第二章 籠の鹿 六
六
テオドラは娼婦だった。物心つく前から娼館にいた彼女にとってはそれが当たり前で、自分を不幸だとも思わなかった。どちらを卑下する訳でもないが、見世物小屋とそう変わらない。誰にも頼らず頼る事も出来ず、貧しい女が他人と同じように稼ぐ方法は、それしかなかった。
人は生まれた時から不平等で、誰もが同じことを幸せに思うとは限らない。どんな方法であれ、自らの手で稼ぐ事が、テオドラにとっての幸せだった。幸せというよりは、それしか生きる術を持たなかったと言った方が正しいだろうか。州からの援助を受ける事も出来たが、それでは駄目なのだ。
生きる事は、働くことだと彼女は考えている。私生児のテオドラはまともな学校へは行けなかったから、娼館がなければそれすらも危うかった。
テオドラが学生時分の伊太知事は傑物だったが、娼館やフリーク・ショーというものを激しく嫌悪しており、合法であるにも関わらず難癖つけて取り締まっていた。娼婦も見世物小屋の者達も、別に無理矢理働かされている訳ではない。ロスト以前のようにマフィアの連中が介入する事もなかったので、売り飛ばされて来たような者もいなかった。皆そこでしか稼ぐことが出来ないから、自らの意思で働いていた。
中には不法に未成年者を働かせる店もあったが、それも望んだ事だ。何が悪いのかと当時のテオドラは思っていたが、今は未成年者が不当に雇用される事は、やはり罰せられるべきだと考えている。教育を受ける事は全ての子供に与えられた特権であり、貧困から逃れる為の唯一の術だと、少なくとも彼女は思うからだ。
知事による排斥行為により廃れるかと思えば、娼館の方は逆に廃止反対派が立ち上がって守ってくれた為、環境は良くなったように思う。一方、見世物小屋の方は悲惨だった。知事の後押しを受けた人権擁護団体を名乗る偽善者集団に「解放」され、身体に障害を持った者達は、自分の力では生きて行けなくなった。
テオドラはフリーク・ショーを辞めざるを得なくなって娼館に入った、アザラシ肢症の女の世話係をしていた事があった。彼女は毎日のように現状を嘆き、小屋さえ潰されなければと、繰り言のように呟いていた。重症認定されている奇形だったから、申請して補助金を貰えば、体など売らなくとも生活出来た筈だ。しかし彼女には彼女なりの、プライドがあったのだろう。彼女の気持ちは、今のテオドラには痛いほど分かる。
ただそういった手合いを好む客は、残念ながら少なくなかった。知事が交代し、潰された見世物小屋が再建した後も、人気の出ていた彼女は娼館を辞めるに辞められずにいた。その内仕事に耐えきれず、彼女は海へ身を投げた。何が不幸かも、分からないものだ。今考えてみると、テオドラの思想は彼女の姿勢に深く影響されているように思う。
幼い頃のテオドラは決して裕福ではなかったが、窃盗を働いた事はないし、物乞いをした事もない。他人の施しを受けるぐらいなら、餓死した方がましだと思っていた。同じ娼館で働いていた母が口癖のように言っていた事を、彼女は未だにそのまま信じ込んでいる。そして今でも、そう思う。
学校へ通う傍ら雑用などをこなしつつ、客を取る為の手ほどきを受けていた彼女が初めて店に出たのは、十六の時だった。初めて抱いたのは、役人の息子。息子の筆下ろしにとあてがわれたのだが、テオドラはその時初めて、明白な貧富の差を目の当たりにした。豊かでさえあれば高い金を出して、血統書付きの初見世の娼婦を、子供の為に買ってやる事も出来る。テオドラは自分が日々生きるだけで、精一杯だというのに。
何故こうも違うのだろうと思ってからは、テオドラはひたすら仕事に没頭した。自棄になったのかと心配され、中毒になったのだと馬鹿にされても、テオドラは振り返らなかった。そのせいで、というよりは美しく成長したお陰で、テオドラはそう時間もかけずに高級娼婦となった。
女帝と呼ばれ始めたのは、その頃だった。界隈では最高級の娼婦だった、母と同じように。
娼館で生まれた事を話せば、客は皆同情してテオドラの下に金を落とした。今持てる話術は、全てベッドの中で培ったものだと言っても過言ではない。
役人を相手にする内、自然と州の内情にも詳しくなった。知事がテオドラの前の知事に交代した事も、役人の口から聞かされた。因果なものだ。それもまた、神が誂えた運命だったのだろう。
テオドラの母は、暇さえあれば出雲の方角へ向かって祈っていた。この世界で唯一の統治者である、神に。祈ったから今命があるのだと、母は言った。そんな母の思想に引きずられた訳ではないが、今のテオドラもそう思っている。神が定めた事は、全て間違ってはいなかったからだ。
娼館があるから、学のない女も自分の力で生きて行ける。見世物小屋もまた同様で、補助金だけで生活するよりずっと、いい暮らしが出来るのは確かだった。だからロスト以前は廃れていたこれらを復活させ、合法化した神は正しいと考えている。健常者や素封家が声高に言う「人権擁護」は、テオドラのような人間にとっては邪魔でしかなかった。
神が欲しいと思い始めたのは、いつからだったろう。確かに裕福にはなりたかったが、覇権を手にしたかった訳ではない。テオドラはただ、神にこの州にいて欲しかった。
過去この州のヴァチカン市には、法王と呼ばれる神に最も近い位置にある者がいたという。テオドラは、そうなりたかった。神の為に全てを捧げたかった。その為に、出雲の神主は邪魔なのだ。
神主と賢者とは、ロスト以前の記憶を有するという点以外においては、似て非なる存在だ。賢者が輪廻の輪に組み込まれる事は永遠にないが、神主は子を成そうとも生き続け、その子も悠久の時を生きる。賢者とは別格の存在であり、神の次に尊い者とされる。
そして、誰よりも神に近い者。テオドラは、それに憧れた。権力が欲しかった訳ではない。やはり言うなれば、神が欲しいのだ。
「神主の娘は純粋すぎるけど、賢者は流石に小憎らしいわね」
深紅のビロード張りのソファーの肘掛けに片手で頬杖をついたまま、テオドラは副知事にそう話し掛ける。テオドラの正面に腰を下ろしたラウロ・オルトラーニは、理知的な鳶色の目をテオドラに向け、聞く姿勢を取った。
彼は今では伊太州副知事だが、テオドラの前の知事、前州知事その人だった。額は少々後退しているが、白髪の一本も混じらない栗色の髪と引き締まった眉のラインから見るに、若い頃はハンサムだったものと思われる。事実ラウロは女性達の圧倒的な支持を得たお陰で、知事に当選したようなものだ。
ラウロは頭はいいが、賢くはなかった。市長との会談の席で接待に使われたテオドラを見初め、娼館へ通い詰めた挙げ句求婚したのだ。それこそテオドラの思う壺だったことは、言うまでもない。テオドラ自身、そこまで惚れ込まれるとは思っていなかったが。
そこからは早かった。テオドラは身分を偽って彼と一緒になり、まんまと取り入った。正に神のお導きであるとしか言いようもない。知事が後ろ盾につけば、己が知事となるのも容易だった。民衆の不満はそこかしこから聞こえたが、知った事ではない。州の全てを握る知事は今、テオドラなのだ。
「華がこちらに来る可能性まで示唆してきたわ。脅しに来たのかしら、彼ら」
ラウロは眉をひそめて怪訝な顔をした。彼は内戦が終結した事を知らない。テオドラも、会談の席で初めて聞かされた。
「華州は、蒙古から撤退したのか?」
問いかけに対して頷きながら、テオドラは身を起こす。
「そうらしいわね。予算もないし軍備も整ってないのに、無理するから悪いのよ」
「あそこは兵の数だけは多いが、出雲と露相手ではな。早すぎたんだろう」
「初めて特例法が適用されたところを見ると、出雲も切羽詰まってはいたんでしょうけどね」
教育部隊以外の支部隊が他州へ侵入する事は原則として禁止されているが、特例として許可が出される事がある。出雲本部からの要請があった場合、出雲本部の徽章、または旗を掲げてさえいれば、支部でも他州へ侵入出来る。この特例法が適用されたのは現在の制度が浸透してから初めての事で、伊太州内でも話題になっていた。
今回は露支部の部隊が蒙古入りする為に使用されたが、この特例法の適用は有事の際ばかりに制限されたものではない。護国を目的とするならいつでも発動は可能だが、出雲本部は国内有数の兵力と軍備を兼ね備えた集団だ。今までは必要がなかったのだろう。
「なんにせよ、陳がここまで急いだ理由が分からないな。ようやく環境が改善され始めたばかりだというのに」
「環境が良くなってきて、思うところがあったのかも知れないわね。向こうも暫くは動けないだろうけど、こちらも動けなくなってしまったわ」
エスプレッソを一口飲み、テオドラは小さく息を吐いた。苦味が舌から全身へ行き渡り、頭が冴えていく。
出雲の考えている事が分からない。今回使者が来たのは警告目的もあっただろうが、それならわざわざ豪華な護衛をつけてまで、神主の娘を寄越す必要はなかった筈だ。出雲の古狐の行動は、突拍子もなさすぎて読めない。奇策とも駄策とも思えるが、向こうは賢者だ。警戒しておくに越した事はない。
「動くつもりだったのか?」
「当然よ。いつまでも出雲に傅いてなんていられないわ。何の為に州を捨てて、軍人から信仰心を排除したと思っているの?」
好き勝手にさせておけば、いずれは権力のある者から腐敗して行く。金で動くようになった軍を、操作するのは容易かった。人など結局は、己の欲でしか動かない。
ギリギリの線を見極めて軍を動かすつもりだったが、当てが外れた。癪だが一先ずは出雲の言う通り、形だけでも州を建て直すべきかも知れない。
「今の内に、教育部隊の派遣に関して出雲に返答しておいた方がいいわね。その間に華がこちらに来たら、ついでに恩を売れるかも知れないわ」
「亜細亜の補佐官も馬鹿ではない。出雲がいる時に攻め込んで来るものだろうか」
「そっちはついでよ。とにかく今は出雲の言う事を聞きましょう。これ以上州が荒廃したら、神に申し訳ないじゃない」
ラウロは小さく息を吐いて、窓の外へ視線を移した。この階からでは、街の様子はよく見えない。
「テオドラよ……本当に、これでいいのか」
時間をかけて説き伏せた時は疑問など一つも口にしなかった彼は、今になって不安を感じているようだった。まるで市民の不安が伝染したかのように、彼の表情は浮かない。微塵も迷いのないテオドラにとっては、彼の疑問が理解出来なかった。
「神の裁きがない限り、私達は大丈夫なのよ。神を招けば、必ず伊太も元のように……いいえ、前よりずっと、どこよりもいい州になるわ」
「それは虫が良すぎるのではないか? 神でさえ、国の再興に相当な時間を要した。例え神の後ろ盾があったとしても、この州が元通りになるには……」
「神がいれば、全て元通りよ。神は世界の全てなの。どうにもならない事なんて、ないのよ」
ラウロはテオドラから視線を逸らし、悲しそうに目を伏せた。しかしその表情が、テオドラの心を動かす事はない。今の彼女を動かすのは、己の信念と厚い信仰心だけだ。立場は夫だが、テオドラにとっては最早、彼はどうでもいい存在だった。
「……神は出雲のどこにいるかも分からない。やっぱり出雲を攻めるのは危ないのじゃないか」
「出雲が神を危ない目に遭わせる事なんてない。島内に乗り込めば、神も大社に隠れる筈よ」
「私は不思議なんだよ、テオドラ」
ラウロは遠い目をして、疲れた顔を伏せる。
「賢者が現れてから、神は姿を現さなくなった。歴史書を見る限りでは、約二百年。その間、一度も神の姿を見た者はいない」
「神主を除いてね」
「その神主さえ、誰の前にも姿を見せない。神は……」
ラウロはそこで言葉を止め、深い溜息を吐いた。
「神は本当に、存在しているのだろうか」
テオドラの目つきが変わった。切れ長の目が細められ、険しい表情で夫を睨む。俯いた彼は、テオドラの変化に気付かなかった。
「神はいるの」
テオドラに迷いはなかった。身を捨てて上り詰めた先で、確かに神は手を差し伸べてくれていた。今まで上手くいってきたのは、神が導いてくれていたからに他ならない。
ラウロが顔を上げた時には、テオドラはいつものように柔和な笑みを浮かべていた。床の中で培った、あまりにも自然に作り上げられた表情。
「神は確かに、この世に存在する。だから私はあの掃き溜めで生きていられたのよ」
テオドラの笑顔を見て、ラウロも微かに笑った。テオドラのそれとは対照的に疲れた笑顔だったが、肩の力が抜けた事で、自然に漏れた笑みなのだと知れる。
愚かに過ぎると、テオドラは内心毒づく。上辺だけでも笑ってやれば、彼は簡単に絆される。流石に老獪な聖女と賢者は揺るがなかったが、彼ら以外は誰もが騙された。世渡りとは案外楽なものだ。
他人は這い上がる為の足掛かりにするもので、助けを求めてはいけない。十五の時分には、そうして割り切っていた。誰なのか分からない父親も、テオドラが十二の時に性病にかかって死んだ母親も、体で稼いだ僅かな金も、当てにはならなかった。その身と話術だけで生きてきて、何にも頼らずここまで這い上がったテオドラが唯一信じたものが、神だった。
神だけは、彼女を裏切らない。しっかりと心の中にいて、そこで温かい視線を向けていてくれる。それだけで、何もかもをこなせてしまう気になる。
「神がいるから、私達は平穏無事に生きて行けるのよ。分かるでしょう?」
「ああ……ああ、そうだよテオドラ」
節くれ立った指が、テオドラの頬を撫でる。
「君に会えたのも、神のお導きだ」
「その通りだわ、ラウロ」
神が在れば、他には何もなくていい。元から失うものなど何もない。得るだけだ。
テオドラは壁に掛かった寄り添う天使の油絵を見ながら、唇で美しい弧を描いた。