。
「あれ、あの、さっきの話は?」
二人の視線が、また同時に乃木を向いた。心臓に悪い。
「さっきの話?」
「なんだったかな?」
千春はともかく、芙由がとぼけるとは思わなかった。満足して忘れてしまったのだろうかと、乃木は思う。それは流石にないだろう。
「忘れましたね」
「美味いものは罪深いな。中将、プリンを持って行きなさい」
「頂きます」
彼女達の考えることは、乃木には判らない。自分の目的は一先ず達成したが、乃木の中にはまた疑問が残ってしまった。何故彼女達は、こうも食べ物に目がないのかということだ。
乃木はちらりと腕時計を見る。そろそろ帰らないと、門限に間に合わない。気付かれないようにひっそりと溜息を吐いて、もう帰ろうと立ち上がった。