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神の国  作者:
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第一章 守人たち 二

 二


 冬のゴビ砂漠は、時にマイナス四十度にまで気温が下がる。雨が降らない為に動植物は育たず、ただ乾いた冷たい風が吹き抜けるばかりだ。見渡す限り岩と砂ばかりの、荒涼とした風景。容赦なく吹きつける風を遮るものもない極寒のこの地で、自衛陸軍出雲本部の第三師団は、孤独な戦いを続けていた。

 退く事も進む事も能わず、彼らはただ、境目を守る。神が定めた規律を遵守し、それを破る者には裁きを下し、必要とあらば神の為に戦う。それが唯一無二の使命であり、彼らの生きる意味だった。

 乾いた風に乗った兵士達の声は、黄砂と共にどこまでも響き渡る。舞い上がる砂塵、靴底が砂を噛む軋んだような音、鉄錆のそれに似た血臭、金属同士がぶつかり合う高い音。

 何故だかその全てが、指揮官の癇に障った。憤っている場合ではない。常に平静を保っていなければならない立場でありながら、彼女は焦燥感を隠せない。

 やり場のない怒りと、焦り。どうすることも出来ないもどかしさが、彼女の肩に力を籠もらせる。一体こんな事に、何の意味があるのだろう。答えの出ない疑問ばかりが、浮かんでは消えて行く。国内で幾ら争おうとも、神の地位は変わらない。例え出雲が負け、万が一神が失われようとも。神とはそういうものなのだ。

 銃火器の使用を許されない彼らは、頼りない装備での白兵戦を強いられる。砂漠地帯での戦闘で甲冑や鎧のような重い装備は向かないし、自重で沈み、足を取られて自滅する危険もある。

 それでもはじめは、向こうも同じだった。同じ砂色の戦闘服で、同じ手槍を持ち、同じ戦い方をしていた。当然だろう、元は同じ自衛軍だったのだから。

 それがいつからか向こうの装備だけが重々しくなり、こちらは防刃繊維対策の為、槍より刀を使うようになった。出雲本部の部隊だけが所持、使用を許される刀なら、槍より短い分小回りが効くし、叩き潰すという点では適している。動きが鈍くはなったものの個々の防御力が上がった相手方とまともにやり合うには、とにかく身を軽くするしかなかった。

 今では敵味方入り乱れて混戦しようと、全く別の軍だと一目で見分けがつく。今では華国軍を名乗っているとはいえ、古代の戦士のような彼らとこちらは、公的には同じ軍の一員だ。幾ら争おうとも、立場に変わりはない。戦場に出ない華支部の部隊は、今も出雲の保安部隊と同じように、同じ国の治安維持に尽力している筈だ。

 同じ国を護る立場であった筈なのに。同じ信念を、持っていた筈なのに。

 いつから違ってしまったのだろう。無線機から絶え間なく漏れる小隊長達の声を聞きながら、戸守芙由ともり ふゆは双眼鏡越しに目を凝らして、砂煙の中を見つめる。寝不足と精神的な疲労感からか、目が霞んでよく見えなかった。防塵ゴーグルが着けられないので、ずっと双眼鏡を覗き通しであるせいかも知れない。

 有事において司令部は、本来なら天幕の中で、指揮システムを通して末端の兵士までを統率する。けれど芙由は戦場にあっては同じ駒であるという意識の下、戦場からほど近い場所で、戦況を見守る。人の死を見ない指揮官に、正しい采配は下せない。上から散々言われはしたが、このスタンスを変えようとは思わない。間違っているとは思っていないし、全滅でもしない限り、指揮官である我が身の安全は保障されている。

 口元までを覆っていたマフラーを僅かに下げ、芙由はようやく送話機を口元に当てた。風に乗って宙を舞う黄砂は、容赦なく露出した頬を叩く。

「……河内こうち小隊、何をしている。押して駄目なら引け。全滅させる気か?」

 無線もトラックも指揮システムも、化学繊維もある。ないのは火力だけだ。目には目をと定められた軍規の通り、保有していても銃の使用は許されない。出来る限り銃を使いたくはなかったから、向こうに未だ技術者が現れない事が、唯一の救いだろうか。

 それでもいずれは、本当の殺し合いになるだろう。今はまだ死者も少ない方だが、火器が持ち出されればこの程度では済まない。その前に、止める事が出来るかどうか。

「作戦コードゼロハチ。第三大隊は右、第一、五大隊は左。残りは指示通りだ。迅速に……っ」

 喋った際に砂を吸い込んで、芙由は少し噎せた。再び口元を覆った布の下で、砂を噛む音が微かに聞こえる。

 舞い上がる砂と同じ色の兵士達が、槍をかいくぐりながら次々と集団の外側へ出て来る。相手方も追おうとするが、俊敏さではこちらに遠く及ばない。砂に足を取られて、思うように進めないようだった。これで包囲させてくれれば楽なのだが。

 砂色の山の中から、血の飛沫を上げて丸いものが飛び出す。風上に立っている為、戦場の喧騒は彼女の所まで届きはしないが、その様子は双眼鏡越しに明確に見て取れた。人山の中に落ちたのは、鉄帽を被ったままの、人の頭部だった。

 あれは、誰のものだったのだろうか。痛む目をきつく瞑りながら、芙由は考える。或いは、誰のものでもないのだろう。顔のない兵士は、死んでから一個として認識される。遺体が形を保っているだけ、まだ増しだ。

 ここ数年でかなりの進化を遂げた防刃繊維でも、衝撃までは吸収してくれない。槍に突かれれば串刺しは免れるものの骨は折れるし、痛みもある。気を抜けば先程のように、生身の首を狙われる。

 せめて、もっと装備を整える事が出来たなら。そうは思えど、本来自衛軍はその名の通り国を守る為の集団であって、戦う為にはない。敢えて防御の姿勢を取らない事には、犯罪者の対抗意識を薄める目的もある。それでもこうなった以上は、必要であろうと思う。

 黄砂を染める血は、誰が流したものだろう。がむしゃらにただ突いて切り払うだけの相手方とは対照的に、自軍はあくまで冷静だった。そのように教育され、そのように動いている。死を恐れるのではなく、受け入れるようにと。

 だから平静を保っていられる。無論駒となって国の為に死ねと言われても、死は恐ろしいだろう。特殊な地位にある彼女が近くにいる事で、彼らは駒となり得る。芙由にとっては部下達のその姿が頼もしくもあり、悲しくも思えた。

 始まるまでは恐ろしく長く感じたが、終わるのは早かった。囲まれて戦意喪失した敵兵の手から次々と挙がる白旗を見ると、芙由は目頭を押さえて緩く左右に首を振る。

 あちらもこちらも、まだ戦争というものをよく知らないでいる。戦争のし方など、神は教えてはくれなかった。教えてくれる筈もないだろう。この国で、殺人罪は極刑に値する。護国の為の犠牲ならば問わないとはされているが、ここで生きて戻っても、軍人達は死ぬまで罪の意識に苛まれなければならない。

 内紛だったのが内乱となり、内戦と化したのが、つい二十年ほど前だっただろうか。ついこの間まで小隊同士の小競り合いで済んでいたのが、今やお互い師団を繰り出しての戦闘となっている。賢者達が持つ記憶から引っ張り出される戦争の作法は、未だ完全に浸透しきってはいない。

「師団長、捕虜は……」

 芙由は首から提げていたゴーグルを着けながら、駆け寄ってきた副官に視線を向ける。長時間外気に晒されていた彼の顔は、寒さと乾燥で真っ赤になっていた。

「隊長格だけ捕らえて追い返せ、これ以上送ったら収容所を拡張しなければならなくなる。処理が終わり次第、本部へ連絡する」

「了解。中将、トラックへお戻り下さい。今日は事のほか風がひどい」

「いい。どうせもう肺の中まで砂だらけだ」

 腕時計をちらりと見ると、針は午後四時を指していた。時間経過を知ると、急に空腹が襲ってくる。

「きりがないな……ゴキブリ並だ」

 一つに括った髪を背中へ払いのけ、芙由は小さく毒づいた。


 遠くから、軍靴の音が聞こえてくるような気がした。砂漠で足音が聞こえる筈はないのに。華支部の師団が不当に掲げた真っ赤な軍旗が、眼前へ迫ってくるような気がする。天幕の中にいて、そんなものが見える筈はないのに。

 ここへ派遣されてきてから、芙由はずっと、そんな幻聴と幻覚ばかりに神経をすり減らしている。臆病風に吹かれている訳ではないし、恐れてもいない。軍人として百と数十年もの間生きてきた彼女に怖いものなど、最早存在しない。

 ロスト以降は軍事目的以外での生産と保持を禁じられ、回収されて出雲へ集められた銃火器の保有数は、こちらとあちらでは比べものにならない。州の規模自体に大きく差がある為、兵数では劣るものの、質で見劣りはしない。そう信じている。それでも、ひどく緊張していた。

 どれほど叩いても果敢に攻めてくる華の執拗さには、芙由もうんざりしている。今のところ護りきっているだけまだいいが、砂漠地帯での防衛戦は分が悪い。砂地に慣れている地元支部は、州内の治安維持だけで手一杯で、協力を要請する事も出来ない。

 出雲の軍人達にとっては、辛く孤独な戦いだった。だからこそ、芙由は想う。この地に染みた、出雲の軍人達の血を。黄砂に吸われた、数多の命を。それを思うだけで苛立ちとも焦燥ともつかない感情に全身が震え、緊張感に支配される。

「師団長」

 背後から掛けられた声に、芙由は思考を中断した。肩越しに振り返った彼女へ、声を掛けた副師団長が一礼する。

「今の所は静かです。兵糧の供給が尽きたのではないかとの報告も」

 芙由は整った顔をしかめ、膝に視線を落とす。一直線に切り揃えられた前髪の下で、冬の海を写し取ったかのように澄んだ双眸が細くなった。細い眉は凛々しく吊り上がり、白い細面を引き締めている。歳若いようにも見える彼女はその実、賢者達と同じほどの年数を生きてきていた。

「それはないだろうが、不気味だな。露の空挺隊は?」

「変わりありません。一進一退と」

「本当にそう報告されたならバヤンホンゴルから出るなと言え、溝口みぞぐち。我々は華を潰しに来た訳ではない。州土は侵すな」

 はっとして目を見開いてから、溝口は頭を下げて謝辞を述べた。芙由は鷹揚に頷く。

 有能な部下だ。女の上官に対しても礼儀は尽くすし、反抗もしない。出雲島民にありがちな、自分の意見を持たないというような事もない。彼が副師団長で良かったとも思う。

「戸守中将。向こうは完全に、白兵戦の為の装備を整えております」

 芙由は無言で頷いた。

 言われなくとも分かっている。自衛軍は本来殺傷をその任務としない為、威嚇の為の槍と銃は持てどもそれだけだ。内戦が起きる事を想定していなかったと言うよりは、身を守る必要がないと言った方が正しいだろう。

 殉職を美徳とし、軍人は神の国を守る為なら死をも厭わない。出雲本部の兵は皆そのように教育され、そのように生きる事を強要される。

 身を守るものは不要であり、神の為に命を捧げる事こそが、軍人の誇りだった。否定はしないし、芙由が戦場に立つ理由もその通りだが、正しいとは思っていない。

「今はまだ策が残っていますが、いずれパターン化すれば数で劣っている分、こちらの不利は火を見るより明らか。今の内に、出雲に……」

「自衛軍規第三条を言ってみろ」

 俄かに狼狽える溝口を睨むような目で見上げたまま、芙由は待つ。覚えていない筈もない。

「……軍人は国を守るべくして存在するものであり、」

「我々が戦うのは護国の為だ。チンケな命を守る為ではない」

 溝口は更に萎縮し、唇を引き結んだ。乾燥して荒れた唇は所々ひび割れて、血が滲んでいる。

「我々は生きる事に執着してはならない。軍人となり神に仕えるからには、有事とあらば神の為に戦い、死ぬ。それだけだ」

 すぐには答えず、溝口は下を向いたまま拳を握った。言葉を選んでいるのだろうと、芙由は思う。どう返すか、考えあぐねているのかも知れない。

 ここへ来てから、二ヶ月程経っただろうか。本来仲間である筈の軍人達が反旗を翻し、華国軍としてこの蒙古へ侵攻を始めた事もまだ、記憶に新しい。その短い間に、何人が死んだだろう。協力を仰いでいる露支部を含めた全体の事など、逐一把握してはいないし数える気もないが、その全ての死は、神の為だった。

 戦死は軍人にとって最高の名誉だが、それが幸せだとは、誰も思ってはいまい。芙由とて下らない幻想を抱いて、部下達を無駄死にさせる気はない。誰も戦死したいとは思っていないだろう。出来るなら、無為に命を落とさせる事のない裁量を下したい。

 それが不可能だから、彼女は震える。緊張と人の死に、殺さなければならないという切迫感に。誰一人として死なない戦争など、存在しないのだ。

「戸守中将。我々にとっては、死ぬ事がこの内戦の意味なのでしょうか」

 長い睫を伏せて、芙由は溝口から視線を逸らした。途方もなく長い年数の中で、何度部下から同じ事を問われただろう。

「意味などない。我々の目的は神と国を守る事だ。護りきるまでここから動いてはならないし、神が定めた境は、一ミリたりとも動かしてはならない」

 問われた時の返答も、同じだった。いつもこんなありふれた言葉を返し、その後に叱咤する。けれども今回ばかりは、怒る気にならなかった。

 烈風に煽られ、天幕がはためく。どこからどこへ吹き抜けているものか、女の泣き声のような風の音が、芙由の癪に障った。けれどどんなに憤っても、ここからは動けない。戦闘を前提として、他州へ入ってはならないからだ。それが余計に、彼女を焦らせる。

 他州へ進行してはならない。護国を目的とする以外の理由で、他州へ進軍してはならない。華はその軍規を犯した。本来指導者は重罪人として捕らえられて然るべきだが、それが出来ないから、こうして手を拱いている。それが出来れば、すぐに終わる話なのだ。

「私は神を護る。神の国を、神の島の民たる誇りを。その為なら何も持さない」

「あなたがそう仰るならば、我らは引きません、戸守中将。あなたの裁量に、間違いはない」

 深い皺の刻まれた顔には、疲労の色が濃く表れている。それでも彼は、上官に笑って見せた。細い目が緩やかな弧を描き、まだ四十代だというのに好々爺のような顔になる。

 芙由は小振りな唇の端を僅かに上げ、笑い返す。彼の笑顔を見て、少しだけ、気が晴れた。

「溝口、私はこれから軍人らしからぬ事を言う。右耳から左耳へ通して聞いた端から忘れて行け」

「左から右でも?」

「どちらでも」

「了解」

 すきま風が、足下を吹き抜ける。あまりにも静かだった。

「神の為に、この境を断固として守る。それが我々の死命だ。護りきるために死んで漸く、我々はやっと出雲の英雄たり得る」

 芙由も別段、英雄と持て囃されたい訳でもない。溝口もそうだろうが、彼は黙って頷いた。

「だが、本当に死んだらただの馬鹿だ。英雄として褒めそやして貰えはするだろう。だが、それだけだ。神は殺人という大罪を犯した我々を、褒めてはくれまい」

 大した声量ではなかったが、天幕を叩く風の音にも負けない程、強い声だった。

「華を退け、生きて戻れば我々には次がある。この先がある。誰の命も、こんな不毛の地で終わるべきではない。そうだな」

「その通りです」

「ならば私は、出雲島民の為に采配を振ろう。出雲島民たるお前達が、生きて再び神の地を踏めるように。こんな淋しい所で、今以上の死者が出ないように。軍は、人を守るものなのだから」

 直立不動の溝口が敬礼したのを見て、芙由は微かに笑った。

 芙由はゆっくりと立ち上がり、膝の上に置いてあった軍帽を被り直す。冷えた視線を華州のある方角へ向けた彼女はもう、笑ってはいない。

「参謀部を召集しろ」

「動きますか?」

「それをこれから決める。動けはせんがな」

 涼やかな横顔が、帽垂れの陰に隠れて見えなくなる。携帯電話機の受話器を上げる溝口を、芙由は視線だけで見つめていた。

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