第三章 道なき道を 四
四
迂闊だった。テオドラは憎々しげに顔を歪めて、長い爪を噛む。
賢者を軟禁していたホテルのオーナーが、役所の案内係と共にテオドラの執務室に飛び込んで来たのは、朝も早い時間だった。必死の形相で平身低頭謝り倒す彼から、何があったか聞き出すのにも骨が折れたが、テオドラが状況を理解するのにも時間を要した。まさか起こるとは、思ってもみなかった事態だ。
賢者が、逃げ出した。警護の軍人も一緒に逃亡したというから、逃げられない為に見張りを置いた事が、仇となったのかも知れない。警護に就かせる者の経歴は徹底的に調べ上げていたつもりだし、賢者に肩入れしていたとしても、連れて逃げられるような力はない筈だった。手引きをするような者も、今の時点では思い当たらない。完全に油断していた。
テオドラが賢者を捕らえていたのは、民衆の中に根付いていた彼女への崇拝心を失わせる為だった。この伊太は賢者の出身州という事もあってか、彼女の思想を最重視する部分がある。それがそのまま神への信仰心と繋がっていた為、州知事が介入する余地がなかったのだ。それを長い時間をかけて変えたというのに、賢者が逃げたとあっては全てが無に帰してしまう。
彼女自身にも、賢者への畏敬の念は少なからずあった。けれどそれは神への想いの前にはあまりに弱い感情で、神の為ならば、賢者を冒涜する事になろうと構わないと思っていた。その分絶大な影響力を持つ賢者は、彼女にとって邪魔でしかなかったのだ。
賢者が政治介入出来ないようにする事によって、テオドラは賢者に対する民衆の不安を煽った。これが出雲や大洋であったなら、賢者を隠した位で人々は変わらなかっただろう。
簡単に人々の感情を変化させる事が出来たのは、賢者が少女の姿であったからに他ならない。幾ら賢者が老いないとはいえ、あんないたいけな少女が頑張っているのだから、という思いは人々の中にあった。それは覆せば、子供が政治を任されているという不安にもなり得る。
テオドラはそこを突いて民衆の不安を煽り、州の内部を金と体で掻き回して、ここまで上り詰めた。生まれ育った場所がこの州であった事さえ、神に感謝した。他の州なら、ここまで上手くは行かなかっただろう。それなのに、賢者が大陸内の他州に保護されてしまったら、元も子もない。
初めは出雲と友好関係にある独州に逃げたのかと思ったが、独方面の州境警備隊は、不審な車も航空機もなかったと報告してきた。欧州大陸とあまり仲の良くない阿弗利加大陸へ逃げるとは思えなかったし、寒波が押し寄せるこの時期の露へ向かうのは自殺行為だ。直接向かうには、出雲はあまりに遠い。それなら賢者は一体、どこへ向かったのだろうか。
賢者が行方不明であるとの報告を受けてから、早一時間。時間ばかりが無為に過ぎ、テオドラの焦りの色も濃くなって行く。逃げ出すなら夜の内を選ぶだろうと考えられるので、まだそう遠くへは行っていない筈だ。なんとしてでも、追っ手をつける余裕がある内に見つけ出したい。
「警護と一緒に逃げるなんて、思ってもみなかったわ。何の為の見張りだったか分からないじゃない」
「軍の調査不足だったな。軍人の中にも、未だ賢者を尊敬する者はいたという事だ」
疲れた声で呟くラウロを、テオドラは噛んでいた爪を口元から離して睨み付けた。
「呑気に言っている場合じゃないわ。大陸内ならまだ連れ戻す余地はあるけど、北米の治海にでも入られてご覧なさい。手出しも出来なくなるわ」
境界が曖昧な海空は大陸ごとに治める事になっており、それぞれの支部の近衛師団が警備を担当している。州土と同じように他大陸の軍が侵入すれば罰せられる為、賢者が北米管轄の領域に入ってしまえば、追う事さえ出来なくなる。
雨は出雲の犬。テオドラはそう思っている。出雲という巨大な権力に追従した雨が、賢者を見つけたら保護しない筈がない。そうなったら、テオドラの野望はここで潰える。それだけは、あってはならない。
何年に渡って、この州を操って来ただろう。州が完全にテオドラの意のままに動くようになって、まだそう長くは経っていない。それだけの時間を費やして、ここまで上り詰めたのだ。今更一からやり直す事など、出来はしない。
神に背くような事があろうと、テオドラがここまでやってきたのはただ、神の為だった。神への強い崇拝心が為に、テオドラは州を動かすまでの権力を握った。神への深い信仰があったからこそ、今まで裁きもなく進んでいたのに、それが何故、今になって破綻しようとしているのか。
最早テオドラには、祈る事しか出来なかった。早く見つかってくれと、ただそれだけを願う。賢者が他州の手に渡る前に見付けられれば、まだ望みはある。神に見捨てられてはいないのだと、確信を持つ事が出来る。
「海を越えて雨に行くだろうか? 下手をすれば、攻撃されかねないぞ」
「雨だって警告もせずに撃ったりはしないでしょう。個人所有の船が航海してる事だってあるのに……」
そう言ったところで、はっとした。民間機や個人所有のクルーザーならば、不審とは思われない。他州へ出るのも自由だし、こちらの警備の目も誤魔化せる。軍人と一緒に逃げたというから、軍所有の航空機か艦、もしくは民間人に紛れて、旅客機か輸送船を使ったものとばかり思っていた。
賢者側は今、逃げようと必死になっているだろう。そんな時に、呑気に時間のかかる船を選んだりはするまい。更に彼らは、テオドラの支配がどこまで及んでいるかを知らない。総知事がテオドラの側にいる以上、大陸内は危ないと判断するだろう。ならば、行き先は一つ。
間違いなく、空路で雨へ飛んでいる。テオドラはデスクの隅に押しやられていた電話を取って、空軍に連絡を取る。傍らに立つラウロは、どこか不安そうに彼女を見ていた。
「テオドラよ、急ぎの用事なの。昨夜州境を越えて北米大陸へ向かった個人所有の機がないか、調べて頂戴」
ややあってから、一機あるとの返答があった。一機しかなかったのなら何故問い合わせた時にそれを言わないのかと、テオドラは苛立つ。やり場のない怒りと焦燥感から、火が点いたかのように胸から喉へ熱が込み上げた。
「今すぐ追いなさい! 乗員の数だけでも確認したら、連絡して。いいわね」
苛立ち紛れに電話を叩き切って、テオドラは深い溜息を吐いた。融通が利かない軍人は、言われた事しかやらない。そのように仕向けたのも彼女自身なのだが、そんな事を考えている余裕は、今のテオドラにはなかった。
なんとしてでも、連れ戻さなければならない。ここで逃げられたら、今までの苦労が水の泡となる。賢者が出雲へ渡ってテオドラを糾弾したならば、何もかも剥奪されてしまうだろう。それどころか、この州にさえ居場所がなくなってしまうかも知れない。
それだけは、あってはならない。この州でなくては意味がないのだ。かつてこの州の中にあった、世界で一番小さな国に神を迎えなければ、テオドラのしてきた事は何の意味もなくなってしまう。
この州に神がいれば、伊太もきっと出雲のようになれる。差別も誰かのせいで傷付く人もいない、平和な州に。神を愛し、神の為に生きる事が出来る。
テオドラはただ、神が欲しかった。実際に神が近くにいるのだという、安心感が欲しかった。
「……はい、オルトラーニ」
無機質な呼び出し音が鳴った瞬間、テオドラは電話を取った。電話の主は焦ったような声で、海上に北米大陸へ向かう機がある、と告げる。
「それだけじゃ分からないわ。乗員は?」
電話を掛けてきた総大将は、パイロットの他に乗員を二名確認した、と告げた。賢者と共に逃げた軍人に航空隊にいた事実はないので、パイロットが別の協力者だと考えれば頭数は合っている。その機を追ってくれと伝え、テオドラは電話を切った。
米大陸へは民間の旅客機を使った方が早く着くし、コストも安い。州中が混乱する中そんな金をかけてまで、わざわざ自家用機で北米大陸まで行くような物好きもいないだろう。つまり空軍が発見した航空機には、賢者等が乗っていると見て間違いない。やはり協力を要請出来そうな賢者がいる、雨に向かったのだ。
己の読みが当たっていた事を、喜んでいる暇さえなかった。それしきで喜んでいる場合ではない。自家用ジェット機と比べれば、空軍が所有する戦闘機の方が遥かに速いに決まっているのだが、まだ追いつくかどうかさえ分からない。向こうがどの辺りにいるかさえ分からないのだ。
気持ちばかりが焦って、テオドラは掌に爪が食い込む程に拳を握る。そうして自制しなければ、落ち着いていられなかった。
「雨が……動かなければいいな」
ラウロの言葉に、テオドラは頷く。雨に喧嘩を売ったところで、到底敵いはしない。出雲以上に富裕なあの州は、軍部に割く予算も他州の比ではない。雨に出て来られたら、泣き寝入りするしかないだろう。
「雨に保護されたら、間違いなく出雲に連れて行かれるわ。そうなったら終わりよ」
ラウロは黙り込んだまま、顔をしかめて足下を見詰めていた。そうなればどの州も、テオドラの敵となり得るだろう。世界中から敵視されたら、さしもの彼女にも勝ち目はない。
「華の事もある。今は大人しく、州の復興を進めるべきでは? 今のままでは、伊太が危ないだろう」
「それだけ進めたって意味がないのよ。賢者が出雲に行ってしまったら……」
テオドラはふと、そこで言葉を止める。法律では、賢者が出雲と州知事達の許可なく他州へ出る事は禁じられている。北米賢者は軍人である為、出雲賢者が代理として置かれているので問題ない。しかしこの欧州大陸には、勿論賢者の代わりを務められる者など存在しない。大陸と出雲の許可もない筈だから、今回の賢者の逃亡は違法だと言える。
そこを突ければ、まだ勝機はある。例えこちらが糾弾されたとしても、州は最早テオドラの手の内だ。そう簡単には潰れないだろう。このまま最終手段に出てしまえそうな気さえする。
テオドラの最終的な目標は、神を出雲から奪うこと。知略に長けた出雲賢者がいる限り頭脳戦では勝機もないし、唯一神を知る神主の姿も見えてこない。聖女を利用することも考えたが、出雲が州ぐるみで詳細を隠し通している為に、手の出しようがない。使者として来た時は北米賢者がいたから、逆にこちらが向こうの忠告を聞かざるを得なかった。神の島たる首都出雲に、穴はないのだ。
つまり、武力行使しか道はない。賢者が違法に大陸を出たという事実さえあれば、出雲へ進軍する大義名分が出来る。時期尚早という感もあるが、テオドラの目的は覇権を握る事ではない。別段、伊太州の軍だけを使う必要はないのだ。
今なら、協力出来るかも知れない。
テオドラは、覚えず笑みを浮かべた。まだ、神は自分を見捨ててはいない。一時は窮地に立たされたものと思ったが、信仰心は何よりも強いのだと、彼女は確信する。
「華に連絡して頂戴、ラウロ。陳を出し渋ったら、総知事から連絡させる」
ラウロの顔が青くなった。テオドラがどう動こうとしたのか理解するだけの頭はあるようだが、相変わらず小物だ。彼が青くなろうが赤くなろうが、最早テオドラの知った事ではない。己の悲願を成就させるだけだ。
「テオドラ……それは」
ラウロの声は、震えていた。当然だろう。ロスト以降の歴史の中で、内戦が起きたのは出雲と華の間だけだ。この世界の人々は、誰一人として戦を知らなかった。そして今でも、出雲に協力した地域と華の軍人以外は、戦争というものを知らない。
無論テオドラも、知識の中でしか知らない。けれどそろそろ、世界は戦争を知ってもいい頃だろうと考えている。軍があるのだから、使わずしては何事も成せない。
「分かるでしょう? もう手がないのよ。賢者はとりあえず追わせるけど、もう連れ戻す必要はない」
テオドラの決意の固さを、思い知ったのだろう。ラウロは青ざめた顔をしかめて、深くうなだれた。彼に拒否出来よう筈もない。州がこうなったのもテオドラがここまで上り詰めたのも、ラウロの軽挙が原因だからだ。
内戦は、到底彼の望むところではないだろう。この州の民も、きっと望みはしない。
だがそれでもいい。誰が何を望もうと、今のテオドラには関係ない。それでもラウロは、テオドラに逆らわない。男というのはあまりに愚かで、小さなものだ。あるはずもない愛を信じて、容易に掌の上で転がされてくれる。
腐敗したこの州は、それでもまだ終わらない。テオドラが手綱を引いている限り、崩壊寸前の軍部も終わらないだろう。州が終わらない限り、テオドラにも終わりは来ない。神だけを信じ、神だけを愛してきた彼女に、最早終わりなど見えなかった。
最早進むだけだ。危機も好機に変え、何を犠牲にしようとも、得るべきものの為にひたすら進む。今のテオドラには、未来しか見えてはいない。
その為ならば、数百年の間安寧を保ってきたこの世界に、一石を投じる事だって出来る。テオドラも、別段内戦がしたかった訳ではない。けれどそれは、彼女にとって必要不可欠なことだった。世界を動かすのは人であり、神の僕だ。歴史を変え、この世界の理をも、この手で変えて見せる。
肩を落として出て行ったラウロの背中は、悲しげに見えた。あの貧相な背に州が負われていたと思うと、テオドラは笑いを堪える事が出来ない。
陳は断らないだろう。今までも火器の供給を請うて来ていたのだから、それをちらつかせてやれば、華は断れまい。何よりあちらには、一度軍を動かしたという経験がある。それと伊太の兵器があれば、出雲とも渡り合える。
必ず、出雲を落とす。そう固く誓い、テオドラは総知事へ連絡すべく電話を取った。