表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神の国  作者:
17/73

第三章 道なき道を 一

 一


 蛍光灯の光だけが煌々と照らし出す、カーテンの閉め切られた部屋。室内は広いが、家具と呼べるものは大型のリビングセットとデスクしか置かれておらず、殺風景だ。壁は一面が勲章の並べられた額縁で埋まっており、白色蛍光灯の光を反射して煌めいている。

 雨州庁内のこの部屋は賢者の執務室だが、補佐官としての仕事をしない北米賢者は、滅多にこの部屋には寄り付かない。時折相談事を持ってくる役人の相手をする以外、キースには仕事がないからだ。他の仕事が忙しいのもあるし、ここでぼんやりしている暇があるなら、艦に帰りたかった。

 彼は今でも、自分を賢者ではなく軍人だと思っている。賢者となる前から陸軍で働いていたし、曲がりなりにも巡洋艦の艦長となった今の彼が、帰るべき場所は艦なのだ。しかし相談事があるという総知事から、執務室で待機していてくれと言われてしまったので、戻る事も出来なかった。

 上手く行かないものだ。心中独り言ち、キースは暗いブラウンの大きなアームソファーへ凭れるように座ったまま、溜息と共にタバコの煙を吐き出す。使い込まれたソファーの革は柔らかく、体重を掛けると深く沈み込む。落ち着くには落ち着くのだが、その分眠くなるので、あまり長く座っていられなかった。

 よれたジーンズに包まれた長い足を投げ出して、キースは大きな欠伸を漏らす。殺風景だが重厚な家具の置かれたこの部屋では、主だというのに彼の姿は浮いて見えた。スーツなど式典でもない限りは着ないし、雑用を済ませにここに来る時は、大抵私服か軍服でいる。本来私服で来るべきではないのだが、誰も咎めないので改めない。咎められたとしても、改める気はなかった。

 華と伊太は一先ず、落ち着いた。これが嵐の前の静けさだという事ぐらい彼も分かっているが、これで暫くは使い走りにされなくて済むだろうと、今は安堵している。

 キースは元々ひと所に留まってはいられない性分だから、世界中回るのは構わないが、面倒なのは御免被りたい。話し合うとか、要求を承認させるとかいうのは苦手ではないが、嫌いなのだ。どちらかというと脅す方が得意だ。

「閣下、おいでですか?」

 ノックの音と共に、廊下側から声が掛けられた。ああ、だかおお、だかと煙草を銜えたまま聞き取りづらい返事をして、キースは視線を扉へ向ける。肘掛けに頬杖をついていたので、見上げるような格好になった。

「失礼致します」

 硬い声だった。別段賢者の前で緊張している訳ではなく、彼の場合はこれが通常だ。

「お前がそんな呼び方するなって言ったろ、ハンク」

 キースの声は、母州語を話す時だけ極端に低くなる。犬が唸るような声を聞いて、ヘンリー・マクレイアーは短く謝った。

 平凡な容姿の男だ。髪はたっぷりあるが、その色はグレーに変わっており、細長い顔に刻まれた皺と相俟って年齢を感じさせる。中肉中背で、顔立ちも十人並み。特徴といえば、やけに耳が大きい事ぐらいだろうか。

 けれどヘンリーは、この北米大陸の総知事だ。その真面目で実直な人柄が強く支持され、十三年という長きに渡って大陸の長を務めている。南米の総知事は任期満了どころか、任期を終える前に不満が出て、すぐに代わってしまうというのに。

 別段、彼が特別優れているという訳でもない。ただ彼は、演説が得意なのだ。その点は少し、陳と似ているかも知れない。あちらほど賢くはないが。

「伊太はいかがでしたか?」

「キャノン砲がウイルスばら撒いてっから、みんな狂犬病にかかってら。他人の顔なんざ久々にブッ飛ばしたよ」

「それはお疲れ様でした」

 硬い男だと、キースは思う。長い付き合いになるが、彼とは反りが合わない。会話は面白可笑しく進めたいのだ。口を開けば罵詈雑言ばかりだが、乗ってくれるだけ出雲の鬼女達の方がマシかも知れない。

「聖女はどうです? 利用出来そうですか?」

 キースは吸いさしの煙草を消して、新しいものに火を点けた。何故だかヘンリーの言葉が癪に障る。

 正直な所、神主の娘に対して、あまりいい感情は持っていなかった。向こうも自分を嫌っているし、適当に付き合っていればいいだろうと、そう考えていた。ヘンリーが利用出来そうなら手を回してくれと言った時も、気乗りはしなかったがやる気ではいた。

 けれど今は、そうは思わない。丸二日行動を共にして、悪態を吐くだけの女ではないと気付いたからだ。彼女はキースが思っていたよりずっと聡明で、一本芯の通った強い人だった。嫌われてはいるが、そう嫌な女でもない。

「ありゃダメだ、ぴくりとも靡かねえ」

 利用価値は充分にあるだろうと思っていたが、キースはそう返した。あれにはあまり、触りたくない。まかり間違ってこちらの真意が知れでもしたら、自分は立ち直れなくなってしまうような気がする。あの澄んだ目に、本気の憎悪を向けられたくなかった。

「落とす気で?」

「まっさか。アイアンメイデンだよ、ダテに長生きしてねえな。手出したら穴だらけになっちまう」

 冗談を言ったつもりだったが、ヘンリーは尖った顎に手を添えて唸った。キースは呆れる。

「流石に出雲は堅固ですな。あなたがずっと留守になるよう仕向けたのも、賢者の策略でしょうか」

「いや、しばらくヒマ出されたよ。なんか予見しての事だろうが、確かにありゃ相変わらず食えねえ」

「先見の明がおありですからな」

 足を組み替えて、キースは反対側の肘掛けに頬杖をつき直す。逐一生真面目な返答ばかりされると、些か調子が狂う。

「ピンボールさ、ホールはねえがな。上手く転がってる内は良かったが、今は跳ね返りすぎてベッドの下に潜り込んじまってる」

「……は?」

「わかんねえならいいよ。もうちょっと頭柔らかくしな」

 誰にも理解されなくても構わない。キースはそう割り切って生きてきた。ヘンリーとは目的は違うが、たまたま通過点が一緒だった。それだけの事だ。

 利用するだのしないだのという話には、もう飽き飽きしていた。利用価値のありそうな辺りは全て利用出来ない事にも気付いたし、誰かを引き込むというのも良くない。キースの目的は、極めて個人的な事だったからだ。

「このままで、宜しいのですか?」

 このところ、ヘンリーは焦っているようにも思えた。キースは年齢という概念を忘れてしまったが、彼はもう、結構な歳だ。自分の頭が使いものにならなくなる前に、目的を果たしたいのだろう。元々ヘンリーの頭が使い物になるとは、キースは思っていないが。

 キースにも、彼の気持ちは分からなくはない。限りある人生だからこそ、己が生きている内に、一つでも多くを成し遂げたいのだ。ヘンリーの望みが、次の代に願いを託すなどと、悠長な事を言ってもいられない悲願であるのも分かっている。

 それでもまだ動いていいような時期ではないと、キースは考えている。焦ってしくじるような事だけは、したくなかった。完璧主義という訳でもないが、どうせやるなら、完全にやり遂げたい。

「いい女に転がされるってな、なかなかいいモンだ。まだ暫くはこのままでいるさ」

「ずっとこのままでいるつもりはないのでしょう」

 キースは少し鼻白んだ。早く出て行ってくれと、切に願う。

「まだ時期じゃねえよ。大人しく古狐の言う事聞いてろ」

 何度こうして急かされ、同じ返答をしただろう。その度に、ヘンリーは不満そうに顔をしかめるのだ。

 ヘンリーの悲願は、期も読めないような男が成し得る事ではない。だからこそ、彼は賢者を味方につけようと考えたのだろう。彼の思惑通り、キースは誘いに乗った。しかし何事も急ぎたがるヘンリーは、寧ろキースの足を引っ張っている。

 けれどそこは、キースが手綱を引けばいいだけだ。彼は彼で民衆を扇動するのが面倒だったから、ヘンリーと手を組もうと考えた。それ以上は、望むべくもない。

 キースが彼に望んでいるのは、行動力と統率力。ヘンリーは確かに、人の上に立つだけの器はあったし、命じればすぐさま行動を起こす事も出来る。統率力という後ろ盾を得た今、これまででは到底成し得なかったであろう事も、出来てしまうような気がする。

 けれどまだまだ、足りない。期は熟しきっていないし、準備する事は未だ山ほどある。時が過ぎなければ揃わない条件もあった。だからまだ、動くべきではない。ただ虎視眈々と時期を狙い済ましているしか、今出来る事はなかった。

「神の名前を知る者は、本当に神主しかいないのでしょうか」

 暫く黙り込んでいたヘンリーが、唐突にそう切り出した。こそこそと何か調べていると思ったらそんな事かと、キースは呆れる。

「知らねえよ。神を見た事がある奴で、今生きてんのは神主だけだろ」

 神が直接国を指導していた頃を、キースは知らない。それがもう何百年前の事なのかも、よく分かっていない。そもそも神が直接動いていたのが何年ほどの間であったのかさえ、記録には残っていないのだ。ぽっかりと空いた空白の時代を、人々は神の時代と呼ぶ。今なお、世界の全ては神のものであるというのに。

 賢者達は全員神が隠遁した後に生まれた者達だし、今ご尊顔を拝見出来るのも、神主だけだ。例えその娘だろうと、神に会う事は叶わない。ならば神主を探そうと思っても、それすら不可能だ。神主でさえ、出雲の一部の高官しか、話す事はおろか顔を見る事も出来ないのだ。

 徹底した秘密主義だ。出雲が何を考えているのかは本人達にしか分からないが、ただ一つキースにも分かる事は、彼らが神の為に存在しているという事だ。神を守る為ならば、世界を守ると大言して憚らない出雲島民は、何があっても、何を知っていても口を割らないだろう。あの列島に住む人々のそういう真面目なところは、ロスト以前から変わっていない。

 だから神は出雲に隠遁したのだろうと、キースは考えている。身を隠すのに適しているのが出雲だったから、神は出雲にいるのだろうと。神は自身が出雲で生まれたから、出雲を首都としたのだと言われているが、実際の所は真実など誰も知らない。四方を海に囲まれたあの州は、他州にとっては手も出しづらいのだ。

「何かの手掛かりになればと、思ったのですが……」

「見付けてとっ捕まえるって?」

 片眉を上げて小馬鹿にした笑みを浮かべて見せると、ヘンリーは僅かに身を引いた。

「神の名前がタロー・ヤマダだろうがファッキン・クライストだろうが、んなこたどうだっていいんだよ。大海原で馬の骨探すようなモンさ」

「見付からないと?」

「見つかりゃしねぇし、意味もねえ。出雲叩き潰して、神主ごと引きずり出す方が早いって言ってんだよ」

 元々それを目的として、二人は動いている。キースの本来の目的とは違っていたが、最初にヘンリーが持ち掛けて来たのは、そういう話だった。ただ、その経過に惹かれたので、出雲に告げ口もせずにこうして手を組んでいる。

 再び黙り込んだ所を見る限り、彼がそれを忘れたとは思えないから、つまりは焦っているのだろう。そんなに焦っても、今行動を起こせば、なるようにしかならないというのに。やるからには、成さなければ意味がない。

 キースは煙草の火を消して、新しく一本銜えながら立ち上がった。のっそりと窓に近付き、閉め切られたカーテンを開ける。赤光が額縁のガラスに当たり、ぎらぎらと光った。

「空の州境警備隊に、伊太の方重点的に見回らせな」

「……何かありましたか?」

 陸軍指定の濃いグリーンの背広を着た赤毛の女が、キースの脳裏に蘇る。彼女が自分に気付かなかった事も、あそこであんな収穫を得た事も、嬉しくて堪らなかった。

「州内最高級のホテルの最上階で、近衛師団の曹長と会った」

「曹長というと、分隊長クラスですかな」

 キースは思わず顔をしかめて、煙草に火を点けた。ヘンリーは勘はいいのだが、察しが悪い。

「伊太の陸は規模が大きくねえから、小隊長だろ。そんな話じゃねえよ」

 苛立たしげに吐き捨ててから、キースは煙を深く吸い込む。それで少し落ち着いた。察しの悪い者と話すのは嫌いなのだ。元々説明下手だし、ヘンリーは特に、何度言っても理解しない。かといって懇切丁寧に説明するのは、己の信条に反する。

「近衛師団の小隊長が、高級ホテルのスイートで制服のまま何してんだって話だよタコ」

 そこで一呼吸置いて、キースはテーブルに置いたままの灰皿を取る。その上に灰を落としてから、煙草を持った指でヘンリーを差した。

「いいかいハンク、あそこには近衛師団の小隊長がつくような、誰かがいたんだ。護衛なんだよあれは。一人であんなトコにいる軍人は、要人警護か悪巧みしてるバカだ」

「失礼致しました。その……それは出雲には?」

「言うワケねえさ。向こうから来てもらわなけりゃ」

 ヘンリーはまだ、分かっていないようだった。窓枠に凭れたキースに、怪訝な顔を向けている。説明するのは面倒だ。

「州知事補佐官は、賢者の味方だって言ってたろ。じきまた、一悶着あるぜ」

 楽しそうに笑うキースを、ヘンリーは未だ不思議そうに見ていた。彼の事はもう、どうでもいい。

 警護がいたから、賢者は逃げられなかった。あの女軍人は少なくとも悪巧みするようなタイプではなさそうに見えたし、崩壊しかけた今の伊太で従軍する女は、売女か真面目な馬鹿だけだ。テオドラの手の者ではないだろう。

 キースにも、テオドラのやり方は大体分かった。総知事の息が掛かった雨州知事が、欧州賢者に肩入れする伊太州副知事と繋がっているから、伊太の賢者側の動きも手に取るように分かる。

 今までは州の関係の問題もあって手が出せなかったが、聖女と共に伊太へ遣わされた今なら、こちらもそれなりの理由をつけて動けるだろう。次に欧州賢者がどう出るか、それもおおよその予想はついている。

 あとは待つだけなのだ。全てが自分の思い通りに動いているように思えて、キースは楽しくて仕方がない。

「いいかいハンク。わかんねえならいい子で俺の言う事聞いてな。伊太の副知事から連絡があったら、俺が出る」

「は……しかし、閣下はどうなるとお考えで?」

「現代史の教科書が一ページ増えるってこった。いちいち説明させんな、じきに分かる」

 ヘンリーは納得行かないような表情を浮かべていたが、キースにそれ以上説明する気はなかった。下手に説明したら、途端に今以上に焦り始めるに違いない。そうなったら困るのはキースだし、彼自身どうにもならない状況に立たされるだろう。それはうまくない。

「もう艦に戻る。お前もさっさと仕事しな」

「……分かりました」

 分かっていなさそうだったが、気付かない振りをした。

 ヘンリーが出て行った後、キースは煙草を銜えたまま耳の裏を掻く。あの男は不愉快だが、利用出来るものは利用するに越した事はない。彼の目的は、一人では到底成し得ない事だ。

 彼は今までずっと、待っていた。長い凪の後に来る、巨大な波を。今はまだ防波堤に軽々と打ち消される程度の波に過ぎないが、このまま待てば、もうじき港を飲み込む津波にもなるだろう。

「クソッタレの合衆国再興なんざ、望んじゃいねえんだよこっちは」

 淀んだ光を宿した鋭い双眸が、ヘンリーの出て行った扉を見詰める。

 国についてどうお考えですかと聞かれたのは、もう何年前になるだろう。あの時キースは、ようやくこの重責から解放される時が来たのだと、そう思った。

 この地位がキースにとって、どれほど重たかった事だろう。記憶を与えられた後も軍部に居残ったにも関わらず、陸から海へ転向したのは、人々の声を聞きたくなかったからだ。人々に賢者様と、そう呼ばれるのが、嫌で堪らなかった。

 ロスト以前の記憶を授かった時、キースは世界の全てを知った。この世界がどんなに暗く、美しいものであるのかを。人がどんなに儚く、力強い生き物であったのかを。

 だから最早この世界に、得るものはない。限りない生に飽きた訳ではないし、現状が不満な訳でもない。ただ、忘れた筈の罪悪感に押し潰されそうだった。夜毎夢枕に立つ女の泣き顔も、もう見たくはない。

 はじめは、贖罪のつもりだった。世界を守る軍人でいれば、自己満足ながら償いになるだろうと、そう思った。けれどいつしか悪夢にうなされるようになり、疲弊した心は長い時をかけて蝕まれ、苦悩する彼の目的はすり替わって行った。

 世界中を巻き込んだ、大きな戦争がしたい。その中で、誰が誰だか分からないような戦場で、死んで行きたい。今はそれだけを考えて行動している。

 愉しければいい。暴かれる筈もない罪の意識に苛まれる内、そう考えるようになってしまった。誰も知らない世界を知りたかった。誰も知らない歴史の中で、誰でもない者として、死にたかった。

 もうじき、戦火がやって来る。彼が何よりも待ち望んでいた時化の夜が、すぐそこまで迫っている。

「WW3だ」

 誰に聞かせるでもなく呟いて、キースは笑った。唸る犬のそれのような、低い声だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ