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神の国  作者:
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第二章 籠の鹿 八

 八


「華から連絡が?」

 携帯電話の向こうからは、うん、と軽い返答が聞こえる。千春は書類にペンを走らせながら、僅かに顔をしかめた。

『弾薬の補充を頼まれたみたいだよ。断ったけど』

「懲りないな。本部を通さないと、どこも了承しないと分かっているだろうに」

『君が忙しい今なら、なんとかなると思ったんじゃない?』

 喉を鳴らす音が、微かに聞こえた。また飲んでいるのだろう。露州民は往々にしてアルコールの消費量が多いものだが、ニコライはその中でも群を抜いているのではないかと千春は思う。

「なるものか。これ以上忙しくされたら困る」

『だから僕がいるんでしょ?』

「お前には感謝しているよ、コーリャ。ついでに南北米も受け持って貰えると、もっと楽になるのだがね」

 ニコライは愉快そうに笑った。大分陽気になっている所から考えるに、相当飲んでいるのだろう。

 千春は本当に他の誰かに任せる気もないし、任せられもしないが、今だけは猫の手も借りたい気分だった。ただでさえ普段から、会議やら下らない相談事やらで忙しいのに、今は更に諸々の事後処理がある。華を恨むより他はない。

 目が回りそうな多忙さだが、誰も助けてはくれないし、助けられもしない。けれど、露だけはニコライに任せられるから、それだけは助かっている。逐一指示を出さなければいけないのには、変わりないが。

『伊太の二人はどう?』

 軽い調子で問いかけてくる声を聞きながら、千春は書き終えた書類に捺印する。重要な書類しか回って来ないのに、重要書類は手書きで作成せよというのはどういう了見なのだろう。

「そろそろ戻る頃だ。聖女が疲れていたよ、可哀相に」

『意外と早かったね。もっと滞在するのかと思ってた』

「女狐がかなりゴネてね。強行スケジュールだったが、とりあえず話せたようで良かったよ」

『またまた、芙由様がもう帰るって言ったんでしょ』

 当たりだった。千春は書類をひらひらと振って朱肉を乾かしながら、小さく笑う。

「あんな腐りかけの州には長居したくない、だそうだ」

『犬が臭いからイヤ、じゃなくて?』

「あれはそれより伊太知事の方が嫌いらしいな。困ったものだ」

 言葉とは裏腹に、千春の口調は楽しそうだった。謀が上手く行けば楽しいものなのだ。詳しくはまだ聞いていないが、伊太の方から連絡があった所を考えるに、キースは思惑通りに動いてくれたのだろう。今回の脅し、もとい会談は、一先ず成功したと言えよう。

 不安を煽ってやれば、用心深いテオドラは恐らく動けなくなる。時間稼ぎ程度にしかならないかも知れないが、とりあえずはこれでいい。

 兎にも角にも千春にとっては、伊太の治安回復が最重要事項だった。特別に伊太州を重要視している訳ではないが、あそこは欧州賢者が生まれた州だ。彼女の行方が分からない以上、代わりに守ってやりたかった。

『ねえ、どうして脅すようなマネしたの? 上手く行かなかったらどうするつもりだったのさ』

 上手く行かなかった時の事を、千春は考えないようにしている。それだけ講じた策に自信もあるし、失敗したらそこでまた対処すればいい。

「上手く行かなければ、それはそれだよ。悪くはない」

『悪くないって……何?』

「華が出雲ではなく蒙古へ攻め込んだ、という事さ」

 ニコライが息を呑んだのが分かった。

『君、まさか……』

「邪推はよしてくれ。そういう可能性もあったが、なんともないだろう?」

 ニコライは暫く黙り込んでいたが、やがて小さく息を吐いた。

『……そうだね、その通りだ。テオドラが神の決めた法に、背く筈がないんだよね』

 伊太が華に食ってかかる可能性も、なくはなかった。けれどそれは万に一つもない反応として数えていたので、つまり千春は、知事が州を建て直す以外の可能性など、考えていなかったと言える。

 言われてみて、初めて自覚する事もある。まず、第三者の目で見ても州が危機的状況にあると悟れば、テオドラは必ず改善するだろうと考えた。神から預かった州を、みすみす潰すような事はしないだろうと予想したからだ。

 これには、恐らくきっかけが必要だった。だから芙由に口を酸っぱくして、州が危ういと指摘しろと言ったのだ。

「知事の信仰心が強いが為に、こうなっているからね。逆手に取っても解決にはならないな」

『抜け道があればいいんだけどね。難しいかなぁ、向こうも千春と同じくらいずる賢いから』

「一緒にしないでくれ、私は向こうより狡い」

 電話の向こうから、乾いた笑い声が聞こえた。

『自覚あるんだ……それよりバンビが心配だよ』

 ニコライが四方八方手を尽くして捜してはいるものの、欧州賢者の行方は杳として知れない。総知事は議会に出席しているようだから安否だけは確認出来るが、大陸にとって最も重要なのは、至宝たる賢者の存在だ。その不在が伊太だけでなく大陸全体に知れれば、混乱は免れないだろう。

 とはいえ彼女は今までも、公務を差し置いてふらふらと出掛けていたから、そう簡単に気付かれるものでもない。更に補佐官たる賢者は、総知事交代の度に州庁を点々とする。これは総知事が元々勤めていた州の議事堂を、大陸庁として総会に使うからだ。わざわざ議事堂を作らないのは、建設費用や移動による総知事の手間を省く為だった。

 北米大陸などはここ数十年間ずっと雨から総知事を出しているが、欧州は任期である五年ごとにころころと変わってしまう。賢者の不在も、現総知事が二期連続で当選し、ずっと英州に大陸庁が置かれていたお陰で気付けたようなものだ。

「彼女のことだ、何かしら手を打つだろうとは思うが……居場所が分からぬ以上、こちらは手の貸しようもないな」

『僕も頑張ってみるよ。バンビは可愛いしね、会った事ないけど』

「お前は誰とも会った事はないだろう」

 二人は電話越しに、同時に笑った。しかし視線を流した拍子に積み上がった書類が目に入り、千春は脱力する。

「……ああ、そうだ。ローマ、北京間の通信記録を一通り取っておいてくれ」

『分かった、何かあったらまた報せるよ』

「頼んだよ。それじゃ」

 電話を切って、千春は手元に置かれた湯呑みを取る。すっかり冷めてしまった緑茶からは風味が失せ、苦味だけが舌に残った。

 口直ししようにも、先月大量に貰った蜜柑は一週間で食べきってしまった。また貰えはしないだろうかと思うが、書類が蜜柑臭くなるからやめてくれと秘書に怒られたばかりだ。そんなに気にしなくてもいいのにと思う。

 一息吐いた所で、ノックの音が聞こえた。タイミングがいいのか悪いのかと考えながら、千春は顔を上げる。ゆっくりと二回ドアを叩くその癖で、誰が訪ねて来たのか予想はつく。

「どうぞ」

 声を掛けると、予想通りの人物が顔を出した。空港からそのまま来たのだろう、スーツ姿の芙由は千春に向かって一礼し、後ろ手で扉を閉める。

「只今戻りました」

「お帰り。済まないが、手が放せないのでここでいいかな?」

「構いません」

 芙由はソファーに腰を下ろし、浅く息を吐いた。流石に疲れているのだろう。休んでから出直して来ればいいだろうに、彼女はやけに真面目なのだ。

「ローマはどうだった?」

 疲れた顔を千春に向け、芙由は緩く左右に首を振った。

「相当荒れています。昔と比べればですが……知事からこちらに連絡はありましたか?」

「教育部隊の受け入れを承認した。州を建て直すつもりだろう」

「形だけかも知れませんがね」

 皮肉ぶった口振りだった。千春が予想した通り、テオドラとは馬が合わなかったのだろう。

「カークランドは、何か言っていたか?」

 芙由は怪訝に眉根を寄せた後、思案するように視線を落とした。逐一覚えていないのだろう。

 キースは既に、別便で雨に帰らせてある。直接聞けばいいのだが、話が脱線してしまうので芙由に聞いた方が早い。千春もキースも、長くは真面目な話をしていられない性質だ。

「いえ、特に何も……遊んで帰りたかったと、愚痴っていたぐらいで」

「伊太知事には、なんと?」

「華が攻めて来るかも知れないと、脅していました。あれで良かったのですか?」

 上々だ。キースには何も言わなかったが、彼も案外聡い。千春の意図ぐらいは察したのだろう。

 頷いて見せると、芙由は細い眉を更に歪めた。納得行かないようだが、千春には説明する気も更々ない。彼女に余計な事を考えて欲しくないのだ。

「甘言では動かぬ女だが、第三者が不安を煽ればそれなりの手を打つよ。テオドラは、人の動かし方をよく知っている。一先ずは落ち着くだろう」

「動かし方は分かっていても、目的が間違っていては仕方ありません」

「それは分かっているさ。神が動かぬ限り、州知事の座から引きずり下ろす事も出来ぬ。言っても仕方のない事だ」

 神は絶対だが、勅令が下される事は滅多にない。法律の曖昧な部分に関してや、現存の法に問題が出た場合にしか、お伺いも立てない。

 ある程度は各州で決めてから、神に伺いを立てるかどうかの最終的な判断を、出雲の上層議会で下す事になっている。しかしこれにも、最近では各州から不満が出てきていた。何をするにも、手間がかかりすぎるのだ。大した訴訟でもないのに、判決が下されるまでに十年以上かかる事もある。

 そんな理由もあって、賢者を裁く件についても、伺う事はしなかった。当然ながら議会内には華州民もいるので、彼らに対しての配慮だ。亜細亜賢者を裁くとなれば、意見交換の為、各大陸の賢者達も召集しなければならない。今はそこまでの手間を掛けられるような時間がないのだ。

 何よりこの法律を変えてしまうと、欧州賢者が更に危うい状況下に置かれると、上層議会で判断された。そもそもテオドラが賢者を隠した理由もよく分からないが、神と同じような性質を持った賢者が政治介入しなければ、民衆の神に対する不満を増大させられると判断したのかも知れない。

「伊太州民の信仰心は、失われつつあります。今更神が動いたところで、納得するかどうか」

 信仰心がなくなれば、神に謀反を起こすだけの理由がいくらでも作れてしまう。神の定めた法だから守るのだ。出雲で犯罪行為が蔓延しないのは、信仰の厚さが一の理由として挙げられる。

 信仰心をなくした州といえば、長い時間をかけて神の間違いを州民に説いた、華がそうだ。あちらは神に近い存在である賢者が指導者となり、神を批判した事で民衆に疑問を抱かせたが、伊太はそうは行かない。たかだか州知事が神を批判した所で州は動かないし、テオドラにはそんな事は出来ないだろう。

 だから賢者を隠した。千春はそう考えている。

「とにかく、賢者を見つけ出したい所だな。その前にテオドラを説得出来ない限り、伊太の復興はない」

「賢者がいれば、説得する必要もないのでは?」

「その賢者に対する敬意が失われつつあるのが、目下の問題なんだよ。悔しいが、今や州に対する知事の影響力は神主以上だ。知事が改心しない限りは何事も立ち行かぬ」

 何を思ったのか、芙由は深く頷いた。信仰を失った州に対して、己の存在は何の意味もない事を、彼女は知ってしまったのだろう。千春としては、知って欲しくはなかったのだが。

「あまり、いい扱いはされなかったようだね」

 到着して早々に一悶着起こした事は、その日の内に電話で報告されていた。キースのことは散々叱っておいたのだが、詳しい事情は聞いていない。

「着いたその日に、カークランドが喧嘩を売られましたからね。私に気付かないのは当然ですが、賢者は顔が知れていますし、向こうも賢者と分かっていたようです」

「相当切迫しているな。穀潰しのカークランドなら無理もないかも知れんが、あれも一応賢者だ。本来向こうが何らか処罰を受けて然るべきだよ」

「元帥へは、雨支部の総大将から連絡を入れて頂いてありますが……伊太支部がどう出るか」

 雨は出雲の犬と揶揄され、世界中から嫌われている。しかし何しろ軍部の柄が悪いので怖いには怖いだろうから、元帥から連絡が行けば、何らか措置は取るだろう。取ってもらわなければ困る。

「カークランドが喧嘩を売られようがテーヴェレ川に沈められようがどうでもいいが、もう少し威厳を……」

「無理でしょうね、性格的に。軍人が陰口を叩く始末ですよ」

「お前も言うだろう、奴の事は」

「私は面と向かって罵ります」

 そういう問題ではないのだが、真顔だったので千春は突っ込まなかった。芙由は元々無愛想なので、冗談なのか本気なのかよく分からない。

「……テオドラには夫がいるそうですね」

「ああ、どこで聞いた?」

「カークランドから。利用出来ないものでしょうか」

 芙由にしては狡い案だったが、それより遥かに狡賢い千春がもっと早くに思いついて、諦めた事だった。千春が首を横に振ると、滑らかな曲線を描く黒髪が宙を舞う。

「ラウロ・オルトラーニは伊太州副知事、前州知事だよ。何の下積みもなかったテオドラが知事に当選した事には、何らか関わっていると見て間違いなさそうだ」

 芙由は疲れたような溜息を吐いて、千春の背後を見た。レースのカーテン越しでは、外の様子は窺えない。

「流石に穴はありませんね。突くとしたら、信仰心でしょうか」

「テオドラの信仰が見当違いの方向へ行っている事が、問題なんだよ。逆手に取ってみたところで、糸が通る程の穴にもならぬ」

 そもそも夫である副知事を利用しようにも、彼にも上手く連絡が取れない。彼がテオドラに荷担しているのか、はたまた利用されているのかさえ分からない状態だから、連絡をつけてみた所で、突っぱねられた挙げ句また因縁をつけられかねない。これ以上関係が悪化するのだけは避けたかった。

 千春は止まっていた手に気付いて、再び書面にペンを走らせる。神主の目に通す前にこうして粗方片付けてやらないと、とてもではないが処理しきれないのだ。

「まあ、伊太の件は一先ず落ち着いたな」

「何も解決していませんがね。華州も停戦協定は結びましたが、いつまた攻め込んで来るか」

「もう、華は蒙古へは侵攻せぬだろうよ」

 芙由が眉を顰めたのが、視界の端に映った。

「どういう事です?」

「お前も知っているだろう。陳は露に機械化師団を当て、お前達に歩兵師団を当てた。蒙古を侵略するつもりなら、ハナから両方に機械化師団でも空軍でも持ってくれば早かった筈だよ」

「軍備が整っていなかっただけでは?」

「そうさ。だから露の方に全て注ぎ込んだ」

 褐色の指が書類を捲る音が、室内に反響する。芙由は続く言葉を待っているようだった。

「向こうと戦闘していたのは、華支部第一師団。一番装備が整っている師団だよ。他は正直なところ、ボロボロなんだ。鉄製の鎧なんぞ持ち出せてきたのが奇跡なくらいだよ」

「……なら今回の侵攻の目的は、露製の兵器を手に入れる為?」

 本部から華支部への支給品は、出雲製の少々古い銃ばかりだった。弾薬も大した数は保有していなかった筈だし、全軍に回すには到底足りなかっただろう。露の空挺団も世界に名を馳せる優秀な部隊ばかりだが、州内の警備で人数が取られる為、本部の師団よりは大きくない。兵器が目当てだったなら、向こうに全力を注ぐ方が易かったのだろう。

 更に銃そのものの威力は、出雲製のものは露製に遠く及ばない。露の兵器を欲しがる理由も分かる。

 千春が頷くと、芙由は嘆かわしげに首を振った。色気なく一つに結んだ髪が、肩口で跳ねる。

「馬鹿な……博打でも打っていたつもりなのか?」

「愚かだよ。策と呼ぶには、あまりに脆弱だ」

 出雲が露に協力を仰ぐかどうかも、向こうには分からなかった筈だ。けれど出雲は現実に、露に本部旗の使用を許可した。更に銃器が持ち出されれば、出雲本部は空軍を使って徹底的に排斥するつもりだったから、陳の判断は間違っていなかっただろう。

「だが、成功した」

 芙由は重苦しい溜息を吐いて俯いた。現実に、華支部は露製の兵器を手に入れてしまった。結果論だが、あまり馬鹿にしてもいられない。

「あちらが体勢を立て直してしまったら、次はこちらへ来るだろう。最早華州内へは政治介入出来ぬ。事前に手を打つこともままならないのさ」

「チェンの最終的な目的は、国としての独立。分かっています」

「それでいい。元帥から副師団長に連絡しておいてもらうから、今日はもう休みなさい。明日からまた、指導やら事務処理やらで忙しくなる」

 芙由は少し嫌な顔をしたが、誤魔化すようにすっくと立ち上がった。いい加減事務仕事にも慣れてくれないものだろうかと、千春は思う。

「お疲れ様です」

「ご苦労様」

 芙由が出て行った扉を暫く見つめた後、千春はデスクに視線を落とした。

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