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神の国  作者:
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第三章 道なき道を 五

 五


 機は、確実に北米大陸に向かって進んでいた。アーシアは逸る気持ちを抑えるように、小さな拳をきつく握り締める。

 不安がないと言えば、嘘になるだろう。背に負った欧州大陸の命運が、重くのし掛かる。共に在ると言ってくれたキアラの命も、危険を犯してまでアーシアを逃がしてくれた、ラウロやフランチェスコの行く末も、この手にかかっている。けれど今は、無事雨にたどり着ける事を祈るしなかった。それが歯痒くも、もどかしい。

 アーシアにも、後ろめたさはあった。大陸の許可もなく出雲へ向かうのは初めての事だし、大陸の人々を置いて来てしまったような気分にもなる。華との内戦や他州の問題の処理などで多忙な出雲に、迷惑をかけたくなかった部分もある。それでも知事の手が賢者にまで伸びてしまった以上、出雲に助けを求めるしか道はなかった。

 自分はあまりに無力だと、彼女は思う。守るべき人々に守られて、支えられて、ようやくここまで逃げてきた。支えて貰わなければ、彼女はここまで逃げて来られなかっただろう。けれど、支えてくれる人が未だに存在している事を、アーシアは嬉しくも思う。

 総知事がテオドラの手に落ち、アーシアがあのホテルに軟禁されたのは、もう何年前になるだろう。彼女にとってはそう長い時間でもなかったが、人々が不信感を募らせるには、充分な時間だった。何しろ頻繁にメディアに顔を出していた欧州賢者が、ぷっつりと出なくなったのだ。不審に思わない筈がない。

 それだけなら、補佐官に何かあったと考えるだろう。けれどアーシアは見た目が幼いから、元々不安がる人も多かった。心配されるより先に賢者への不信感が増大し、敬意が失われてしまったのは、その影響が一番大きい。

 せめてアーシアがあと十でも歳を重ねた頃賢者になっていたなら、今、伊太はこうなってはいなかっただろう。自分のせいなのに自分ではどうにも出来ない事が、彼女には悔しく思えた。

「副知事は既に、雨に我々の保護を頼んで下さってます。州に入りさえすれば、安全でしょう」

 フランチェスコはレーダーと前方を交互に見ながら、二人に告げた。

「どのぐらいかかるの?」

「この機だと、マサチューセッツの空軍基地まで、あと七時間ほどでしょうか。すぐに着きますよ」

「あら、独に寄らないのね」

 独は気質が似ている為か、出雲と友好関係にある。総知事がテオドラの手に落ちた今も何かと反抗していると聞いたから、寄って協力を仰ぐのではないかと、アーシアは思っていた。

「様子見より、逃げる方が先決だと副知事が判断されましてね」

「確かに欧州大陸内の州は、あまり信用出来ませんね。どこまで手が及んでいるか分かりませんから」

 総知事がテオドラの側にいる限り、信用は出来ないという事だろう。そこまで信用が落ちてしまった大陸庁を、アーシアは悲しく思う。

「そうなんです。燃料的には問題ありませんが、北米の治空に入るまでは安心出来ません」

「飛行機が燃料切れになる前に、私のお腹が空いちゃうわ」

 それまで硬い表情を浮かべていたキアラが、ようやく笑った。彼女が笑うと、アーシアは嬉しくなる。

 軍人達から護国という概念が失われると共に、アーシアへの風当たりはきつくなった。キアラの前の警護は賢者の事などどうでもいいようだったし、話をする事もなかった。不敬であるとも思わなかったが、彼女は寂しかった。人々の心の中に、もう自分はいないのだと、そう思っていた。

 けれど、キアラは違った。アーシアの為に州を護れろうと思ったのだと、彼女は言った。賢者の愛する大陸を、この世界を守りたいのだと、キアラはそう言ったのだ。それがアーシアには、何より嬉しかった。

 伊太は狂い始めている。そんな中で彼女のような人と出会えた事が、どれだけアーシアの励みになったか知れない。相談に来た当時の高校生だった彼女から考えると、州を愛せる人に成長してくれたことが、泣きたくなるくらい嬉しかった。州を想い、信じてくれるキアラの為にも、なんとかこの大陸を建て直したい。

 人々に必要とされない事が、アーシアには悲しかった。賢者が存在する意味は、人々が必要としてくれる限りはあると言える。人々に不要と判断されてしまったら、賢者が大陸に生きる意味はなくなってしまう。それは途方もない時を生きる彼女にとって、何を否定されるよりも辛いことだった。

 独り立ちしたと言うにはまだ、欧州大陸は幼い。まだ世界には、神の加護が必要だとアーシアは思っている。神を愛するテオドラが、そうであるように。

「お腹が空いたなら、サンドイッチがありますよ」

 フランチェスコは足下の袋から大きなランチボックスを取り出して、キアラに渡した。出雲の重箱ほどはあるその箱には、サンドイッチがぎっしりと詰まっている。アーシアがよく食べると、副知事から聞いていたのだろうか。

 キアラは中身を確認して、申し訳なさそうに眉尻を下げた。アーシアは早くも伸ばしかけていた手を止める。

「済みません、何から何まで……」

 謝るキアラに、フランチェスコは声を上げて笑った。

「いいんですよ、曹長。不味いサンドイッチで良ければ、いくらでも作りますから」

「あなたが作ったの? すごいわね、私はマカロニも茹でられないのよ」

「アーシア様は、コンロに手が届かないんでしょう」

 思わず頬を膨らませてキアラを見上げると、彼女は笑顔でサンドイッチを一つ差し出してくれた。アーシアの好きなエッグサンドだ。

「もう、いじわるね」

 サンドイッチを受け取って、拗ねた素振りでそっぽを向いた。キアラの小さな笑い声が聞こえたので、アーシアはいい気分でサンドイッチにかぶりつく。美味かった。

「ワシントンへはこの機では入れないので、マサチューセッツまで迎えが来る事になってます。それまでご辛抱下さい」

「北米の賢者は、雨にいるの?」

「直々に迎えに来て下さるそうですよ。有り難いですね」

 珍しいことだと、アーシアは思う。北米賢者は軍人である事を選んだから総知事補佐官ではないが、出雲からの要請を受けて、世界中飛び回っている。勿論軍人としての仕事もあるので、忙しいものと思っていた。

 そうでなくとも、彼はわざわざ自らアーシアを迎えに来るほど殊勝な男ではない。彼は彼なりに心配してくれていたのか、それともまた、別の目的があっての事なのか、今の時点では判断出来ない。カークランドには気をつけろと出雲賢者は言っていたが、気をつけようにも、アーシアには彼が何を考えているのか、よく分からないのだ。

 ラウロが言うには、彼が伊太へ来たのも聖女の護衛の為だというし、彼の真意というものがさっぱり見えて来ない。何も考えていないのかも知れないが、そうなら出雲賢者はあんなに警戒したりしないだろう。彼女は人が考えている事について、心が読めるのではないかと思う程聡い。

「そういえば私、あの人が賢者様だと気付きませんでした。謝らないと」

 キアラはサンドイッチを食べる手を止めて、思い出したように呟いた。キースはアーシア以上に賢者らしくないので、無理もない。

「キースはそんな事気にしないわ。わんこって言っても、笑って許してくれるもの」

 キアラは一瞬驚いたような顔をしたが、彼女も軍部にいるから、北米賢者がお使い犬と仇名されていることは知っているのだろう。すぐに笑ってくれた。

 キアラには、笑っていて欲しい。燃えるような赤毛の彼女は、アーシアの太陽だ。彼女が傍にいてくれたから、アーシアは挫けずにいられた。キアラがアーシアを想ってくれたから、アーシアも州を憎まずにいられた。だから彼女のような優しい人達が幸せになれる州を、一刻も早く取り戻したい。

 テオドラを憎んだことも、少なからずあった。何故州を大事にしないのかと、憤りを感じたこともあった。けれどラウロと出会って、テオドラを憎むことも出来なくなった。愛されることが出来る人は、真に悪い人ではない。誰かに愛されている限り、その人はまだ立ち直ることも出来ると、アーシアは考えている。

 ラウロは、心からテオドラを愛していた。けれど幼少の砌より娼館にいて、人の暗い部分ばかり見て来たテオドラには、人を愛するという概念自体がない。ラウロはそもそもテオドラが自分の事を欠片ほども思っていない事を、知っていたのだ。

 そんなテオドラを哀れみ、ラウロは彼女を妻に迎えた。自分の力で少しでも彼女を変えてやれると信じて、彼女の望むようにしてやった。

 しかしテオドラは、ラウロの愛に応えてはくれなかった。彼女の心を占めるのは神だけで、他のものが入り込む余地はないのだ。

 信仰心は大事だと、アーシアは考えている。民衆に少しでも信仰心がなければ、善悪の判断も出来ずに州は荒廃する。テオドラの信仰心を咎めるつもりはないが、彼女のそれは、やはり異質だった。神を神として考えるのではなく、彼女は神を古代の神のように考えてしまった。だから神のいる州が豊かになると勘違いし、神の下に在りたいと願ってしまったのだ。

 テオドラの事情は、ラウロから聞いた限りでしか知らない。けれど彼女の人生は、彼女をそこまで歪めてしまうに足るものだった。そんな生を送ってしまう人がいる限り、伊太州はまだ過渡期にあるのだと、アーシアは確信したのだ。

 出来上がってさえいなければ、いくらでもやり直す事は出来る。一度壊して建て直すには時間がかかるが、過渡期にあるなら、いくらでも修正出来る。だから伊太はまだ、終わらない。欧州大陸も、まだ改善の余地がある。絶対に終わらせないと、アーシアは胸の内に秘めた想いを噛み締める。

「大分来ましたね。追っ手がなければいいのですが」

 硬い声で言ったフランチェスコの口元へ、アーシアはサンドイッチを持って行く。彼は朗らかに笑って、端を一口かじった。

「テオドラは信仰心が強いから、北米の治空にまで侵入する事はないわ。大丈夫よ」

 前方に視線を注いだまま、キアラは顔をしかめた。

「現場での判断は、軍部に任されます」

 キアラが何を言いたいのか、アーシアにも分かった。軍部はテオドラに操られているが、末端の兵士の意思まで動かす事は、出来よう筈もない。

「空軍の内情は存じませんが、一概に、他大陸の治空まで入り込まないとは言えないかと」

「でも構わず侵入したら……まずいのでは」

 その通りだろう。血気盛んな雨支部のことだ、他州の軍機が治空を犯せば、すぐさま攻撃してきかねない。しかし果たして、その判断が今の伊太に出来るかどうか。

「伊太空軍がそこまで愚かでない事を、祈るだけです」

 キアラは不安なのだろうと、アーシアは思う。責任感の強い彼女は、アーシアの無事だけを考えている。だから出雲へ行こうと言った時もすぐに答えを出さなかったし、アーシアの為に、出雲までついて行くのだと言った。

 アーシアは彼女のその姿勢が嬉しかったが、悔しくもあった。そこまで心配させてしまうほど、自分は頼りないだろうかと考えてしまうのだ。同時に、不甲斐ない自分の為に、どんな待遇を受けても軍を抜けなかった彼女の姿勢を悲しく思う。州の為に、身を捨てているようにしか見えなかった。

 アーシアは、キアラがいとおしい。キアラだけではない。欧州大陸に住む全ての人々を、平等に愛しく思っている。それなのに自分の為に生きられない人々が、こんなにも沢山いる。胸が締め付けられるように、苦しかった。

「希望を持ちましょう。神は必ず、私達を見守って下さってる。きっと、大丈夫よ」

 出雲のどこかにおわす神は、万人を見守っている。それは比喩でしかないが、確かに神は、どんな人をも平等に生かすだけの法律を作った。それはやっぱり、見守っているのだと言って間違いないだろうとアーシアは思う。

 昔は疑問に思う法律も、たくさんあった。娼婦という職業が合法化されている事も、アーシアには不思議だった。けれどそれは確かに、必要だったのだ。貧富の差がある限り、働きたいと思っても働けない人がいる限り、疑問に思われるような法律は改正されない。どんなに嫌なことでも、この世界が必要とする限りは、なくせないのだ。

 神は、進歩を禁じた。まずはロスト以前の歴史を知り、その文化と技術を学ぶべきだと、そう仰った。法の改正を行うのは、それからでいいのだと。けれどいつかは必ず、人の手で改正しなければならないのだと。

 この世界の法は、ロスト以前からあった問題を解決する事も考えた上で、神が作ったものだ。それを改正しなければならないと言う事はつまり、ロスト以前の世界に改善の余地があったということだろう。問題点を全てなくす為に、神は疑問に思われるような定めさえ作った。

 神が提示したそれらを全て解き、人道的な問題の残る定めを改正出来た時、この世界は真に自立したと言えるのだろう。その時こそきっと、この世界は進歩を許されるのだ。

「神……か」

 フランチェスコはぽつりとそう呟いて、前方を向いていた視線をレーダーに落とした。瞬間、目を見開いてそこに顔を近付ける。彼のその反応に、キアラの表情が硬くなった。

「け、賢者様。二百キロほど後方に、機影が……」

 アーシアの心臓が、どくりと音を立てた。まだ雨の治空に入るまで、二時間はかかる。こんな所で追い付かれるとは、誰も思っていなかっただろう。

 独製の機は伊太製よりレーダーの性能はいいし、単純に速度も上だ。けれどそれは戦闘機の場合で、この機は流石にそこまでのスピードは出ない。自家用ジェット機しか手配出来なかったのは、足が着くのを懸念した為だろう。

「もう気付かれたの?」

「分かりません。ばれていれば、先に通信を試みるかと……この速さだと、戦闘機でしょうか」

「レーダーの性能は、欧州内では独製が一番でしたね。こちらの機は小型ですし、まだ向こうの可視範囲内に入っていない可能性もありますが……」

 時間の問題だろう。キアラはわざと言葉を切ったが、近年開発された機械に疎いアーシアにも、それぐらいは分かる。何しろ向こうの方が遥かに速いのだから、このまま飛んでいればいずれは追い付かれる。その前に、北米に入ることが出来るかどうか。

「こっちは所詮自家用ジェット、音速の壁を超えられません。そもそも何故向こうが、追っ手に戦闘機を付けたのか理解出来ませんよ。何考えてるんだ空軍は」

 忌々しげに吐き捨てたフランチェスコは、顔をしかめて力なく首を横に振った。

「鼠捕りのつもりなのでしょう。確かに脅しには有効ですが」

「撃てないことぐらい、こっちだって分かっているわ。テオドラの判断じゃないわね」

 言い合っていても仕方がないことぐらい、分かっていた。アーシアには、せめて見つからないことだけを、祈るしかなかった。

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