第三章 道なき道を 二
二
副知事が訪ねて来てから、一ヶ月が経った。こっそりと荷物を纏めたアーシアは、ベッドの上に座って迎えを待っている。キアラは片付いた部屋を眺めながら、椅子に座ったままぼんやりと考えていた。
キアラはずっと、悩み続けていた。けれど彼女の返答を、アーシアは急かさない。悩むたちだと知っているからだ。
彼女が初めてアーシアを見たのは、テレビの中だった。その時にはもうアーシアの見た目と同じ位の年齢だったが、記憶しているのがその場面というだけで、もっと前にも見た事があったかも知れない。ただその時の記憶だけが、やけに鮮明に残っている。
その時はアーシアのきらきらと輝くプラチナブロンドと、愛らしい顔立ちを見て、子役だと思ったのだ。自分の赤毛にコンプレックスを抱いていた彼女は、単純に羨ましいと思った。
誤解が解けたのは、二度目に彼女を見た時だった。総知事交代のニュースでアーシアが賢者なのだと知って、キアラは少なからず衝撃を受けた。同時に、疑問も抱いたのだ。本当にあんな幼い少女が、神から大陸を預かる立場の総知事を、補佐しているのだろうかと。
三度目は、高等学校に上がった年だった。この頃には人種差別という歴史上の汚点とその無意味を習うのだが、統計的に見ても珍しい赤毛は、それでも差別の対象となりうる。個々の人格が確立されるこの時期には、負けん気の強い性格だったのも災いして、赤毛のキアラは何かと嫌がらせの標的にされた。
ブロンドや褐色の髪に憧れていたキアラにとって、それは何よりも苦しい事だった。コンプレックスを真っ向から突かれるのだから、嫌でない筈もない。
両親を責めた事もあるし、学校へ行きたくないと駄々をこねた事もあった。それでも髪を染めなかったのは、己を蔑む周囲への、ささやかな反抗だったのだろう。
悩むキアラに手を差し伸べてくれたのは、担任の教師だった。担任は定年間近の女性教諭で、優しいお婆ちゃんとして慕われていた。教師歴の長い彼女はキアラの苦悩を悟り、賢者様に相談してみなさいと、そう助言してくれたのだ。
賢者は世界の全ての歴史を知り、その知識で以て誰の疑問にも答えてくれる。些か不安ではあったが、担任がついて来てくれると言ったので、キアラは渋々ながら、当時は伊太に置かれていた大陸庁に足を運んだ。面倒な手続きもなく、すんなりと謁見室へ通してもらえたのは意外だったが、今思えば、アーシアは仕事よりも面談を優先してくれたのだろう。彼女のそういった姿勢には、少なからず出雲賢者の影響があるのだという。
アーシアはやはりテレビで見たのと同じく、十歳そこそこの少女に見えたが、子供らしからぬ雰囲気があった。賢者を前に緊張して硬くなるキアラにアーシアは、きれいな髪ね、と言って笑って見せた。相談内容も何も伝えられていなかった筈の彼女が、真っ先にキアラの赤毛を褒めたのは、偶然だったのだろう。けれどその時のキアラは、深く感動した。やっぱりこの人は、大陸の指導者たりうる人なのだと、そう思った。
その時アーシアとした会話の内容は、もう覚えていない。緊張していて、殆ど頭に入らなかったのだ。けれどその時聞いた、賢者が現れ始めた頃の話は、何故だか今でも頭の片隅に残っている。
アーシアが記憶を授かったのは、既に出雲が賢者を探していた頃だったという。当時のアーシアは幼すぎて、自分の中の記憶がなんなのか分からず、奇妙な話ばかりして大人を困らせていた。アーシアには賢者というものが何なのか分からなかったし、周囲も昔の記憶がある特別な人、という認識しかなかった。だから両親でさえアーシアが賢者であるとは、夢にも思わなかった。
その内問題になったのは奇妙な発言よりも、成長しない事だったのだそうだ。それもそうだろう。十歳の少女が一年経っても二年経っても成長しなければ、誰でも何らかの病気を疑うに違いない。
発覚したのは病院だったそうだ。何の異常も見当たらないので、もしかしたら、という程度であった。両親が泡を食って出雲に連絡しようとしていたのがおかしかったと、アーシアは笑っていた。けれど彼女はその時、気付いたのだという。医師達がアーシアを見る、奇異の目に。
人と違うアーシアも、充分差別の対象となってしまった。アーシアは早く出雲が迎えに来てはくれないだろうかと思っていたし、キアラのように、学校へ行きたくないと泣いた事もあったという。それでもアーシアがやって来られたのは、相談に乗ってくれた出雲賢者の言葉があったからだ。
今嫌な事を経験した方が、後々人に優しくなれる。苦しみも悲しみも全て経験した人は、同じ悩みを持つ誰かの為に行動を起こせる。だから今辛くても我慢して、それをバネに、差別する人がいなくなるような世界を作って欲しい。出雲賢者は、アーシアにそう言った。
キアラはアーシアのように、国を背負うべき立場ではなかった。けれどその時聞いた言葉があったからこそ、今のキアラがある。
皆と一緒より、どこか一つでも違う方が楽しくていいだろうと、アーシアは言った。差別の歴史をもっと掘り下げて教育出来るように、教科書を改訂すると約束し、彼女は執務室へ戻って行った。
その時からキアラは、あの優しい賢者の為に出来る事をしたいと思うようになり、軍学校に編入した。かなり遅い入学だったが、キアラより年上の新入生は何人もいたので、年齢は気にならなかった。誰もが自分の事で精一杯だったから、差別がある筈もない。
問題は、教育連隊へ入ってからだった。男所帯の部隊内だからそういう事も少なくはないと、入学を決めた時にしつこく言われていたが、実際その通りだったのには驚いた。あの頃の事を、キアラはもう忘れたことにしているし、思い出したくもない。
アーシアが軟禁されていると知ったのは、近衛師団に配属され、賢者付の小隊の長を任されてからだった。英州にいる筈の賢者の護衛を任されるなど夢にも思わなかったし、間違いではないのかと思った。けれどホテルの一室に通された時、キアラは悟った。アーシアが政治介入出来なくなったのは、このせいだったのだと。
周囲を憎んでいたキアラが、両親や恩人のいる州を守りたいと思えたのは、アーシアがいたからだ。今の自分が間違っているとは思っていないし、ここまで来て引き下がれもしない。
キアラは何があっても逃げなかった。役に立たない女と馬鹿にされようと、上官の慰みものにされようと、自分の信じた道を、今でも歩んでいる。この腐敗した軍の中で誰も出来ないのなら、せめて自分だけでも州を守りたかった。背中を押してくれたあの担任の為に、誰よりも大陸の人々を愛して尽くす、賢者の為に。
「ねえ、キアレッタ」
アーシアはいつしか、キアラを愛称で呼ぶようになっていた。白いタイツに包まれた細い足が、ベッドのフレームを叩く。
「ホントはね、私、寂しいの」
驚いて見たアーシアの顔に、いつもの微笑はなかった。キアラは膝の上で拳を握り、眉根を寄せる。
「不安で仕方がないの。出雲は私を歓迎してくれるだろうけど、これからどうなってしまうのか分からない。寂しいのよ、キアーラ」
「……アーシア様」
捨てられた子犬のような目が、立ち上がったキアラを見上げる。キアラはアーシアの足下へ片膝をついて跪き、顔だけを上げて彼女を見た。
「あなたが出雲へ行く事でこの州が立ち直るのなら、それは私も望んだ事。私の何を犠牲にしてでも、私にはあなたを無事に送り出す義務があります」
アーシアの表情は、キアラの目には不安そうにも見えた。寂しいのは真実なのだろう。
「けれど私は、あなたが愛する大陸の為に、軍に入りました。私は近衛第一師団、第一歩兵小隊の長。あなたにお仕えする軍人です」
キアラはそこで、床に片手をついて頭を下げた。
「お供させて下さい、アーシア様。私は、あなたの兵です」
アーシアは何も答えなかった。顔を上げたキアラの目に、泣き出しそうなほど顔をくしゃくしゃにして笑うアーシアが映る。
慌てて立ち上がると、アーシアはキアラの腰に飛び付かんばかりの勢いで抱きついた。後ろへ倒れそうになるのをなんとか堪えて踏みとどまり、キアラはアーシアの肩に手を添える。小さな背中は、少し震えていた。
「キアレッタ、あなたは私のジャンヌダルクだわ。絶対に処刑なんてさせない」
それはキアラでも知っている、古代に聖女と呼ばれた女の名前だった。そんな大層なものに例えられた事に、キアラは動揺する。
「私あなたの為に、伊太州の人たちの為に、絶対伊太を元の素晴らしい州に戻してみせる。だから、私と一緒に来て」
最早キアラが断れる筈もない。笑みを浮かべて頷くと、アーシアはキアラの腹に顔をうずめた。
この小さな賢者を必ず守ってみせると、キアラはそう心に決める。例え何一つ出来なくとも、例え足手まといになるだけでも、アーシアが望むなら、共に在りたい。精一杯、彼女の信頼に応えたかった。
そうして旅立つ決意を固めた日、副知事が迎えに来たのは、夜も更けきった頃だった。監視カメラの映像を十分だけ差し替えておいたという彼に導かれるまま、慌ただしくホテルの非常口から外に出た。アーシアは歩幅が狭いので、キアラが抱えて行ったのだが。
無事小さなワゴン車に乗り込むと、自然と安堵の息が漏れた。すぐに出発した車のウィンドウは、全てがスモークガラスになっており、外の様子は覗えない。キアラはどこへ連れて行かれるものか不安にもなったが、アーシアが平然としていたので、副知事は信頼出来るのだろうと思い直す。
「テオドラはどう?」
アーシアが問い掛けると、ラウロは助手席から後部座席の二人を振り返った。
「いつも通りです、気付かれた様子もありません。あれは私にいちいち気を掛けてはいませんから」
ラウロの表情は、少し寂しそうに見えた。その時キアラは、一ヶ月前アーシアが発した言葉の意味に気付く。
「言い訳になってしまいますが、私は彼女を救ってやりたかったのですよ、賢者殿。哀れな女でしたから。昔から……」
「いいのよラウロ、私はテオドラが悪いなんて思っていないから」
またキアラの分からない話になってきた。邪魔はしたくなかったので、彼女は黙ったままスモークガラスの外へ視線を移す。ミルクに浸したような街の光はいつしか消え、ぽつぽつと黄色い街灯が見える。怪訝に思って前を向くと、景色は田園風景に変わっていた。
「私は彼女の、片隅にでもいてやれればと思った。しかし、駄目でした。彼女に対して私は、あまりにも無力だったのです」
「でも、テオドラはあなたを手放したりはしないわ」
「背かないと思っているのでしょう」
アーシアは困ったような笑顔を浮かべて、首を横に振った。
「テオドラは最後まで手を抜かない。それなのにあなたには、監視もつけないわ。信じているのよ、あなたを」
ラウロは急に黙り込んで、下を向いた。何も分からないキアラも、目を伏せて俯く。
「ラウロ、負けないで。どんなにあなたに想われているか、テオドラはきっと分かってくれるわ」
「……ありがとうございます、賢者様」
ラウロが言い終わらない内、微かなブレーキ音と共に車が止まった。運転手は黙ったまま、後部座席を振り返って頭を下げる。アーシアはありがとうと言って出ようとしたが、ラウロがそれを制して先に車を降りた。
ラウロが開けたドアからアーシアが出る前に、キアラは反対側から降りる。車が停まったのは、民家の敷地内のようだった。柵で囲まれた庭の外側には、畑が広がっている。だだ広い庭の隅には、納屋と呼ぶには大き過ぎる小屋が建っていた。
「オルトラーニ副知事、お疲れ様です」
住居の方から禿頭の老人が駆け寄ってきて、ラウロに頭を下げた。彼が身に着けた油汚れやほつれでボロボロになった作業着に、キアラは何故だか見覚えがある気がした。次に老人はアーシアへ向き直り、更に深く腰を折る。
「モレッティと申します、賢者様。この度は……」
言いながら身を起こした老人は、アーシアと間近で向き合って、感極まったように言葉を詰まらせた。目頭を押さえる彼の肩に、ラウロの手が添えられる。
「何も言うな、アントニオ。済まないな」
「自分の出来る事をしたまでです、副知事殿」
ラウロはアントニオと呼んだ老人の肩を軽く押し、小屋に向かって歩き出す。キアラとアーシアは顔を見合わせて、二人について行った。あの巨大な小屋は、格納庫なのだろう。
「君が、ベルガメリ曹長かね」
そこでようやく思い至り、キアラは立ち止まって敬礼した。あれは空軍の将校が使用する作業着だ。こんな所で農場を営んでいるという事は、もう退役しているのだろうが。
老人は嬉しそうに何度も頷いた後、キアラに近付いて軽く肩を叩いた。
「軍人もまだまだ、捨てたもんじゃねえなあ。曹長、頼むよ」
「承知しております」
老人はキアラに満面の笑みを浮かべて見せた後、格納庫のシャッターを開けた。格納されていた最新型の自家用ジェット機を見て、キアラは思わず目を丸くする。恐らくラウロが手配したものだろうが、そんなに安いものではなかった筈だ。
「準備は全て整っております。そうだなフラ!」
老人が声をかけると、ジェット機を点検していた青年が、慌てて駆け寄ってきた。青年は四人の側まで来て順に頭を下げた後、アントニオに向き直る。
「万全だよ爺さん。すぐにでも出られる」
「よし」
アーシアはしばらく首を傾げたままジェット機を見上げていたが、やがてラウロを見て申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんなさいねラウロ。何から何まで任せてしまったわ」
ラウロは左右に首を振り、アーシアに笑いかけて見せる。疲れた顔は、実年齢より遥かに老け込んで見えた。
「賢者様。私は州に、大陸に仕える者です。どうか謝らないで下さい」
「ありがとう、ラウロ」
次にアーシアは体ごと老人と青年を向き、深々と頭を下げた。アントニオは驚いたように細い目を見開き、硬直する。フランチェスコと呼ばれた青年は、明らかに動揺していた。
「あなた方にも、お世話になってしまいました」
「そ、そんな……賢者様」
アントニオの動揺は、キアラには分からないでもない。あんな真っ直ぐな目に見詰められて、動揺しない者もいないだろう。
伊太の為に、州の為に。国宝たる賢者が、危険を犯してまで旅立とうとしている。その事実が、アーシアと向き合っている二人のみならず、キアラの心をも揺さぶる。この小さな賢者の肩に、全てが掛かっているのだ。
「私は神の定めを破り、これより出雲の許可なく大陸を離れます」
アーシアの目は、決意に満ちた輝きを放っていた。それは十歳の少女の目ではなく、大陸を背負って立つ者の目。
小さなアーシアの背中が、キアラには急に頼もしく見えた。彼女なら、どんな事でも為し得てしまうような気がする。
「しかし全て済んだら、必ずここへ、この大陸に戻ります。私を支えてくれたあなた達の為に、欧州大陸三億五千の人々の為に」
そして、痛ましくもあった。その華奢な双肩に大陸の全てを負い、彼女は発つ。何があっても恨み言一つ吐かなかった彼女を、一番近くで見てきたのはキアラだ。ひ弱な彼女がどんなに強い人であるのか、キアラは知っている。
賢者は神ではない。知識と永遠の命を持ってはいるが、それ以外はただの人に過ぎない。人が背負うには、この大陸はあまりに重すぎる。それでもアーシアは、その命運を負って立つ。少女だからではなく、健気なその姿に、キアラは胸を打たれた。
鼻をすする水っぽい音が聞こえた後、老人はその場に跪き、青年は拳を握り締めてうなだれた。深い皺に覆われたアントニオの顔は、何かを堪えるようにしかめられている。
「どうか、どうかこの州を、救って下さい。私はこの通り役に立たなくなり、もう飛ぶ事は出来ません。しかし孫は必ず、あなた方を無事に出雲まで送り届けるでしょう」
「ありがとう。あなたの厚意は、絶対に忘れないわ。宜しくね、フランチェスコ」
青年は拳を握りしめたまま、直角に近い角度まで腰を折った。アーシアは彼に頷いて見せた後キアラを振り返り、微笑む。
「キアレッタ、行きましょう。もたもたしていられないわ」
アーシアは青年の後に続いて、機内へ乗り込んだ。キアラは段に足をかけた所で、ふと振り返る。アントニオが、じっとキアラを見つめていた。
退役した彼が何を思うのか、キアラには知れない。けれど彼の表情からは、抱く感情が明白に見て取れる。
「お疲れ様です」
そう告げると、老人は勿体ぶるように、ゆっくりと頷いた。当時の威厳を思わせる、鷹揚な仕草だった。
「君達の行く手に、幸あらん事を」
キアラは体ごとアントニオに向き直り、背筋を伸ばして挙手敬礼した。
「ご多幸をお祈り申し上げます、閣下」
「やめてくれよ、ねえさん。私は大隊長止まりだったんだ」
一緒に笑った後、キアラは機内へ乗り込んだ。狭い座席に着いてシートベルトをすると、すぐに乗降扉が閉まる。窓からは、車庫から出て行くラウロとアントニオの姿が見える。
この先どうなるのか、キアラには分からない。少なくともあの老人にも操縦席に座る青年にも間違いはないだろうし、ラウロもきっと、上手くやってくれる。それでも不安が拭えないのは、これから先に敵となり得るのが、軍であるからなのだろう。
けれど今は、希望がある。今日の夜空のように、この州の未来も、きっと輝いている。この賢者がいる限り、きっと全てが上手く行く。キアラはそう信じているし、疑う余地もない。
満天に星が瞬く、美しい夜だった。ゆっくりと動き出す機体を見据えたまま、ペンライトを持った老人は、年齢を感じさせない機敏な動作で手信号を送る。自らの手で整備したジェット機の旅立ちを祝うかのように、彼はこの州の命運を背負う機を、大袈裟な手振りで誘導する。
そして無事に機が離陸すると、アントニオは賢者達の無事を祈るかのように、直立不動のまま敬礼した。涙が光るその目には、不安の色など微塵もない。機体が空へと飛び立ち、その姿が見えなくなっても、アントニオとラウロは西の空を見つめていた。