第二章 籠の鹿 七
七
穏やかな午後だった。アーシアはカフェラテにビスコッティを浸しては、幸せそうな笑顔でかじりついている。そんな彼女を横目で眺めながら、キアラはホテルの従業員が運んできた洗濯物をしまう。警護の兵士がここまでする必要もないのだが、アーシアは案外無精だ。放っておくとテーブルの上に山積みになってしまうので、毎日のようにこうしてキアラが片付けている。
街の喧騒が嘘のように思えるほど、アーシアの周りにはゆっくりとした時間が流れている。キアラにはこの部屋にいると、何もかも忘れてしまえそうな気さえした。穏やかで優しい彼女の側だからこそ、そう感じるのかも知れない。
土産にビスコッティを買ってきてから、明日もお願いと強請られ続けて早五日。アーシアは毎日三時のおやつにしているが、よく飽きないものだとキアラは思う。
「なんだかこの間、また騒ぎがあったみたいね」
食べ終わって手を拭きながら、アーシアは唐突にそう切り出した。何の事かと怪訝に思いながら、キアラはアーシアの正面のアームソファーへ腰を下ろす。テーブルの上には、アーシアが分けてくれたビスコッティが残っていた。
「騒ぎ?」
「海軍のキャプテンが、大通りで伸びてたって話。聞いていない?」
ああ、と納得した声を漏らして、キアラはカップに手を伸ばす。大分冷めてしまっているが、彼女は猫舌なのでこれぐらいが丁度いい。
「雨の軍人と出雲の方に喧嘩を売って、返り討ちにされたそうですよ。雨支部が何も言って来ないのが不思議なくらいですが」
「雨支部の? 怖いわね、観光かしら」
銃器の生産が方々で許可されている伊太から見ても、雨は怖い。雨州は広い州土と国内最高の軍事力を有し、出雲を後ろ盾につけて何かと他州の内政に介入している。雨には北米賢者がいるという強みもあるし、南北米大陸自体に出雲の息がかかっている。雨の言い分には出雲の意思が透けて見えもするので、単純に逆らえない部分もある。
無論ロスト以前のように、州間の関係が悪化したらまずい、という訳でもない。ただ、伊太軍で使われる航空機部品の殆どは、雨で生産されたものを使用している。もし向こうの機嫌を損ねて輸出がストップしたら、伊太空軍は困るのだ。
ロスト以前、雨にあった国は強大な軍事大国だった。その頃の面影を色濃く残す雨州だが、正直な所、何がしたいのだかよく分からない。出雲に追従してはいるが、虎視眈々と覇権を狙っているのだという風聞も飛び交っている。ただこの噂は華が蒙古へ侵攻し始めてから囁かれるようになったというから、不安を煽られた者の根も葉もない憶測なのかも知れない。
「他に何か聞いてる?」
「他支部と問題を起こすな、としか。頂きます」
キアラがビスコッティをかじると、アーシアは嬉しそうに笑った。人がものを食べているのを見るのが好きなのだそうだ。
堅い焼き菓子を食べていると、頭が冴えてくる。頭の片隅に引っ掛かっていた事を思い出し、キアラは咀嚼する口を止めた。エスプレッソで粉っぽい菓子を流し込み、キアラは首を傾げるアーシアを見る。
「そういえば、それと同じ日にこの階で雨州民を見ました」
ふうんと呟き、アーシアは瞬きして髪と同じ色の睫を揺らす。精巧に作られたビスクドールのようだと、キアラは思う。
「軍人がスイートに泊まるかしら? 雨の人ならお金持ちが多いけど……」
「いえ、今思い出したのですが……ご苦労さんと言われたんです」
アーシアも驚いたようだった。勤務中だから当然だが、キアラは常に陸軍指定の制服を着ているから、一目で軍人と分かる。軍人を見て気軽にご苦労と言うのは、軍の将校以外にはいない。民間人なら普通に挨拶をするか、声さえかけないだろう。
「雨支部の将校かしら? 他州で従軍する人もいるけど、どうしてこんな所に?」
首を捻ったまま、アーシアは顔をしかめて考え込む。キアラはエスプレッソを一口飲み、呼吸を落ち着けた。
「見覚えがあるような気がしたので、当支部の軍人だったのかも知れませんが……流暢な出雲語で話しかけられましたから」
アーシアは益々深く首を捻った。不思議そうな顔をしている。
「……ねえキアーラ、その人黒髪だった? 身長は?」
今度はキアラが怪訝に片眉を寄せた。思い当たる節でもあるのだろうかと、彼女は考える。アーシアなら、知っていてもおかしくはないが。
「黒髪でした。背は……私より高かったような」
「ニヤニヤしてた?」
「は?」
何を聞かれているのか一瞬分からなかった。冗談かとも思ったが、アーシアの表情は真剣そのものだったので、笑うに笑えない。
「ええと……にやけた男ではありました」
「一緒にいた出雲島民のこと、何か聞いている?」
こうも矢継ぎ早に質問されてすぐに答えが出せるほど、キアラは器用な方ではない。そもそも記憶力もいい方ではないので、思い出すのにも苦労する。
キアラは黙り込んだまま視線を逸らして、四日前の記憶を辿る。誰かが噂していたような気もしたが、聞き耳を立てる趣味もないのでよく覚えていない。
「……そういえば、スーツの美人だったと駐在が言っていたような」
「それじゃ分からないわよ。スーツを着た出雲の人なんて、いくらでも歩いてるわ」
確かにそうだ。本社を出雲に置く企業が多いから、伊太だけではなく、どの州でも出向してきた出雲島民はよく見かける。伊太の男は女性に対しては誰にでも美人だと付けるので、何の手がかりにもならないだろう。
キアラには何のヒントも出せそうにないような気がしたが、どんな答えを出せば手掛かりになるのか分からない。そもそもアーシアが誰と結び付けようとしているのかさえ、見当もつかなかった。
「ええと……怖かったとか、出雲語で冬がどうのとか……」
「冬?」
アーシアが唐突に身を乗り出した。キアラは彼女の真剣な表情に気圧され、思わず身を引く。
彼女のこんな顔を見るのは、初めてかも知れない。いつもにこにこと笑っているので、それが当たり前のように思っていた。キアラは益々怪訝に思う。
「フユ? 本当に、フユって?」
「はい、あの……確か、そうだったかと」
キアラの返答は曖昧なものだったが、アーシアは全身の力が抜けたようにアームソファーへもたれ、沈黙した。そして大きく何度か瞬きした後、堪えきれないものが溢れ出るかのように、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「……芙由様だわ。芙由様とキースよ」
「え」
キアラは思わず、問い返すでもなく間の抜けた声を漏らす。誰の事だか、さっぱり分からなかった。
アーシアはソファーから立ち上がって、両手でキアラの手を取った。目を輝かせて零れんばかりの笑顔を浮かべる彼女が、キアラには眩しく見える。キアラは思わず目を細めたが、アーシアは気に留めなかった。
「聖女よ! 芙由様は神主の娘。キースは北米賢者。出雲賢者の遣いだわ」
どおりで見た事があったはずだ。軍学校の教材には、賢者の顔写真が載っているものがある。恐らく、そこで見たのだろう。キアラは賢者といえばアーシアしか知らなかったから、それと結びつけることさえしなかった。
キアラは暫し呆然とした後、息苦しさを覚えて大きく息を吸い込んだ。息をするのを忘れるくらい驚いたのだ。
「い、出雲が……ここに?」
やっとの事で、絞り出すようにそれだけ言った。アーシアはキアラの手を握る両手に、力を籠める。
「きっとそうよ! 神は私達を見捨ててなんていなかったんだわ」
「そんな……出雲が」
すぐそこに、いたのに。
どうして気付かなかったのだろうと、キアラは悔やむ。廊下で会った時に気付いていたなら、今頃は出雲に保護してもらえていたかも知れないのに。自分の記憶力のなさが恨めしかった。
キアラはアーシアから視線を逸らし、俯いた。浮かない表情の彼女に、アーシアは握った手を軽く引っ張って微笑んで見せる。
「キアーラ、過ぎた事を悔やんでも仕方がないわ。気付かなかったのは、きっとまだ時期じゃなかったからよ」
「……アーシア様」
アーシアの手の温もりが、緊張した肩を解してくれた。浅い考えなど、すぐに見透かされてしまう。賢者の一言でこんなにも安堵する自分は、やっぱり単純なのだろうとキアラは思う。
彼女の笑顔に、キアラは何度救われたか知れない。ずっと見守ってきた州が荒れて辛いのはアーシアなのに、キアラは助けられてばかりいる。せめて何か出来る事があればいいのだが、一介の軍人に過ぎないキアラには、日々退屈を持て余す彼女に、土産を買ってくるぐらいしか出来ることもなかった。
「済みません。私……」
言いかけた時、ノックの音が聞こえた。アーシアが不思議そうに首を傾げて手を離したので、キアラは立ち上がる。まだ清掃員が来るような時間ではない。
「どなた?」
ソファーに座ったまま、アーシアは扉の向こうへ声を掛ける。キアラはいつでも対応出来るよう、ドアの側に控えた。
「私です。オルトラーニです、賢者様」
男性の渋い声だった。副知事が、一体何をしに来たのだろうとキアラは思う。知事の遣いの者は何度か来ていたが、知事本人はおろか、副知事という立場の彼さえ、ここを訪れるのは初めてのはずだ。少なくとも、キアラはこの部屋で役人と鉢合わせした事はない。
キアラは目を丸くしてアーシアを見たが、彼女には驚く風もなかった。その様子を見る限り、キアラが帰った後に、何度か来ていたのかも知れない。
「キアーラ、開けて差し上げて」
言われてようやく、キアラは扉を開けた。廊下側から初老の男性が顔を出し、室内に向かって一礼する。それは確かに、伊太州副知事その人だった。
ラウロは賢者の側まで進み出て、再び深く腰を折った。ブランド品と思しき上品なスーツが、キアラの目には輝いて見える。しかし糊の効いた略礼服とは対照的に、彼の顔は疲れきっていた。
「ご無沙汰しております、賢者様」
「久しぶりね。さあ、お座りになって。何か飲む?」
キアラは慌ててテーブルに近付き、自分のカップと食べかけの菓子を回収した。ラウロはアーシアに向かって、首を横に振る。
「結構です。長居は出来ないもので……その」
ラウロの視線が、一瞬キアラに向いてすぐに逸らされた。出て行った方がいいのだろうかと、キアラはカップを一旦洗面所へ片付けながら考える。
「彼女も一緒に伺うわ。キアーラ、あなたもこっちへ来て座って」
いいのかと聞き返しそうになったが、ラウロも異論を唱えなかったので、キアラは少し離れた所へ椅子を置いて座った。
キアラは既にアーシアと二人ならなんとも思わなくなっているが、副知事がいると思うと緊張する。上等なスーツのせいか、どことなく威圧感を覚えてもいたので、邪魔にならないよう少しでも離れた所にいたかった。
「珍しいわね、昼間に来るなんて」
「知事が忙しくしている間に、抜けて参りました」
「あら、何かあったの?」
アーシアに問われると、ラウロは表情を引き締め、ソファーの上で居住まいを正した。
「先日、出雲から使者が来た事はご存知ですか?」
キアラとアーシアは顔を見合わせた後ラウロに向き直り、同時に頷いた。それを受けて、ラウロも頷く。
「知事は形だけでも、州を建て直す気になったようです」
出雲が動くのは遅かったのではないかと、キアラは思う。華との内戦で多忙な出雲に多く望めはしないが、今更州を建て直して、どうにかなるものなのだろうか。それよりは、知事を下ろさせた方がいいのではないかという気がしている。
「じゃあ、これから忙しくなるって事ね」
「その通りです」
話の展開が、キアラには読めなかった。口を挟む余地もなかったので、黙ったまま二人の会話を聞く。
「一ヶ月後に知事のスケジュールを詰めてあります。その頃なら、すぐには気付かれないものかと」
「決行は一ヶ月後?」
「全て信用の置ける者を手配致します。その頃改めて、私がお迎えに上がります」
「ありがとう。何から何まで、お世話になってしまうわね」
ラウロは左右に大きく首を振り、テーブルに両手をついた。そのまま上体を前に倒し、天板へ額を擦りつけんばかりに頭を下げる。
キアラは彼のその行動に、少なからず驚いた。州を荒らした張本人、テオドラの夫である彼に、あまりいい印象を持っていなかったからだ。偏見でしかなかったのかも知れない。
「とんでもありません! あなたがこんな所に軟禁されたのも、総知事がテオドラの手に落ちたのも、全ては私の不徳の致す所。責任は全て私にあります」
「顔を上げて、ラウロ。いいのよ、あなたは人を好きになっただけ」
ゆっくりと顔を上げたラウロの目は、悲しげに揺れていた。事情はキアラの知る所ではないが、彼は確か前知事だった筈だ。何かあったのだろう。
アーシアはキアラに向き直り、花の蕾が開くように微笑んだ。
「キアーラ、出雲へ行けるのよ。私もあなたも、もう大丈夫」
「そっ……!」
キアラは目を見開いて、勢い良く立ち上がった。まさかそんな話をしているものとは、露ほども考えていなかった。彼女は元来勘が鈍い。
アーシアはにこにこと笑ったまま、掌を下に向けて軽く振った。その仕草に促され、キアラは戸惑いながらも腰を下ろす。
「そんな……本当ですか?」
「ホントよ。ねえ、ラウロ? もう一人ぐらい、平気よね?」
ラウロは疲れたその顔に、微かに笑みを浮かべて頷く。キアラはその台詞に、ようやくアーシアが自分を同席させた理由を理解した。
「まさか私も、出雲に?」
「私一人じゃ寂しいもの。いいでしょう?」
複雑な表情で、キアラは視線を落とした。
悪くはない。悪くはないが、不安だった。キアラはこの州から出た事はないし、何よりこの州の為に従軍した。それが今、出雲へと言われて、簡単に答えを出せるものでもない。
アーシアが気を遣ってくれているのは分かる。けれど自分も今は小隊長という立場で、以前のように部隊にいて危機感を覚える事もない。
無論アーシアがいなくなれば、キアラの処罰は免れない。それを恐れるがあまり生まれ育った州を捨てられるかといえば、そうでもない。何が最善か、キアラには判断出来なかった。
「キアーラ、時間はあるわ。ゆっくり考えて」
子供を宥めるような優しい声に、キアラは恐る恐る顔を上げる。アーシアは笑みを崩さなかったが、ラウロは心配そうにキアラを見ていた。彼も、賢者が逃げたら護衛の兵士がどうなるかぐらいは分かっている。だからアーシアの申し出にも、疑問を口にしなかったのだろう。
二人の厚意は痛い程分かるだけに、キアラは不安だった。果たして本当に伊太から逃げ切れるのか、もしも追っ手がついたらどうすべきなのか。
そうなったら、自分は賢者を守ることが出来るのかどうか。空路にしろ海路にしろ、キアラに出来る事は恐らくないだろう。荷物になるだけかも知れない。出雲へ行ったところで、余計な手間を掛けるだけだろう。
「……済みません。考えさせて下さい」
今のキアラには、そう言うしかなかった。アーシアは一つ頷いて、カップに残っていたラテを飲み干した。